辺野古報告 良心的不服従と自治体の立ち位置

2015 07.10

中川村HP 『村長からのメッセージ』 から転載

 先月(2015年5月)15日(金)から19日(火)まで辺野古に行ってきた。
 この間、米海兵隊キャンプ・シュワブのゲート前で、行き交う車に手を振って新基地反対を訴えたり(手を振り返す米兵も結構いた)、早朝、作業ゲートから 基地内に入ろうとする海保(海上保安庁職員)を阻止せんとする座り込みに混ざって、沖縄県警機動隊によっこらしょと抱え上げられて排除されたり、抗議船に 乗せてもらって海保のゴムボートにつきまとわれたり、17日(日)には、地元の皆さんが仕立てたバスに乗って、おじい、おばあといっしょに那覇のセルラー スタジアムで開催された「辺野古新基地反対県民大集会」(主催者発表、参加3万5千人。しかし、これは消防法上の会場定員で、実際はもっと集まっていた) に参加したりしてきた。
 お年寄りから小学生、沖縄の人、本土から応援に来た人、何種類もおかずの詰まった手をかけたお弁当をカヌー隊に届けてくれる人たち、ゲート前座り込みで 身体を張る人たち、毎週土曜の夕方、ゲート前にキャンドルを並べて抗議するおかあさんと女の子、取材記者、いろいろな人がいて、それぞれが腹の座った勇者 で、とても充実した、不謹慎に聞こえるかもしれないが、楽しい5日間だった。宿泊したゲストハウス(一泊2千円)では、毎晩遅くまで庭先でオリオンビール と泡盛で盛り上がった。現地で頑張る人たちからもらった刺激について書き始めるときりがない。とりあえず、良心的不服従と自治体の立ち位置について、思ったことを書いておきたい。特に後者については、私の考えもまとまっておらず、アドバイスを頂ければありがたい。

 二日目、土曜日の昼、日の丸を掲げた一団が現れた。インターネット上で右翼的な主張を繰り返す「チャンネル桜」のトップ、水島総氏もいたようだ。ウチナーンチュ(沖縄人)を自称する若い女性が、マイクを握り、
 「みなさん、真実を教えましょう。ここにいる年寄りは、みんな家に居場所のない人たちなんです。そして、やることのない人たちがお金を貰えるからここに来ているんです」
 なんとか時間をやりくりして自分のお金で来ている我々に、我々の「真実」とやらを教えられても、苦笑するしかないが、彼女は真剣に訴えている。横にいた人によると、最近全国で政治活動も始めた某新興宗教が、沖縄では米軍基地を肯定する活動をしているそうだ。
 新興宗教に吹き込まれた話を信じている人はともかく、日の丸を押し立てた中年の男たちは、口々に「不法占拠だろうがー。このテントはー。やめろー、すぐに出て行けー」と罵声を浴びせる。

 この不法占拠だという攻撃にたじろぐ人がいるかもしれない。あるいは、もう少し一般化して、「ルールを破るのはよくない」「世間を騒がせるのはいけない」と考える「善良な」人は多いだろう。
 では、辺野古の護岸にたてたテントは許されないのか。ゲート前道路の法面に日よけを張って集まるのは悪事なのか。海保や工事車両が基地内に入るのを阻止しようと工事ゲート間の歩道に座り込むことはやってはいけないことなのか。
 これに対して、最適の説明に出会った。今回辺野古で大変お世話になった方がツイッターで紹介していた、ダグラス・ラミス氏(政治学者・沖縄9条連共同代表。海兵隊員として沖縄駐留の経験がある)の『お巡りさんとの会話』という一文だ。

