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2017 04.18

中川村新入職員の皆さんへ。行政、公務員の仕事

 この春採用の職員に訓話?をした。
 私は5月に村長を辞するので、それ以降も活躍してもらいたいという気持ちがあり、行政の仕事についての総括のような話になった。
 原稿を用意せず話したので、下のとおりではないが、言葉を補い、修正を加え、言いたかったことを文章にしてここに掲載する。

* * * * *

 おはようございます。
 皆さんが中川村役場の仲間に加わって下さり、中川村民のために働いて頂けること、大変ありがたく、心強く感じています。
 皆さんの中には、民間企業に務めた経験のある方もおられるし、私も村長になる前は、民間で働いていました。
 行政の仕事と民間の仕事の間には、大きな違いがあります。民間の場合は、自分たちで儲けたお金や株主からのお金、大きく捉えれば、自分たちのお金を使って、それ以上の売り上げを上げるというのが目的です。社会貢献というようなこともいわれますが、日々の業務の中では、利益につながるかどうかを判断の基準にすればいい。比較的単純です。
 一方、行政が使うのは、自分たちのお金ではありません。税金です。行政の仕事は公平でなければならないし、決められた手続き、ルールに則って進めていかねばなりません。長期計画に基づき、予算を建て、議会の承認を受け、公平公正に事業を実施していく。たまたま知り合った人が頑張っているからといって、便宜を図るというわけにはいかないのです。今、森友学園について報道されているような便宜供与があってはなりません。
 しかし、計画に則って、規則やルールに従ってさえいればいいのかというと、それも違います。極端な例を挙げると、皆さんはアイヒマンという人を知っていますか。(一同知らない様子。)アイヒマンはユダヤ人を収容所に移送する計画の責任者で、ホロコーストの重要な部分を担ったわけですが、捕らえてみると、どれほど残忍な人物かと思っていたのに、とても凡庸な人物で、そのことがかえって世の中にショックを与えました。自分で深く考えることをせず、与えられた仕事を粛々と効率よく実行していった結果、大勢の人を残酷な死に追い込んだのです。
 つまり、ただ与えられた仕事をルールのとおりにこなしていけばいいということではないのです。私たちの仕事は、一体何のためなのか、それを考えながら日々の業務に取り組んで欲しいと思います。
 行政の仕事の目的は、民間の仕事より複雑です。自分たちのお金ではなく、なにごとも税金を使って行うのですから、公平性、納得性が必要です。住民ニーズも考え方も、人によって様々ですから、それらをどう調整すればいいのか。これから仕事に取り組む中で、判断に悩むことはしょっちゅう起こります。
 私自身はどうしてきたかというと、判断に悩んだ時は、長期的な住民利益につながるのはどの選択肢か、と考えてきました。住民利益と言っても、勿論、特定の誰かに儲けさせることではありません。長期的住民利益とは、もう少し突き詰めて考えると、一人ひとりの村民が、自分の夢や計画や幸せの実現に思う存分取り組めるように環境を整えることだと思っています。ゴミの収集・処分も、上下水道も、道路や水路の整備も、防災も、教育も、福祉も、保健衛生も、産業振興も、その他役場の仕事はすべてその一環であり、その結果整えられた環境で住民の皆さんが伸び伸びと活躍して下されば、それが村の発展でもあります。ただ、これは、私が悩みながら考えついた個人的な判断基準なので、うまく機能するか、これからの実地の取り組みの中で検証して頂きたいと思います。
 さて、役場の仕事は、自分勝手な判断で進めてはいけないこと、公平公正に、計画や予算に従い、ルールに則って実施されねばならないこと。しかし、行政の仕事は複雑で、現実には難しい判断を迫られる場合が多々あり、その際には、住民の長期的利益を判断基準にすべきことを述べました。
 しかし、実は、それだけではまだ不十分なのです。対処できていない課題はないのか。計画や予算では救済されない住民ニーズはどうするのか。今の中川村役場にしても、まったく完全ではありません。さらに、今後、様々な社会情勢、経済情勢の変化があるでしょう。役場自体も、IT技術や国の制度改変など様々な影響を蒙ります。当然ながら計画や制度、ルールは、それらに対応して変化していかねばなりません。計画や制度、ルールが対応できてない問題については、自分の判断で勝手に対処するのではなく、役場の中で共有して、新たな条例、制度をつくるなり、計画や制度、ルールを公式にあらためるべきです。その時の判断にも、住民の長期的利益につながるか、村民の存分な活躍のための環境を整えられているか、という基準は、役に立つはずです。
 ややこしいことを申し上げました。行政の仕事は、単純にこうすればよいと割り切れるものではありません。私自身は、5月で役場を離れるので、皆さんと長くいっしょに仕事ができないのは残念ですが、問題意識を持ち、悩みながら仕事に取り組んで頂きたいと願います。皆さんの元気な活躍を期待します。

2017 03.01

2017年中川村3月定例議会開会挨拶

 平成29年3月中川村議会定例会を招集いたしましたところ、議員各位におかれましては、公私共にご多用の所、定刻にご参集を賜り、真にありがとうございます。

 中川村では、大雪に見舞われることもなく、比較的穏やかな内に冬が過ぎてくれそうな気配で、日差しも日ごとに春めいてまいりました。

 ただ、自然は穏やかでも、人間社会の方は不穏な気配が高まっているように思います。

 特に、米国のトランプ政権は、丁寧さに欠ける乱暴なやり方が目につき、米国のみならず世界中の多方面から警戒されています。にもかかわらず、日本の安倍政権は、トランプ氏への従属ぶりが世界で注目されており、先行きに不安を感じます。

 例えば、TPPについてはもはや話題にもならなくなったものの、さらに厳しい日米二国間の交渉が水面下で進められているのではないか、との声もあります。TPPによる地方農山村の暮らしへの影響が心配されましたが、それ以上の影響を蒙ることになるかも知れません。

 軍事面でも米国への一層の貢献が要求され、沖縄で地元の民意が無視されているのと同じように、本土でも米軍の都合を忖度する姿勢がさらに露骨になってくるのではないかと思います。既に、東信地方では米軍の飛行訓練の轟音が問題になっています。住民の暮らしを守る地方自治の覚悟がますます問われることになるでしょう。

 日本政府は、いつまでも米国にこびを売り盲従するのではなく、自ら主体的に考え、日本国憲法前文で誓ったとおり、世界の人々の平和のうちに生存する権利のために懸命に働く、真の意味で名誉ある国にならねばなりません。それこそが、本当の「戦後レジームからの脱却」だと考えます。

 さて、本定例会に提出する議案は、

 平成28年度中川村一般会計補正予算第5号の専決処分の承認」が1件

 ~(略)~

 以上、合計20案件であります。

 いずれも重要な案件でありますので、慎重なご審議をお願い申し上げ、議会開会の挨拶とします。

2017年3月1日
曽我逸郎

2016 05.25

「上に立つもの」からの憲法 自民党「憲法改正」草案

 信州発の雑誌、『たぁくらたぁ』が、2016年5月25日発行の39号で、『自民党「憲法改正」草案の正体』という特集を組んでいる。6人の人が、それぞれ自分が問題と捉える条項について考えを述べている。私も前文について思うところを書いた。

* * * * *
自民党「憲法改正」草案の正体
  前文 「上に立つもの」からの憲法

曽我逸郎(中川村長)

 自民党改憲案の前文は短い。にもかかわらず、日本国憲法とは正反対の国家観がにじみ出ている。
 両者とも第一段落では国の形を述べている。日本国憲法は、国民と政府の関係など、国民主権の考えをしっかりと書き込んでいる。それに対して、自民党案は ひとつの文章のみで構成される短い段落の中で、「天皇を戴く国家」「三権分立」とともに「国民主権の下」と触れるだけで、国民主権の内容には踏み込んでい ない。国民主権に重きを置いていないことは明らかである。
 主語をみても違いは明白だ。日本国憲法では一貫して「日本国民」「われら」であるのに対して、自民党案では、五つの段落の内の後ろの三段落だけ。しかも それに続く述語は、「…国と郷土を…自ら守り、基本的人権を尊重する(基本的人権を尊重するのは国民の側なのか!?)…和を尊び…国家を形成する」、「自 由と規律を重んじ…国を成長させる」、「…伝統と…国家を…継承するため、…この憲法を制定する」である。
 日本国憲法では、国民みずからが、全世界を視野に入れて「崇高な理想と目的を達成することを誓」っているのに対して、自民党案では、国民は国家のための責務を負わされているだけとしか感じられない。
 そのことをはっきりと示すのは、「和を尊び」だ。「和」とはなにか。1937年に文部省が定めた『國體の本義』第一の四『和と「まこと」』を見ればよく分かる。ネットで調べればすぐに見つかるのでご一読願いたい。「和」は「分を守ること」と表裏一体なのだ。
 〈上に立つもの、下に働くものがあり、それぞれが分を守ることで集団の和は得られる。定まった職分を忠実につとめよ。自分に執着して対立をこととせず和を以て本とせよ〉
 つまり「身の程をわきまえ、文句を言わず、黙って従え」ということだ。統治する側=「上に立つもの」があらかじめ定まっていて、それが上意下達で国民=「下に働くもの」を統治する、という統治側の勝手な枠組みであり、国民主権とは正反対である。
 そう考えると、外交と安全保障を語る自民党案第二段落が、国民ではなく「我が国」を主語にしているのも合点がいく。そのふたつは国の専管事項であって国 民が口出しをすべきことではない、との考えだろう。国民は、三・四・五段落が述べるように、国を内側で支えるだけの存在にされている。
 しかし、自民党のそういう統治は、改憲を待たずに、既に常態化しているのではないだろうか。
 国旗に一礼しない村長として話題になった際、役場に電話がかかってきた。「少数意見も含めて、皆で議論し合って考えを深めるのが民主主義」という私の見 解に、電話の主は「選挙で多数を取った政治のプロが上意下達で統治するのが民主主義」と反論した。おそらく、現在の自民党幹部も、「国民の厳粛な信託」を 受けたという意識は乏しく、自分たちは国民を上意下達で統治する政治のプロ、あらかじめ定められた「上に立つもの」だと思いなしているのではないだろう か。プロと呼ぶには能力に疑問を感じるが、そんなふうに思い上がれるのは、世襲政治家が多いせいかもしれない。
 福島第一原発の事故後、環境基準を放射能汚染の現況に合わせて緩和し、それに基づいて避難住民を帰郷させ支援を打ち切る。繰り返し示された沖縄県民の新 基地拒否の意志を無視し続ける。その他様々に統治の都合のままに主権者=国民を犠牲にしていく。国全体のために部分を犠牲にすることは「上に立つもの」の 務めだと舞い上がってさえいるのかもしれない。しかし、全体のためといいながらやっていることは、一部大企業や日本利権にたかる米国のジャパンハンドラー など、自分たちに利益をもたらす〈部分〉のためでしかない。
 私たちがなすべきは、単に自民党改憲案を阻止するだけに留まらない。日本国憲法前文の精神は未だに実現できていない。前文が高らかに謳うとおりの国をつ くるのだ。国民主権を真に実現し、国政を信託する権威を国民の手でつかみ取る。つまり、日本を日本国民の国にする。そして、全世界の国民の、恐怖と欠乏か ら免れ平和のうちに生存する権利のために、国家の名誉にかけて働く国へと変える。それによって国際社会において名誉ある地位を占め、国民がみずから誇れる 国にするのである。そのことを今、日本国民は、全力をあげて達成することを改めて誓わねばならない。そういう国になれれば、全世界の国民も日本を敬愛して くれるに違いない。同時に、そのことこそが最高の安全保障になると信ずる。

2015 12.08

国の専管事項を村で論ずること。沖縄など

中川村HP 『村長からのメッセージ』より転載

 12月定例議会で、お二人の議員から、沖縄のこと、国の専管事項を村で論ずること、などについて一般質問を頂いた。ここに答弁メモを掲載しておきたい。一問一答形式のため、実際のやりとりでは内容が前後したり多少の脱線もあったが、言わんとしたことは以下の通りである。

* * * * *
A議員

★質問  議会で開催した住民懇談会で「国の施策について村で議論するのはなじまない」との意見があった。これにどう答えるか。

◆答弁  安全保障や外交やエネルギー問題などは、国の専管事項であるから、自治体は口を出すべきでない、という意見を時々耳にする。しかし、これは、「身の程をわきまえて黙っていろ」という圧力だ。
 専管事項と言われて黙っていたら、大変な目に遭わされているというのが、福島の原発事故による災害。昔を振り返れば、国策に無批判に従って、長野県、特 に伊那谷は、多くの満蒙開拓団を送り出してしまった。お国のためだと多くの若者が徴兵され、ふるさとの田畑から引きはがされて遠い異国の地に連れて行かれ た。国の間違った政策は、村の暮らしに大変な影響を及ぼす。TPPもしかり。国の政策にたいしてもしっかり批判的に考えることが必要。
 自治体は、住民と国の間に立たされている。住民-自治体-国の関係が円満に進んでいるときはいい。しかし、時として住民の自治と国の統治とは対立する。 その時、自治体は、国の統治の末端を担って住民を統治しようとするのではなく、住民の暮らしのために住民の自治の砦となるべきだ。
 その反対の端的な例を挙げれば、国の要請に従って、原発災害時のできもしない避難計画をアリバイ的に作る自治体があれば、その自治体は、住民の命もふるさとの歴史や文化も、どうなっても構わないと考えていることになる。
自治の砦は、沖縄だ。沖縄は、住民の意思に従い、住民の生活や伝統文化や美しい自然を守るため、沖縄県、基礎自治体、住民が一体となって、国の計画に粘り強く抵抗している。しっかりと腹を固めて自治に取り組む沖縄の姿勢に見習いたい。
 また、全国町村議会議長会は、先月11日の全国大会で、日米地位協定の抜本的な見直しを求める特別決議を採択した。日米地位協定は、日米安全保障条約の 隠された核心ともいうべきもので、これによって米軍による事故、犯罪は実質的に治外法権とされており、沖縄を中心に多くの被害者が泣き寝入りを強いられて きた。東信地方で、夜中にジェット機のごう音らしいものが響いても、その正体さえ調べられないのも地位協定のためだ。日本国憲法が保障する国民の基本的人 権より、日米地位協定が定める米軍の権利が優先されている。地位協定は、外交や安全保障に関連する問題だが、大きく捉えれば、日本の国としての自治も主権 も、地位協定によって脅かされていると捉えるべきだ。全国町村議会議長会は町村を代表する立場で真正面から問題提起をした。勇気あるすばらしい決議である と敬意を表する。
 地方自治は民主主義の学校と言われる。意見の表明や議論を禁じるところに民主主義はあり得ない。国の施策は、国民である村民の生活に大きな影響を及ぼす のであるから、村においても大いに議論されねばならない。自粛しない自由闊達な「空気」が、村を活気づけ発展させると信ずる。

* * * * *

B議員

★質問1  村長は某会議で「物議を醸す人間」と自称した。村長という立場を踏まえて行動すべきではないか。政治活動の頻度は?

◆答弁1  会議の場を和ますため「物議を醸す」という表現を使ったが、言わんとするところは真剣だ。「物議を醸す」とは、空気を読んだり、立場をわきま えてふるまったり、周囲におもねて発言をするのではなく、問題提起すべき時は、批判を恐れず、しっかり堂々と声を上げるという意味である。
 周囲に同調している内に自分の意見が言えなくなり、国をあげて間違った方向に進み、最期には「私は貝になりたい」と言い残して処刑されるような時代が、 日本にはほんの数十年前にあった。それを繰り返さないためには、少数意見を、みんなとは異なるという点だけで、大切にし尊重することが重要。多様な視点か ら議論して正解を探す。それが民主主義だ。
 そういう多様な意見が自由に交わされる「空気」を熟成するためにも、私は自分の考えを積極的に表明し、物議を醸し、「空気」の壁を緩めていかなくてはな らない、と思っている。民主主義の根付いた自由闊達な風通しのよい村にしていくことが、村の活力を生み、村を成長させる。
 しかし、これは、批判するなという意味ではない。批判は大切。批判によって、少数意見も鍛えられしっかりした考えに成長する。
 しかし、空気を読め、立場をわきまえろ、という言いかたで発言や行動を止めさせようとするのは、批判ではなく圧力。議員のご質問にそういう意図があるならば、しっかりと抵抗する。

 村外から声がけを頂き、発言の場を用意して頂くのは、2ヶ月に一度程度か。業務予定表を見てもらえれば分かるとおり、私用としてでかけている。日程がとれずにお断りすることも多い。

★質問2  村HP「村長の部屋」の内容は、沖縄や辺野古、安保関連法案、オスプレイなどが多く、村政に関わりがない。村政にどう生かすのか

◆答弁2  先ほどA議員への答弁で申し上げたとおり、住民自治の砦として頑張っているのが沖縄。
 そして、戦後の日本社会、日本政治の矛盾が一貫して剥き出しの暴力性で噴出してきたのが沖縄。その矛盾は、沖縄だけの問題ではない。矛盾の噴出口が沖縄 に集められてきたので、我々には見えにくくされているが、戦後の日本社会全体の根底に潜む矛盾。ここに知念ウシさんという方の書かれた『シランフーナーの 暴力』という本を持ってきた。シランフーナーというのは、知らんぷりという意味。矛盾に苦しむ沖縄に知らんぷり、みえないふりをしながら、我々ヤマトは矛盾の上に安住してきた。しかし、原発災害やTPP、安全保障関連法案などで、我々にも矛盾が見え始めた。長野県東信地域がアメリカ空軍オスプレイの訓練空 域に設定されたというのも、そのひとつ。
 表面上の見せかけはともかく、突き詰めていけば、日本という国は真の自治や主権を持っているのか、という疑問。
 日本社会全体の根底に横たわる矛盾が沖縄では生々しく現れているのだから、沖縄に学べば、我々みんなが共有する課題が見えてくる。TPPなど様々な問題を深く考えるためにも、沖縄に目を向けることには意義がある。
 また沖縄は、矛盾に長く苦しめられ、それと闘ってきた分だけ、民主主義が鍛え上げられている。沖縄に学ぶことは、我々自身の民主主義を深めることに繋がる。
 お仕着せの民主主義ではなく、住民が主体的に声を上げる本来の民主主義のため、自由闊達な村の「空気」づくりを続けていくためにも、今後も沖縄の話題は取り上げていきたい。
 さきほどA議員への答弁で触れたとおり、全国町村議会議長会は、日米地位協定の抜本的見直しを求める特別決議を出した。これは、沖縄県町村議会議長会会 長である嘉手納町の議長さんの呼びかけに全国町村議会議長会が応えたもの。沖縄からの問題提起を日本全体の課題としてとらえて行動した全国町村議長会に敬意を表する。
 一方で、中川村議会のなかに、沖縄の問題を自分たちの問題として捉えることができず、他人事だとして、誰かがそれに触れることを止めさせようとする考えがあるならば、大変恥ずかしいことだと思う。

