国家神道という罪穢れ/伊勢神宮式年遷宮お白石持ち行事

2013 10.07

伊勢の神宮式年遷宮の諸行事のひとつ、お白石持ち行事に2013年8月19日参加した。そこでいろいろ見て考える中で、国家神道は、本来の神道に深く染み付いた不浄なる罪穢れであって、早急に徹底的に祓い落とされるべきだと思い至った。
ここで国家神道と呼ぶのは、人々に同一化の圧力をかけ、国家や社会全体のためだと称して自己犠牲を要求する神道として考えている。
今の日本の政治的な動きとも深いところで繋がっているように思うし、また逆に本来の神道にはグローバル化に対抗できる可能性も感じるので、ここに提起し、ご批判を受けたい。

1) お白石持ち行事への参加

まず、お白石持ち行事を説明しておこう。新たに建て替えられた正殿の周囲に神領の民が白い石を敷き詰めることで、1462年に始まり、無形民俗文化財だそうだ。まだご神体は遷されていないとはいえ、垣の内、正殿の直近数メートルまで行くことのできる20年に一度しかない機会である。
とある会合の席で隣り合わせた神官さんが教えて下さり、興味をそそられた。伊勢の神領民以外にも参加できる枠があるという。中川村の松村神官が上伊那郡の取りまとめをしておられると聞き、できれば外宮で参加できないかとお願いした。内宮には何度か行ったことがあるが外宮はなかったし、内宮の天照大神と同格の扱いを受け、かつては長らく内宮以上の参拝を集めていたという外宮は、以前から気になっていた。

前日の朝、バスに乗り合わせて伊勢へ向かった。案内状にはお祓いまで飲酒禁止とあったが、車中ではお神酒の後も差し入れの酒、ビールがおおらかに振舞われた。二見興玉神社(浜参宮)で海藻の大幣(おおぬさ)でお祓いを受け、内宮に向かい、神楽を見学した。音楽も舞も長い歴史で磨かれてきた完成度の高さを感じた。特に三つ目の最後の神楽は、赤と金の衣装も面も非常に素晴らしかった。バリ島のガムランやカトリックの特別なミサなどと比肩する日本文化のひとつの頂点だと思う。神宮会館で夕食、宴会の後、就寝。
翌朝、白帽子、白シャツ、白ズボン、白の地下足袋に配られた白い法被を羽織り、バスで出発、外宮前には既に揃いの白い法被の人たちがグループをつくって大勢行き来している。大型バスも各地から集まっている。外宮を回り込んだ先で下車し、帽子の上に「奉祝」の文字と日の丸のハチマキをつける。日の丸が少し気になったが、国旗というより日本古来のめでたい図案と捉えることにした。

朝から暑い。通りには大勢ボランティアの人達がいて、バスや交通を整理し、スポーツドリンクを配ったりしている。高齢の人が多いから熱中症には警戒しているようだ。白石を詰めた樽を積み上げた曳車の手前で、引き綱のどこにつくか指示を受け、エンヤ、エンヤと掛け声を合わせる練習、指定の位置について木遣りの声でスタート。人数が多いし車輪もついているので軽く動く。私の住む中川村葛島が参加する松川町上片桐、御射山神社の御柱祭の柱の重さとは比較にならない。神領民(伊勢市民)の木遣りや掛け声に盛り上げてもらい外宮に到着。引き綱を離れ正殿に向かう途中で白布を貰い、その上に白石をひとつ載せてもらい、今の正殿の前を通り抜け、真新しい正殿の門をくぐる。既にかなり厚く白石が敷かれており、向かって左側に預かった白石を置いた。床下の中央は直径2mほどの円形に竹垣で囲われている。神官らしき人に「あの中に心の御柱があるのですか」と尋ねると、「そうです」との返事。隙間を伺ったが中の様子は分からなかった。裏側の門から出た。

2) 中央集権化 天神>地祇ヒエラルキーの頂点に

伊勢神宮が今のように神道の中心とされる位置についたのは天武・持統の時代からだそうだ。何かで読みかじった話では、壬申の乱(672年)で大海人皇子(後の天武天皇)が吉野から東国に逃れる途中、伊勢で暴風雨に遭い、その地の神に加護を願ったのが発端だという。

