「困った経文」について 『初期仏教 ブッダの思想をたどる』

2018 10.12|にこさん

にこさん
曽我から
2018 10.6
曽我逸郎先生
初めまして、先生の旧サイトをあの地震の頃なので2011年頃から度々読ませていただいております。とても勉強になります。久しぶりに開いたら新しくなっていて嬉しいです。小論集の「馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想をたどる』岩波新書を読んで」の最後に困った経文の話がありますが、思ったことがありましたので書きました。

この「私は、意思を行為と説く。思ってから、身体・言語・意によって行為をなす。」という経文について、私はあまり違和感を感じませんでした。原文も文脈も読んでいないのでデタラメかもしれませんが、以下私の解釈です。

先生は「業という言葉の本来の意味は「行為」ですが、拡大して、「行為がその結果としてもたらすもの」も含むようになりました。」と書いていらっしゃいます。それならば、ここでいう「意思」は「業」に等しいですね。

過去の行為が結果として業となり、何かの刺激に反応して意思を作り出す。業は自分でコントロールできるものではないので、ここでいう意思は無意識に湧き上がってくる感覚であると思います。
針を腕に刺すと痛覚が反応するのと同レベルの感覚です。そういうものは実際に感じられる事実であって、構想(妄想)された自我ではない。

私たちが「自分」でやってると思っている「身体・言語・意による行為」は、実は「意思(業)」がやらせてるだけなんですよ、ということですね。

放っておくとそれが新たに業となって無意識のままぐるぐる回るだけなので、それに気づいて悪循環を止めようとブッダは言いたいのではないかと思います。

おかしなところがあればご教授いただければ幸いです。
『「苦」をつくらない』も読んでみたく思います。(狭いのでkindle版があればありがたいです。笑)

2018 10.12
ご意見お聞かせいただきありがとうございます。
返信が遅くなりすみません。稲刈りとか、その他もろもろがございました。
旧サイトの頃から読んでくださっているとのこと。更新を怠っている時期が長かったので、そんな方がいらっしゃるのは、とてもうれしいです。ただ、「先生」というのは、おやめ下さい。いつかそのうち、それにふさわしい人物になったら、その際にお願いします。

さて、本題の「私は、意思を行為と説く。思ってから、身体・言語・意によって行為をなす。」についてですが、わたしもまだ前後の文脈を調べられていません。なるほど、にこさんのお考えは、「意思を行為と説く」を「意思もまた他の行為と同様に業縁のむすびつきの結果として生じるものであると説く」という意味だと解釈する、ということですね。
わたしも、「思いついたり、考えたりするのも、業縁の結果として、どこか自分ではコントロールできない深いところから湧いてくる」と考えているので、にこさんと同じ考えだと言えましょう。

問題は、後半の「思ってから、身口意の三業をなす」の部分です。
身口意の三業の前に「思う」のですから、この「思う」は、上と同様に「業縁によって深いところからなにかが沸き上がってくること」と解釈することも可能ではあります。

しかし、普通に読めば、「こうしようと思ってから、それに従って三業をなす」という意味だと解釈してしまいます。読んだ人に、「どうするか考え、こうしようと決定して、自分の行為を差配する自分がいる」と思わせてしまう経文だと思います。これでは「有我論」ではないのかと疑わざるを得ません。

にこさんが提示された解釈が可能だとしても、読んだ人の多くに「俺が自分をコントロールしているのだ」と思わせてしまう危険性があります。

そして、原文を精読しておられるに違いない馬場先生は、当該の経文を紹介するp121から126までのページで、「意思の自発性」「意思の自由」「自律」といった言葉を多用しておられます。これらには有我論的な響きを感じます。

馬場先生の仰る趣旨は、「運命の定めによるのでもなく、主宰神が決めるのでもなく、偶然によるのでもなく、「自発的な意思」によって行為はなされるとして、仏教は倫理を基礎づけた」というものです。