★質問3  地区懇談会をもっと積極的に実施すべき

◆答弁3  何かのテーマについて村民の考え方を知りたい時や、村の考えを説明して村民の意見を聞きたい時は、地区懇談会を実施してきた。住民アンケートなど他の方法を採ることもある。
 しかし、村民のみなさんも忙しいのに、しょっちゅういろいろなテーマを掲げて集まってもらうのは負担を掛けることになる。
 「村長への手紙」もだし、電話や役場への来訪、立ち話など、さまざまなやり方で意見は寄せられている。
 役場がお膳立てをした意見表明、つまりお仕着せの上意下達の民主主義ではなく、問題意識のある住民からの主体的な突き上げの意見表明こそが本当の民主主 義。意見表明の場をお膳立てすることよりも、自由闊達にものを言い合え、批判し合える「空気」が村に流れるようにしていきたい。

以上。ご意見ご批判お聞かせ下さい。

2015、12、8   中川村長 曽我逸郎

2015 07.10

辺野古報告 良心的不服従と自治体の立ち位置

中川村HP 『村長からのメッセージ』 から転載

 先月(2015年5月)15日(金)から19日(火)まで辺野古に行ってきた。
 この間、米海兵隊キャンプ・シュワブのゲート前で、行き交う車に手を振って新基地反対を訴えたり(手を振り返す米兵も結構いた)、早朝、作業ゲートから 基地内に入ろうとする海保(海上保安庁職員)を阻止せんとする座り込みに混ざって、沖縄県警機動隊によっこらしょと抱え上げられて排除されたり、抗議船に 乗せてもらって海保のゴムボートにつきまとわれたり、17日(日)には、地元の皆さんが仕立てたバスに乗って、おじい、おばあといっしょに那覇のセルラー スタジアムで開催された「辺野古新基地反対県民大集会」(主催者発表、参加3万5千人。しかし、これは消防法上の会場定員で、実際はもっと集まっていた) に参加したりしてきた。
 お年寄りから小学生、沖縄の人、本土から応援に来た人、何種類もおかずの詰まった手をかけたお弁当をカヌー隊に届けてくれる人たち、ゲート前座り込みで 身体を張る人たち、毎週土曜の夕方、ゲート前にキャンドルを並べて抗議するおかあさんと女の子、取材記者、いろいろな人がいて、それぞれが腹の座った勇者 で、とても充実した、不謹慎に聞こえるかもしれないが、楽しい5日間だった。宿泊したゲストハウス(一泊2千円)では、毎晩遅くまで庭先でオリオンビール と泡盛で盛り上がった。現地で頑張る人たちからもらった刺激について書き始めるときりがない。とりあえず、良心的不服従と自治体の立ち位置について、思ったことを書いておきたい。特に後者については、私の考えもまとまっておらず、アドバイスを頂ければありがたい。

 二日目、土曜日の昼、日の丸を掲げた一団が現れた。インターネット上で右翼的な主張を繰り返す「チャンネル桜」のトップ、水島総氏もいたようだ。ウチナーンチュ(沖縄人)を自称する若い女性が、マイクを握り、
 「みなさん、真実を教えましょう。ここにいる年寄りは、みんな家に居場所のない人たちなんです。そして、やることのない人たちがお金を貰えるからここに来ているんです」
 なんとか時間をやりくりして自分のお金で来ている我々に、我々の「真実」とやらを教えられても、苦笑するしかないが、彼女は真剣に訴えている。横にいた人によると、最近全国で政治活動も始めた某新興宗教が、沖縄では米軍基地を肯定する活動をしているそうだ。
 新興宗教に吹き込まれた話を信じている人はともかく、日の丸を押し立てた中年の男たちは、口々に「不法占拠だろうがー。このテントはー。やめろー、すぐに出て行けー」と罵声を浴びせる。

 この不法占拠だという攻撃にたじろぐ人がいるかもしれない。あるいは、もう少し一般化して、「ルールを破るのはよくない」「世間を騒がせるのはいけない」と考える「善良な」人は多いだろう。
 では、辺野古の護岸にたてたテントは許されないのか。ゲート前道路の法面に日よけを張って集まるのは悪事なのか。海保や工事車両が基地内に入るのを阻止しようと工事ゲート間の歩道に座り込むことはやってはいけないことなのか。
 これに対して、最適の説明に出会った。今回辺野古で大変お世話になった方がツイッターで紹介していた、ダグラス・ラミス氏(政治学者・沖縄9条連共同代表。海兵隊員として沖縄駐留の経験がある)の『お巡りさんとの会話』という一文だ。

普天間基地のゲート前で、基地のフェンスに「入口」と書いてある紙をセロテープでつけていたときのことだ。数十枚貼ってから、一人の若いお巡りさんが近づいて来ることに気づいた。
私は彼に言った。(「彼は私に」の間違いか? 曽我) 。
「フェンスに物をつけるのは、法律で禁止されています」
「わかっています」
「では、やめてください」
「やめません」
お巡りさんは一瞬黙った。それから
「法律違反だとわかっているでしょう」
「わかっています」
「悪いとわかっているでしょう」
「いや、悪いとは思っていません」
また一瞬黙り、彼は言った。
「でも、法律違反でしょう」
この堂々巡りの会話がしばらく続いた。私はだんだんわかってきた。この若いお巡りさんは野嵩ゲート前でフェンス行動をやっている人たちをいつもいじめているヤツではない。
経験者のしゃべり方ではないのだ。市民的不服従行動に出会ったのは初めてかもしれない。少なくとも、「法律で禁止されている」と「悪い」との間に区別が あるという考え方をまったくわかっていなかった。「法律違反」と認めれば、「悪い」ということはもう実証済みだと、本気で思っているらしい。「法律が倫理 に合うかどうか自分で考えて判断しなければならない」という言い方は、彼には初耳のようだった。
教師の悪い癖だが、こういう人に出会うとすぐレクチャーモードに入ってしまう。なので「説明しなくちゃ」と思い、言いかたを変えた。
「法律と倫理とは別だよ。合っている時は多いけれども、合っていないときもある。そういう場合、法律に従うか、自分の良心に従うか、自分で決めなければいけない。キング牧師って聞いたことがあるでしょう」
「いいえ、ありません」
(そうか、それも説明しないといけないのか)
「僕の国のアメリカの南部では、黒人を差別する法律がある時代があった。黒人は白人専用の食堂に入ってはいけない。白人専用の公衆便所に入ってはいけな い。白人専用のバスの席に座ってはいけない。白人専用の学校に入学できない。など、そういう法律があった。1950年代から黒人はその差別的な法律をなく すため、それをまず破る作戦を選んだ。黒人が立ち入り禁止のところにどんどん入って座り込む、という運動だ。そして時間がかかったが、勝った。キング牧師はその一番有名なリーダーだった。ノーベル平和賞をとった。この基地の中でも彼の誕生日を毎年お祝いしている。彼は30回以上逮捕された。それこそ、倫理 的な人だった。
お巡りさんは時々口を挟むが、だいたい黙って聞いていた。私は自分の国の例を続けて、公民権運動から、奴隷制時代へ遡った。
「昔のアメリカでは、奴隷制は合法だった.奴隷の脱走も、その脱走を手伝うことも重大犯罪だった」、そしたら彼は「そのとき何かの事情があったのでしょう」と、奴隷制をちょっと弁護してみたが、すぐ止めた。その路線はやっぱりまずいとわかったのだろう。
彼は「ちょっと待って」と言って、携帯電話で当局へ(小さい声で)電話した。なるべく逮捕しないという、安倍政権の戦略があるらしく(逮捕は本土の新聞に載るから?)、そのような指示を受けたであろう。電話が終わり、彼はもう一度私に話しかけた。
「仕事だから言いますが、法律に禁止されているとわかりましたね」
「わかります」
それで、彼は消えた。
少しだけ話が伝わったのかもしれない、と思った。

 バスの白人専用シートに最初に座って逮捕された黒人は、確か女性だったと思う。どんなに勇気が要ったことだろう。キング牧師だけでなく、ガンディーもなんども投獄されている。このような不服従運動の積み重ねの上で、人種差別が違法となり、インドは英国から独立できたのだ。
 自分の良心に照らして従うべきでないと考える場合には従わない、という姿勢は、良心的不服従と呼ばれる。ただし、これには条件がある。非暴力であること、そして、公然と行われるという条件だ。自分の顔も名前も隠さずに実行し、考えをきちんと主張する。公然と不服従を行うことで、法律や制度が間違っていることを示す。それが、良心的不服従だ。
 日の丸を押し立てた人たちが押しかけてきた翌朝、浜のテントに来てみると、説明資料は破られ、千羽鶴が引きちぎられ、腐った魚の内蔵などがまき散らされていたそうだ。夜陰に隠れてこっそりと行われた卑怯な嫌がらせは、公共の浜を汚す単なる違法行為にすぎない。
 浜のテントに交代で詰める人たちも、海で抵抗するカヌー隊も、ゲート前に座り込む人たちも、堂々と不服従を行っている。ひとりひとりが、自分の良心に忠実であろうとしているのだ。それはたとえば、ジュゴンが暮らす美しい豊かな海を子や孫に渡すためであり、米軍機の騒音のない環境を子どもたちに取り戻すためであり、沖縄の住民自治を貫くためであり、米国の戦争の片棒を担がないためであろう。良心的不服従は、世の中の間違いを正し、よりよい時代を切り拓こうとする努力なのだ。

 ということで、一人ひとりの市民が、自分の良心に従い、勇気を持って不服従を貫くのは、すばらしいことだと思う。
 しかし、では次に、自治体としてはどうかと考えると、話は難しくなる。

 工事ゲート前から抱え上げられて排除された後、私は、機動隊に繰り返しこう叫び掛けた。
 「沖縄県警は、沖縄県知事に相談して指示を仰げよ」
 沖縄の県警であるのに、沖縄県民の意思に対立する側についているのはおかしいと感じたからだ。しかし、そう叫びながらも、自分の言葉に「それほど単純ではないぞ」という思いもあった。

 沖縄県知事は、沖縄県警に「ゲート前の座り込みを排除するな」と言えるのだろうか。村の権限に警察関連は含まれないので、私にはよく分からないが、おそらくできないと思う。県警は、県公安委員会が監督権を持つのだろうし、国の組織である警察庁の支配を受けている部分もあるはずだ。知事は、意見を言い、協議することはできるかもしれないが、一存による指示はできないだろう。そもそも、それを許すことがいいことだとも思えない。それを許せば、法治主義を逸脱した、人による支配に陥る。
 警察官が職務にあたって自分の個人的良心を優先させることも危険だ。自衛隊員ならクーデターにもなりかねない。実力組織は、個人の判断思想・信条ではなく、法律や命令に従って貰わねば困る。もちろん、非暴力の良心的不服従に暴力を振るうことは禁止されているはずだ。公務員は、法律や決まりに基づいて職務に当たらねばならない。にもかかわらず、辺野古の海保は乱暴狼藉で悪名を馳せており、同じ宿で酒を飲んだカヌー隊の青年は、海保に頸椎捻挫の怪我を負わされた。彼は海保を特別公務員暴行陵虐傷害の容疑で告訴した。
 ただ、こう考えてくると、違法な公務員の暴力は論外としても、法に従う公務員は法を破って良心的不服従を行う市民と対立せざるを得ないことになる。しかし、「フェンスに物をつけるのは違法」とか、「道路でビラを配るのは条例違反」といったルールを過度に厳格に適用すれば、世の中は窮屈になるし、憲法が保障するもっと大切な権利、「言論、出版その他一切の表現の自由」に抵触する。一定の配慮が必要だ。しかし、これは平等でなければならない。たとえば、郵便受けにチラシ広告を入れるためにマンションに入ることはOKなのに、特定の政治的なビラの場合は敷地への違法侵入だと咎めるのは、公平性を欠く。相手によって恣意的に運用を変えるようなことがあってはならない。
 市民の側は、公務員と現場でせめぎあいながらも、眼前の公務員の対応を攻撃するのではなく(勿論公務員が暴力的であった場合には厳しく糾弾しなければならないが)、大きく世論の方を見て、それをどう動かすか考え、公務員の職務のあり方と目的を定める法律、制度を改正させることを目指すべきだと思う。

 では、個人ではなく、行政組織、特に自治体が、国に対して良心的不服従を行うことは可能だろうか。
 選挙やセルラースタジアムの大集会などで繰り返し示された県民の意思を背景に、沖縄県も名護市も、国の米軍新基地建設に反対している。とはいえ、法律に違反することは、やはり行政にはできないと思う。ただし、憲法に違反する法律には、従うべきでないのかもしれない。しかし、それも、憲法違反かどうか訴訟を起こして司法の判断を仰いだ上でないとダメなのかもしれない。日本では違憲訴訟であれ、実害があってそれへの賠償請求という形でないとダメということを聞いた気がする。現実の被害がないと違憲訴訟もできないのだろうか。
 法学部出身でもない私にはよく分からないし、本当は考えたくもないのだが、今の安倍政権の動きを見ていると、そんな研究もしておかねばならないのではないかと考えざるを得ない。たとえば、「市町村はX歳からY歳までの住民の個人情報、体格や健康状態その他を毎年防衛省に提出すること」と定められたらどうすればいいのか。
 一つ可能な抵抗は、沖縄で模索されているような、法律を使う方法だ。辺野古の埋め立てを、文化財保護や環境保全の法律など、使える法律を総動員して阻止しようとしている。これは学ぶべき手法だ。

 かつて国旗に一礼しない村長として話題になったとき、村外の人から電話があり、「市町村長の仕事は、国の統治に従って住民を統治することだ。国の統治に従って、国旗に一礼せよ」と言ってきた。国に従って住民を統治することが自治体の仕事とは思わないが、国の統治の末端を担うという面は、基礎自治体には確かにある。しかし、勿論、それだけが自治体の仕事ではない。
 自治体は、住民と国との中間に位置している。自治体は、住民からも、国からも「我々のために働け」と要求される。勿論、国からの支援はありがたいが、そうかと言って、国のためばかりに働くわけにはいかない。基礎自治体の一番重要な任務は、住民の暮らしを守ることだ。
 国は、時として、国全体の利益のためと称して、部分である特定の地域を犠牲にする。沖縄は、まさにその典型だ。一貫してしわ寄せを押し付けられてきた。原発についても同様だ。
 基礎自治体が国の統治の末端として働かされた極端な例は、徴兵であろう。農家から、そして、あらゆる生業の場から、一番の働き手を引きはがし、兵隊として送り出すことに加担させられた。国からは、戦時国債を買え、馬や金属を供出せよ、贅沢は敵だなどと、様々な要求が出され、挙句に、戦況が厳しくなると、 「一億玉砕」「一億火の玉」と叫ばれ、日本全体を犠牲にせよというスローガンまで登場した。観念の全体のために個別具体の部分を犠牲にしてよいという考えは、必ず破綻する。部分を大切にしなければ、やがて全体が亡びる。
 国全体を語り始めると、国は、抽象的、観念的になり、思い込みの世界に入っていく。日々を暮す人々の日常の現実から遠ざかる。国の暴走から住民を守るのも自治体の仕事だ。
 国を正す役割は、本来は大手マスコミや司法かもしれないが、それが懐柔されている今、基礎自治体が頑張るしかないのではないかと思う。
 基礎自治体は、国の統治の末端でもあり、住民自治の砦でもある。しかし、もしも二つが相容れない場合があれば、断固後者を採るべきだ。基礎自治体は、法律に違反して良心的不服従を行うことはできない。しかし、住民に一番近いところにいて、住民の悩みや苦労や夢を知っているのだから、国民から一番遠いところにいる国に対して、意見し、問題提起し、教え知らしめるという役割を負っている。
 国がおかしくなっていれば、自治体は、合法的なあらゆる手段を駆使して抵抗し、住民を守らねばならない。

ダグラス・ラミスさんの文章の引用許可を頂いて、2015年7月10日掲載。
中川村長 曽我逸郎

2014 06.06

2014 中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式 式辞

中川村ホームページ、村長からのメッセージより転載

2014年6月6日

 中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式を挙行いたしましたところ、ご多忙の中、上伊那地方事務所長様はじめ、ご来賓各位、御遺族の方々など、大勢の皆さんのご列席を賜り、真にありがとうございます。