天武・持統の頃というと、古事記(712年。異説あり)・日本書紀(720年)が編纂されている頃であり、天武の皇親政治、またその後に不比等が藤原の栄華の基礎を固める時期でもある。あらゆる面で中央集権化が進められた。宗教においても同様で、おそらく、それまではそれぞれの土地にそれぞれの歴史・文化を背負った国津神、八百万の神々が上下の区別なく並立し、それぞれに崇められていたのだろう。多分、天神地祇の差別はまだないところに、伊勢、内宮のアマテラスを皇祖神として頂点に据えて、天神地祇、つまり上位に立つ天津神と下位の国津神というヒエラルキーが生み出された。

天神地祇とかアマテラスというと神話の世界の太古の昔のように聞こえるかもしれない。しかし、その物語が集約されたのは平城京遷都(710年)の前後のことで、仏教の公的伝来(538年、552年など諸説)と比べれば百数十年の後、思いのほか新しい。663年の白村江の戦いの大敗北によって唐が攻めてくるのではないかという危機感もあったのかもしれない。ともかく中央集権化が急がれる中で、神道も大きく改変された。神道の国家神道化への原初的な第一段階と言っていいと思う。

3) 伊勢神宮の素晴らしい点、民とのつながり

しかし、伊勢神宮が天神地祇の中央集権ヒエラルキーの頂点に据えられたといっても、それまでの地祇的な部分が払拭されたわけではない。我々が海藻の大幣でお祓いを受けた浜参宮は、二見ヶ浦にある。夏至の日、夫婦岩から朝日が昇る聖地だ。おそらく、伊勢に元々あった神は、海の漁労民の太陽信仰であって、それが浜参宮の海藻のお祓いという形で今も残っているのだろう。

また、神宮がヒエラルキーの頂点に置かれた後、1300年の歴史が経過する中、私の見た神楽のような、洗練された文化が完成度を高めていったし、その一方、戦国時代など神宮の財政が困窮した時もあった。その際は、民に札を売ってしのいだりもしたようだ。また、民が主体的に神宮を支えた一面もあっただろう。お白石持ち行事への神領民の積極的な取り組みにそれは伺える。この行事が始まった1462年は室町時代で、既に平安時代の途中から武家政治の時代に移行し、平家そして源氏、北条の鎌倉時代を経て、一旦は後醍醐天皇が公家中心の政治を取り戻そうとしたものの、北朝に敗れ、足利の時代になっていた。天皇の権勢は地に落ちていたであろうし、天皇中心のヒエラルキーと一体の伊勢神宮も権威を失っていただろう。その時に領民たちがお白石持ち行事を始めた。応仁の乱の少し前のことで、すぐに戦国時代に突入する。

つまり、伊勢神宮は、神道を中央集権化する本拠地としてつくられたのだが、それ以前の地祇的部分も残しているし、また歴史の中で新たな形でその地の民との係わりも太くなっていった。いうなれば新たな地祇として地元の民に親しまれてきたのだと思う。今回お白石持ち行事に参加して、磨き上げられた文化の継承と民との繋がりは、歴史をくぐり抜けてきた伊勢神宮のすばらしい面として、認識した。

4) 原発事故と富国強兵の国家神道

しかし、それとの対比として、今の神道のあり方について気になっている部分も思い起こさずにはいられなかった。敢えて物議を醸すために、「国家神道という罪穢れ」と呼びたい。それは何か、と訊かれれば、例えば第一に原発に対する現在の神道の姿勢だ。

靖国神社が毎月発行する印刷物『靖国』の2012年正月号には、多くの人が寄稿して前年を振り返っている。しかし、そこに述べられているのは、「東日本大震災や津波に遭って示された日本人の気高い精神性」といった事ばかりで、原発事故に言及する言葉はまったくなかった。福島のみならず日本中の人々が放射性物質拡散による害を心配している状況の中、非常な違和感を覚えた。靖国神社に関わる人たちは、原発事故には触れたくないのだ、と感じた。一体、何故なのか。