ならばもし、この経文も「悪をするな、善をなせ、苦をつくるな、自分のあり方にいつも気を付けておれ」という戒の教えの一部として説かれているのであれば、初学の者への次第説法だと考えることはできます。まずは自分をコントロールすることを教え、自分の反応によい癖をつけさせ、次第に修行を進めて、最後に、自分は存在せず反応であったと無常=無我=縁起を自分の事として納得すれば、我執がおのずと鎮まり、涅槃に安らぐことができる。このような段階を追って導く教えの体系の初学レベルとして、初心の者が「自分をコントロールする自分が存在している」と思い込んでいることを利用して、戒の教えを説いたのかもしれません。

我ながら、次第説法を何でも正当化できるオールマイティの強弁にしているような気がします。この強弁になにがしかの妥当性があるのか、それとも的外れなのか、それは経文の前後を読んでみなければなりません。

最後に、『「苦」をつくらない』は、Kindle はありません。薄い本ですし、読後はどなたかに差し上げて頂いてもありがたいので、是非ご一読の上、またご意見お聞かせ願えれば幸甚です。
釈尊の教えの核心は勿論、凡夫が集まって苦を与えることの少ない社会を運営していくにはどうすればいいか、といったことまで考えています。

にこ様

2018年10月12日  曽我逸郎

2018 10.15
曽我様お忙しい中お返事ありがとうございます。今年は異常に暑かったですが、稲は元気に育ったでしょうか。経文を読まないと本当のところが分からないので、探してみました。 AN 6.63 Nibbedhika Sutta でしょうか。

業は知られるべきである。業の原因、業の種類、業の結果、業の消滅、業の消滅の方法は知られるべきである。
意思が業である。意思によって身口意の業がある。
業の作用が起こる原因は接触である。
業の種類は地獄、餓鬼、畜生、人、天のものがある。
業の結果はすぐに起こるもの、後で起こるもの、来世以降に起こるものがある。
業の消滅とは接触の消滅である。
業の消滅の方法は八聖道である。

このお経では、〇〇は知られるべきである。に「欲、感覚、概念、業、苦しみ」が入って繰り返されています。原因は受と言われます(苦のみ渇愛)。
接触によって意思が起こり、身口意の行いに繋がると言っています。業によって意思が起こるとは言っていないので私の読み方は間違いですね。
しかし、意思は欲、感覚、概念と同じく「接触によって起こるもの」であって「起こすもの」ではないということは書いてあります。ですから、このお経をもって「自発的な意思がある」とは言えないと思います。

じつはこんな風にお経を調べたのは初めてです。ありがたい学びの機会をいただきました。

2018 10.16
あぁ、ありがとうございます! よく見つけて下さいました。
頂いたメールをもとに、わたしも検索をかけてみたら、『Buddha Vacana』というサイトのパーリと英訳の対照がヒットしました。そこに

Intention, I tell you, is kamma. Intending, one does kamma by way of body, speech, & intellect.

とあります。日本語にすればこうでしょうか。
「意思が業であるとわたしはあなたたちに説く。意思して、人は身口意の業を行う。」
馬場先生の本p121にあるのと同じです。
分詞構文をどういうニュアンスで考えるのか。「原因―結果」と捉えれば、「意思したことを原因としてその結果、身口意の行いをする」という意味になり、有我論的な響きが強くなりますが、もっと漠然とした繋がりなのかもしれません。元のパーリ語が読めないので、これだけを材料に考え込んでも仕方ないですね。

前後の流れにもう少しちゃんと目を通して、また考えることにします。暫しお時間を下さい。

ありがとうございました。

にこ様

2018年10月16日  曽我逸郎

2018 10.17
当該の経文を『Buddha Vacana』で読んでみました。
まず、馬場先生が「意思」と訳しておられる”cetanā”をネットで調べてみました。
Wikipediaでは、”volition”、”intention”、意思、意図といった高次の精神機能も挙げていますが、”a mental factor that moves or urges the mind in a particular direction, toward a specific object or goal”という説明もあって、ひょっとすると「なにかに注意を向けること」とか「なにかを対象化すること」といった、さほど高次でない反応として解釈してもいいのか、と期待しました。
しかし、他のパーリ語辞書をみると、かなり高次機能っぽい解釈がならんでいます。「刺激を受けてそちらに注意を向けること」といった単純な反応とする強弁は、無理があるようです。おまけにこんな英訳も見つけました。
"Volition is action (kamma),thus I say,o monks; for as soon as volition arises,one does the action,be it by body,speech or mind."
出所は違うかもしれませんが、くだんの経文と同じ内容です。『Buddha Vacana』では、分詞構文に訳していたところをこちらでは “as soon as” で繋いでいます。「~するやいなや」ですから、意図が起こるのが先で、その後すぐに行為する、ということになります。
当該の経文は、結構有名であるらしく、「我說‘思’是業,思已而以身、語、意造業」という中文も見つけました。(「思」が “cetanā” の標準的な漢訳です。)このまま降参して、有我論的な経文を認めるしかないのでしょうか。いや、もう少し悪足掻きをしてみます。

