『サンライズ・ムーブメント』に<政治のつくりかえ方>を学ぶ

2022 08.21

『サンライズ・ムーブメント』に<政治のつくりかえ方>を学ぶ

2022,8,21
曽我逸郎

 先日投稿した『農山村持続化個人給付金は資本主義への蟻の一穴』を読んでくださった方から、『グリーン・ニューディールを勝ち取れ』も読むように、とのお薦めを頂いた。那須里山舎の本である。

 おそらく、上記の投稿で、斎藤幸平氏の脱成長の立場からのグリーン・ニューディール(以下GND)・SDGs批判を紹介したことへの反応ではないかと思う。 (本の奥付を見ると「発行者 白崎一裕」とあって、ずいぶん前だが、白崎さんが主催されたベーシック・インカムの学習会に参加させてもらったり、いろいろお世話になった方だ。ご縁に驚いた。)

  読んでみると、気候危機に立ち向かう米国の若い人たち(Z世代、ミレニアル世代)の運動「サンライズ・ムーブメント(以下SM)」を、活動家自身や周辺の人たちが紹介している。 彼らのやり方は大変参考になる。
 日本では、「政治への無関心、政治嫌い、政治離れ」といった言葉が、あきらめのため息とともに口にされる。しかし、この状況を変えるために彼らから学べることは多い。

 彼らの取り組みに入る前にまず、斎藤幸平氏のGND批判は、SMにも向かっているのだろうか。
 そうではないだろうとわたしは思う。
 斎藤氏は、商品・サービスにGNDやSDGsのフレーバーを振りかけることによって売り上げと利益を伸ばそうとする資本の狡賢さと、それに嬉々として騙され(たふりをし)て消費を楽しむ消費者大衆とを批判しているのだと思う。気候変動に立ちはだかろうとするSMの頑張りまで否定してはいないはずだ。

 とは言え、いくつかの点では、斎藤氏はじめ先のメルマガで紹介した研究者たちとの違いも気になった。
 この本を読む限り、SMは、脱成長とは言わない。資本主義は行き詰まりだ、とも言わない。大企業や超富裕層への課税強化も、多少は触れられているが、声高の主張にはなっていない。
 (第7章を寄稿しているノーベル賞経済学者スティグリッツは、汚染産業への課税、企業に用意された税の抜け道をふさぐこと、資本家に少なくとも庶民と同程度の税負担を負わせること、を書いている。ただし、スティグリッツは、「GNDが経済を刺激し、需要と供給の両方に作用して税収を増やす」とも書いている。GNDが経済成長をもたらすことを期待しているのだとすれば、斎藤氏の考えとは相いれない。)

 両者の考え方は違うのだろうのか。それとも、同じ考えだけれど、SMは幅広い共感を得るために一般の人たちを不安にさせる言い方(脱成長とか脱資本主義とか)は敢えて戦術的に封印しているのだろうか。
 違うにせよ違わないにせよ、超富裕層への課税強化は絶対に必要だ。1%の超富裕層が、世界人口のうち所得の少ない側の50%の人々が排出するCO2総量の2倍を排出している。この不正義を正すためには、超富裕層が過剰に蓄積した富を回収しなければならない。

 MMTなど新しい貨幣・財政理論によって、税は歳出のための財源確保という役割から解放された。過剰なマネーを過剰にあるところから回収するのが税の役割だ。
 これまで景気刺激策として投資家や大企業に過剰なマネーがばらまかれてきたが、案の定トリクルダウンなど起こらず、超富裕層や大企業に莫大な富がため込まれた。
 この偏在する過剰な富を税によって回収することなく、ただ積極財政に走るなら、格差はますます拡大する。特に今の日本の政権のような、勝ち組を優遇しつつ自己責任論で人々を切り捨てる新自由主義的な政治が積極財政を取り入れたら、「お友達」ばかりがさらに甘い汁を吸うことになる。

 もうひとつ、これはわたしとの違いとして感じたことだが、SMは賃労働する労働者が正当に報われる社会を目指しているようだ。
 わたしは、もちろんやりがいのある賃労働でたくさん収入を得ることはすばらしいし、投資で儲けてもいいが、賃労働せずに(細々とであれ)自分が大事だと思うことを大事にする暮らしも可能な世の中がいいと思う。グレーバーの言う「勤勉でない貧者」もおおらかに包み込む社会であってほしい。