テレビで見た忘れられない情景がある。福島第一原発の爆発の後、放射能汚染がひどく、計画的避難区域に指定された飯舘村、春浅い里山に近所の人達が集り、祠の前でお祭りをする。料理を廻し酒を酌み交わした後、「このお祭りもこれが最後かもしれないな」と語り合い、一家族、また一家族と去っていく。後には古びた祠だけが残った。原発事故で、代々受け継がれてきた村々の民の暮らしが断ち切られ、その地の神々が放射能汚染の中に置き去りにされた、まさにその現場を伝える映像だった。打ち捨てられた神々はどれほどの数になるだろう。しかし、今の神道は、このことに対してほとんど関心がないようだ。

いや、単なる無関心では済まされない。もっと端的なのは、上関原発への神社本庁の対応だ。

上関原発は、山口県の瀬戸内の上関町長島に中国電力が計画している原発で、根強い反対運動が展開されてきた。建設予定地には島の神社の社有地が含まれていた。神社の元々の宮司は、社有地を原発用地として売り渡すことに反対していたが、神社本庁はその宮司を解任、新しく任命された別の宮司が社有地を中国電力に売却した。解任された宮司は、解任の根拠とされた辞表は偽造だとして訴訟を起こしたが、裁判の最中に亡くなっている。

これは、東日本大震災より前のことであるが、神社本庁にとっては、民に恵みをもたらす瀬戸内の海や漁師たちの暮らし、その地の神よりも、原発の方がなんとしても重要だったのである。

一体、どういうことなのだろう。おそらく、戦時中に変わらず今の神道にとっても、国家の方が、民の命や暮らし、その土地その土地で受け継がれてきた文化伝統、八百万の神々よりも大切なのだ。神道は、富国強兵を未だに引き摺っている。民を思い民の暮らしを心配するよりも、国家を観念的に肥大させ、それのためには民も民の暮らしも犠牲にすることを厭わない。そして民の暮らしに密接に結びついた八百万の神々(地祇)も打ち捨てる。

国のために民を犠牲にする思想の行き着く果ては、戦争末期のスローガン「一億玉砕」だ。国体護持のためには国民すべてが死ぬ覚悟を決めるべきなのである。しかし、国民すべてを玉砕させて、一体全体どんな国家を残そうというのだろうか。まったく馬鹿げている。この傾向、つまり肥大化した国家観念を妄想して、民も八百万の神々も軽んずる傾向を内包する神道を、国家神道と呼ぼう。現在の神道が、依然として国家神道であることが、福島第一原発や上関原発によって顕にされた。

5) もうひとつの中央集権化 明治維新の廃仏毀釈

天武・持統期における古事記・日本書紀の編纂、伊勢の神宮の創設は、神道を改造して中央集権化を図る最初の大きな節目だった。もうひとつの節目がある。明治政府による廃仏毀釈だ。長い武家の時代に半ば忘れられていた天皇の権威を回復し神格化するために、神道を、混淆し一体化していた仏教、修験道から外科手術的に切り出した。廃仏毀釈というと仏教だけが排撃されたように聞こえるが、同時に、民の暮らしと結びついた八百万の神々の多くも、近代的中央集権国家にふさわしくないという理由で打ち捨てられ、天神地祇の中央集権ヒエラルキーに属する神々に置き換えられた。『神々の明治維新』(安丸良夫著、岩波新書)には、いくつもの事例と当時政府が発した布告などが記載されている。

明治維新を主導したエリートの考え方を物語るのは、福沢諭吉のエピソードだ。欧米列強に伍し得る近代国家建設に大きな貢献をしたとして一万円札にも描かれる福沢は、子供の頃、近所の祠を暴き、納められていた石を放り捨て、代わりの石を入れておいたら、皆が相変わらず有り難がって拝んでいた、という思い出を誇らしげに書いている。

福沢に関しては、福沢が創設し社主を勤めていた新聞「時事新報」の社説「戦死者の大祭典を挙行す可し」にも触れねばならない。その概略はこういう主張だ。

…戦争で国を衛るには死を恐れぬ兵が必要だから、及ぶ限りの光栄を戦死者と遺族に与えて、戦死は幸福であると感じさせねばならない。東京に祭壇を築き、全国の遺族を集め、天皇自らが祭主となり特別の祭典を挙行して戦死者を顕彰すれば、死者は地下で天恩に感謝し、遺族は光栄に感泣して父兄の死を喜び、一般国民は国のために死ぬことを冀う(こいねがう)だろう。多少の費用は惜しむべきでない。…(『靖国問題』高橋哲哉・ちくま新書より抜粋)