経の全体の流れは、にこさんの仰るとおり、kāma(欲) vedanā(受) saññā(想)āsava(漏) kamma(業) dukkha(苦)の六つについて、それぞれの原因、種類、それによる結果、その停止、そして停止に至る道を述べています。同じパターンが繰り返されています。

そして、当該の「困った」経文は、パターンの流れとして業(行為)の種類を挙げる部分の一部です。ですから、全体の流れに倣えば、「業には、身口意の三種類がある」というのが、主張の中心だった筈です。
ところが、そこに、業の種類とは関係のない “cetanā” が登場し、「意思してから行為する」という、全体の流れからは外れた主張が割り込んでいます。

つまり、この「困った経文」は、繰り返されるパターンの中では少し異質なのです。釈尊がもともとこういう全体で教えたのがそのまま伝えられているのか。釈尊が違う場面で異なる状況に対応して教えたことが紛れ込んだのか。あるいは、そもそも釈尊の言葉ではなかったのか。それを確認することは、経典がながく口伝えで受け継がれてきた以上、もはやおそらく不可能でしょう。

しかしながら、この節に続いて、業の原因が語られています。
And what is the cause by which kamma comes into play? Contact is the cause by which kamma comes into play.
それによって業が作用に至る原因はなにか。触(phassa)が、それによって業が作用に至る原因である(曽我による訳)。
「触」というのは、感覚対象が感覚器官に接すること(contact)です。つまり、「対象が感覚器官に接することを原因として、行為が起こる」と言っています。これはまさしく縁起の考え方です。

経の全体が、上記の六つの要素について、それらの原因と、それらがもたらす結果、そして原因を除けばそれらが停止すること、その方法は八正道であることを述べており、これは明らかに縁起の考え方に沿うものです。

当該経文が、別の経典、別の文脈の中にもあるのなら、それも読んでみなければなりませんが、、。

くだんの経文が、「意思が先でそれによって行為がなされる」(我が意思によって、我は行動する)という考えを内包しているなら、縁起には適合しません。「意図は後付けの錯覚である」というベンジャミン・リベットの発見の方が、無我=縁起の教えに整合します。

ただ、もし融和を図るなら、「自律的自発的な行為も縁によって起こる」という言い方はあり得るかもしれません。わたしが、「主体的努力、精進、発心も縁によって生じる」と言うのと同じ意味であれば。

にこ様

2018年10月17日  曽我逸郎

2018 10.22
曽我様更新に気づかず、お返事遅くなりました。暫しお時間をとのことでしたが、まさか次の日とは!

「自律的自発的な行為も縁によって起こる」という結論、素晴らしいです。完全に同意します。

> 全体の流れに倣えば、「業には、身口意の三種類がある」というのが、主張の中心だった筈です。

これは逆に「業は、思の一種類のみである」というのが、主張の中心だったのではないでしょうか。

というのも、このお経で列挙されている、kāma(欲) vedanā(受)saññā(想)āsava(漏)kamma(業) dukkha(苦)の六つの共通点は何だろう、と思ったのです。
曽我様のおっしゃる通り、kammaだけ異質です。
私は、kamma以外は「心に現れるもの」だと思いました。
身口意の三種類の業は違います。どちらかというとアウトプットです。

私の方でも、業とは何か色々と文献を読んで勉強してみました。
平岡聡著『業とは何か』にも件の経文は書かれていて、
“『増支部』に「私(ブッダ)は意思を業と説く。意思を働かせたのちに、身業と口業と意業によって業を作る。」と説かれているように、意思が業の本体であると名言している点が重要である。“
と書いてあります。
つまり、業には身口意の三種類があるが、煎じ詰めれば cetanā(思)に集約される。思は心のはたらきなので、仲間はずれではなくなります。
経文の後半部分は、それを説明したものと思います。
一般的に業には身口意の三種類があるとされているため、前半部分だけだと混乱するからです。