 さて、昨年の追悼式の後、中川村遺族会の会長と幹部の方々が、抗議文を携えて、役場に来られました。
 その時の会談は、音声データで村のホームページに挙げてありますので、お聞きになった方もおられるでしょう。
 頂いた抗議は、大きくは2点です。
 ひとつは、私の式辞に、遺族の皆さんの悲しみや御苦労に対する言葉がなかったという点。これに関しては、近頃の政治の動きに気をとられ過ぎて、配慮が足りなかったと反省を致しました。私は、母一人、子一人の家庭で、母の苦労を見て育ちましたが、大黒柱を突然奪われた御遺族の方々の悲しみとご労苦は、その比ではなかったと推察申し上げます。
 抗議の二つ目は、国旗の掲示がなかった、という点です。こちらについては、会談の際に私の考えをお伝えし、村ホームページにも文章を掲載していますが、3月にもう一度遺族会役員の方々とお話をして、遺族の皆さんのお気持ちもお聞きしましたので、本年は、私の考えを聞いて頂きつつ、ご覧のとおり国旗を掲示することに致しました。

 確かに、戦没者追悼式では、国旗を掲げるのが一般的です。それはなぜかというと、国のためになくなったのだ、と示すためだろうと思います。
 しかし、日清戦争から先の敗戦に至る一連の戦争・事変は、日本のためになったのでしょうか。戦場となった国々では、多くの人々が犠牲になり、甚だしい迷惑をかけ、被害を与えました。日本は、今に至るまで周辺諸国と良好な関係を築くことができずにいます。日本の側でも、多くの兵士がジャングルなどの過酷な環境に送り込まれ、飢えや病気で次々となくなりました。夢と希望にあふれた膨大な数の若者を失い、日本にとってどれだけの損失となったことでしょうか。そして、愛するお父さんや兄弟を亡くした遺族のみなさんは、悲しみにくれる間もなく、生活のために大変なご苦労を背負いこまねばなりませんでした。沖縄で、東京他大空襲で、また原爆投下によって、大勢の一般庶民も亡くなっています。つまり、戦争は、まったく国家、国民のためにならなかったのです。
 戦争とは、一部の人たちが、自分達の思惑のために、国民の命と身体と税金を使って始めるものであり、それは、歴史の変わらぬ事実です。
 しかし、国旗が掲げられることによって、あたかも戦争が国のためであるかのように思わせます。つまり、国旗は戦争の実態に蓋をして、隠してしまうのです。

 昨今の政治状況について言えば、深い議論を重ねた上で、正式の手続きを踏んで、憲法変更の是非を国民に問うのではなく、安倍政権は、恣意的な憲法解釈の変更によって、日本を、戦争をする、ありふれた、志のない国にしようとしています。その裏には、どういう思惑があるのでしょうか。愛国を掲げることで、その思惑も隠されています。国や国旗を隠れ蓑として利用しているのだと思います。
 特に今、集団的自衛権の必要が喧伝されています。しかし、戦況の情報を米軍が握り、首都東京の周囲に座間、横田、横須賀、厚木などの米軍基地が居座る状況では、自衛隊は、実質的に米軍の指揮命令下に入るしかありません。つまり、集団的自衛権とは、日本の若者を、日本国民の税金で訓練して、米国から購入した高額の兵器とともに、米軍の戦場に差し出すことです。これでは、愛国どころか、何重にも売国的だと言わざるを得ません。

 亡くなった日本の兵士たちは、「鬼畜米英」と教え込まれ、「生きて虜囚の辱めを受けず」と叩きこまれました。もし、このような今の日本の状況を見れば、「米国にこれほどまでにおもね追従するのであれば、あの時、なぜ自分達を、あれほどに餓えさせ、あのような意味のないバンザイ突撃をさせる必要があったのか」と、憤りの叫びを挙げることでしょう。

 今の状況がこのまま進んで、集団的自衛権が現実のものになれば、自衛隊の若者が戦場で亡くなるのも、現実のこととなります。もしそうなれば、自治体でも、かつてのように村葬をすべきだ、という声が上がるでしょう。
 村長は弔辞で、国のために命を捧げた自己犠牲を讃え、お母さんは、悲しみを押し殺して、感謝の挨拶をすることになります。そして、ひとりの若者の死が、「国のために」死のうとする多くの若者を獲得することに利用されるのです。

 私は、そんな村葬はぜったいにやりたくありません。戦没者・戦争犠牲者のみなさんも、そんな村葬を見ることは嫌だろうと思います。この式典に、新たな遺族を迎えいれるようなことは、あってはなりません。
 日本が大きな分かれ道に立っている今、掲げられた国旗はなにに蓋をしているのか、そのむこうにはどんな思惑が隠されているのか、透かし見る努力が必要だと思います。

 日本を平和な国として保ち、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存できるように全力を挙げて努力する、そういう誇りにできる国にすることによってこそ、戦没者・戦争犠牲者のみなさんに穏やかに安らいで頂くことができると信じます。
 その努力を村民の皆さんとともにお誓い申し上げ、中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式式辞と致します。有難うございました。

中川村長 曽我逸郎

# 他の年の「追悼式」挨拶も「村長からのメッセージ」に掲載しているので、御一読頂ければ幸甚です。

2014 02.27

自衛隊協力会発足式で集団的自衛権反対

中川村ホームページ「村長からのメッセージ」より転載

2014年2月27日
曽我逸郎

 中川村自衛隊協力会発足会が、2月23日、村の文化センターで催された。45名の方が会員で半数近くの方が出席され、前議長の前原さんが会長に就任された。
 挨拶を求められ、概略以下のようなことをお話しした。

* * * * *

 2週続けて記録的な大雪となり、各地で大きな影響がでた。中川村は自衛隊に出動を要請する程ではなかったが、雪かきに追われた。近年、異常気象が多く、いつどんな自然災害に見舞われるか分からない。
 そんな中、自衛隊の皆さんは、豪雨災害や先の東日本大震災でも、住民を助けるため奮闘努力して頂き、頭が下がる。東京電力福島第一発電所の事故による放射能災害でも、放射線量の高い中、懸命の活動をして下さった。
 日本国内のみならず海外でも活躍している。ハイチ地震の救援活動の報道で、大変印象的なシーンを見た。高校の寮を自衛隊が再建して、そのお祝いの会で、女子高生が隊員にダンスの相手を求めた。その時の隊員のはにかんだ表情がとても素敵だった。このような活動によって自衛隊は日本に対する評価も高めてくれている。その点も非常にありがたい。
 大きな自然災害があっても自衛隊の助けがあると思うと、自治体としても大変頼もしく、心強い。
 ただ、今の政治状況においては、ひとつ申し上げねばならないことがある。集団的自衛権のことだ。襲われた仲間を助けると言っても、すべての情報は米軍に集約され、米軍が分析し、判断する。結局は、米軍の指揮・命令の下でパトロールをしたり、攻撃に出たり、手足として使われることになる。
 米軍がベトナム戦争に本格的に介入するきっかけとなったトンキン湾事件は、米軍艦が北ベトナムの魚雷攻撃を受けたというものだったが、米軍によるでっちあげだった。イラク戦争の理由とされた大量破壊兵器も存在しなかった。満州事変の口実にされた柳条湖事件も関東軍による自作自演だった。戦争は大抵そのようにして始まる。
 アフガニスタンやイラクで米軍の兵士は恐ろしい体験をし、また女性や子供を殺害してしまったりした罪の意識から、心に深い傷を受け、PTSDに苦しみ、ふるさとに帰っても元通りにとけこむことができず、酒やドラッグにおぼれる若者が多いと聞く。中川村の若者にも、自衛隊の皆さんにも、そんな目に遭って欲しくない。集団的自衛権には反対する。

* * * * *

 こんな挨拶をした。
 二人の方から集団的自衛権について感想を聞いた。
 自衛隊の制服の方は、「確かにそういう面もあるかもしれません・・・」と口ごもられたが、その後で、「自衛隊が米軍の一方的な指揮の下で動くということはありません。そこは線が引かれています」と仰った。形式的に線が引かれていても、実質的には米軍に使われてしまうと、私は思う。
 上伊那郡市の協力会の役員の方は、海上自衛隊におられたそうで、私の後の挨拶で、「合同演習を経験した者として、集団的自衛権で自衛隊が米軍に使われるなどということはあり得ない。」と仰った。後の懇親でも隣の席だったので尋ねたが、「昔の事例によって今のことを考えるは間違いだ」「今は日本も情報衛星を持ち、自前でしっかり情報をとっている」「特定秘密保護法によって、米軍と深い情報共有ができるようになった」とのご意見だった。過去の事例に引き当てないのは、歴史から学ぶことを否定することだし、日本と米国の情報収集力、分析力の差は情報衛星を打ち上げても圧倒的だろう。米国は西側の政府要人の携帯電話まで盗聴する。秘密保護法があっても、共有すべき情報を選択するのは米国であり、すべての情報が共有される筈はない。
 集団的自衛権に反対する考えは変わらなかった。

2013 10.07

国家神道という罪穢れ/伊勢神宮式年遷宮お白石持ち行事

伊勢の神宮式年遷宮の諸行事のひとつ、お白石持ち行事に2013年8月19日参加した。そこでいろいろ見て考える中で、国家神道は、本来の神道に深く染み付いた不浄なる罪穢れであって、早急に徹底的に祓い落とされるべきだと思い至った。
ここで国家神道と呼ぶのは、人々に同一化の圧力をかけ、国家や社会全体のためだと称して自己犠牲を要求する神道として考えている。
今の日本の政治的な動きとも深いところで繋がっているように思うし、また逆に本来の神道にはグローバル化に対抗できる可能性も感じるので、ここに提起し、ご批判を受けたい。

1) お白石持ち行事への参加

まず、お白石持ち行事を説明しておこう。新たに建て替えられた正殿の周囲に神領の民が白い石を敷き詰めることで、1462年に始まり、無形民俗文化財だそうだ。まだご神体は遷されていないとはいえ、垣の内、正殿の直近数メートルまで行くことのできる20年に一度しかない機会である。
とある会合の席で隣り合わせた神官さんが教えて下さり、興味をそそられた。伊勢の神領民以外にも参加できる枠があるという。中川村の松村神官が上伊那郡の取りまとめをしておられると聞き、できれば外宮で参加できないかとお願いした。内宮には何度か行ったことがあるが外宮はなかったし、内宮の天照大神と同格の扱いを受け、かつては長らく内宮以上の参拝を集めていたという外宮は、以前から気になっていた。

前日の朝、バスに乗り合わせて伊勢へ向かった。案内状にはお祓いまで飲酒禁止とあったが、車中ではお神酒の後も差し入れの酒、ビールがおおらかに振舞われた。二見興玉神社(浜参宮)で海藻の大幣(おおぬさ)でお祓いを受け、内宮に向かい、神楽を見学した。音楽も舞も長い歴史で磨かれてきた完成度の高さを感じた。特に三つ目の最後の神楽は、赤と金の衣装も面も非常に素晴らしかった。バリ島のガムランやカトリックの特別なミサなどと比肩する日本文化のひとつの頂点だと思う。神宮会館で夕食、宴会の後、就寝。
翌朝、白帽子、白シャツ、白ズボン、白の地下足袋に配られた白い法被を羽織り、バスで出発、外宮前には既に揃いの白い法被の人たちがグループをつくって大勢行き来している。大型バスも各地から集まっている。外宮を回り込んだ先で下車し、帽子の上に「奉祝」の文字と日の丸のハチマキをつける。日の丸が少し気になったが、国旗というより日本古来のめでたい図案と捉えることにした。

朝から暑い。通りには大勢ボランティアの人達がいて、バスや交通を整理し、スポーツドリンクを配ったりしている。高齢の人が多いから熱中症には警戒しているようだ。白石を詰めた樽を積み上げた曳車の手前で、引き綱のどこにつくか指示を受け、エンヤ、エンヤと掛け声を合わせる練習、指定の位置について木遣りの声でスタート。人数が多いし車輪もついているので軽く動く。私の住む中川村葛島が参加する松川町上片桐、御射山神社の御柱祭の柱の重さとは比較にならない。神領民(伊勢市民)の木遣りや掛け声に盛り上げてもらい外宮に到着。引き綱を離れ正殿に向かう途中で白布を貰い、その上に白石をひとつ載せてもらい、今の正殿の前を通り抜け、真新しい正殿の門をくぐる。既にかなり厚く白石が敷かれており、向かって左側に預かった白石を置いた。床下の中央は直径2mほどの円形に竹垣で囲われている。神官らしき人に「あの中に心の御柱があるのですか」と尋ねると、「そうです」との返事。隙間を伺ったが中の様子は分からなかった。裏側の門から出た。

2) 中央集権化 天神>地祇ヒエラルキーの頂点に

伊勢神宮が今のように神道の中心とされる位置についたのは天武・持統の時代からだそうだ。何かで読みかじった話では、壬申の乱(672年)で大海人皇子(後の天武天皇)が吉野から東国に逃れる途中、伊勢で暴風雨に遭い、その地の神に加護を願ったのが発端だという。

天武・持統の頃というと、古事記(712年。異説あり)・日本書紀(720年)が編纂されている頃であり、天武の皇親政治、またその後に不比等が藤原の栄華の基礎を固める時期でもある。あらゆる面で中央集権化が進められた。宗教においても同様で、おそらく、それまではそれぞれの土地にそれぞれの歴史・文化を背負った国津神、八百万の神々が上下の区別なく並立し、それぞれに崇められていたのだろう。多分、天神地祇の差別はまだないところに、伊勢、内宮のアマテラスを皇祖神として頂点に据えて、天神地祇、つまり上位に立つ天津神と下位の国津神というヒエラルキーが生み出された。

天神地祇とかアマテラスというと神話の世界の太古の昔のように聞こえるかもしれない。しかし、その物語が集約されたのは平城京遷都(710年)の前後のことで、仏教の公的伝来(538年、552年など諸説)と比べれば百数十年の後、思いのほか新しい。663年の白村江の戦いの大敗北によって唐が攻めてくるのではないかという危機感もあったのかもしれない。ともかく中央集権化が急がれる中で、神道も大きく改変された。神道の国家神道化への原初的な第一段階と言っていいと思う。

3) 伊勢神宮の素晴らしい点、民とのつながり

しかし、伊勢神宮が天神地祇の中央集権ヒエラルキーの頂点に据えられたといっても、それまでの地祇的な部分が払拭されたわけではない。我々が海藻の大幣でお祓いを受けた浜参宮は、二見ヶ浦にある。夏至の日、夫婦岩から朝日が昇る聖地だ。おそらく、伊勢に元々あった神は、海の漁労民の太陽信仰であって、それが浜参宮の海藻のお祓いという形で今も残っているのだろう。

また、神宮がヒエラルキーの頂点に置かれた後、1300年の歴史が経過する中、私の見た神楽のような、洗練された文化が完成度を高めていったし、その一方、戦国時代など神宮の財政が困窮した時もあった。その際は、民に札を売ってしのいだりもしたようだ。また、民が主体的に神宮を支えた一面もあっただろう。お白石持ち行事への神領民の積極的な取り組みにそれは伺える。この行事が始まった1462年は室町時代で、既に平安時代の途中から武家政治の時代に移行し、平家そして源氏、北条の鎌倉時代を経て、一旦は後醍醐天皇が公家中心の政治を取り戻そうとしたものの、北朝に敗れ、足利の時代になっていた。天皇の権勢は地に落ちていたであろうし、天皇中心のヒエラルキーと一体の伊勢神宮も権威を失っていただろう。その時に領民たちがお白石持ち行事を始めた。応仁の乱の少し前のことで、すぐに戦国時代に突入する。

つまり、伊勢神宮は、神道を中央集権化する本拠地としてつくられたのだが、それ以前の地祇的部分も残しているし、また歴史の中で新たな形でその地の民との係わりも太くなっていった。いうなれば新たな地祇として地元の民に親しまれてきたのだと思う。今回お白石持ち行事に参加して、磨き上げられた文化の継承と民との繋がりは、歴史をくぐり抜けてきた伊勢神宮のすばらしい面として、認識した。

4) 原発事故と富国強兵の国家神道

しかし、それとの対比として、今の神道のあり方について気になっている部分も思い起こさずにはいられなかった。敢えて物議を醸すために、「国家神道という罪穢れ」と呼びたい。それは何か、と訊かれれば、例えば第一に原発に対する現在の神道の姿勢だ。

靖国神社が毎月発行する印刷物『靖国』の2012年正月号には、多くの人が寄稿して前年を振り返っている。しかし、そこに述べられているのは、「東日本大震災や津波に遭って示された日本人の気高い精神性」といった事ばかりで、原発事故に言及する言葉はまったくなかった。福島のみならず日本中の人々が放射性物質拡散による害を心配している状況の中、非常な違和感を覚えた。靖国神社に関わる人たちは、原発事故には触れたくないのだ、と感じた。一体、何故なのか。

テレビで見た忘れられない情景がある。福島第一原発の爆発の後、放射能汚染がひどく、計画的避難区域に指定された飯舘村、春浅い里山に近所の人達が集り、祠の前でお祭りをする。料理を廻し酒を酌み交わした後、「このお祭りもこれが最後かもしれないな」と語り合い、一家族、また一家族と去っていく。後には古びた祠だけが残った。原発事故で、代々受け継がれてきた村々の民の暮らしが断ち切られ、その地の神々が放射能汚染の中に置き去りにされた、まさにその現場を伝える映像だった。打ち捨てられた神々はどれほどの数になるだろう。しかし、今の神道は、このことに対してほとんど関心がないようだ。

いや、単なる無関心では済まされない。もっと端的なのは、上関原発への神社本庁の対応だ。

上関原発は、山口県の瀬戸内の上関町長島に中国電力が計画している原発で、根強い反対運動が展開されてきた。建設予定地には島の神社の社有地が含まれていた。神社の元々の宮司は、社有地を原発用地として売り渡すことに反対していたが、神社本庁はその宮司を解任、新しく任命された別の宮司が社有地を中国電力に売却した。解任された宮司は、解任の根拠とされた辞表は偽造だとして訴訟を起こしたが、裁判の最中に亡くなっている。