これらのことから分かるのは、福沢個人というより、明治維新というものが、祠の石に象徴される八百万の神々を軽んじ、民の命や家族を思う気持ちを軽んじ、国家の都合や自分たちの目的や思惑で、天皇や神道を操り利用することを憚らないものだった、ということである。欧米列強に対抗するという切迫があったのかもしれないが、神道は、政治の要求によって捻じ曲げられ、八百万の神々や民を軽視し、空疎に肥大した国家観念ばかりを重んじる国家神道にされたのだ。

6) その後の日本の歩み。自己犠牲の美化、強要

明治維新を遂げた日本は、近隣アジア諸国が欧米列強に侵略される様に怯えた反動か、自ら周回遅れの植民地主義国として近隣アジアを侵略し始める。当初の軍事作戦こそ成果を挙げることができた。しかし、天皇制と一体化し日本民族だけが特別だと主張する国家神道に民族を超えて共感される普遍性はなく、他国の文化、他民族の誇りを尊重しない植民地経営では民心を掌握することはできなかった。五族協和も八紘一宇も、植民地支配の実態の上面を繕うスローガンだ。また、もともと資源の乏しい中での杜撰な戦略であったため、すぐさまジリ貧に陥っていく。軍事や経済面での行き詰まりが露呈してくるのと平行して、国家神道の精神主義、言霊信仰による楽観主義、結果責任を上下に薄めてしまう無責任主義が指導部に蔓延り、その皺寄せは民に押し付けられ、国民がそれを自己犠牲によって背負い込むことが美化、強要された。
典型は、ビルマでのインパール作戦だ。兵站を軽視した杜撰な楽観主義が招いた状況は、前線の兵士らが自己犠牲の精神力によって克服することが命じられた。兵站を危ぶむ意見に、作戦の立案者であり指揮官である牟田口司令官は、水牛などに物資を運ばせ、食糧がなくなれば水牛を食料とするとして押し切り、これを「ジンギスカン作戦」と名付けたが、水牛は険しい山道の物資運搬にはまったく不向きで、かつまた制空権のない中、目立つ隊列は航空機の攻撃を受け、爆撃に驚き怯えた動物は荷を背負ったまま遁走し、元々足りなかった物資はさらに失われた。弾薬、食糧の補給を求める前線に対し、後方にとどまる牟田口は、空約束と精神力で戦えとの命令を繰り返した。破綻が明白になる中、上官である河辺中将が牟田口を訪れたが、互いに作戦中止を口にすることができなかった。後に河辺は「何か言いたそうだったが露骨には尋ねなかった」、牟田口は「言葉ではなく顔色で察して欲しかった」と証言している。こんな無責任な「遠慮」の結果、撤退決定はさらに一ヶ月遅れ、夥しい餓死者、病死者をいたずらに増やし、退路は「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれることになった。
作戦中止決定後、牟田口は部下にこんな訓話をしたという。
「…食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。 皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」
国家神道が、不合理な精神論で民に自己犠牲を押し付け、自分は無責任で居続けることを支えるものであることが、よく示されている。
例を挙げればきりがない。無敵だと自称した関東軍は、ソ連軍侵攻を聞くや真っ先に遁走し、国策で送り込んだ満蒙開拓団を捨て去った。沖縄は、本土決戦の時間稼ぎのため捨て駒にされた。兵は消耗品であり、インパール作戦以外でも、各地で食糧も医薬品も装備も満足に持たせず過酷な環境の奥地へ進軍させ、餓死、病死、凍死させた。「生きて虜囚の辱めを受けず」と叩き込まれ、戦車に刀を抜いてバンザイ突撃をした兵も多い。
自国民の命さえまるで尊重しないのだから、他国民ならなおさらだ。中国では、度胸訓練と称して新兵に銃剣で捕虜や現地住民をを刺突させたり、人体実験の材料にした。ニューギニアでは、物資運搬に協力してくれた現地の人たちを基地の内情を漏らされる惧れがあるとの理由で斬殺してもいる。フィリピンでは、ゲリラと近しい村だと決めつけ、女性子どもを含む村民全員を組織的に殺害した。
