2008年秋、長野県戦没者遺族大会と長野県戦没者追悼式に参加して考えたことを中川村HP『村長からのメッセージ』に掲載したところ、神社新報社が批判的記事を書き、他の批判メールも頂いた。その際のやり取りを、村HPと旧サイトから以下に転載する。
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2008年11月06日 曽我逸郎
長野県戦没者遺族大会と長野県戦没者追悼式に出席した。いろいろ考えさせられることがあった。
最も気になったのは、たくさんの来賓の方々が挨拶をされ、追悼の言葉を述べられたが、どの言葉も、その場を耳障りよく流れていくことに気をつかうばかりで、真剣に突き詰めて考えられたものではなかったことだ。
「戦争で亡くなった方々の尊い犠牲があって、現在日本の平和と繁栄があることを、私たちは一瞬たりとも忘れてはならない。」
登壇したおそらくすべての人がこのようにおっしゃった。様々な戦没者追悼式で必ずといっていいほど言われる言葉だ。しかし、本当にそうだろうか。戦争の犠牲がなければ、平和と繁栄は得られなかったのか。私にはそうは思えない。もし戦争がなくて、平和のまま、犠牲になった兵士や市民が元気に活躍し、それぞれの夢や計画に邁進しておられたら、今の世の中は、もっともっとよいものになっていたのではないのか。戦死した皆さんは、戦争で犠牲となることを強いられることによってではなく、農業や得意とする技術やみずからの構想を実現することによって、日本や社会に貢献することを望んでおられた筈だ。私たちは、かけがえのない人たちを失ったのだ。破壊と殺戮が、どうして平和と繁栄に貢献するのだろうか。
戦争による死を、「無駄ではなかった、意味があった」と信じたい遺族の方々の感情はよく分かる。しかし、「平和と繁栄のためには犠牲が必要だった」という考えは、危険な芽を孕んでいる。「今後も平和と繁栄のためには時として犠牲が必要となる。」こういう考えを誘い入れかねない。勿論、演壇に立たれた方々がこんなことを主張された訳ではない。しかし、深く考えていないために、突き詰められればこういう考えを容認することになる。
「世界の恒久平和実現に向けて一層の努力を傾けることを、戦争の犠牲になった皆様の前でお誓い申し上げます。」
壇上からの言葉の多くは、こういう形で締めくくられた。それと同時に、多くの方が、「今も繰り広げられるさまざまな地域紛争に心が痛む」とおっしゃった。なのに、なぜ、「テロとの戦争」に加担していることは不問に付すのか。誤爆その他で幼い子供を含む多くの一般市民が犠牲になっているにもかかわらず…。それを私たちは私たちの税金によって支援しているのに、なぜ知らないふりをするのか。戦争ができるように憲法を変えようとする動きに、なぜ何も言わないのか。
「テロとの戦争」と誰かが名づければそれでいいのか。「自由のため」の戦争ならいいのか。「平和のため」の戦争ならいいのか。「繁栄のため」の戦争ならいいのか。「国益のため」の戦争ならいいのか。もしそういう条件付きでの「恒久平和」の希求なら、そのように言うべきだ。しかし、そんなものは恒久平和とは言えない。だから、思考を停止して、その場その場の空気の中で耳障りのいい言葉を流すだけになる。本心では戦争を否定する覚悟はない。
愚かな政治が始めた愚かな戦争の愚かな作戦に引きずり込まれて、餓え、あるいは熱帯の熱病にうなされ、あるいは極寒の地に凍えて、家族を思い故郷を思いながら、夢を奪われて亡くなっていった方々の無念を真摯に思い致せば、耳障りのよい場当たり的な言葉で済ますことはできない筈だ。真剣に覚悟を決めて絶対的に戦争を拒絶することこそが、戦争の犠牲になった方々の心に適うことだと信ずる。
もうひとつは、靖国神社のことだ。
遺族大会のスローガンの第一は、「総理 閣僚などの靖国神社参拝の定着をはかること」だった。2番目は、「(靖国神社を形骸化する)国立の戦没者追悼施設新設構想を断固阻止すること」だ。