これは、東日本大震災より前のことであるが、神社本庁にとっては、民に恵みをもたらす瀬戸内の海や漁師たちの暮らし、その地の神よりも、原発の方がなんとしても重要だったのである。

一体、どういうことなのだろう。おそらく、戦時中に変わらず今の神道にとっても、国家の方が、民の命や暮らし、その土地その土地で受け継がれてきた文化伝統、八百万の神々よりも大切なのだ。神道は、富国強兵を未だに引き摺っている。民を思い民の暮らしを心配するよりも、国家を観念的に肥大させ、それのためには民も民の暮らしも犠牲にすることを厭わない。そして民の暮らしに密接に結びついた八百万の神々(地祇)も打ち捨てる。

国のために民を犠牲にする思想の行き着く果ては、戦争末期のスローガン「一億玉砕」だ。国体護持のためには国民すべてが死ぬ覚悟を決めるべきなのである。しかし、国民すべてを玉砕させて、一体全体どんな国家を残そうというのだろうか。まったく馬鹿げている。この傾向、つまり肥大化した国家観念を妄想して、民も八百万の神々も軽んずる傾向を内包する神道を、国家神道と呼ぼう。現在の神道が、依然として国家神道であることが、福島第一原発や上関原発によって顕にされた。

5) もうひとつの中央集権化 明治維新の廃仏毀釈

天武・持統期における古事記・日本書紀の編纂、伊勢の神宮の創設は、神道を改造して中央集権化を図る最初の大きな節目だった。もうひとつの節目がある。明治政府による廃仏毀釈だ。長い武家の時代に半ば忘れられていた天皇の権威を回復し神格化するために、神道を、混淆し一体化していた仏教、修験道から外科手術的に切り出した。廃仏毀釈というと仏教だけが排撃されたように聞こえるが、同時に、民の暮らしと結びついた八百万の神々の多くも、近代的中央集権国家にふさわしくないという理由で打ち捨てられ、天神地祇の中央集権ヒエラルキーに属する神々に置き換えられた。『神々の明治維新』(安丸良夫著、岩波新書)には、いくつもの事例と当時政府が発した布告などが記載されている。

明治維新を主導したエリートの考え方を物語るのは、福沢諭吉のエピソードだ。欧米列強に伍し得る近代国家建設に大きな貢献をしたとして一万円札にも描かれる福沢は、子供の頃、近所の祠を暴き、納められていた石を放り捨て、代わりの石を入れておいたら、皆が相変わらず有り難がって拝んでいた、という思い出を誇らしげに書いている。

福沢に関しては、福沢が創設し社主を勤めていた新聞「時事新報」の社説「戦死者の大祭典を挙行す可し」にも触れねばならない。その概略はこういう主張だ。

…戦争で国を衛るには死を恐れぬ兵が必要だから、及ぶ限りの光栄を戦死者と遺族に与えて、戦死は幸福であると感じさせねばならない。東京に祭壇を築き、全国の遺族を集め、天皇自らが祭主となり特別の祭典を挙行して戦死者を顕彰すれば、死者は地下で天恩に感謝し、遺族は光栄に感泣して父兄の死を喜び、一般国民は国のために死ぬことを冀う(こいねがう)だろう。多少の費用は惜しむべきでない。…(『靖国問題』高橋哲哉・ちくま新書より抜粋)

これらのことから分かるのは、福沢個人というより、明治維新というものが、祠の石に象徴される八百万の神々を軽んじ、民の命や家族を思う気持ちを軽んじ、国家の都合や自分たちの目的や思惑で、天皇や神道を操り利用することを憚らないものだった、ということである。欧米列強に対抗するという切迫があったのかもしれないが、神道は、政治の要求によって捻じ曲げられ、八百万の神々や民を軽視し、空疎に肥大した国家観念ばかりを重んじる国家神道にされたのだ。

6) その後の日本の歩み。自己犠牲の美化、強要

明治維新を遂げた日本は、近隣アジア諸国が欧米列強に侵略される様に怯えた反動か、自ら周回遅れの植民地主義国として近隣アジアを侵略し始める。当初の軍事作戦こそ成果を挙げることができた。しかし、天皇制と一体化し日本民族だけが特別だと主張する国家神道に民族を超えて共感される普遍性はなく、他国の文化、他民族の誇りを尊重しない植民地経営では民心を掌握することはできなかった。五族協和も八紘一宇も、植民地支配の実態の上面を繕うスローガンだ。また、もともと資源の乏しい中での杜撰な戦略であったため、すぐさまジリ貧に陥っていく。軍事や経済面での行き詰まりが露呈してくるのと平行して、国家神道の精神主義、言霊信仰による楽観主義、結果責任を上下に薄めてしまう無責任主義が指導部に蔓延り、その皺寄せは民に押し付けられ、国民がそれを自己犠牲によって背負い込むことが美化、強要された。
典型は、ビルマでのインパール作戦だ。兵站を軽視した杜撰な楽観主義が招いた状況は、前線の兵士らが自己犠牲の精神力によって克服することが命じられた。兵站を危ぶむ意見に、作戦の立案者であり指揮官である牟田口司令官は、水牛などに物資を運ばせ、食糧がなくなれば水牛を食料とするとして押し切り、これを「ジンギスカン作戦」と名付けたが、水牛は険しい山道の物資運搬にはまったく不向きで、かつまた制空権のない中、目立つ隊列は航空機の攻撃を受け、爆撃に驚き怯えた動物は荷を背負ったまま遁走し、元々足りなかった物資はさらに失われた。弾薬、食糧の補給を求める前線に対し、後方にとどまる牟田口は、空約束と精神力で戦えとの命令を繰り返した。破綻が明白になる中、上官である河辺中将が牟田口を訪れたが、互いに作戦中止を口にすることができなかった。後に河辺は「何か言いたそうだったが露骨には尋ねなかった」、牟田口は「言葉ではなく顔色で察して欲しかった」と証言している。こんな無責任な「遠慮」の結果、撤退決定はさらに一ヶ月遅れ、夥しい餓死者、病死者をいたずらに増やし、退路は「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれることになった。
作戦中止決定後、牟田口は部下にこんな訓話をしたという。
「…食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。 皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」
国家神道が、不合理な精神論で民に自己犠牲を押し付け、自分は無責任で居続けることを支えるものであることが、よく示されている。
例を挙げればきりがない。無敵だと自称した関東軍は、ソ連軍侵攻を聞くや真っ先に遁走し、国策で送り込んだ満蒙開拓団を捨て去った。沖縄は、本土決戦の時間稼ぎのため捨て駒にされた。兵は消耗品であり、インパール作戦以外でも、各地で食糧も医薬品も装備も満足に持たせず過酷な環境の奥地へ進軍させ、餓死、病死、凍死させた。「生きて虜囚の辱めを受けず」と叩き込まれ、戦車に刀を抜いてバンザイ突撃をした兵も多い。
自国民の命さえまるで尊重しないのだから、他国民ならなおさらだ。中国では、度胸訓練と称して新兵に銃剣で捕虜や現地住民をを刺突させたり、人体実験の材料にした。ニューギニアでは、物資運搬に協力してくれた現地の人たちを基地の内情を漏らされる惧れがあるとの理由で斬殺してもいる。フィリピンでは、ゲリラと近しい村だと決めつけ、女性子どもを含む村民全員を組織的に殺害した。
人の命を軽視し、国の都合で使い捨てたというだけなら、世界史では他にも例があるだろう。しかし、明治以降の日本では、民が自ら国のため天皇のために犠牲になろうとするように周到に用意された。本音の気持ちは違う人も、それを隠し、本心からそう願っているふりをせねばならない空気を固めていったのだ。端的な例は、特攻隊だ。形の上では志願制を取っていたかもしれない。しかし、自ら奮い立って志願し、あるいは志願せざるを得ない空気があった。空気の壁を破って断ることのできた兵士は何人いただろう。その壁の根深い土台となっていたのが、国家神道だ。兵たちは「靖国で会おう」と言い交わし、遺書でも靖国に言及している。それほどまでに国家神道は、国民の思考を染めたのだ。その果てに、自己犠牲の美化は自己矛盾に陥っていく。軍歌『同期の桜』がその一例だ。
「咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」
こんな軍歌があり得るだろうか。これをおかしいと感じないなら、その人も未だに国家神道に毒されている。『同期の桜』では、もはや戦いに勝つことはどうでもよく、ただ「みごと散る」こと、自己犠牲のナルシシズムが自己目的化されている。歌詞の最後の5番は、こう締めくくられる。
「花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」
自己犠牲が美談として顕彰され、死のヒロイズムに感化された純粋な少年が、次に死ぬ兵士として拡大再生産されていく。
自己犠牲のナルシシズムが集団で共有されると、愚かな他者犠牲の組織的取組みもなされる。例えば、特攻専用機「桜花」だ。体当たりだけが目的で着陸は想定していないのだから、操縦訓練はほとんどできない。ロケット推進というと現代のそれのような先端技術を想像するが、実態は数秒間燃焼する固形燃料ロケットを数本装備しているだけで、滑空の速度を上げることはできても、離陸はもちろん、上昇もほとんどできない。一式陸攻にぶら下げられて敵艦隊のそばまで行って切り離されることになっていたが、桜花の到達距離を伸ばすためには一式陸攻は高高度まで上昇せねばならず、敵レーダーからは丸見えで、目標のはるか手前で敵戦闘機に待ち伏せされて、腹の下の桜花のみならず、設計積載重量の三倍近い重荷を下げてよたよたと飛ぶ一式陸攻も、7名の乗員ともども、次々と撃墜された。最初の出撃では、母機18機がわずか20分程で全機撃墜され、その後の10回に亘る出撃で、桜花搭乗員55名、母機搭乗員368名が犠牲になった。駆逐艦を1隻沈めたものの、それ以上の大きな戦果はなく、作戦として成り立たない破綻した兵器であった。米軍は ”Baka Bomb”(馬鹿爆弾)と呼んだという。
冷静に考えれば、こういう結果しか得られないことは容易に想像できる。ところが、「新兵器で敵艦に体当たりしてみごと散る」という華々しい美学に酔っているから、合理的な判断が押し殺される。
桜花の構想を執拗に主張して実行させ、まず自分が乗ると言っていた少尉は、敗戦の数日後、ひとり訓練機で飛び立ち、太平洋上に着水し、漁師に救助され、偽名を使って80歳を超える長寿を全うしたという。インパール作戦の牟田口といい、声高に軽はずみに自己犠牲のヒロイズムを周囲に扇動する連中は、結局自分は最後に逃げる。
牟田口のように、地位を利用して高飛車に自己犠牲を命令した者もいるが、一方また、破局へ向かう早い段階のまだゆとりのある高揚感の中では、自己犠牲のナルシシズムに自ら陶酔する人も多い。彼らは、異論を口にする人には、感情的な嫌悪感をぶつける。自分たちの耽溺が邪魔されるからだ。異論者は、冷静に分析し合理的に考える人であればあるほど、自己犠牲心酔者からの感情的攻撃に口をつぐむ。合理的な説明が通じなければ、黙るしかない。その結果、感情的な自己犠牲のナルシシズムばかりが蔓延り、同調圧力は増すます高まり、皆と同じ振る舞いをしないものには「非国民」のレッテルが貼られる。「こんな奴は日本人じゃない」「それでも日本人か!」論理の通じない感情的な決めつけを恐れて「正しい」国民を演ずる内に、気づけば事態はもう後戻りできない破局に突き進んでいる。そうなれば、冷静に分析できる人ほど逆に、もはや破局を運命として受け入れ、破局の後に希望を託す他はないと考えるようになる。戦没学生の手記など、後の世に自己犠牲を美化して伝えられているけれど、心の中はそのように幾重にも屈折した挙句の昇華だと思う。結局、破局に向かって国民すべての意識は収斂され、うち揃って犠牲となる美学に陶酔していく。行き着く先は「一億玉砕」だ。

7) 何が守られているのか?

一億国民すべてを玉砕させても守るべき国とは、一体何だろう。これはまるで、極端な思考実験だ。本土決戦が話題になり始めた頃、誰のどういう状況での発言かは覚えていないが、とある軍幹部がこんなことを言ったとなにかで読んだ。
「本土決戦となり全土が戦場になっても、陛下は満州にお遷しし無敵の関東軍がこれを守る。国体は安泰だ。」
つまりこの考えは、日本からも国民からも離れ、日本でなくともどこかで、日本人でなくとも誰かの上に、万世一系の天皇が立っていれば、それで国体の護持になる、と捉えている。異郷の地で異国の民に、天皇が天下った神の子孫であると信じられ崇められれば、それで良いのだろうか。私はそうは思えない。日本人が一億玉砕し、国土が荒廃し、八百万の神々の祠が崩れ燃えても、天皇制さえ維持できればいいのか。日本の民やその暮らし、文化か、天皇制か、どちらが重要か、そういう問いだ。愛国者を自認する人は、どう考えるだろう。
「馬鹿馬鹿しい。天皇制は日本の最も深い文化である。切り分けることなどできない。」そう答えるだろうか。勿論この問いは極端な思考実験だ。しかし、敗戦の決断の際は、民か天皇制かの選択を迫られたのではないだろうか。絶対であると定めた絶対国防圏を突破されても、なお1年余りの間、太平洋の島々を次々に落とされ空襲が常態化して将棋で言えば既に詰んだ状態であるにもかかわらず、無益な犠牲を拡大し続けた。それは、民や国土を毀損しても、なんとか国体(天皇制)だけは保持できないかと足掻いたのだ。ここにおいては、民、国土、八百万の神々と天皇制とは、二者択一の対立概念となっている。
私は、「神道が未だに国家神道であることが原発によって示された」と書いた。では、「原子力ムラ」の人たちは、天皇を守るために民を犠牲にしようとしているのだろうか。さすがにそうは思わない。彼らは、自分が自覚する論理においては、国全体のためには、必要なら一部分の民は犠牲しても仕方がない、と考えているのだと思う。全体のために部分を切り捨てるという「合理的」で冷徹な決断を下すのが自分の職務であると、自分の任務に高揚さえしているかもしれない。かつての「天皇制のため」「国体のため」という名目が、敗戦後は「国全体のため」に置き換わっている。
では、彼らは、本当に国全体のことを思っているのだろうか。たとえば沖縄の人たちのような、自分らの都合に合わない民をそのつどそのつど次々と犠牲にしてきた論理が、本当に全体を思っていると言えるのか。
国全体のためには原発を再稼働させねばならぬ、と言う。54基すべてを再稼働させなくとも、大飯でも柏崎刈羽でも玄海でも地震か土砂崩れか、あるいは喧伝されるテロでもあれば、国土のほとんどが汚染され、大ダメージを受ける。原発は、国全体を台無しにしかねない、いうなれば「一億玉砕」一歩手前な状況を生み出している。かつては「天皇を満州に遷す」と言われたが、今、何をどこに移動するのか。まさか国民全部をどこかに避難させる考えはあるまい。福島の人たちを避難もさせず、帰還させようとしているのだから。
だから結局のところ、国全体のため、とか、国益とかは、お題目に過ぎない。彼らが一部分の民を犠牲にしてもよいとする本音は、彼ら自身の現在の地位や権益、利益を守るためだ。
このことは、敗戦後だけにあてはまるのではないだろう。敗戦前、天皇のため、国体のためだとして民に自己犠牲を要求した連中も、天皇のため、国体のため、という名目が、自分の組織やコミュニティにおける、自分の地位、権益、利益に結びついていたからそうした。自分が勝ち組でいられる体制の継続を図ったのだ。自分の利益の保全を「全体」というお題目で正当化し、人々に自己犠牲を強いた。
国家神道も、実は国家のためではなく、国家という名目を隠れ蓑に、その時の国家体制に寄生する既得権益集団が自分らの利権の保存のため、国民を動員し都合よく使うための方便である。

8) 同調圧力の害

敗戦前、自己犠牲の美化と同調化の圧力があったように、原発被災地でも同様の空気があった。「食べて応援」といったスローガンが謳われたし、避難地域には指定されなかったものの汚染が心配されるところでは、給食に汚染食材がないか不安で子供に弁当を持たせたい母親には、公的、非公的の圧力がかかった。地元を離れて避難しようとする家族には冷たい視線が向けられた。非難の声を向けるべきは、政府であり、電力会社である筈であるのに、地域住民の間にぎくしゃくした感情がわだかまった。
隣人を非難する人にも、かつてのような国体を守れといった思いはもはやない。国全体のために我慢するという意識もないだろう。何を守るのかはあやふやになっている。しかし、同調圧力はかつてと変わらずに強い。おそらくその背景にあるのは、平穏だと信じて平穏に暮らしていれば平穏が続くに違いないとする言霊信仰に似た楽観願望ではないだろうか。その願いを不安でかき乱されることに耐えられないのだと想像する。だとすれば、やはりこれも、自分のために周囲に同調化の圧力をかけ自己犠牲を強いていることになる。
同調化圧力は、さまざまな形で現れる。私の体験で言えば、式典で壇上に上がるとき、国旗に一礼しないことが話題になった際、保守系国会議員の後援会幹部であるらしい人が、電話でこんなことを言った。
「皆で意見を述べあい批判しあって考えを深めていくなど、直接民主主義であり、幼稚で愚かだ。国や政治をどうするかなど、一般人には興味がない。興味があっても知識がない。民主主義とは多数決であり、多数を取った政治のプロが上意下達で統治する。自治体の長の仕事は、国の統治に従って住民を統治すること。国からの統治に従わず国旗に一礼しない村長は、全力を挙げて落選させる。落選して恥をかきたくなかったら、次の村長選には出馬するな。」
これは、空気というようなレベルを超えた露骨な圧力であるが、この人物が、人々が統治から自由になり自分自身で考えるようになることを嫌がっているということは分かった。
結局のところ、日本の今の閉塞感の元凶は、この同調圧力とそれによる自己規制にあるのではないだろうか。国や社会をよくしていくための試行錯誤が広がらない。例えば、前例踏襲主義がそのひとつだ。過去の事例に同調して、新たな工夫をすることを最初から放棄する。あるいは、新たな方針が出されてもそれはしばしば上意下達で、皆が同調した振りを強いられ審査がされないので、全員で間違った方向に走り出す。だから、国を良くしていくためには、同調圧力とは反対に、民が自由に考え意見表明し、互いに批判しあい学びあえるようなあり方で、皆で考えを深めていかねばならない。