人の命を軽視し、国の都合で使い捨てたというだけなら、世界史では他にも例があるだろう。しかし、明治以降の日本では、民が自ら国のため天皇のために犠牲になろうとするように周到に用意された。本音の気持ちは違う人も、それを隠し、本心からそう願っているふりをせねばならない空気を固めていったのだ。端的な例は、特攻隊だ。形の上では志願制を取っていたかもしれない。しかし、自ら奮い立って志願し、あるいは志願せざるを得ない空気があった。空気の壁を破って断ることのできた兵士は何人いただろう。その壁の根深い土台となっていたのが、国家神道だ。兵たちは「靖国で会おう」と言い交わし、遺書でも靖国に言及している。それほどまでに国家神道は、国民の思考を染めたのだ。その果てに、自己犠牲の美化は自己矛盾に陥っていく。軍歌『同期の桜』がその一例だ。
「咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」
こんな軍歌があり得るだろうか。これをおかしいと感じないなら、その人も未だに国家神道に毒されている。『同期の桜』では、もはや戦いに勝つことはどうでもよく、ただ「みごと散る」こと、自己犠牲のナルシシズムが自己目的化されている。歌詞の最後の5番は、こう締めくくられる。
「花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」
自己犠牲が美談として顕彰され、死のヒロイズムに感化された純粋な少年が、次に死ぬ兵士として拡大再生産されていく。
自己犠牲のナルシシズムが集団で共有されると、愚かな他者犠牲の組織的取組みもなされる。例えば、特攻専用機「桜花」だ。体当たりだけが目的で着陸は想定していないのだから、操縦訓練はほとんどできない。ロケット推進というと現代のそれのような先端技術を想像するが、実態は数秒間燃焼する固形燃料ロケットを数本装備しているだけで、滑空の速度を上げることはできても、離陸はもちろん、上昇もほとんどできない。一式陸攻にぶら下げられて敵艦隊のそばまで行って切り離されることになっていたが、桜花の到達距離を伸ばすためには一式陸攻は高高度まで上昇せねばならず、敵レーダーからは丸見えで、目標のはるか手前で敵戦闘機に待ち伏せされて、腹の下の桜花のみならず、設計積載重量の三倍近い重荷を下げてよたよたと飛ぶ一式陸攻も、7名の乗員ともども、次々と撃墜された。最初の出撃では、母機18機がわずか20分程で全機撃墜され、その後の10回に亘る出撃で、桜花搭乗員55名、母機搭乗員368名が犠牲になった。駆逐艦を1隻沈めたものの、それ以上の大きな戦果はなく、作戦として成り立たない破綻した兵器であった。米軍は ”Baka Bomb”(馬鹿爆弾)と呼んだという。
冷静に考えれば、こういう結果しか得られないことは容易に想像できる。ところが、「新兵器で敵艦に体当たりしてみごと散る」という華々しい美学に酔っているから、合理的な判断が押し殺される。
桜花の構想を執拗に主張して実行させ、まず自分が乗ると言っていた少尉は、敗戦の数日後、ひとり訓練機で飛び立ち、太平洋上に着水し、漁師に救助され、偽名を使って80歳を超える長寿を全うしたという。インパール作戦の牟田口といい、声高に軽はずみに自己犠牲のヒロイズムを周囲に扇動する連中は、結局自分は最後に逃げる。
牟田口のように、地位を利用して高飛車に自己犠牲を命令した者もいるが、一方また、破局へ向かう早い段階のまだゆとりのある高揚感の中では、自己犠牲のナルシシズムに自ら陶酔する人も多い。彼らは、異論を口にする人には、感情的な嫌悪感をぶつける。自分たちの耽溺が邪魔されるからだ。異論者は、冷静に分析し合理的に考える人であればあるほど、自己犠牲心酔者からの感情的攻撃に口をつぐむ。合理的な説明が通じなければ、黙るしかない。その結果、感情的な自己犠牲のナルシシズムばかりが蔓延り、同調圧力は増すます高まり、皆と同じ振る舞いをしないものには「非国民」のレッテルが貼られる。「こんな奴は日本人じゃない」「それでも日本人か!」論理の通じない感情的な決めつけを恐れて「正しい」国民を演ずる内に、気づけば事態はもう後戻りできない破局に突き進んでいる。そうなれば、冷静に分析できる人ほど逆に、もはや破局を運命として受け入れ、破局の後に希望を託す他はないと考えるようになる。戦没学生の手記など、後の世に自己犠牲を美化して伝えられているけれど、心の中はそのように幾重にも屈折した挙句の昇華だと思う。結局、破局に向かって国民すべての意識は収斂され、うち揃って犠牲となる美学に陶酔していく。行き着く先は「一億玉砕」だ。