私の読み方(意訳)はこうなりました。
“業とは(煎じ詰めれば)意思という心のはたらきのことだと言える。
意思が現れてはじめて、人は身口意の行為を行う(からである)。”

「無我」については、今回の共通認識がありますね。
> 「触」というのは、感覚対象が感覚器官に接すること(contact)です。つまり、「対象が感覚器官に接することを原因として、行為が起こる」と言っています。これはまさしく縁起の考え方です。

しかしこれもまた曽我様のおっしゃる通り、この経文は、「触->思->業」の図式ですから「意思が先でそれによって行為がなされる」を否定できません。
もう「思」をリベットの言う「無意識の思考、および行為の起動」と読み換えるくらいしかありません。あえて強弁するならば、意識的な思考は意業ですから思とは別なのです!とかでしょうか…
しかし意業と思は同一視されているようです。ブッダはどういう意味で「cetanā」という言葉を使われたのか、パーリ三蔵から cetanā を全部抜き出して論証するしかありませんが…私もパーリ語は読めないので、ここで詰まってしまいました。

一応 cetanā はいつも意識的、故意に、自覚的に、選択の対象として現れるのではないため、cetanā を自由意思と考えるのは問題があるとする研究があるようです。
https://books.google.co.jp/books?id=iWLSAQAAQBAJ&pg=PA45&lpg=PA45&dq=Cetanāhaṃ,+bhikkhave,+kammaṃ+vadāmi.+Cetayitvā+kammaṃ+karoti–+kāyena+vācāya+manasā.&source=bl&ots=1aGhc20Db8&sig=TG0MHflzpIsJkjwA0MSl6XjsDTM&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi-87vQpIXeAhVIWLwKHSj9AiQQ6AEwAXoECAcQAQ

2018 10.22
曽我様追伸です。

cetanā がどうしても気になって、アルボムッレ・スマナサーラ長老の『ブッダの実践心理学』という本を引っ張り出しました。
第3巻、心所の説明の中に、cetanā がありました。
“次はcetanā意志(意思)です。
Saññā想を作ったところで、「こうしよう」「ああしよう」という何かエネルギー、意志が生まれます。我々が普通に使っている「意志」よりもずっと根本的な、基本的な、何かしたくなるような、僅かなエネルギーが生まれるのです。“

「思」は普通の意志よりも微細なものということですので、この意味ならば「無意識の思考、および行為の起動」と読み換えて良い可能性がありますね。

2018 10.23
ありがとうございます。
毎回問題の中心に突き刺さる資料を提示して下さるので、驚いています。感謝します。教えて下さった “Free Will, Agency, and Selfhood in Indian Philosophy” という本の “Free Persons, Empty Selves ~ Freedom and Agency in Light of the Two Truth” という論文は、タイトルからするとまさにど真ん中のストライクですね。
興味あります。しかし、どうやら、本全体は初期仏教に限らず、インド思想全体の流れの中の様々な宗教、学派が、自由意志、行為主体、我をどう捉えていたかを考察する論文を集めているようで、わたしの問題意識とかかわりの薄いページも多いかもしれません。ネットで読むことができるプレビューでは、さすがにところどころ見ることのできないページを設けてありますね。電子書籍で4000円程かぁ、、。まずは “Free Persons, Empty Selves” の読めるページを読んで、買うかどうか考えてみます。

仰るように、”cetanā” 「思」が、意図とか意思といった言葉でイメージされるような高次機能ではなく、「つい今、六根に接した縁と、過去の行為・経験で蓄積してきた反応パターンとの交配によって、うかがい知れない深いところから湧き上がってくる反応であって、身口意の(意図せざる)三業を起動するもの」ということであれば、悩まなくていいのですが、、。
(もしそうだとすると、ダマシオのいう「情動に変化をもたらした対象への二次マップ」として理解してもいいのかもしれません。)

ご紹介いただいた論文を勉強して、思いつくことがあればまた掲載します。ありがとうございました。

にこ様
2018年10月23日   曽我逸郎