9) 本来の神道の可能性

同調圧力は、田舎の閉鎖性のように捉えられるかもしれないが、都会でも日本のさまざまな集団にある。テレビのバラエティ番組でも出演者同士が「お前、空気読めよ」と弄りあっていた。とすれば、同調圧力こそが、日本の社会の特徴であって、国家神道にしてもそれが特異な時代に特異な形で先鋭化して現れただけなのかもしれない。
しかし、少なくとも明治維新から敗戦までの間、国家神道は、空気の重い圧力によってメンバーに同調と自己犠牲を要求するという傾向を、日本人の性根の深いところで強めてきた。
であるなら、逆に、神道のあり方によって同調圧力を弱めることもできるのではないか。
私が期待するのは、本来の神道のあり方である。一部の人々の思惑によって神道は国家神道へ捻じ曲げられた。では、本来の神道に戻ればいい。明治維新前の神道ならいいか。いや、私がイメージしているのは、もっとさらにずっと以前、天武・持統や、古事記・日本書紀より前の神道である。
『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする水木しげるの漫画には、たくさんの個性豊かな妖怪たちが活躍する。水木しげるは、鳥取県の一番西、出雲のすぐ隣の境港で育ち、世話をしてくれたお婆さんから聞かされた妖怪の話に強い影響を受けたという。これは根拠のない私の想像に過ぎないが、天津神を自称する大和に国譲りを強要された出雲にいた国津神の多くは、そのとき地下に潜り、妖怪として民の中に生き続けたのではないだろうか。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、異界に接する物語を書いたのも国津神が弾圧された出雲に暮らして、その風土に感化された側面があったのではないだろうか。
本来の神道は、八百万の神を崇め畏れるアニミズムであったと思う。天武・持統、古事記・日本書紀以前の、天津神と国津神のヒエラルキーが作り出される前には、水木しげるの世界のように、個性豊かな八百万の神々が、民と生き生きとしたかかわりをもって暮らしていたのではないだろうか。
私が育った滋賀県のお世話になった家では、正月には神棚や仕事場だけではなく、台所のかまどや便所などにも鏡餅を備え、ろうそくを灯していた。そこかしこに神々が住んでいた。今私が暮らす中川村でも、農業用水の恵みを水神様に願い、縄文の巨木文化の名残りを強く感じさせる御柱祭りもある。台風の季節が近づくと風祭りも行う。神事で唱えられる祝詞を別にすれば、天津神との関連は感じさせない。土着の地祇の祭りであり、八百万の神々と民との交感だ。
アニミズムは、日常を超えたものへの畏敬に根ざす。つまり、破格のもの、毎日の暮らしの慣れ親しんだ世界からはみ出す畏怖すべきなにかを神とする。つまり同調化を迫り型に嵌めるようとする国家神道とは、正反対の方向性だ。異界のものを敬う姿勢は、異文化の尊重につながる。戦争中に占領地域に国家神道を押し付けたのとは対極だ。現在キリスト教など異教の習俗がおおらかに楽しまれ消費されているのも、本来の神道の寛容さの現われだと思う。
今、世界経済はグローバル化が進み、同じ規格で大量生産された商品が蔓延し、おのおのの土地の伝統文化に繋がった商品が片隅に追いやられている。こういうグローバル経済のあり方にも、多様性と土着性を重んずる本来の神道は、思想として対抗し得るのではないかと感じる。

10) まとめ

国家神道とは、本来の神道が時の政治権力に都合のいいように捻じ曲げられて生み出されたものである。国家神道は、民に同調圧力をかけ、民の行動、思考を一定の型に嵌め、国や社会全体のために自己犠牲をさせる。国のため、全体のためを標榜しながら、そのつど都合の悪い部分を次々と犠牲にしていく。その結果、全体という塊のあちこちがかわるがわる削ぎ落とされ、全体は次第に痩せ細っていく。つまり、本当は全体のためではない。全体は名目に過ぎず、権力を握る者たちとそこにかしずく者たちが、その時の体制にこびりついた既得権益を握り続けるために体制維持を図っているに過ぎない。そのためには削ぎ落とされる部分の民に自己犠牲を強い、使い捨てにし、棄民する。
それに対して、天武・持統以前、古事記・日本書紀によって天津神・国津神のヒエラルキーが作り出される前には、土地土地に個性あふれる八百万の神々がいて、民との濃厚なかかわりがあったと想像する。それが本来の神道であるとするなら、標準を外れた異形、異能を惧れ敬うものであり、国家神道の自分達の都合に合わせた枠に嵌めようとする傾向とは逆である。規格化や統治ではなく、多様性、個性、土着性、型にとらわれぬ自由闊達を喜ぶ志向だ。現代のグローバル経済の傾向に対抗する考えとなり得る。
残念ながら、現代の神道には、富国強兵の国家神道的傾向が未だに強く尾をひいている。神道は、国家神道的傾向という罪穢れを一刻も早く根本から抜き去り、民の暮らしや伝統文化、土地土地の八百万の神々を敬う本来の神道に戻ることができれば、歴史に大きな貢献ができるだろうし、神道そのものも発展するのではないかと思う。
乱暴な見解であることは承知の上、批判に晒す。ご意見を頂ければ有難い。

2013年10月7日 曽我逸郎

2010 10.11

靖国神社に関する「週刊ポスト」笹幸恵さんのご意見に

2010年10月11日 曽我逸郎

 ある人から週刊誌の記事のコピーをもらって、「感想を聞かせてくれ」と言われていたのに、鞄に入れたままにしていた。
『週刊ポスト』8月20、27日合併号、笹幸恵さん(ジャーナリスト)の『戦後65年目の夏 女ひとり、静かすぎる靖国を歩く』という4ページの読み物である。
再度読み返して、再度違和感を覚えたので、随分日が経ってしまったが、感じたところを書いておきたい。

笹さんは言う。

「もとより私は、首相の靖国神社参拝が政治の俎上に上がること自体、違和感を覚える一人だ。靖国神社は国内における唯一の戦没者慰霊顕彰施設であり、本来、政治問題とはなんら関係がない。」

まず、「靖国神社は戦没者慰霊顕彰施設として国内唯一」と仰るのは、勘違いであろう。靖国神社と同様の背景を持ち、関係も深い護国神社がほぼ各県にひとつずつあるし、村や部隊といった単位での忠魂碑はさらに数多く存在する。
さらに「顕彰」という言葉をはずせば、戦争の犠牲になった方々を慰霊追悼する施設は、沖縄、広島、長崎はじめ、かなりある。千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝する人もおられる。にも拘らず、笹さんは、「靖国神社は国内唯一」と強調される。その理由は、「顕彰施設」という点にあるのだろう。「顕彰」はキイワードだ。そのことは、後で考えてみたい。

また、笹さんは、小泉首相靖国参拝を俎上に載せることだけを政治的と捉えておられるようだ。しかし、小泉首相の靖国参拝そのものが、既に政治的なものではなかったか。敢えて内外に物議を醸そうとする政治的パフォーマンスだったのではないか、と思う。
笹さんは、靖国問題が最近話題になっていないと感じ、そのことをどうやら残念に思っておられるようだ。確かに記事の、笹さんが厚手のジャケットを着て写っておられる扉写真背景の靖国神社は静かそうだ。だが、今年も8月15日には、靖国神社周辺ではデモがあり、機動隊をはさんで、待ち受けるウヨクとけして静かとは言えないやりとりがあったのだが…。

ともあれ、一読して、私がもっとも違和感を覚えたのは、「靖国神社は…本来、政治問題とは何ら関係がない」と仰る点だ。

靖国神社に限らず、そもそも宗教というものは、表向き聖と俗とを峻別し俗を見下して見せつつ、実際は極めて世俗的・政治的な働きをしてきた。そのことは、世界史の教科書で例えばヨーロッパの歴史をざっとなぞるだけでも分かるだろう。日本の歴史でも同様だ。「仏教」も、政治、世俗とかかわりあい、互に強く影響しあってきた。神道においても、天武・持統の古事記・日本書紀の編纂、そこにおける最重要神のタカミムスヒから皇祖神アマテラスへの入れ替え、朱子学の影響を受けカルト化して尊王倒幕運動の精神的支柱となった平田国学、欧米列強に伍して富国強兵を図るためキリスト教との対抗上作り上げられた廃仏毀釈運動と国家神道、等々、その時々の世俗の政治的欲求と絡み合いながら、神道は変遷してきた。その過程で、かつて日本の山河、人里に息づいていたであろう本来自然の素朴な神々のあり方は、無残に破壊されてしまった。

その中でも、靖国神社は、特に際立って政治的だ。いや、政治的どころか、軍事的と言うべきだろう。
そもそも、創立の母体となった招魂社は、クーデター明治維新の薩長側の犠牲者だけを政治的に選別して祀るものだった。その後、敗戦まで陸海軍の管轄下にあって、スムーズな徴兵のために、臣民たちの間に兵隊となって国体のために死ぬことを受けいれざるを得ない「空気」を作る働きをした。国体のために死んで靖国神社で神として祀られ現人神である天皇に拝されることは、この上ない名誉、喜びという宣伝がなされた。この、国体のために死ぬことをを当然とする思想が、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」や、兵站を軽視し兵士の命を軽視した数々のいいかげんな作戦立案の背景にあったと思う。自軍の兵の命の軽視は、当然の結果として、他国の民間人の殺戮をも容易にした。

笹幸恵さんは、靖国神社を「唯一の慰霊顕彰施設」と書いておられる。単に慰霊し追悼するだけではなく、顕彰する施設であるから、靖国神社は特別なのだ。では「顕彰」とはなんだろう。褒め称え、見習うべき手本として広く世に示す事である。「顕彰」と言い続ける限り、靖国神社は、国体のために死ぬことを賞賛し、見習わせようとしていることになる。つまり、靖国神社は、今でも敗戦迄の政治的任務を手放していない。

靖国神社の歴史を知らず、ただ通りかかって境内を歩いただけなら、このような政治性は感じないかもしれない。かつても戦争の陰がまだ国内に差さない内は、サーカスや競馬も行われる賑やかな観光・行楽地でもあったらしい。
しかし、現代でも遊就館に入れば、靖国神社の政治性は赤裸々に展示されている。そこで主張されているのは、日本は、亜細亜解放のために、又は、追い詰められて自衛のために仕方なく戦争を始めたのであり、戦場においても日本軍は行い正しく、誰一人罪を問われるべき者はおらず、自己犠牲の精神で崇高に振舞った、という主張だ。遊就館は、日本を美化し、覆い隠せない悪は、すべて欧米列強や反日運動といった他人のせいにしている。
私とて、欧米列強にも多くの罪があったと思う。しかし、他国に攻め込んで、奪い、殺し、犯し、破壊しておいて、責任も罪もない、などということはできない。遊就館の展示に、占領され奪われ殺され犯され破壊された現地の人々への誠実な言及はあるのだろうか。少なくとも私には、そういう展示を見た記憶はない。まず自らきちんと振り返り、反省すべき点を徹底して反省しなければならない。その上ではじめて他者を論じることが可能になる。

遊就館の展示、すなわちそれは、靖国神社の考えの表明であるが、そこに違和感を感じる点は、戦争責任に関してだけではない。死んだ兵たちの思いに寄り添っているとは思えないのだ。
各々の作戦についての説明文は、どれも同じトーンのステレオタイプで兵士たちの勇敢さと崇高な自己犠牲の精神を賞賛している。ニューギニアもインパールも、美談にされている。例えば、ニューギニアの記述はこうだ。

 「南海支隊のポートモレスビー陸路攻略作戦に始まるニューギニア作戦は、後に新設された安達二十三中将率いる第18軍が、人間の限界をこえた苦闘に耐えて、アイタペで終戦を迎えるまで戦い抜いた作戦である。この間に発揮された崇高な人間性は、ブナの玉砕、ダンピールの悲劇、サラワケット山系の縦断などに多くの逸話を残した。」

兵たちに起ったことは、こんな美談だったのか。貨物船にすし詰めにされてニューギニアに向かい、満足な援護もない船は沈められた。なんとか陸に漂着しても武器・食料・医薬品の大半は失われており、クモやムカデを食べ泥水を飲んで、ただ食料の期待できる自軍基地に合流するためにジャングルの湿地帯を数百キロ歩かねばならなかった。標高4000mのサラワケット山脈では転落死や疲労凍死が続出した。飢え、アメーバ赤痢やマラリヤに苦しみ、やがて木の根元にへたり込んで蛆を湧かせながら、兵たちは息を引き取った。例えば、ホランディアから敗走した兵たちは300キロ離れたサルミの陣地をを目指して1ヶ月半泥のジャングルを「転進」し、ようやくその直前のトル河まで辿りついたが、そこに立っていたのは、「渡河する者は銃殺する」とのサルミ師団長の布告だった。既にサルミも戦闘状態にあり、食料も無かったのだ。トル河河畔では、仲間を襲って食うことまで起ったという。その中にあった第6飛行師団だけでも昭和19年6月のわずか一ヶ月で1388名が「戦病死」していると言う。(『地獄の日本兵』飯田進、新潮選書)

私は、敬老のお祝いでお年寄りを訪問した際など、機会を見つけて戦争体験をお聞きしてきた。太平洋の環礁の基地で時々は敵機の襲来もあったが芋作りに明け暮れていたという人。仏印(ベトナム)の港に工兵として駐屯していて戦闘経験はないという人。内地で通信兵の養成をしていたという人。二等兵だったが内地で隊長付きだったので兵舎にも入らず民家で結構優雅に暮らしたという人。初めての子供が生まれる直前に夫の戦死公報が届いたという未亡人。片足を失った傷痍軍人と結婚した婦人…。戦争体験は実に様々だ。懐かしがることのできる体験をした恵まれた人は気軽に話してくれるが、つらい経験や良心の呵責はなかなか口にのぼらない。まして、死んだ人たちからは、一言も聞くことはできない。
ニューギニアの数少ない生き残りの一人、奥崎元上等兵は、昭和44年の一般参賀で死んだ部下の名を呼び、「ヤマザキ、天皇を撃て!」と叫んで昭和天皇にパチンコ玉を発射した。ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』の主人公でもある奥崎元上等兵は、かなり複雑な人物だったようだが、その胸中には何があったのか。おそらく、ニューギニアでの経験を色濃く引きずっていたであろう。蛆を湧かせた戦友の亡骸を前に、自分も動けなくなった兵たちの胸の内と、共有するものもあったに違いない。その兵たちは、遊就館の記述をどう思うだろうか。

補給もないままジャングルに放り込んで、ついには仲間さえ襲って食べるところまで兵たちを追い詰めた一連の作戦を、遊就館は、「崇高な人間性」「逸話」と形容している。兵たちの無念、憤りを、遊就館・靖国神社はどう捉えているのか。靖国神社は、飢え、風土病の高熱にあえぎ、蚊やハエやヒルに苛まれながらそれを払う力もなく、野垂れ死んでいった兵たちの思いを本気で共有しようとしているのか。

靖国神社は、自己犠牲を賞賛するばかりで、自己犠牲に追い込んだ側の責任には、一言も触れることはない。兵たちの無念に真摯に思いを致さないまま、その死を御国のための死として顕彰し続けている。これは、慰霊でも追悼でもない。兵たちの死を利用しているだけではないのか。

笹幸恵さんは、遊就館の展示について、若いカップルの「切なくなっちゃうよね」という言葉を引き、「最近の若者も捨てたものではない」と書いておられる。また、特攻隊員の手紙について、「顔で笑って心で泣いてという心情」「敬うべき崇高な志」と述べておられる。
これでは遊就館と同じだ。自己犠牲を賞賛するばかりで、自己犠牲を強いた者への言及はない。ニューギニアなど激戦地も訪れておられるそうだが、その戦いをどのように感じておられるのだろうか。やっぱり美談なのか。崇高なのか。
特攻隊の自己犠牲を美化するよりも、例えば、バンザイで見送られ出撃したものの機体整備不良で不時着して生きて戻った隊員が、罪人のごとく扱われ幽閉されたことの方が、軍の本質を示すのではないか。あるいは、合理性に欠けるコンセプトのせいで連合軍に Baka Bomb(馬鹿爆弾)と呼ばれた特攻専用機「桜花」はどうか。重すぎる荷をぶら下げてやっと飛べる状態の母機もろとも、米戦闘機の絶好の餌食にされた。第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊では、一式陸攻18機、ぶら下げられた桜花15機すべてが目的地はるか手前で撃墜された。一式陸攻には7~8名、桜花には1名が搭乗している。皆死んでしまった。十分な護衛機をつけられなかったにもかかわらず、司令長官が、「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」という、自分の「部下思い」に陶酔した情緒的判断を下した結果である。危険な訓練を必死に克服した桜花操縦士たちが、母機に繋がれたまま何もできずコックピットに座して撃墜されていくとき、不合理に憤らなかった筈があろうか。どれだけのエネルギーをつぎ込んでどれだけの命を空しく浪費したか。笹さんは、ジャーナリストを自称しておられるようだが、ジャーナリストとして史実を深く掘り下げるのではなく、浅く都合よくつまみ食いした部分を繋ぎ合わせて、一部の人々の気に入るように書いておられるのではないかと感じる。

