信州発の雑誌、『たぁくらたぁ』が、2016年5月25日発行の39号で、『自民党「憲法改正」草案の正体』という特集を組んでいる。6人の人が、それぞれ自分が問題と捉える条項について考えを述べている。私も前文について思うところを書いた。
前文 「上に立つもの」からの憲法
曽我逸郎(中川村長)
自民党改憲案の前文は短い。にもかかわらず、日本国憲法とは正反対の国家観がにじみ出ている。
両者とも第一段落では国の形を述べている。日本国憲法は、国民と政府の関係など、国民主権の考えをしっかりと書き込んでいる。それに対して、自民党案は ひとつの文章のみで構成される短い段落の中で、「天皇を戴く国家」「三権分立」とともに「国民主権の下」と触れるだけで、国民主権の内容には踏み込んでい ない。国民主権に重きを置いていないことは明らかである。
主語をみても違いは明白だ。日本国憲法では一貫して「日本国民」「われら」であるのに対して、自民党案では、五つの段落の内の後ろの三段落だけ。しかも それに続く述語は、「…国と郷土を…自ら守り、基本的人権を尊重する(基本的人権を尊重するのは国民の側なのか!?)…和を尊び…国家を形成する」、「自 由と規律を重んじ…国を成長させる」、「…伝統と…国家を…継承するため、…この憲法を制定する」である。
日本国憲法では、国民みずからが、全世界を視野に入れて「崇高な理想と目的を達成することを誓」っているのに対して、自民党案では、国民は国家のための責務を負わされているだけとしか感じられない。
そのことをはっきりと示すのは、「和を尊び」だ。「和」とはなにか。1937年に文部省が定めた『國體の本義』第一の四『和と「まこと」』を見ればよく分かる。ネットで調べればすぐに見つかるのでご一読願いたい。「和」は「分を守ること」と表裏一体なのだ。
〈上に立つもの、下に働くものがあり、それぞれが分を守ることで集団の和は得られる。定まった職分を忠実につとめよ。自分に執着して対立をこととせず和を以て本とせよ〉
つまり「身の程をわきまえ、文句を言わず、黙って従え」ということだ。統治する側=「上に立つもの」があらかじめ定まっていて、それが上意下達で国民=「下に働くもの」を統治する、という統治側の勝手な枠組みであり、国民主権とは正反対である。
そう考えると、外交と安全保障を語る自民党案第二段落が、国民ではなく「我が国」を主語にしているのも合点がいく。そのふたつは国の専管事項であって国 民が口出しをすべきことではない、との考えだろう。国民は、三・四・五段落が述べるように、国を内側で支えるだけの存在にされている。
しかし、自民党のそういう統治は、改憲を待たずに、既に常態化しているのではないだろうか。
国旗に一礼しない村長として話題になった際、役場に電話がかかってきた。「少数意見も含めて、皆で議論し合って考えを深めるのが民主主義」という私の見 解に、電話の主は「選挙で多数を取った政治のプロが上意下達で統治するのが民主主義」と反論した。おそらく、現在の自民党幹部も、「国民の厳粛な信託」を 受けたという意識は乏しく、自分たちは国民を上意下達で統治する政治のプロ、あらかじめ定められた「上に立つもの」だと思いなしているのではないだろう か。プロと呼ぶには能力に疑問を感じるが、そんなふうに思い上がれるのは、世襲政治家が多いせいかもしれない。
福島第一原発の事故後、環境基準を放射能汚染の現況に合わせて緩和し、それに基づいて避難住民を帰郷させ支援を打ち切る。繰り返し示された沖縄県民の新 基地拒否の意志を無視し続ける。その他様々に統治の都合のままに主権者=国民を犠牲にしていく。国全体のために部分を犠牲にすることは「上に立つもの」の 務めだと舞い上がってさえいるのかもしれない。しかし、全体のためといいながらやっていることは、一部大企業や日本利権にたかる米国のジャパンハンドラー など、自分たちに利益をもたらす〈部分〉のためでしかない。
私たちがなすべきは、単に自民党改憲案を阻止するだけに留まらない。日本国憲法前文の精神は未だに実現できていない。前文が高らかに謳うとおりの国をつ くるのだ。国民主権を真に実現し、国政を信託する権威を国民の手でつかみ取る。つまり、日本を日本国民の国にする。そして、全世界の国民の、恐怖と欠乏か ら免れ平和のうちに生存する権利のために、国家の名誉にかけて働く国へと変える。それによって国際社会において名誉ある地位を占め、国民がみずから誇れる 国にするのである。そのことを今、日本国民は、全力をあげて達成することを改めて誓わねばならない。そういう国になれれば、全世界の国民も日本を敬愛して くれるに違いない。同時に、そのことこそが最高の安全保障になると信ずる。