 そんなわけで、気風というか、カルチャーというか、SMとは微妙な違いも感じるが、まあしかし、このあたりの差異は、さしあたり重視すべきではない。本当の敵を見失って、内ゲバ的論争に走るのは愚かだ。
 増殖し成長しようとする資本の盲目的意志ばかりが優先され、気候も環境も伝統文化も暮らしも踏みにじられる今のあり方を正すこと。
 これが共通の目的だ。
 これを実現するには、啓蒙や市民運動だけではなく、強制力のある法律・制度をつくらねばならない。
 そのためには、立法府(議会)への影響力を持たねばならない。このための政治的戦略・戦術において、SMは非常に長けている。この点は学ぶべきだ。

 ではSMから学ぶべき点を書こう。

 SMは、組織の拡大方法、政治家への対峙の仕方、さらにはプラカードのデザインのルールといった細かな具体的なことまで、練り上げられたスタイルが出来上がっていて、それに則れば全米どこにおいても、統一され効果的で間違いのない活動を自発的に立ち上げられるように組み立てられている。

 彼らの目標は、温室効果ガスを減らすことだけだけではない。人種・ジェンダー等の差別の解消、貧困・格差の克服、労働者の権利拡充なども同時に掲げている。無関係なことにまでテーマを拡大しているという批判も受けるが、彼らにとって、これらは実はつながった一つの事象であり、一体として取り組んで克服しなければ解決にはならない、と主張している。わたしが先の投稿で述べた考えと同じだ。

 彼らはまた、GNDは、米国史上三度目の「再編成」になると位置付けている。最初の「再編成」はルーズベルトのニューディールで、二番目はレーガン革命だ。これらは、良かれ悪しかれ新たな常識で米国社会を塗り替える大転換だった。GNDも、それらと同格の「再編成」にまで高めなければ達成できないと自覚している。

 そして、それら過去の「再編成」や他の事例の研究をとおして、GNDを「再編成」に育て上げ米国社会を根本変革するための戦略を立てている。中でももっとも参考にされているのは、彼らとは真逆の方向性の右派ポピュリズム運動、ティーパーティーだ。
 運動を自己満足で終わらせるのではなく、社会全体を動かす実効性のあるものにするためには、そのための強制力のある法律・制度が必要だ。立法府にそれを作らせねばならず、そのための議員を増やさねばならない。
 ティーパーティー(以下TP)は、共和党のために働くのではなく、反対に、共和党を自分たちのために働かせようとした。SMはそう捉えている。

 そのために使われたのが予備選挙だ。共和党を代表して連邦議会選挙に出馬する候補を決める予備選挙に、現職が大物議員であったとしても意に添わなければ対立候補をぶつけていく。たとえ負けたとしても、極端な主張の選挙戦をとおして、共和党全体を右へ、すなわち、小さな政府=規制緩和=民営化⇒競争社会⇒自己責任の新自由主義へ引きずっていった。

 (先日8/16にも予備選で「戦果」をあげた事例がある。トランプ元大統領が、ワイオミング州の共和党予備選に自分の推薦する候補を出馬させ、自分に批判的な現職を破って、下院議員選挙の候補にしたのだ。つまり、トランプに批判的な現職共和党議員は、予備選の段階で下院への道を閉ざされた。分かりやすく言えば刺客である。)

 草の根運動に人々を動員するためにTPが巧妙に利用したのが、大衆の怒りだ。
 「俺たちが搾り取られた税金を、移民たちが福祉制度を悪用して掠め取っている。」
 「順番待ちの列に、優遇された移民たちがどんどん横入り(割り込み)してきて、俺たちはいつまでたっても長い列の一番後ろに置き去りにされている。」
 「政財界のエリートたちやマスコミは、結託して俺たちの税金で狡賢く私腹を肥やしている。」
 こういった「犬笛」を吹いて、白人労働者階級の怒りを煽った。その怒りに押されて、共和党のみならず、米国全体のムードが、新自由主義に引きずられてしまった。