靖国神社に話を戻そう。
靖国神社にも同情の余地はある。今、東京ドームでプロ野球がある日は、各地からの観戦ツアーバスが境内にずらりと並ぶそうだ。また、かつて深夜、暗闇の中、死んだ兵たちの魂を厳かに招き下ろしたという招魂斎庭は、今では月極めの駐車場として貸し出され、近隣の住民や会社のネーム・プレートと車が並んでいる。つまり、靖国神社の財政は苦しいのだ。なんとか生き残ろうと懸命の努力を続けている。
今の靖国神社は、横井さんや小野田さんが敗戦後も長らくジャングルに潜伏し続けたのに似ている。戦争末期、米軍の圧倒的攻撃で部隊の崩壊に直面して、一部の指揮官は、指揮を放棄し、兵士達に、おのおのの判断でゲリラ戦を継続せよ、と命じたそうだ。そんな命令があったかどうかは分からないが、靖国神社は、補給も支援も切れたまままま、単独で、かつての任務、「戦死を美化、顕彰して、若者を国体護持のために死ねる兵にすること」を律儀に継続しようとしているように思える。

では、靖国神社が今も守ろうとしている国体は、敗戦後どうなったのか。
敗戦のすぐ翌月、昭和天皇はマッカーサーを訪問している。その後も頻繁に訪問する中で、東条らにすべての責任を「しょっかぶせ」、マッカーサーの、スムーズな占領体制確立のために天皇を利用したい思惑とも重なりあり、昭和天皇は東京裁判出廷を回避することに成功する。その直後、昭和天皇は、今度は共産主義に怯え、駐留米軍によって国体(天皇制)を守ることを画策した。一方、米国側は、「日本に望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」(ダレスの弁)を狙っており、昭和天皇は「日本側からの基地の自発的オファ」という形でダレスの狙いを実現させるよう導いた。その結果が日米安全保障条約であり、今の沖縄の有り様である。(『昭和天皇・マッカーサー会見』豊下楢彦、岩波現代文庫)
数多くの兵士がそのために命を捧げさせられたところの国体が、鬼畜の敵であったはずの駐留米軍に今や預けられている。米軍はどういうつもりでいるのか分からないが、少なくとも昭和天皇は、国体を守る役割りを米軍に預けた。昭和天皇は、敗戦後すぐさま帝国陸海軍から米軍に乗り換えたのだ。こんな状況になるなら、最初からそうしておけばよかった。兵たちは何のために戦い死んだのか。死ぬ必要はあったのか。昭和天皇および敗戦国日本は、兵たちに強要した自己犠牲を、結局は無にしたのではないか。戦死した兵たちを裏切ったのではないのか。
切り捨てられたのは、兵ばかりではない。靖国神社も、いつまでも戦争中の任務を握り締め、せっかく「罪をしょっかぶせた」東条らを神にしてしまい、「欧米列強に嵌められて戦争に追い込まれた」などと主張し続けている。駐留米軍に乗り換えた昭和天皇にとって、靖国神社はもはや困った存在になっていたのではないだろうか。富田メモに残された言葉もその発露ではないかと想像する。

そして、敗戦後、米軍に乗り換えたのは、昭和天皇ばかりではなかった。ほとんど前線を訪れることもなく、兵站を軽視し、兵の命を軽視した無謀でいいかげんな作戦立案を積み重ねその貫徹を無理強いした参謀たちの多くも、朝鮮戦争が始まり、米軍の要求・指導の下、再軍備がスタートすると、そこに馳せ参じた。原子爆弾の人体への影響調査や中国での生体実験のデータなどを米軍に献上した軍医もいたそうだ。このように旧軍で内地の恵まれた場所にいて指導的立場にあった人たちの少なからぬ人数が、敗戦後、寝返って行った。多くの兵や民間人を死に追いやった連中が、その責任を負うどころか、「鬼畜」の傘下へと走ったのだ。のみならず、この人たちの中には、自分の裏切りを糊塗するためか、右翼的な言辞を表明する人も多い。欧米列強を非難し太平洋戦争を植民地支配から東亜を解放する聖戦だったと主張する靖国神社の周囲に、今、米国に揉み手をする人たちが寄り集うという奇妙な状況になっている。

靖国神社の周辺には、少なくとも三種類の人たちがいるのだ。
まず、国体のために「敵を殺せ、死ね」と言われて、死んだ兵とその親族。この中には、戦死を崇高で誇るべきものと思いたい人もいるし、一方には、朝鮮半島や台湾出身者、また日本人の中にも、父や兄らの合祀を取り消してくれ、と要求する人たちもいる。
次に、敗戦まで兵とその家族に、国体のために死ぬのは名誉・当然だと刷り込み、そのように振舞わせ、敗戦後も 兵たちの死を利用し続けながら、補給なきままひとり律儀に同じ任務を果たそうとしている靖国神社。
そして、敗戦後米国に寝返りツイショウしながら、それを糊塗するため、靖国神社周辺で、一見「愛国」的言辞を振りまく売国者たち。米国に魂を売った者たちが、靖国神社を隠れ蓑として利用しているのだ。
相矛盾するばらばらの立場が、靖国神社の上で絡み合いとぐろを巻いている。

笹さんは、記事の締めくくりで、「国は、こうして(海外の戦場の)各地に散らばる慰霊碑について、維持管理の手立てを早急に講じるべきだろう。その上で、たとえば、かつての敵国と戦場となった国、そして日本とで合同慰霊祭を行っていけば、それこそまさに平和外交である」と提案しておられる。
この提案の背景には、「相手国が靖国神社参拝問題を外交の切り札に使っている」のに対して、それを「いかに政治的利用価値のないものにするか」という狙いがあるようで、慰霊を政治・外交の道具に利用しようとする思惑が気にかかるところだ。
しかし、確かに、日本は、戦後一貫して遺骨の収集にさえ真面目に取り組んでこなかった。兵の命を粗末に扱った伝統が、まだ続いているのかもしれない。ともあれ、海外の戦地で現地の方々と共に、敵味方の別なく、兵士民間人の別なく、犠牲になった人々を追悼することは、余計な思惑はなしにして、意味深いことだと私も思う。

それに加えて、私は、靖国神社自身がそれを靖国神社において行ってくれれば、とも期待する。
つまり、敗戦後も律儀にしがみついている任務<兵たちの死を利用して自己犠牲を賞賛し国のために死ぬことを顕彰すること>を止め、兵たちの思いに真摯に心を寄せ、それを共有し、悲しみ、追悼してもらえれば、と願う。いうなれば、靖国神社自体が、脱政治化、脱軍事化して、純粋に追悼の場となるのである。ニューギニアの泥河に蛆を湧かせて浮かんだ兵たちや、目的地のはるか手前で母機に吊り下げられたまま狭い席でなにひとつできないまま撃墜されていく桜花のパイロットたちに思いをはせれば、誰しも、その愚かさ、悲惨さに戦争を厭う気持ちにならざるを得ない。そして、愚かな戦争に惨たらしく犠牲にされた点では、敵兵も民間人も変わりない。敵兵も民間人も合祀せよ、などと言うつもりはさらさらないが、天皇の側で戦った者だけではなく、日本兵が殺した敵兵も現地の人々も隔てなく悼み、戦争遂行の一翼を担った過去を悔やんで欲しい。靖国神社がそうなれば、遊就館の展示は、顕彰ではなくなるだろう。美談でもなくなる筈だ。逆に、戦争に加担してきた自らの過去の歴史を展示して欲しい。つまり、広島平和記念公園のような、今までとは正反対の反戦の神社になってくれることを願う。

先に、靖国神社の周辺には三種類の人たちがいる、と書いた。靖国神社は、これまでのあり方を捨て、第一の人たち、すなわち亡くなった兵たちと遺族に誠実に寄り添ってほしいのだ。合祀をやめて欲しい、父の魂を返して欲しいと願う遺族には、応えるべきだと思う。逆に、靖国神社で多くの人に追悼して欲しいという遺族の思いも叶えることができるだろう。かつて戦った国の人も、かつて侵略した相手国の人も、戦争遂行神社から反戦神社に変った靖国神社に共感する筈だ。政教分離の問題は残るにせよ、首相参拝が問題になる度合いはぐんと下がり、笹さんの仰る「外交の切り札」としての意味も自然に消滅する。天皇の参拝さえ復活されるかもしれない。世界中の良識ある人々から支援されるようになるだろう。今のあり方を逆転することで、靖国神社は、新たな発展の可能性を開くことができると思う。財政的にも状況は好転するのではないだろうか。

絶対にありえない荒唐無稽な思い付きであろうか。靖国神社を利用したい売国者たちにとっては面白くないかもしれないが、それ以外の誰にとってもいいことだと思う。靖国神社にとっても、様々な考えの遺族にとっても、世界中の戦争を憎む人たちにとっても。そして誰より、戦争によって夢も家族との暮らしも命も奪われた人たちの気持ちに適うことだと思う。
靖国神社におかれては、どうか柔軟な気持ちで検討していただけるとありがたい。

ご意見お聞かせください。
2010年10月11日 曽我逸郎

2009 11.15

戦争を起こさないために カトリック正義と平和全国集会での講演

2009年11月15日

 『第35回 カトリック正義と平和 全国集会』(主催:カトリックさいたま教区、共催:日本カトリック正義と平和協議会、2009年10月)でお話をする機会を頂いた。ところが、未消化な内容を詰め込みすぎてしまったために、持ち時間一時間30分の中では上手な説明ができなかった。ここで再整理を試みておきたい。

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「戦争を起こさないために。私たちが頑張れること」

◆1 挨拶と中川村の紹介
(省略)

◆2 自己紹介 背景にある考え方

私は、釈尊の教えについて勉強をしてきた。いわゆる仏教であるが、現代の仏教は釈尊の教えからはるかに拡大し、矛盾するものも多く含んでいると考えるので、拘って仏教とは呼ばず、「釈尊の教え」と言っている。そもそもの釈尊の教えはどういうものであったのか、考えている。
釈尊の教えとは何か。カトリックの信仰を持っている皆さんには喧嘩を売るようで申し訳ないが、いうなれば無神教であって、神を必要としない教えである。釈尊は、極めて優れた人であったが、人間であって神ではない。また霊魂も否定しておられる。従って、輪廻転生も説いておられない。

釈尊の教えの核心は、無常=無我=縁起である。すなわち、我々は、自ら思うままに働き出す主体ではない。魂と言われるような本体的な自分はない。我々とは、そのつどそのつどの縁(刺激)によって起こされる一貫性のない自動的反応の断続である。
我々凡夫(仏でない普通の人間)においては、反応は執着のパターンに染まっており、縁を受けて反応する度に、苦を作り、苦を振りまき、自分自身と周囲の人々を苦しめている。
従って、我々凡夫は、自分と言う反応が苦を生むことのないように、慎みあり慈しみあるものであるように、いつもできる限り気をつけていなければならない。

釈尊の教えを今日の話に必要な範囲で要約すれば、以上のようになる。
特に、多くの人が一斉に同じ執着に走った場合、生み出される苦は、乗じ合って甚だしいものになる。その中でも戦争は最悪だ。戦争は、それ自体が苦であるだけではなく、我々凡夫の執着の反応パターンを一層根深く凶悪なものにする。戦争は、苦の爆発的拡大再生産である。

別の見方をすれば、戦争とは、勝ち組が、大衆の肉体と生命を使って、自らの執着を満足させようとすることだ。しかし、我々大衆が戦争を望まないでいられれば、勝ち組がいくら足掻いても、戦争は起こらない。だが現実には、我々凡夫の執着は火がつきやすく、怒りや恐怖に燃えてすぐに攻撃を要求し始める。
従って、戦争という集団的執着反応に陥らないために、我々は、普段からいつも自分という反応に気をつけていなければならない。我々凡夫の多くが戦争を渇望したときに戦争は起こる。逆に、我々がしっかりと望まないでいられれば、誰かが操ろうとしても戦争は起きない。
今日の話のタイトルを「戦争を起こさないために」として「起こさせないために」とはしなかった。それは、我々自身のあり方こそが問題であり、そのことを呼びかけたかったからである。

◆3 ここで話をするにいたった経緯

昨年の秋、長野県戦没者遺族大会・県戦没者追悼式に参列した際の感想を、中川村のHP「村長からのメッセージ」に掲載した。http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/intro/v_chief/033_20081106.html
その内容は、以下の三点である。

*1 慰霊の言葉は場の空気に合わせて耳障りがよいが、深く考えていない。

 「戦争で亡くなった方々の尊い犠牲があって、現在日本の平和と繁栄があることを、私たちは一瞬たりとも忘れてはならない。」

何度も耳にするこの言葉は、さらりと聞き流せば、戦争の犠牲には意味があった、無駄ではなかったと思わせ、聞く人を慰める。しかし、いつもどこかに違和感を感じてきた。

現在の「平和と繁栄」には、戦争の犠牲が必要だったのか。もしも戦争がなく、亡くなった人たちが、そのまま村や町で元気に、百姓として、職人として、教師として、勤め人として、自分の夢や計画に向かって活躍していたら、もっともっと良かったのではないのか。沈没する輸送船の船底で舟とともに溺れ死んだ兵士達の死が、現在日本の平和と繁栄に貢献したのか。飢餓と疲労によって抵抗力を失い、マラリアに犯されてジャングルの泥に倒れた兵士の死が、どのように平和と繁栄をもたらすのか。
戦争がなく平和のままに、それぞれの人が自分の夢や計画にこだわり頑張ることができていたら、その方が良かったに決まっている。安直な耳障りのよい言葉は、平和と繁栄のためには時として戦争の犠牲が必要であるかのような思い違いを誘発しかねない。

挨拶を締めくくる言葉も、いつも同じだ。

 「世界の恒久平和実現に向けて一層の努力を傾けることを、戦争の犠牲になった皆様の前でお誓い申し上げます。」

しかし、そう宣言した人が、アフガニスタンやイラクなどの惨禍を止めよ、と叫ぶのを聴いたことはない。どこまで本気で言っているのか。今ある争いで子供達が犠牲になっていることは、目をつぶれる範囲なのか。それとも「世界の恒久平和実現」のためにはやむをえない惨禍なのか。日本の「国益」のためには、たいしたことではないのか。

どの言葉も、その場の雰囲気へのふさわしさを狙ったものでしかない。その場の空気におもねることは、大方の執着の反応におもねることだ。やがていつか集団的執着の火を煽ることになる。空気に合わせてお茶を濁すのではなく、突き詰めて考え、空気を読み、おかしな空気に対しては空気を変えるべく、疑問を提起していかねばならない。

*2 「靖国神社で静かに追悼したい みんなに追悼して欲しい」という遺族の願いを邪魔しているのは、他ならぬ靖国神社自身ではないか。

遺族大会のスローガンの第一は「総理 閣僚などの靖国神社参拝の定着をはかること」だった。2番目は、「(靖国神社を形骸化する)国立の戦没者追悼施設新設構想を断固阻止すること」。
遺族会の望みは、総理・閣僚、そして当然天皇、また外国からの国賓、すべての日本国民に、他の場所ではなく靖国神社で、戦死した家族を追悼してもらいたいというものだろう。私自身も、理不尽に戦争の犠牲にされた人々を悼む気持ちは、人後に落ちないつもりだ。しかし、靖国神社に対しては、抵抗感がある。何故なのか。

格別の意識なく靖国神社に参拝しただけならば、普通の神社との違いはほとんど感じないかもしれない。しかし、靖国神社の歴史を知り、あるいは遊就館の展示を見れば、素直に靖国神社で戦争犠牲者を追悼する気にはなれなくなる。

遊就館は、戦死者の自己犠牲をステレオタイプに美化・顕彰している。顕彰と追悼とは異なる。顕彰とは、その対象が手本として見習われ、同様の行いがこれからも末永く繰り返されることを期待して称えることだ。それに対して、追悼は、死者の苦しみや絶望・無念を共有し、悲しみ、二度とそのようなことがないことを祈ることだ。遊就館は、追悼ではなく、顕彰をしている。ということは、靖国神社も同様だ。靖国神社は、自己犠牲を美化するばかりで、その状況に追い込んだ側の責任は一切問わない。靖国神社は、戦後の今に至るも過去のそのような歴史・役割を清算していない。つまり、今も靖国神社は、戦中・戦前同様に、国のために死ねる兵士を準備するための施設であり続けている。
靖国神社がこのような役割・性格を放棄しない限り、靖国神社で純一に戦争犠牲者を悼む気持ちにはなれない。

では、「すべての人に静かに戦争犠牲者を追悼して欲しい」という遺族の願いを実現するような靖国神社のあり方は可能だろうか。
可能だ。靖国神社がその気になりさせすれば…。では、どうなれば、遺族の願いは実現されるのか。

  1. 人々を戦争に動員した過去のあり方を反省し、亡くなった兵士と遺族に謝罪すること。
  2. 天皇の側で戦って亡くなった兵士だけではなく、近代以降の日本がかかわったすべての戦争の犠牲者を、敵味方を問わず、顕彰ではなく追悼すること。
  3. 合祀の取り下げを望む遺族の要望を受け入れること。

以上の3点を実行することによって、靖国神社は、純粋に戦争犠牲者を追悼する施設に変ることができる。
そしてさらに、靖国神社は、広島の原爆ドームのような平和運動の象徴、拠点になることもできる。過去の戦争の悲惨さ・愚かさを若い世代に伝え、現在の紛争の停止にも積極的に努力する。そうなれば、世界中の尊敬と共感を集め、国内のみならず、海外からも参拝者を集めることができるだろう。日本に対する評価も上げることになる。そうなれば、現状の苦しい財政状況も好転するに違いない。突拍子もない提案かもしれない。しかし、靖国神社次第で可能だ。そういう靖国神社に変わって欲しい。