7) 何が守られているのか?

一億国民すべてを玉砕させても守るべき国とは、一体何だろう。これはまるで、極端な思考実験だ。本土決戦が話題になり始めた頃、誰のどういう状況での発言かは覚えていないが、とある軍幹部がこんなことを言ったとなにかで読んだ。
「本土決戦となり全土が戦場になっても、陛下は満州にお遷しし無敵の関東軍がこれを守る。国体は安泰だ。」
つまりこの考えは、日本からも国民からも離れ、日本でなくともどこかで、日本人でなくとも誰かの上に、万世一系の天皇が立っていれば、それで国体の護持になる、と捉えている。異郷の地で異国の民に、天皇が天下った神の子孫であると信じられ崇められれば、それで良いのだろうか。私はそうは思えない。日本人が一億玉砕し、国土が荒廃し、八百万の神々の祠が崩れ燃えても、天皇制さえ維持できればいいのか。日本の民やその暮らし、文化か、天皇制か、どちらが重要か、そういう問いだ。愛国者を自認する人は、どう考えるだろう。
「馬鹿馬鹿しい。天皇制は日本の最も深い文化である。切り分けることなどできない。」そう答えるだろうか。勿論この問いは極端な思考実験だ。しかし、敗戦の決断の際は、民か天皇制かの選択を迫られたのではないだろうか。絶対であると定めた絶対国防圏を突破されても、なお1年余りの間、太平洋の島々を次々に落とされ空襲が常態化して将棋で言えば既に詰んだ状態であるにもかかわらず、無益な犠牲を拡大し続けた。それは、民や国土を毀損しても、なんとか国体(天皇制)だけは保持できないかと足掻いたのだ。ここにおいては、民、国土、八百万の神々と天皇制とは、二者択一の対立概念となっている。
私は、「神道が未だに国家神道であることが原発によって示された」と書いた。では、「原子力ムラ」の人たちは、天皇を守るために民を犠牲にしようとしているのだろうか。さすがにそうは思わない。彼らは、自分が自覚する論理においては、国全体のためには、必要なら一部分の民は犠牲しても仕方がない、と考えているのだと思う。全体のために部分を切り捨てるという「合理的」で冷徹な決断を下すのが自分の職務であると、自分の任務に高揚さえしているかもしれない。かつての「天皇制のため」「国体のため」という名目が、敗戦後は「国全体のため」に置き換わっている。
では、彼らは、本当に国全体のことを思っているのだろうか。たとえば沖縄の人たちのような、自分らの都合に合わない民をそのつどそのつど次々と犠牲にしてきた論理が、本当に全体を思っていると言えるのか。
国全体のためには原発を再稼働させねばならぬ、と言う。54基すべてを再稼働させなくとも、大飯でも柏崎刈羽でも玄海でも地震か土砂崩れか、あるいは喧伝されるテロでもあれば、国土のほとんどが汚染され、大ダメージを受ける。原発は、国全体を台無しにしかねない、いうなれば「一億玉砕」一歩手前な状況を生み出している。かつては「天皇を満州に遷す」と言われたが、今、何をどこに移動するのか。まさか国民全部をどこかに避難させる考えはあるまい。福島の人たちを避難もさせず、帰還させようとしているのだから。
だから結局のところ、国全体のため、とか、国益とかは、お題目に過ぎない。彼らが一部分の民を犠牲にしてもよいとする本音は、彼ら自身の現在の地位や権益、利益を守るためだ。
このことは、敗戦後だけにあてはまるのではないだろう。敗戦前、天皇のため、国体のためだとして民に自己犠牲を要求した連中も、天皇のため、国体のため、という名目が、自分の組織やコミュニティにおける、自分の地位、権益、利益に結びついていたからそうした。自分が勝ち組でいられる体制の継続を図ったのだ。自分の利益の保全を「全体」というお題目で正当化し、人々に自己犠牲を強いた。
国家神道も、実は国家のためではなく、国家という名目を隠れ蓑に、その時の国家体制に寄生する既得権益集団が自分らの利権の保存のため、国民を動員し都合よく使うための方便である。