 SMは、逆の立場からこれを参考にしている。
 気候変動をせめて穏やかにするための時間さえほとんど残されていない中、なにもしようとしない民主党議員(例えば、先日いたずらに台湾・極東の緊張を煽ってあわただしく去っていったペロシ下院議長など)に、「(気候変動への)あなたの対策はなにか」という問いを突き付ける。
 あるいは「化石燃料企業からの政治献金を拒否すると誓うか」と迫る。
 その時の反応を動画で撮影してネットに公開し、人々、特に地球温暖化後を長く生きる若者たちに晒す。
 SMの原動力は、いつまでも動こうとしない政治家たちへの怒りだ。この怒りを共有することで、組織を拡大し、政治への圧力を高めている。

 ところで、米国の政治に旋風を巻き起こしているアレクサンドラ・オカシオ=コルテス民主党下院議員(AOC)も、SMに連帯している。SMからの彼女への期待も大きい。
 AOCも、民主党の予備選で「最大の番狂わせ」と評される形で大物議員を破り、さらに共和党候補にも勝って、下院議員となった。ただし、これはSMが仕掛けたものではないようだ。
 AOCが民主党予備選候補になり、予備選に勝つまでの過程は、ドキュメンタリーフィルム『レボリューション -米国議会に挑んだ女性たち-』に詳しい。
 それを観ると、SMとは別のグループが、予備選の仕組みを利用して米国の政治を民衆の手に取り戻そうと、女性・マイノリティの候補を組織的に公募、選別、支援して連邦議会に送り込もうとしたようだ。その顕著な成功例がAOCだった。

 予備選は日本にはない制度だ。日本では、候補者は、政党の幹部が密室で決めるか、無所属で出馬するしかない。
 わたしが前々回の衆院選に出た際は、「安倍政権も小池(百合子)新党も嫌だ。投票できる選択肢がない」という声に押されて、間際に無所属で立候補することになったのだが、結果的に野党票を割ることになり自民党を利する結果となった。
 前回の衆院選への出馬は、立憲民主党県連からの声掛けであったが、その背景には、国民民主党より先に長野5区の選挙区に唾を付けたいという思惑があったのだろうと想像する。ところが、長野5区に先に旗を立てられた国民民主党から横やりが入り、それまで立憲民主党からは「はやく決断を」とせかされていたにもかかわらず、正式な決定に至るにはずいぶん時間がかかった。(当時の立憲民主党と国民民主党は、分裂後かつ合流前で、長野県では互いにライバルでありながら仲間でもあるような微妙な関係だった。)

 つまり、日本の政党選挙では、地元の一部有力支援者の声が参考にされる部分もなくはないが、基本的には現職国会議員を中心とする政党幹部が、様々な(自分たちの)事情を勘案して、候補者を選定する。主権者に与えられる選択肢は、提示された候補者の中から誰かに投票するか、あるいは棄権するかしかない。 候補者を主権者の側から政党に押し込むことのできる米国の予備選の仕組みは、マイナス面もあるかもしれないが、主権者が主体的に政治を動かす度合いを高めるという意味で、うらやましいと感じた。
 ただし、予備選がこのような形で使われ始めたのは、米国でも最近のことで、しばらく前までは選挙のたびに大物議員が当然のように候補者になるのが普通だったようだ。

 日本に予備選の制度は今のところない。しかし、ただうらやましがるだけではなくて、主権者の側から眼鏡にかなう候補をたてて国会に送り込む方策を考えるべきだろう。それができてこそ、主権者は主権者と名乗るにふさわしい存在になれる。

 日本では、主権者と政党との関係には三つのタイプがあるのではないだろうか。
 ひとつには、特定の政党を応援する人たちがいる。選挙にも熱心に参画する。
 もうひとつは、政党どころか政治にも無関心な層だ。残念ながら、多くの人がこれにあたる。
 三つ目に、特定の課題を持ち、その達成のために政治にアプローチする人たちも存在する。この人たちは、目的を実現するために、たいていは与党にお願いをする。まれには、与野党を問わず賛同してくれそうな政治家に陳情するグループもある。例えば、わたしも一時理事を務めた協同総研は、労働者協同組合法の法制化を目指して、与野党の国会議員に理解を求め、協力を取り付けて、見事それを成し遂げた。
 (労働者協同組合法とは、従来の株式会社の、所有(株主)と経営と労働とが分断されたあり方とは異なり、労働者が労働だけでなく組織の所有も経営もすべて自分たちで担う協同労働の組合を、法人として認める法律。これもまた、資本主義への蟻の一穴であり、社会連帯経済を拡大することにつながる。)

