四諦2:集

 集は、苦を生み出す原因です。それは、前段で書いたとおり、わたしたちの執着です。
 最初期の経典のひとつと言われるスッタニパータにはそのことが端的に説かれています。

「世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」(『ブッダのことば』中村元訳 岩波文庫)

 しばしば、わたしたちは、「苦しみが降りかかってくることのないように」と祈ります。苦が、天から偶然に落ちてくるかのように思っています。
 しかし、苦のほとんどは、どこか遠くから飛んでくるのではなく、わたしたち自身が自分たちの執着によって生み出しているものです。

 苦には、二種類があります。確かに、空から降ってくるような避けがたい苦もあります。釈尊でさえ、亡くなる直前には、高齢による体の痛みや供された食事による食中毒で苦しんだ、と経典(大パリニッバーナ経・大般涅槃経)には書かれています。このような苦は、第一の矢、と呼ばれます。それに対して、我々凡夫(普通の人)が執着によってつくりだしてしまう苦が、第二の矢です。ですから、仏は二の矢を受けず、と言われます。第一の矢を受けても、それを原因にして怒りや恨みや妬みなどの反応を起こさず、苦を増やさないのです。

 一方、わたしたち凡夫は、第一の矢を受けない場合でさえ、すぐにしょっちゅう苦を作ってしまいます。執着に基づく欲望によって、また怒りによって、、、。まれに思いが叶ってもすぐに退屈して欲求不満に陥り、新たな欲望を見つけ出し、思い通りにならないと怒り、悲しみます。満足することができず、自分が苦しむだけでなく、それを誰かのせいにして、怒り、恨み、自分よりもうまくいっているように見える人を嫉み、苦を投げつけます。得をしようとして、策略を巡らし、他人から奪おうとします。その計画によって、誰かが苦しむことになってもさして気にかけません。こうして、執着は自分も周囲の人も苦しめます。わたしたちは、執着によって、自分を苦しめ、人を苦しめ、互いに苦しめ合っているのです。

 わたしたちは、いろいろなものに執着します。なかでも特別なものは、自分自身への執着です。我執と呼ばれるもので、これこそが執着の根です。〈大切な「私」が存在するんだ。それを守り育てなければならない。〉これが我執です。
 大切な「私」に利益をもたらすであろうものは手に入れなければならないし、大切な「私」に害をなしそうなものは絶対に許せない。こうして、我執は、さまざまな事物にむけた、ポジティブの、またネガティブの執着としても現われます。こうして争いが生じ、苦が生じます。

 ところが、奇妙に聞こえるかも知れませんが、わたしたち凡夫は、自分が苦しんでいることに気がつくことがなかなかできません。執着の喜びを追い求めることに忙しいせいかも知れませんし、苦が、怒りや妬みなどの感情に姿を変えている場合もあります。それがあるとき、重大な経験をして、あるいはふとしたきっかけで、自分が苦しみ、人を苦しめていたことが痛感されます。そういう深い反省が、発心です。今の自分のあり方をなんとか変えたいとする思いです。今の自分のあり方を、苦をつくり、人を苦しめ、自分も苦しめる凡夫であると自覚して反省する。凡夫の自覚は、本格的に釈尊の教えに学ぼうとするスタートになります。

【脱線② 仏教の梵我一如化】

 執着に意味がないことを説くのに、よく使われるのは、「形あるものはすべて壊れる」という表現です。つまり、すべては存在ではなく、時間の中で移り変わる現象だ、ということです。「止まれ、お前は美しい」(ゲーテ『ファウスト』)と命じても、現象を美しいままに捕らえておくことはできません。なにかを捕まえてしっかり握りしめていたつもりでも、いつの間にか細かな砂になって指の間からこぼれ落ち、手を開けばなにもない。すべてが、時間の中で変質します。

 この考えは間違っていません。しかし、釈尊の教えではないところに転落する結果を生みかねない危うさがあるので、よく気をつけねばなりません。

 これは、物理学の法則でもあります。突き詰めれば、相対論や量子論的な世界観、つまり、物は究極的にはエネルギーであり波であり、存在ではなく現象である、ということになります。

 一見、釈尊の教えと親和性が高いように思えます。実際、これをもって釈尊の教えを解釈しようとする人は少なくありません。しかし、これには危険があります。この着眼は、釈尊が否定したところの梵我一如的な世界観に、我々を導き入れかねません。この発想は、移り変わり壊れいく個物の世界の奥底についつい梵(バラモン教思想が想定した、世界を生み出し、同時に世界の全体でもある、すべてを超越した根本原理)に等しいなにかを設定してしまいかねないのです。