遺族の方々の靖国神社に対する思いは、想像できなくない。戦争当時は、靖国神社に深い思いがあっただろうし、亡くなった兵士もいろいろな言葉を残しておられただろう。
だけれども、私がその気持ちを素直に共有できないのは、靖国神社が純粋に追悼の施設ではなく、明治2年の創建以来一貫して次の戦争に向けて国のために死ねる兵士を用意するための施設でもあったからだ。兵士やその家族にとっては前者であっても、国にとっては、建前はともかく本音においては後者であった。そのことに対する総括を靖国神社はおそらく未だ行っていない。であれば、靖国神社は今でもそうだということになる。それは、併設された遊就館の展示を見れば分かる。戦没者ひとりひとりの心の襞は十把一絡げに塗り篭められ、ステレオタイプな自己犠牲の美化と忠君愛国の勇敢さが強調される。この点は、たとえば長野県上田市の戦没画学生追悼施設「無言館」とのあきらかな対比だ。そして、先の戦争は「止むを得ない戦争」だったという。つまり、もう一度同じ状況になれば、また戦争をする、ということだ。今、靖国神社の周囲で活動する人たちも、日本を戦争のできる国にしようとする人がほとんどだろう。
靖国神社の過去を振り返り、現在のあり方を見れば、諸手を挙げて靖国神社に賛同することはできない。しかし、遺族の皆さんの気持ちも分かる。ではどうすればいいのか。
実現性は度外視して、理屈だけで考えれば、靖国神社が純粋に追悼のためだけの施設になれば、問題の核心は解消される。遺族会がスローガンで切望する「総理・閣僚の参拝」へも道が開けるに違いない。すべての国民のみならず近隣諸国の人たちのわだかまりも薄れるだろう。
A級戦犯合祀問題も政教分離の原則も、もし靖国神社が純粋に戦没者を追悼する施設になり次の戦争で死ねる若者を準備する機能を名実ともに捨てるなら、それほど重要な問題ではなくなる。靖国神社が戦争準備施設であることこそが、一番の問題なのだ。
では、国のために死ねる兵士を準備することをやめて、純粋に追悼の施設になるには、具体的にはどうすればいいのか。
(1) 過去のあり方を反省し、亡くなった兵士と遺族に謝罪すること。
(2) 天皇の側で戦って亡くなった兵士だけではなく、近代以降の日本がかかわったすべての戦争の犠牲者を、敵味方を問わず、顕彰ではなく追悼していくこと。
(3) 合祀の取り下げを望む遺族の要望を受け入れること。
正直なところ、靖国神社が受けいれてくれるとは、私にも思えない。単なる思考実験に過ぎないのかもしれない。しかし、もし靖国神社が純粋に戦死者を悼むだけであるならば、上記3点に問題はないはずだ。もし受けいれられないとすれば、純粋に戦没者を悼むだけではないということになろう。戦没者の死を他の目的に利用するようなことは、あってはならないと思う。遺族会の求めて止まない「総理・閣僚の靖国神社参拝」も、静かに追悼のできる状況づくりも、根本のところでそれを難しくしているのは、靖国神社自身ではないだろうか。是非、靖国神社には、純粋に戦没者を追悼する施設になって頂きたいと願う。
最後にもう一点、戦没者遺族大会の「宣言(案)」の冒頭には、このようにあった。
『先の大戦の終結から六十三年を経てなお、世界各地で紛争が絶えない。
我々戦没者遺族は、「二度と戦争をしない、我々のような遺族を出してはならない」ことを改めて確認し、世界の恒久平和実現に努める。』
しかし、大会全体の印象としては、宣言のこの部分も、来賓の祝辞と同様に突き詰めた覚悟の表明とは思えなかった。大会では、遺族会を支持母体とする国会議員への支援も呼びかけられたが、その一方で政治が憲法を戦争のできるものに変えようとしていることや、「テロとの戦争」に日本が加担していることに対しては、一言の言及もなかった。