*3 遺族の方々は、本来であれば最も嫌戦的である筈の方々だ。遺族の皆さんとは反戦平和の連帯ができた筈なのに、現実には反対の状況になっている。それは、反戦平和の陣営に思慮に欠けた一面があったためではないか。父、夫、兄・弟の死に見舞われた遺族の心の傷・襞に寄り添う丁寧で注意深い対応が必要だったのに、乱暴なやり方で遺族を再び戦争をしようとする陣営の側に追いやってしまった。反戦平和の陣営は、反省せねばならない

以上①~③の内容を、村のホームページhttp://www.vill.nakagawa.nagano.jp/intro/v_chief/033_20081106.htmlに掲載し、いくつかご意見・ご質問を頂戴して、遣り取りをした。それを、この大会の実行委員長がご覧になって、声をかけていただいたのだと思う。

◆4 村ホームページ掲載への反響

靖国神社についても言及しているので、すぐさま批判があるかと思ったが、ほとんど反応はなく、暫くしてから神社新報社の匿名希望のO氏から中川村役場に電話があった。その主旨は、靖国神社を戦争準備施設とする根拠を問い、また一村長が村のホームページに靖国神社について述べることについて政教分離原則からの非難、その他であった。
何度かやりとりする内に、O氏は非難記事を『神社新報』に掲載し、その後、他の方からの非難もあった。相前後して賛同のメールもあったが、両方ともさほど多くはなく、どちらかといえば共感の方が多かった。

批判のメールを見ると、「靖国派」の内にも意見の対立があることが分かった。
例えば、鎮霊社について、神社新報社のO氏は誇らしげであったが、別の人は、「天皇のために死んだものだけを祀るべき靖国神社の本旨に反しており、あってはならないもの」という否定的評価だった。
また、別の非難では、合祀取り消しを求める遺族の心情は無視したまま、自分のイメージする遺族像だけを取り上げて、「遺族の心情をなんと心得ているのか」と憤っていた。その一方で、別の人は「靖国神社は天皇のためだけの神社で、そもそも遺族の心情など関係ない。そんなものを斟酌するのは筋違いである」と述べていた。
これらの遣り取りについても上記HPに掲載しているので、興味あればご一読願いたい。

◆5 靖国神社について、勉強したこと

神社新報O氏を始めとする非難や質問に対処するため、泥縄式に勉強した。

靖国神社発行の『遊就館図録』『新ようこそ靖国神社へ』は勿論、『靖国の闇にようこそ』(辻子実著 社会評論社)等を読み、「東京の戦争遺跡を歩く会、平和案内人」の長谷川順一さんにも現地をガイドして頂いた。

その結果、靖国神社には様々な矛盾があることが分かった。例えば、「天皇のために死んだ者だけを祀る」と言いながら、幕末の禁門の変では、敵味方で殺しあった者同士が共に合祀されている。しかも、明治政府は、京都御所を攻めた長州兵をいち早く神にする一方、勅命に従って天皇を守った会津兵はずっと後回しにされた。「天皇のために死んだ者だけ」は建前であって、合祀の基準は合祀する時の権力側の都合次第なのだ。
また、戦友会・遺族会の高齢化が進む中、靖国神社の経営は苦しさを増しているらしく、神聖であったはずの招魂斎庭を月極駐車場にして貸し出していることも知った。

◎ 神社新報O氏から「靖国神社を戦争準備施設とする根拠は?」という質問を投げかけられていたが、その答えとして、まず『靖国問題』(高橋哲哉著、ちくま新書)p37~にこういう記載があった。

 時事新報(社主:福沢諭吉)1895年11月14日「戦死者の大祭典を挙行す可し」
「特に東洋の形勢は日に切迫して、何時如何なる変を生ずるやも測る可からず。万一不幸にして再び干戈(かんか)の動くを見るに至らば、何者に依頼して国を衛る可きか。矢張り夫の勇往無前、死を視る帰るが如き精神に依らざる可らざることなれば、益々此精神を養ふこそ護国の要務にして、之を養ふには及ぶ限りの光栄を戦死者並に其遺族に与へて、以って戦場に斃(たお)るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず。
(中略)…いま若し大元帥陛下自ら祭主と為せ給ひて非常の祭典を挙げ賜はんか、死者は地下に天恩の難有を謝し奉り、遺族は光栄に感泣して父兄の戦死を喜び、一般国民は万一事あらば君国の為に死せんことを冀(こひねが)ふなる可し。多少の費用は惜しむに足らず。くれぐれも此盛典あらんことを希望するなり。」

靖国神社は、まさにこのとおりの役割を果たした。

◎ 但しこれは、明治28年の論説であり、靖国神社創立後しばらく後のものだ。よって、設立当初の靖国神社はそのような意図を持っていなかった、という反論も理屈としてはあり得よう。であれば、靖国神社社憲(昭和27年9月30日制定)前文を提出したい。

 本神社は明治天皇の思召に基き、嘉永6年以降国事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、明治2年6月29日創立せられた神社である。

先に書いたとおり、顕彰と追悼は違う。顕彰は、褒め称え、見習うべき手本として永く後世の人々に示すことだ。追悼は、亡くなった人の無念さ苦しみを共有し、悲しむことだ。顕彰は、同様のことが今後も何度も繰り返されることを期待し、追悼は、二度と繰り返されないことを祈る。靖国神社は、顕彰するばかりで、ほとんど追悼していない。その背後には、時事新報社説のとおりの意図があると思わざるを得ない。

◎『地獄の日本兵』(新潮新書)の著者・飯田進さんは、BC級戦犯として重労働二十年の判決を受けた方だ。「ニューギニア戦線での悲惨で馬鹿げた野垂れ死に」と書いておられる。
逐次投入した増援の輸送船は、制海権も制空権もないまま沈められ、多くの兵士は船と共に溺れ死に、武器・装備も食料も失われ、なんとか陸に泳ぎ着いた兵士達は、満足な武器もなく、ただ生還するためにジャングルを数百キロ西へ目指した。ラエからアイタペまでなら直線でも600km、東京から広島に相当する。海岸は攻撃を受けるので、ジャングルの奥を、泥に足を取られ、ヒルに喰われ、マラリアを媒介する蚊に襲われ、イリエワニに怯え、弱った兵士の装備を奪い、飢餓のあまりクモまでも口にし、一部には仲間の肉も食べ、歩いた。ほとんどの兵士は、マラリアと栄養失調で行き倒れ、蛆をわかせて泥の中に横たわった。標高4000mを超えるサラワケットの山越えでは、断崖絶壁からの転落が相次ぎ、山頂ではみぞれ降る中、いくつもの集団が身を寄せ合って凍死した。そのようにして死んでいった兵士たちの怒りや恨みは、敵軍ではなく、愚かな作戦を命じた参謀や戦争指導者に向けられた、と飯田さんは書いている。

では、そのニューギニア戦を、遊就館の展示はどう伝えているか。木漏れ日の差すジャングルの靄の中に整列する小隊をシルエットで荘厳に描いた絵画とともに、こう述べている。

 「南海支隊のポートモレスビー陸路攻略作戦に始まるニューギニア作戦は、後に新設された安達二十三中将率いる第18軍が、人間の限界をこえた苦闘に耐えて、アイタペで終戦を迎えるまで戦い抜いた作戦である。この間に発揮された崇高な人間性は、ブナの玉砕、ダンピールの悲劇、サラワケット山系の縦断などに多くの逸話を残した。」

美談にされている。
もうひとつ、夥しい犠牲者を生んだ無益で愚劣な作戦として有名なインパール作戦については、共同責任を負うべき陸軍大将が、「仏門に帰依して、全国を行脚して、慰霊顕彰をつづけた」と、戦後の「美談」にだけ光を当てて、兵士たちの怒りや憤りには目をつぶっている。

遊就館からは、兵士たちの死に様のむごたらしい実態はきれいに消し去られている。ステレオタイプに自己犠牲を勇ましく美化・顕彰するばかりで、自己犠牲を強いた愚かな戦争・愚かな指導者の責任は一切問わない。遊就館、すなわち靖国神社は、死んだ兵士たちの心にはまったく寄り添っていない。遊就館、靖国神社は、死んだ兵士の側ではなく、兵士達を死に追いやった側に立っている。

◎ 『ドキュメント 靖国訴訟』(田中伸尚著 岩波書店)には、沖縄で米軍の艦砲射撃下、日本軍にガマ(洞穴)を追い出されて亡くなった幼子が、援護法を受けるための便法として、軍に壕を提供した戦争協力者とされ、名前を靖国神社に送られて合祀されていることが記されている。また、捕まれば鬼畜米英になぶり殺しにされると言われていたのに、実際はそうではなかったので、それを教えに戻ったら、日本軍にスパイとして斬殺された人も、やはり援護法の関係で合祀されている。特に後者は、殺したときは利敵非国民として殺したのに、戦後は天皇のために死んだ神にしているのだ。ご都合主義もはなはだしい。
占領下の朝鮮・台湾から狩り出され、国際法の定める捕虜の扱いも教えられぬまま、収容所の看守とされ、命令のまま捕虜を労役に送り出していたら、戦争が終わりやっと故郷に帰れると喜んだのもつかの間、BC級戦犯として死刑判決を受け、処刑された人も大勢いる。この人たちも、靖国神社に合祀された。
合祀されている人たちは、靖国神社が言うような、天皇のために自ら望んで命を捧げた兵士ばかりではないのだ。一体何人がそうだったのか。飯田さんが言うように、参謀や戦争指導者を怨みながら死んでいった兵士もたくさんいた。遺族の中に、合祀を取り消して欲しいと望む人がいるのも当然だ。

しかし、裁判所は、本人や家族の意向とは係わりなく人を勝手に神にすることも信教の自由だ、との判断を下した。靖国神社も、一旦合祀したものを一部だけ取り消すことは教義上不可能だと拒絶している。
一方、合祀されていたが実は生きている人もいることが判明した。この場合は、「招魂はしたが魂は降りてきていない」との説明で、霊璽簿から名前が抹消されている。
(つまり、招魂した魂が降りてきたか、靖国神社自身は確認できないのだ…。それはともかく、講演した後、こんなアイデアを聞いた。「一部を合祀取り消しする事は不可能でも、すべてを一旦昇魂する(解き放つ)ことは神道の教義上もできる筈。過去にそれをした実績もある。その後で、もう一度合祀を望む魂だけを招魂すればよい」という提案だ。靖国神社は、どう回答するのだろう。)

靖国神社は、合祀するにあたって、なぜ遺族の気持ちを一顧だにせず、遺族の了解を求めないのか。問い合わせのない限り、合祀の事実を知らせることさせしていない。第一、合祀取り消しを望む遺族の思いをどうして頑なに拒むのか。考えているうち、靖国神社は御霊信仰ではないか、という、ちょっと怖い思いつきが頭に浮かんだ。

靖国神社ホームページにはこうある。

 我が国には今も、死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が残されています。日本人は昔から、死者の御霊はこの国土に永遠に留まり、子孫を見守ってくれると信じてきました。今も日本の家庭で祖先の御霊が「家庭の守り神」として大切にされているのは、こうした伝統的な考えが神道の信仰とともに日本人に受け継がれているからです。そして同様に、日本人は家庭という共同体に限らず、地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした死者の御霊を、地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。靖国神社や全国にある護国神社は、そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう。

靖国神社は、御霊を「みたま」と読むのであろう。しかし、神道のルーツのひとつは御霊(ごりょう)信仰だ、とも聞く。

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。(Wikipedia)

奈良・平安、さらにはもっと昔から、だまし討ちにし、謀略に陥れ、無実の罪を着せて死に追いやった例は多い。その祟りを畏れて、たくさんの神社が建てられてきた。例えば、学問の神・菅原道真を祀る天満宮がそうだ。法隆寺も祟り封じの寺だとする人もいる。
靖国神社も、その例に漏れず、御霊信仰なのだろうか。非業の死に追いやった兵士たちの怨み、祟りを恐れているのか…。
そう仮定してみると、了解を得ないまま神にすることにも、合祀取り消しを頑なに拒否することにも合点がいく。祟る神・道真を祀る時、道真や家族の同意を求めただろうか。祟りを逃れたい一心で、勝手に祀ったのではないだろうか。そして、祀ることでようやく管理下に置いた神は、二度と野に放ってはならない。必ずや恨みによって祟るから…。

だとすると、靖国神社は、御霊を丁重に世話すると同時に、自由にさせて祟ることのないようしっかりと拘束する、いうなれば座敷牢のような場所ということになる。神官は同時に獄卒ということになる。これはちょっと恐ろしい想像である。しかし、こう仮定してみると、日本の神道の伝統の中にいない韓国・朝鮮、台湾の人まで勝手に祀ったことにも、頑なに合祀取り消しを拒絶していることにも、納得がいく。
靖国神社の見解はどうなのだろうか。

◆6 戦前~戦中~敗戦後~現在について学んだこと

靖国神社のことばかりではなく、戦前から現代までの歴史についても俄か勉強をした。

◎ 『天皇の秘教』(藤巻一保著 学習研究社)は、神道系の新興宗教や法華思想なども対比しながら、明治以降の国家神道を論じている。

平田篤胤ら江戸時代の国学者の思想にも言及している。篤胤は、学生時代の授業では、立派な学者のように教えられたが、驚くべき主張をしている。

「わが御国は天つ神の特別なお恵みによって、神がお生みなされて、万の外国などとは天地のちがいで、ひきくらべるわけにはいかぬ、けっこうなありがたい国で、確かに神国に相違なく、またわれわれ身分の賤しい男女にいたるまで神の子孫にちがいない。」(平田篤胤『古道大意』、小安宣邦訳)


 「わが天皇(すめらみこと)は、神代のままの神胤であって、永遠に変ることがない。(中略)日本人はこれらのことをよく考え合わせて、日本国は世界の総本国であるとの見識を立てるべきである。この見識を立てるときは、中国も露西亜も、わが日本国の枝国である。…(中略)…いまよりのちには、外国の国王たちも天皇がすぐれて尊いということを知り、天皇を地上の総王とさだめ、みずからを臣と称して朝貢してくるときがあるだろうが、そのときは徳川将軍家から朝廷に申し継ぎをして、外国の国王どもに相応の官位を賜るべきである。」(大国隆正 津和野派重鎮 『文武虚実論提要』)

これではカルトだ。幼稚な独りよがりで客観性や普遍性はまったくない。しかし、こういった考えが、八紘一宇や大東亜共栄圏の思想を正当化することに繋がっていったと思う。
八紘一宇や大東亜共栄圏は、互いに平等な友人の関係ではなかった。枝国に対して朝貢を要求するものだ。先にふれた飯田さんは、『魂鎮への道 BC級戦犯が問い続ける戦争』(岩波現代文庫)で、植民地支配をした欧米列強にも、それに取って代ろうとした日本にも、アジアの人々に対する差別感情があった、それによって戦争の残虐非道が可能になった、と書いておられる。「日本は神国で、アジアの他の国々より上だ。支配する立場だ」こういう思い上がりを、国学は正当化した。

また、廃仏毀釈のすさまじい嵐が仏教界を萎縮させたことも書いてある。そのことがあって、その後の諸宗教の国家神道への媚・おもねり・服従を生んだのであろう。

◎『大元帥 昭和天皇』(山田朗 新日本出版社)

「戦前戦中、昭和天皇は立憲君主であって、立場上臣下の決定を承認するのみで、決定権はなかった」として、戦争責任を否定する意見を目にする。これは「昭和天皇独白録」の言わんとするところでもあろう。
しかし現実には、昭和天皇は、戦争の局面局面で詳細な報告を受け、鋭い下問をしている。例えば、ニューギニア戦線では、敵輸送船に関する報告を聞いて敵の作戦を的確に予想し、注意を与えている。(その後は、軍の緩慢な対応のうちに危惧したとおりの結果となった。)敵基地を艦砲射撃したとの報告には、日露戦争の事例を挙げ、艦で繰り返し陸に近づくことの危険を警告した。(案の定、同じ攻撃を試み、待ち伏せ攻撃を受け、沈没。)
軍事学をはじめとする英才教育を受けた昭和天皇は、米英の反応やヨーロッパ戦線の動向とその影響にも気を配る広い視野を持ち、陸軍参謀総長・海軍軍令部総長も天皇の厳しい下問に答えられない場面がしばしばあった。ミッドウェイ、ガダルカナル以降下問はさらに厳しくなり「一体何処でしっかりやるのか。何処で決戦をやるのか」との叱責に、陸海軍は責任をなすりあい、焦って目立つ戦果を狙うようになる。
一方、昭和天皇は兵の士気を気をかけ、不拡大指示に逆らった場合でも、戦禍を上げた者は称え、失敗した者も更迭しなかった。その結果、無謀な積極策を主張するものが大手を振るい、冷静な分析を軽んじる気風を生み、愚かな作戦で大量の犠牲者を出すことになっていった。
(あるいは、冷静な戦況分析ではもはや勝算は見出せず、兵站を無視した奇策と精神論とを連結して可能性を祈る他なかったのかもしれない。)

その一方、東条英機に対しては、既に首相兼陸軍大臣であったところに陸軍参謀総長まで兼務させ、「彼程、朕の意見を直ちに実行に移したものはない。」(木下道雄侍従次長「側近日誌」)というほどに厚い信頼を寄せた。

◎『昭和天皇の終戦史』(吉田裕 岩波新書)には、既に敗戦が明白であるのに、なんとか一度戦果を挙げてアメリカに厭戦気分を作って、国体(天皇制)だけは護持して終戦に持ち込もうとして戦争を長引かせ、いたずらに犠牲者を増やした、と書かれている。
その後、戦果のないまま降伏した理由について、p221にはこのようにある。