 梵という発想は、人間の自然な性にとっては居心地がいいのです。凡夫の執着に適う、といってもいいでしょう。梵は常に、絶対的に善なるものとして想定されます。あるいは、善悪などの対立概念をすべて超越している、とも形容されますが、ともあれ、絶対的に肯定されるのです。そして、梵とひとつである我(アートマン)も肯定されます。梵我一如ほどには観念的に考えていない我々凡夫であっても、大自然や宇宙とともに肯定されるのは気持ちのよいことです。その結果出てくる思想は、極端な例を挙げれば、煩悩即菩提というような、すべてをずぶずぶに肯定する無節操なものにもなっていきます。なによりも、釈尊の教えを学ぶにあたって最初に確認すべき「凡夫の自覚」、すなわち「わたしは、執着のままついつい自動的に苦をつくってしまうから、いつも気をつけていなければならない」という自覚が希薄になってしまいます。

 また、梵我一如型の発想のひとつの特徴は、言葉を軽視し、不合理を振りかざすことです。すべてを包摂する超越的統一原理を妄想すれば、相対立していたはずのものが、なんでも梵において矛盾のまま結びついてしまいます。先ほどの「煩悩即菩提」がいい例です。「論理を超えた論理」であるとか、「無分別知」とか、なにか深い意味がありそうに主張しますが、単に人を煙に巻いているだけです。なにか質問しても、煙幕をさらに吐き出すだけですから、相手にする必要はありません。このような言説が釈尊の名の元に口にされるのは、容認しがたいことです。何度も繰り返しますが、釈尊の教えは、常識的なものの見方からは遠く隔たっていますが、極めて論理的であり合理的です。

 しかし、残念ながら仏教の多くは、梵我一如型の発想に転落してしまっています。法界とか真如といった言葉が、梵の代わりをしています。かく言うわたし自身、かつて般若思想の空を宇宙に遍在するビッグバン的なエネルギーとして解釈した時期がありました。これでは梵を空に呼び変えただけです。

 特に、中国では老荘思想が根強い伝統としてあり、当初、仏教は、老荘思想の枠組みで解釈されました(格義仏教)。老荘思想の道(タオ)は、一切の矛盾・対立を包摂する超越的世界原理であり、バラモン教のブラフマン(梵)と非常に似ています。わたしは、個人的には荘子のスケールの大きなとらわれのない突き抜けた発想は大好きなのですが、釈尊の教えとはきちんと区別しなければなりません。格義仏教は、中国と、さらにそこから伝わった先の日本などの仏教に梵我一如化の影響を与えました。

 そもそも、釈尊の教えは、なぜ人は苦をつくるのか、苦をつくる凡夫である自分を分析し、苦をつくらなくする方法を教え伝えるのがすべてでした。自分こそが研究の対象であって、外の世界に関する記述は、わたしの読んだ限り、死を目前にした釈尊を描く大パリニッバーナ経などのわずかな例外を除き、初期経典にはほとんど見かけません。自分ではなく外の世界に関心を向けることは、世界の超越的原理への妄想を呼び起こし、梵我一如思想にたやすく転落することになります。外の世界ではなく、自分自身に目を向けなければなりません。

【閑話休題】

 さて、本題に戻りましょう。
 形あるものが壊れるだけではありません。形のない執着の対象、すなわち地位や名声、富なども、しばしばあっという間に消え去ります。そして、裏返しの執着で、自分に不利益をもたらすとおぼしきものを憎んで根絶やしにしたつもりでも、同じような悩みの種が、また沸いて出てきます。すべては永遠の存在ではなく時間の中の現象であり、欲しいものは失われ、憎んで絶やしたはずのものは、また現われてきます。思いどおりにはなりません。

 我執の対象である自分も、他の執着の対象と同様に、壊れていきます。釈尊が四門出遊でみた老・病・死です。しかし、釈尊でないわたしたちは、老・病・死でさえ、現実に自分に差し迫ってこない限り、自分のこととして実感することはほとんどありません。お葬式でさえ、人ははしゃいでしまうものです。わたしたち凡夫は、自分が永遠に存在すると思いなし、自分に執着し、この我執を土台に、自分が得をして損をしないようにいろいろなものに執着して、苦をつくっています。自分が苦しみ、人を苦しめ、互いに苦しめ合っています。