8) 同調圧力の害

敗戦前、自己犠牲の美化と同調化の圧力があったように、原発被災地でも同様の空気があった。「食べて応援」といったスローガンが謳われたし、避難地域には指定されなかったものの汚染が心配されるところでは、給食に汚染食材がないか不安で子供に弁当を持たせたい母親には、公的、非公的の圧力がかかった。地元を離れて避難しようとする家族には冷たい視線が向けられた。非難の声を向けるべきは、政府であり、電力会社である筈であるのに、地域住民の間にぎくしゃくした感情がわだかまった。
隣人を非難する人にも、かつてのような国体を守れといった思いはもはやない。国全体のために我慢するという意識もないだろう。何を守るのかはあやふやになっている。しかし、同調圧力はかつてと変わらずに強い。おそらくその背景にあるのは、平穏だと信じて平穏に暮らしていれば平穏が続くに違いないとする言霊信仰に似た楽観願望ではないだろうか。その願いを不安でかき乱されることに耐えられないのだと想像する。だとすれば、やはりこれも、自分のために周囲に同調化の圧力をかけ自己犠牲を強いていることになる。
同調化圧力は、さまざまな形で現れる。私の体験で言えば、式典で壇上に上がるとき、国旗に一礼しないことが話題になった際、保守系国会議員の後援会幹部であるらしい人が、電話でこんなことを言った。
「皆で意見を述べあい批判しあって考えを深めていくなど、直接民主主義であり、幼稚で愚かだ。国や政治をどうするかなど、一般人には興味がない。興味があっても知識がない。民主主義とは多数決であり、多数を取った政治のプロが上意下達で統治する。自治体の長の仕事は、国の統治に従って住民を統治すること。国からの統治に従わず国旗に一礼しない村長は、全力を挙げて落選させる。落選して恥をかきたくなかったら、次の村長選には出馬するな。」
これは、空気というようなレベルを超えた露骨な圧力であるが、この人物が、人々が統治から自由になり自分自身で考えるようになることを嫌がっているということは分かった。
結局のところ、日本の今の閉塞感の元凶は、この同調圧力とそれによる自己規制にあるのではないだろうか。国や社会をよくしていくための試行錯誤が広がらない。例えば、前例踏襲主義がそのひとつだ。過去の事例に同調して、新たな工夫をすることを最初から放棄する。あるいは、新たな方針が出されてもそれはしばしば上意下達で、皆が同調した振りを強いられ審査がされないので、全員で間違った方向に走り出す。だから、国を良くしていくためには、同調圧力とは反対に、民が自由に考え意見表明し、互いに批判しあい学びあえるようなあり方で、皆で考えを深めていかねばならない。