普天間基地のゲート前で、基地のフェンスに「入口」と書いてある紙をセロテープでつけていたときのことだ。数十枚貼ってから、一人の若いお巡りさんが近づいて来ることに気づいた。
私は彼に言った。(「彼は私に」の間違いか? 曽我) 。
「フェンスに物をつけるのは、法律で禁止されています」
「わかっています」
「では、やめてください」
「やめません」
お巡りさんは一瞬黙った。それから
「法律違反だとわかっているでしょう」
「わかっています」
「悪いとわかっているでしょう」
「いや、悪いとは思っていません」
また一瞬黙り、彼は言った。
「でも、法律違反でしょう」
この堂々巡りの会話がしばらく続いた。私はだんだんわかってきた。この若いお巡りさんは野嵩ゲート前でフェンス行動をやっている人たちをいつもいじめているヤツではない。
経験者のしゃべり方ではないのだ。市民的不服従行動に出会ったのは初めてかもしれない。少なくとも、「法律で禁止されている」と「悪い」との間に区別が あるという考え方をまったくわかっていなかった。「法律違反」と認めれば、「悪い」ということはもう実証済みだと、本気で思っているらしい。「法律が倫理 に合うかどうか自分で考えて判断しなければならない」という言い方は、彼には初耳のようだった。
教師の悪い癖だが、こういう人に出会うとすぐレクチャーモードに入ってしまう。なので「説明しなくちゃ」と思い、言いかたを変えた。
「法律と倫理とは別だよ。合っている時は多いけれども、合っていないときもある。そういう場合、法律に従うか、自分の良心に従うか、自分で決めなければいけない。キング牧師って聞いたことがあるでしょう」
「いいえ、ありません」
(そうか、それも説明しないといけないのか)
「僕の国のアメリカの南部では、黒人を差別する法律がある時代があった。黒人は白人専用の食堂に入ってはいけない。白人専用の公衆便所に入ってはいけな い。白人専用のバスの席に座ってはいけない。白人専用の学校に入学できない。など、そういう法律があった。1950年代から黒人はその差別的な法律をなく すため、それをまず破る作戦を選んだ。黒人が立ち入り禁止のところにどんどん入って座り込む、という運動だ。そして時間がかかったが、勝った。キング牧師はその一番有名なリーダーだった。ノーベル平和賞をとった。この基地の中でも彼の誕生日を毎年お祝いしている。彼は30回以上逮捕された。それこそ、倫理 的な人だった。
お巡りさんは時々口を挟むが、だいたい黙って聞いていた。私は自分の国の例を続けて、公民権運動から、奴隷制時代へ遡った。
「昔のアメリカでは、奴隷制は合法だった.奴隷の脱走も、その脱走を手伝うことも重大犯罪だった」、そしたら彼は「そのとき何かの事情があったのでしょう」と、奴隷制をちょっと弁護してみたが、すぐ止めた。その路線はやっぱりまずいとわかったのだろう。
彼は「ちょっと待って」と言って、携帯電話で当局へ(小さい声で)電話した。なるべく逮捕しないという、安倍政権の戦略があるらしく(逮捕は本土の新聞に載るから?)、そのような指示を受けたであろう。電話が終わり、彼はもう一度私に話しかけた。
「仕事だから言いますが、法律に禁止されているとわかりましたね」
「わかります」
それで、彼は消えた。
少しだけ話が伝わったのかもしれない、と思った。

 バスの白人専用シートに最初に座って逮捕された黒人は、確か女性だったと思う。どんなに勇気が要ったことだろう。キング牧師だけでなく、ガンディーもなんども投獄されている。このような不服従運動の積み重ねの上で、人種差別が違法となり、インドは英国から独立できたのだ。
 自分の良心に照らして従うべきでないと考える場合には従わない、という姿勢は、良心的不服従と呼ばれる。ただし、これには条件がある。非暴力であること、そして、公然と行われるという条件だ。自分の顔も名前も隠さずに実行し、考えをきちんと主張する。公然と不服従を行うことで、法律や制度が間違っていることを示す。それが、良心的不服従だ。
 日の丸を押し立てた人たちが押しかけてきた翌朝、浜のテントに来てみると、説明資料は破られ、千羽鶴が引きちぎられ、腐った魚の内蔵などがまき散らされていたそうだ。夜陰に隠れてこっそりと行われた卑怯な嫌がらせは、公共の浜を汚す単なる違法行為にすぎない。
 浜のテントに交代で詰める人たちも、海で抵抗するカヌー隊も、ゲート前に座り込む人たちも、堂々と不服従を行っている。ひとりひとりが、自分の良心に忠実であろうとしているのだ。それはたとえば、ジュゴンが暮らす美しい豊かな海を子や孫に渡すためであり、米軍機の騒音のない環境を子どもたちに取り戻すためであり、沖縄の住民自治を貫くためであり、米国の戦争の片棒を担がないためであろう。良心的不服従は、世の中の間違いを正し、よりよい時代を切り拓こうとする努力なのだ。

 ということで、一人ひとりの市民が、自分の良心に従い、勇気を持って不服従を貫くのは、すばらしいことだと思う。
 しかし、では次に、自治体としてはどうかと考えると、話は難しくなる。

 工事ゲート前から抱え上げられて排除された後、私は、機動隊に繰り返しこう叫び掛けた。
 「沖縄県警は、沖縄県知事に相談して指示を仰げよ」
 沖縄の県警であるのに、沖縄県民の意思に対立する側についているのはおかしいと感じたからだ。しかし、そう叫びながらも、自分の言葉に「それほど単純ではないぞ」という思いもあった。