 ところが、SMの政治へのかかわり方は、これら三つのどれでもない。政治家にへつらわず、政党のために働くのではなく、動きの鈍い政治家をケンカ腰で突き上げ追いつめ追い落とし、まさに「政党を自分たちのために働く」ものに変えようとしている。
 このような形の政党へのかかわり方は、日本ではこれまでほとんどなかったのではないだろうか。
 予備選という制度がない日本でも、この発想は、主権者がイニシアチブを握る新たなやり方として戦略の選択肢を増やし、民主主義の可能性を広げてくれると思う。

 とはいえ、実のところ、個人的には若干の違和感も感じている。
 TPもSMも、原動力にしているのは人々の怒りだ。わたしとしては、もっとポジティブなあり方で、みんなが政治にワイワイと楽しんで参加するようになればいいのに、と思う。足立力也さんがレポートしているコスタリカの状況は、とてもうらやましい。(『平和ってなんだろう「軍隊をすてた国」コスタリカから考える』岩波ジュニア新書)
 日本人の国民性では難しいのだろうか。しかし、そんなことを言っていても始まらない。国民性も時代によって変わる。

 またSMの、スタイルが完成していてそれを研修や訓練によって習得させ、トレーナー、リーダーを育てるというやり方は、軍隊的とまでは言わないが、やや上意下達的だとも感じる。気候変動対策に残された時間がほとんどないという状況ですぐに効果を上げねばならないことを考えれば仕方がないのかもしれないが、わたしのような、人の言うことを聞かないひねくれ者には不向きだとも感じた。しかし、自分に合わないと感じる人は、自分なりのやり方を模索すればいいし、その場合でも、SMは大いに参考になる。
 台湾のオードリー・タン氏は、誹謗中傷やフェイクニュースが飛び交うネットの世界にも、上手に設計すれば、互いに考えを深めあうことのできる議論の空間をつくりだせる、と言っている。『オードリー・タンが語るデジタル民主主義』 (大野和基 NHK出版新書)
 ひとり一票ではなく、複数の票を複数の選択肢に分散して投じる投票の仕組みも紹介している。

 たくさんのやり方、たくさんのアイデアがある。米国の予備選挙の仕組みは面白いし、日本の小選挙区制度は変えなくてはいけないという人も多い。
 しかし、それらを実現するためには、とにもかくにも今の制度の中で国会の過半数を取らねばならない。今の制度でどう突破口を開くか。
 考えあぐねるより、とりあえずあれこれやってみることだろう。わたしとしては、まずは農山村持続化個人給付金で農山村の暮らしに活力をとりもどすことを模索してみたい。

 最後にSMから学ぶべき一番大切なポイントを書いておこう。
 それは、世の中を正そうという志だ。
 今、日本の若者の多くは、「現状はおかしい、間違っている」と認識しながら、その中で、自分一人がいかにうまく立ち回ってぬけがけるか、そればかりに心を砕いているように見える。(違っていたらごめんなさい。)
 競争と自己責任を所与として受け入れ、「その中でも自分はうまくやれる」と考える。
 しかし、しばらくはうまくやれても、多くの人はやがて挫折する。自己責任論を内面化してしまっていたら、助けを求めることもできない。極端な場合は、展望を失い無差別殺人に走る人もいる。あれは、殺人というより一種の自殺、無差別無理心中ではないだろうか。(安倍元首相を自作銃で殺害した犯行も、無理心中だったと思う。)

 間違った世の中に自分を適合させて、自分だけがどううまく生きるかを考えるのではなく、間違った世の中をみんなで正すにはどうすればよいか。それを考えるべきだと思う。
 これこそがサンライズ・ムーブメントから学ぶべきことだ。

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2022,8,21