9) 本来の神道の可能性

同調圧力は、田舎の閉鎖性のように捉えられるかもしれないが、都会でも日本のさまざまな集団にある。テレビのバラエティ番組でも出演者同士が「お前、空気読めよ」と弄りあっていた。とすれば、同調圧力こそが、日本の社会の特徴であって、国家神道にしてもそれが特異な時代に特異な形で先鋭化して現れただけなのかもしれない。
しかし、少なくとも明治維新から敗戦までの間、国家神道は、空気の重い圧力によってメンバーに同調と自己犠牲を要求するという傾向を、日本人の性根の深いところで強めてきた。
であるなら、逆に、神道のあり方によって同調圧力を弱めることもできるのではないか。
私が期待するのは、本来の神道のあり方である。一部の人々の思惑によって神道は国家神道へ捻じ曲げられた。では、本来の神道に戻ればいい。明治維新前の神道ならいいか。いや、私がイメージしているのは、もっとさらにずっと以前、天武・持統や、古事記・日本書紀より前の神道である。
『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする水木しげるの漫画には、たくさんの個性豊かな妖怪たちが活躍する。水木しげるは、鳥取県の一番西、出雲のすぐ隣の境港で育ち、世話をしてくれたお婆さんから聞かされた妖怪の話に強い影響を受けたという。これは根拠のない私の想像に過ぎないが、天津神を自称する大和に国譲りを強要された出雲にいた国津神の多くは、そのとき地下に潜り、妖怪として民の中に生き続けたのではないだろうか。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、異界に接する物語を書いたのも国津神が弾圧された出雲に暮らして、その風土に感化された側面があったのではないだろうか。
本来の神道は、八百万の神を崇め畏れるアニミズムであったと思う。天武・持統、古事記・日本書紀以前の、天津神と国津神のヒエラルキーが作り出される前には、水木しげるの世界のように、個性豊かな八百万の神々が、民と生き生きとしたかかわりをもって暮らしていたのではないだろうか。
私が育った滋賀県のお世話になった家では、正月には神棚や仕事場だけではなく、台所のかまどや便所などにも鏡餅を備え、ろうそくを灯していた。そこかしこに神々が住んでいた。今私が暮らす中川村でも、農業用水の恵みを水神様に願い、縄文の巨木文化の名残りを強く感じさせる御柱祭りもある。台風の季節が近づくと風祭りも行う。神事で唱えられる祝詞を別にすれば、天津神との関連は感じさせない。土着の地祇の祭りであり、八百万の神々と民との交感だ。
アニミズムは、日常を超えたものへの畏敬に根ざす。つまり、破格のもの、毎日の暮らしの慣れ親しんだ世界からはみ出す畏怖すべきなにかを神とする。つまり同調化を迫り型に嵌めるようとする国家神道とは、正反対の方向性だ。異界のものを敬う姿勢は、異文化の尊重につながる。戦争中に占領地域に国家神道を押し付けたのとは対極だ。現在キリスト教など異教の習俗がおおらかに楽しまれ消費されているのも、本来の神道の寛容さの現われだと思う。
今、世界経済はグローバル化が進み、同じ規格で大量生産された商品が蔓延し、おのおのの土地の伝統文化に繋がった商品が片隅に追いやられている。こういうグローバル経済のあり方にも、多様性と土着性を重んずる本来の神道は、思想として対抗し得るのではないかと感じる。

10) まとめ

国家神道とは、本来の神道が時の政治権力に都合のいいように捻じ曲げられて生み出されたものである。国家神道は、民に同調圧力をかけ、民の行動、思考を一定の型に嵌め、国や社会全体のために自己犠牲をさせる。国のため、全体のためを標榜しながら、そのつど都合の悪い部分を次々と犠牲にしていく。その結果、全体という塊のあちこちがかわるがわる削ぎ落とされ、全体は次第に痩せ細っていく。つまり、本当は全体のためではない。全体は名目に過ぎず、権力を握る者たちとそこにかしずく者たちが、その時の体制にこびりついた既得権益を握り続けるために体制維持を図っているに過ぎない。そのためには削ぎ落とされる部分の民に自己犠牲を強い、使い捨てにし、棄民する。
それに対して、天武・持統以前、古事記・日本書紀によって天津神・国津神のヒエラルキーが作り出される前には、土地土地に個性あふれる八百万の神々がいて、民との濃厚なかかわりがあったと想像する。それが本来の神道であるとするなら、標準を外れた異形、異能を惧れ敬うものであり、国家神道の自分達の都合に合わせた枠に嵌めようとする傾向とは逆である。規格化や統治ではなく、多様性、個性、土着性、型にとらわれぬ自由闊達を喜ぶ志向だ。現代のグローバル経済の傾向に対抗する考えとなり得る。
残念ながら、現代の神道には、富国強兵の国家神道的傾向が未だに強く尾をひいている。神道は、国家神道的傾向という罪穢れを一刻も早く根本から抜き去り、民の暮らしや伝統文化、土地土地の八百万の神々を敬う本来の神道に戻ることができれば、歴史に大きな貢献ができるだろうし、神道そのものも発展するのではないかと思う。
乱暴な見解であることは承知の上、批判に晒す。ご意見を頂ければ有難い。

2013年10月7日 曽我逸郎