 「(昭和天皇)独白録」をみても、天皇が皇位の正当性の象徴としての「三種の神器」の保持に強く固執し、「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい」という判断から、ポツダム宣言の受諾にふみきったことがわかる。

かつて討幕運動を主導した国学は、南朝を正統とした。国学の見解からすると、北朝系の現天皇家には、血脈的には正当性がないことになる。現天皇家の正当性を担保するのは、南朝から確保した三種の神器であり、国体護持=天皇制維持のためには三種の神器はなんとしても保持する必要があった。確たる戦果を上げることもできず、米国に厭戦世論を作り出せないままであったが、三種の神器を守るために、無条件降伏した。

《 敗戦後のGHQへの対応 》
無条件降伏してまで三種の神器を守ったのに、東京裁判で戦争責任を問われたのでは国体を護持できない。昭和天皇の東京裁判出廷は、なんとしても避けねばならなかった。
近衛文麿はこう言っている。(同書p34)

 「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ役になっているのだから、彼に全責任を負わしめるのがよいと思う」

そして、昭和天皇の『独白録』をとりまとめた「五人の会」など宮中グループは、東京裁判・国際検察局に積極的に協力して情報を提供した。

このあたりの事情は、豊下楢彦氏の以下の2冊も詳細に研究している。
◎『安保条約の成立 吉田外交と天皇外交』(岩波新書)
◎『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)

特に後者は、「すごいことが書いてあるよ」と薦められて読んだのだが、そのとおり、無知な思い込みを説得力を以ってひっくり返される興奮を覚えた。

先に触れたように、敗戦直後、第一の課題は、昭和天皇への戦争責任追求を避けることだった。
東久邇宮稔彦王も、近衛文麿と同じことを言っている。

 「悪くなったら皆東条が悪いのだ。すべての責任を東条にしょっかぶせるがよいと思うのだ」

昭和天皇は、米紙ニューヨーク・タイムズ特派員との謁見や英国王への親書によって、「真珠湾奇襲は東条の主導」とのニュアンスを発信した。宮中グループ「五人の会」は、天皇は立憲君主であって、大本営・政府の決定を承認するのみで、自ら決定・指示することはなかった、と「独白録」にまとめ、対米英開戦の責任を昭和天皇に負わせないよう工作した。
さらに宮中グループの「五人の会」は、東京裁判・国際検察局に積極的に情報を提供している。「五人の会」の松平康昌は、「(GHQに)一番協力されたのは陛下ですよ」と言っている。

 A級戦犯は、スケープゴートにされた一面もあったと思う。勿論、A級戦犯に罪はなかった、などと言うつもりは毛頭ない。特に、投降という選択肢を奪い兵士達を自決・バンザイ突撃に追い込んだ戦陣訓を示達したことだけを以ってしても、東条英機の罪は重い。しかし、A級戦犯だけに責任があるとするのも間違いだ。天皇も軍幹部も一兵卒も一庶民も、誰もが凡夫であり執着の反応だ。それぞれが自分の執着の反応パターンで憤り、怯え、興奮して、戦争に加担した。軽重の違いこそあれ、国民まで含めて、全員に責任はある。
従って、A級戦犯分祀論には私は反対だ。A級戦犯分祀は、A級戦犯にだけ「責任をしょっかぶせる」ことになる。我々自身の責任をごまかす結果を生む。戦争を「起こさない」ためには、我々自身が自分という反応を真摯に見つめ、警戒しなければならない。

 戦争責任追及を免れて天皇制を維持したい昭和天皇であったが、一方のマッカーサーにも、占領政策をスムーズに進めるために天皇を利用したい思惑があった。両者の利害は一致し、昭和天皇は東京裁判出廷を逃れることに成功した。
マッカーサー離日の前日、第11回昭和天皇マッカーサー会見で、昭和天皇は、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と表明している。
右寄りの人たちは、「東京裁判自虐史観」と攻撃するが、東京裁判は、昭和天皇と宮中グループの工作が功を奏した狙い通りの成果なのである。

戦争責任追及を逃れ、天皇制の存続をともかくも勝ち取った昭和天皇の次の課題は、勢力を増しつつあった国内外の共産主義勢力であった。中華人民共和国成立があり、国内にも騒乱のある中で、昭和天皇は、駐留米軍によって天皇制を守らせようとした。しかし、マッカーサーは、講和条約締結までは駐留するが、その後は米軍は日本を離れる、日本は一切の軍備を放棄したまま国連の枠組みで安全保障を図るのが最善だ、という考えを変えず、天皇の説得はうまくいかなかった。

1950年4月ダレスが国務省政策顧問に任命され、対日講和を事実上担うことになる。ダレスが来日中の6月、朝鮮戦争が勃発し、翌年4月マッカーサーは解任され日本を離れる。同じ年の9月サンフランシスコ平和条約と旧安保条約が締結された。
激動のこの時、何が行われていたのか。

ダレスは、「日本に望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を狙っていた。そして、締結された旧安保条約は、そのとおりの内容となった。すなわち、日本に基地提供義務がある一方、米軍の駐留は権利であって、日本防衛の義務はない。また日本の「内乱」にも介入できる。「(日本を超えて広く)極東における国際の平和と安全」のためにも利用できる。提供地域を特定しない「全土基地化」、事実上の治外法権、失効には米政府の承認を必要とする(つまり米軍は望む期間駐留できる)、という極めて不平等なものであった。

吉田茂や当時の外務省には、朝鮮戦争の後方基地を必要とする米国の事情を読んで、有利な交渉をしようとする意図もあった。しかし、早々から、日本は基地の「自発的なオファ」を申し出ている。
その背景には、「朝鮮戦争で米側が破れるようなことがあれば、事は天皇制打倒にまで繋がりかねない」と恐れた昭和天皇が、吉田もマッカーサーも「バイパス」した上でダレスに接触した事情があった。昭和天皇は、吉田に代わる新たな諮問機関の設置を提案し、公職追放者達を復帰させるべきことまでほのめかしている。
交渉の最中、吉田は、昭和天皇に三度にわたり詳細に内奏し、しばしば「拝謁」もしている。著者の豊下氏は、この間昭和天皇から吉田にご下問、ご下命があっただろうと推察している。

「駐留米軍によって天皇制を守る」という昭和天皇の思惑が、日本側からの基地の自主的オファという形になった。条約にある「内乱への介入」も、昭和天皇の共産主義への恐怖に呼応しており、日本国民を駐留米軍によって制圧しようとするものだ。
昭和の「天皇沖縄メッセージ」も同じ思惑から発せられており、基地問題という長い苦難を沖縄に与えた。人々の苦しみは、今も続いており、終わる気配もない。

明治維新の時、尊王派の薩摩長州は錦の御旗を掲げ、官軍となった。会津など幕府方は、賊軍の汚名を着せられた。
敗戦を経て、昭和天皇は、旧日本軍から駐留米軍にすばやく乗り換えた。敗戦後は、錦の御旗=国体(天皇制)を守る役割、を駐留米軍に与え、いうなれば駐留米軍が官軍になったのである。A級戦犯をはじめとする旧日本軍は、今や会津の位置に置かれている。A級戦犯を合祀し、遊就館で「日米開戦は米国に追い込まれたせいだ」と主張する靖国神社も同じだ。靖国神社が、A級戦犯合祀によって現官軍に逆らう賊軍の立場を明瞭にしてしまったことが、合祀以降天皇が靖国神社参拝を停止した理由ではないだろうか。

ところで、会津の立場に追いやられた旧軍は、戦後どうしたであろうか。
先に紹介した『地獄の日本兵』(飯田進 新潮新書) は、「おわりに」に「GHQの意向を受けて日本の再軍備に動いた旧軍幹部」をこう書いている。

 「旧軍の職業軍人を集めた「服部機関」なるものが、GHQから給与を受けながら再軍備の下工作に暗躍し」(中略)「旧軍人に対する公職追放令は解除され、職業軍人だった者たちが、続々と警察予備隊に入隊しました。それが今日の自衛隊の発端です。」(中略)「運良く生き残って本国へ戻り、また肩章をぶら下げる軍人のどこに恥を知る心があったのでしょうか。」

つまり、旧軍幹部は、会津とは異なり、寝返ったのだ。

私も、一部旧軍幹部の敗戦後の動きを如実に示す写真を見たことがある。テレビのドキュメンタリーで見て、その後あれこれ探しても見つけられず、ここに紹介できないのが悔しいのだが、再軍備が準備され自衛隊が創設されていく過程で、GHQ将校らと旧軍幹部・参謀たちが宴会をした、その際の記念撮影だ。軍服を着たGHQ将校数人と、浴衣の日本人20人ほどが混ざり合って、座敷に三段ほどの雛壇をつくって納まっている。GHQ側は一様にとまどったような表情であるのに対し、日本側は、皆楽しげにできあがっており、特に中央で大股を開いた人物は、大物ぶって徳利をとなりのGHQ将校に突き出しているが、私には卑屈さが混ざっているように見え、とても恥ずかしい写真だった。
杜撰な作戦で多くの前線の兵士を死に至らしめ、国内外の数限りない人々を殺し傷つけてきた旧軍幹部が、戦争が終われば、鬼畜米英と呼んできた占領軍に擦り寄り、昭和天皇同様に乗り換え、「官軍」の末端に席を占める。ジャングルの泥や海底に朽ちて、会津のごとく捨てさられた兵士たちのことはすっかり忘れてはしゃいでいる。

今、靖国神社の周りに集まる人々の中心にいる人たちには、このような旧軍幹部の系列に連なる人も多いのではないか? そして、自らの寝返りを糊塗するために、犠牲にされ打ち捨てられた(or 犠牲にし打ち捨てた)兵士達を顕彰するのではないだろうか?
遊就館の出口近くには、戦争で亡くなった夥しい人たちの写真が掲げられている。靖国神社は、それらと向き合わせて、この宴会の写真を飾れるだろうか。
今後、靖国神社は、どちらの側に立つのだろう。死に追いやられ打ち捨てられた兵士たちの側か、兵士達を打ち捨てて米軍に寝返った側か…。

私は、靖国神社そのものは、実際には打ち捨てられた会津の立場に置かれていると思う。しかし、寝返った連中が、靖国神社を利用している。だとすれば、そこに祀られる戦死した兵士達も、利用されていることになる。靖国神社には、早くそのことに気づき、兵士の気持ちに寄り添い、顕彰ではなく追悼をして、戦争の愚かしさ痛ましさ悲惨さを広く世界に発信する施設になって欲しい。繰り返しになるが、それが靖国神社の存続にもつながる道だと思う。

今回靖国神社について勉強し、特に『昭和天皇・マッカーサー会見』を読んで気づいたことは、愛国を叫ぶ人たちは真に愛国的なのか、真に愛国的とはどういうことか、ということだ。

私は、日本の伝統・文化、自然、人々が好きだ。日本の未来を我々自身の思考・決断・努力で切り拓いて行きたいと思う。そして、日本が世界中の人々に貢献し、世界中の人々から尊敬され愛される、誇らしい国なることを望む。
しかし、それを愛国と呼ぶことにはわだかまりがあった。愛国という言葉は、個性多様性を許さない専制的差別排外的な色がついていると感じていたからだ。
ところが、今回勉強をしてみると、靖国神社は愛国を主張しているが、その愛国は国民に自己犠牲を強いるものだ、と分かった。国民を愛する愛国ではない。
また、敗戦後、昭和天皇は、天皇制を守るために、外国軍(米軍)の駐留を望み、国土を差し出し自由に使わせた。すなわち、昭和天皇は天皇制と日本の国土・風土との間に駐留米軍を導き入れた、と言えよう。今や天皇制は、「倭は 国のまほろば 倭しうるわし」といった心情から遊離した単なる制度になってしまい、国土・風土から断絶している。天皇と国土の間には、外国軍(米軍)がいる。私がこれまで愛国の側と思ってきたものは、日本の人々も日本の国土・風土も、実は愛してはいなかったのだ。
靖国神社に参拝しながら、米軍の下働きのために日本の若者を米軍の戦場に送り出す輩がいた。米軍の情報ネットワーク下・指揮命令下・配給下でなければ機能しないハイテク兵器のためにせっせと税金を払う。国内の医療体制は崩壊し、高齢者も障害者も困窮している中、若者を「自己責任」の一言で切り捨てる一方で、米軍には「思いやり」を絶やさない。愛国を標榜する人たちの大半は、愛国どころか、実は売国的ではないのか。

愛国の椅子は、今や空席なのだ。愛国を叫ぶ連中の多くは、売国の椅子に座っている。愛国という言葉を連中の口に汚させておいてはならない。日本を、世界の市民と連帯しつつ、世界のあらゆる人々が平和のうちにのびのびと暮らせるようにしていく、そういう努力をする国にすること。どんな形であれ軍事力に頼ることは恥ずかしいことだと誰もが思う、そういう世界を率先して築く国にすること。それによって、世界中の市民から敬愛される誇るべき国にすること。それが真の愛国ではないのか。

◆7 一連の経験・学習から考えたこと

冒頭に述べたとおり、私の拠って立つところは釈尊の教えだ。今回の話に合わせて再度その一部を簡単に要約すればこうである。

執着のパターンによるそのつどの縁への自動的反応が、我々凡夫である。執着の反応は、そのたびに苦を生み出す。ほとんどの苦は、我々自身が作っている。自分という反応にいつも気をつけて、執着の反応とならないよう、苦を作らないようにせよ。

我々が作る苦の中でも、最大・最悪のものが戦争だ。戦争は、人々の執着の反応が刺激しあい、相互反応し、同じ方向に走り出したときに起こる。それを狙って、自分の執着を満たすために、人々の執着に火をつけて操ろうとする輩もいる。
しかし、我々がしっかりと自分に気をつけていることができれば、戦争は起こらない。そのためには、無自覚に「空気」に流されていてはいけない。多面的に冷静に見ることが重要だ。

言い漏らしたことで、無自覚な思い込みに穴を開け、多面的に見るきっかけになってくれる情報をいくつか挙げておこう。

  • 冷戦期、米国の核戦略は、まず最初にソビエトの迎撃施設を大量の核ミサイルで徹底的に叩くというもの(04年4月9日朝刊、共同配信記事)
    ⇒まず最初に迎撃施設が攻撃対象になる。ミサイル・ディフェンスは攻撃を呼び込む。
  • 62年12月、(米軍の)統合参謀本部は、在日米軍基地について「極東での核戦略・抑止力の維持、ソ連による核攻撃の標的選定かく乱」のために重要との報告をまとめ、…(07年8月21日信濃毎日新聞「同盟の旋律」)
    ⇒在日米軍基地の役割のひとつは、敵の攻撃対象になって米本土への核攻撃を分散させること。
  • 辺野古に計画されている新基地の機能は、普天間基地とはまったく異なる。辺野古は普天間の移転・代替ではない。そう思わされてはならない。(山内徳信 元読谷村長 参議院議員から聞いた話)
  • 1951年対日平和条約において、日本に放棄させる千島列島の範囲を曖昧にしておけば、日本とソ連は永遠に争うことになり、、、(在京英国大使館発英国本国宛極秘意見具申電報)
  • 千島列島に対するソ連の主張に異議を唱え、領土問題を呼び起こしうまくいけば、何年間も日ソ関係を険悪なものにするかもしれない (米国外交官ジョージ・ケナンの考え)
    ⇒北方領土問題は、米英に仕込まれた日ソ離反装置である。ふたつとも、『日米同盟の正体』講談社現代新書 孫崎享(防衛大学校教授)著より。

こういった断片的な情報でも、知っていれば、世間一般の情報を鵜呑みにして皆と同じ単純素朴な反応に陥ることはない。目と耳を大きくして、幅広く見聞きすることが大切だと思う。

しかし、自分ひとりが冷静な観察者でいるだけでは不十分だ。ドラマ「私は貝になりたい」が描くように、言うべきときに言うべきことを言わなければ、最後は責任を取らされることになる。「空気」がおかしいと感じたら、早い時点で声を上げねばならない。さもないと、どんどん発言しにくくなる。

今回「正義と平和協議会」にお誘いを受けた際、何冊か資料を頂戴した。その中の「ピース9の会講演録『福音と平和憲法』」の松浦悟郎司教のお話で、こういう女性が紹介されていた。バスに乗ったときなど、ちょっとしたいろいろな機会を捉えてさりげなく平和について会話することを心がけておられるという。これはすばらしいことだと思う。

この会も一例だと思うが、同じ考えの人同士で共感しあっていても、あまり意味はない。異なる考えの人と意見交換する努力が必要である。

平和ボケに陥ってはならない。本当の平和ボケは、戦争の悲惨さ、むごたらしさ、愚かさを忘れること、そして、戦争へ向かいかねない自分に対する警戒を怠ることだ。戦争の実態を学び、自分という反応に気をつけていなければならない。

以上

*****追記

翌日(10月11日)はいくつか分科会が組まれており、そのひとつは、四谷のイグナチオ教会でミサに加わった後、靖国神社に見学に行くというものであった。ところが、カトリック内部から右翼に情報を入れた人がいたようで、街宣車など数グループがイグナチオ教会に示威行動を仕掛けた。当日は日曜日で外国人信者も大勢集まる中、日の丸・旭日旗を押し立てた彼らの礼を知らぬ排外的行動は、日の丸に泥を塗るものであった。彼らは、日本を辱め、日本の足を引っ張っていると思う。街宣の引き合いにされた靖国神社も、彼らと一体とみなされたのでは、迷惑だったであろう。
しかし、靖国神社が右翼に苦情を表明したと言う話は、寡聞にして聞かない。なにも言わなければ、靖国神社は連中と同じ穴のムジナと思われてしまう。もしそうでないなら、靖国神社は、なんらかのコメントを出すべきだと思うが、どうだろうか。

ご意見お聞かせください。
2009年11月15日 曽我逸郎