 沖縄県知事は、沖縄県警に「ゲート前の座り込みを排除するな」と言えるのだろうか。村の権限に警察関連は含まれないので、私にはよく分からないが、おそらくできないと思う。県警は、県公安委員会が監督権を持つのだろうし、国の組織である警察庁の支配を受けている部分もあるはずだ。知事は、意見を言い、協議することはできるかもしれないが、一存による指示はできないだろう。そもそも、それを許すことがいいことだとも思えない。それを許せば、法治主義を逸脱した、人による支配に陥る。
 警察官が職務にあたって自分の個人的良心を優先させることも危険だ。自衛隊員ならクーデターにもなりかねない。実力組織は、個人の判断思想・信条ではなく、法律や命令に従って貰わねば困る。もちろん、非暴力の良心的不服従に暴力を振るうことは禁止されているはずだ。公務員は、法律や決まりに基づいて職務に当たらねばならない。にもかかわらず、辺野古の海保は乱暴狼藉で悪名を馳せており、同じ宿で酒を飲んだカヌー隊の青年は、海保に頸椎捻挫の怪我を負わされた。彼は海保を特別公務員暴行陵虐傷害の容疑で告訴した。
 ただ、こう考えてくると、違法な公務員の暴力は論外としても、法に従う公務員は法を破って良心的不服従を行う市民と対立せざるを得ないことになる。しかし、「フェンスに物をつけるのは違法」とか、「道路でビラを配るのは条例違反」といったルールを過度に厳格に適用すれば、世の中は窮屈になるし、憲法が保障するもっと大切な権利、「言論、出版その他一切の表現の自由」に抵触する。一定の配慮が必要だ。しかし、これは平等でなければならない。たとえば、郵便受けにチラシ広告を入れるためにマンションに入ることはOKなのに、特定の政治的なビラの場合は敷地への違法侵入だと咎めるのは、公平性を欠く。相手によって恣意的に運用を変えるようなことがあってはならない。
 市民の側は、公務員と現場でせめぎあいながらも、眼前の公務員の対応を攻撃するのではなく(勿論公務員が暴力的であった場合には厳しく糾弾しなければならないが)、大きく世論の方を見て、それをどう動かすか考え、公務員の職務のあり方と目的を定める法律、制度を改正させることを目指すべきだと思う。

 では、個人ではなく、行政組織、特に自治体が、国に対して良心的不服従を行うことは可能だろうか。
 選挙やセルラースタジアムの大集会などで繰り返し示された県民の意思を背景に、沖縄県も名護市も、国の米軍新基地建設に反対している。とはいえ、法律に違反することは、やはり行政にはできないと思う。ただし、憲法に違反する法律には、従うべきでないのかもしれない。しかし、それも、憲法違反かどうか訴訟を起こして司法の判断を仰いだ上でないとダメなのかもしれない。日本では違憲訴訟であれ、実害があってそれへの賠償請求という形でないとダメということを聞いた気がする。現実の被害がないと違憲訴訟もできないのだろうか。
 法学部出身でもない私にはよく分からないし、本当は考えたくもないのだが、今の安倍政権の動きを見ていると、そんな研究もしておかねばならないのではないかと考えざるを得ない。たとえば、「市町村はX歳からY歳までの住民の個人情報、体格や健康状態その他を毎年防衛省に提出すること」と定められたらどうすればいいのか。
 一つ可能な抵抗は、沖縄で模索されているような、法律を使う方法だ。辺野古の埋め立てを、文化財保護や環境保全の法律など、使える法律を総動員して阻止しようとしている。これは学ぶべき手法だ。

 かつて国旗に一礼しない村長として話題になったとき、村外の人から電話があり、「市町村長の仕事は、国の統治に従って住民を統治することだ。国の統治に従って、国旗に一礼せよ」と言ってきた。国に従って住民を統治することが自治体の仕事とは思わないが、国の統治の末端を担うという面は、基礎自治体には確かにある。しかし、勿論、それだけが自治体の仕事ではない。
 自治体は、住民と国との中間に位置している。自治体は、住民からも、国からも「我々のために働け」と要求される。勿論、国からの支援はありがたいが、そうかと言って、国のためばかりに働くわけにはいかない。基礎自治体の一番重要な任務は、住民の暮らしを守ることだ。
 国は、時として、国全体の利益のためと称して、部分である特定の地域を犠牲にする。沖縄は、まさにその典型だ。一貫してしわ寄せを押し付けられてきた。原発についても同様だ。
 基礎自治体が国の統治の末端として働かされた極端な例は、徴兵であろう。農家から、そして、あらゆる生業の場から、一番の働き手を引きはがし、兵隊として送り出すことに加担させられた。国からは、戦時国債を買え、馬や金属を供出せよ、贅沢は敵だなどと、様々な要求が出され、挙句に、戦況が厳しくなると、 「一億玉砕」「一億火の玉」と叫ばれ、日本全体を犠牲にせよというスローガンまで登場した。観念の全体のために個別具体の部分を犠牲にしてよいという考えは、必ず破綻する。部分を大切にしなければ、やがて全体が亡びる。
 国全体を語り始めると、国は、抽象的、観念的になり、思い込みの世界に入っていく。日々を暮す人々の日常の現実から遠ざかる。国の暴走から住民を守るのも自治体の仕事だ。
 国を正す役割は、本来は大手マスコミや司法かもしれないが、それが懐柔されている今、基礎自治体が頑張るしかないのではないかと思う。
 基礎自治体は、国の統治の末端でもあり、住民自治の砦でもある。しかし、もしも二つが相容れない場合があれば、断固後者を採るべきだ。基礎自治体は、法律に違反して良心的不服従を行うことはできない。しかし、住民に一番近いところにいて、住民の悩みや苦労や夢を知っているのだから、国民から一番遠いところにいる国に対して、意見し、問題提起し、教え知らしめるという役割を負っている。
 国がおかしくなっていれば、自治体は、合法的なあらゆる手段を駆使して抵抗し、住民を守らねばならない。

ダグラス・ラミスさんの文章の引用許可を頂いて、2015年7月10日掲載。
中川村長 曽我逸郎