ひとりひとりの遺族の皆さんの中には、紛争に心を痛め、これ以上戦争犠牲者と遺族を出さないためにはどうすればいいのか、真剣に考えておられる方も大勢おられると思う。しかし、会としては、「宣言」の後半にあった様々な要望のために政府与党への配慮が必要なのか、平和への思いは突き詰めたものになっていない。
遺族の方々は、本来は最も嫌戦的である筈の人たちだと思う。その方々の暮らしをしっかりと応援し強固な連携体制をとってこなかったのは、平和勢力の落ち度だ。
遺族会も含めた広範な力を結集して、殺し合いはいけないというあたりまえのことが、あたりまえに受けいれられる世界を作っていかなくてはいけないと思う。
ご意見お聞かせ下さい。
(この文章のホームページ掲載は、長野県遺族会と靖国神社にもお知らせしました。)
以上
とある新聞社にお勤めのOさんから、靖国神社に関する部分についてご質問を頂戴した。メール掲載の了解を求めたが、許可いただけなかったので、私からの返事だけ、掲出する。
拝啓
返事が遅くなっており申し訳ありません。所用多く、取り組む余裕がありませんでした。また12月定例議会答弁の準備などで時間が取りにくくなるので、頑張ってそれまでにお送りしたいと思います。
まず、私の大きなスタンスというか、考え方をご説明します。
私は、当たり前のことですが、人間は誰も完全ではない、と考えます。誤解もするし、重要なことに気づいていないことも多い。そのままで進めば大きな間違いを引き起こすことになりかねない。このことは、勿論私自身も例外ではありません。間違いをできる限り防ぐには、自分の考えを表明し、他の人の耳目に晒し、別の視点からのアドバイス、批判をもらうことです。そのようにしてたくさんの人との議論を積み重ねていくことで、大きな間違いをしでかすことがだんだんと減っていく、と思っています。
この考えによれば、世の中に広く行き渡っている見解と同じことを表明しても、世間の進む方向に棹差すだけで、かえって間違いに接近しかねません。世間とは異なる思い付きを得たときこそ、それを広く問いかけるべきだ、と思っています。
今回、村のホームページにメッセージを掲載したことにも、この考えが基本にあります。
第一には、戦没者追悼式の挨拶が、戦後60年を過ぎたのにいつまでも型どおりで、表面の体裁は良くても矛盾を孕んだままになっているのではないか、と指摘し、おそらくそれは様々なタブーから逃げた結果であるのでしょうが、もうそろそろ突き詰めて考えるべき時ではないか、と問題提起しました。
第二には、靖国神社が自覚的・主体的に反戦平和運動の先頭に立ち、広島の原爆ドームと同様な、戦争の悲惨さと愚かさを象徴する施設になれば、なにより戦争で犠牲になった方々のお心に適うし、遺族の皆さんが求めて止まない「総理 閣僚などの参拝」も、靖国神社が国民も外国の人も心静かに追悼できる施設になることも実現できるのではないか、という提案をしました。
第三には、平和運動は遺族の皆さんともっと手を携えるべきではないか、との提案です。
多くのご批判なりご意見、ご教授があるものと期待しましたが、反応のない中、Oさんからご連絡を頂きありがたく思います。
頂いたメールの公開をお許しいただけなかったのは大変残念ですが、今回のメールは、次のメールのために諸点を確認する質問状でありましょうから、次のメールにおいては、私の誤解を正し、見えていない部分をご教授くださることを願い、それについては是非公開を許可いただいて、さらに他の方からのご意見も積み重ねられるようご協力を頂きたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。
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では、頂いたご質問への回答に入ります。
Q1(Oさんからの質問の掲載は割愛します。)
そのとおりです。「村長からのメッセージ」に掲載した文章は、村議会の承認を得たものではありませんので村の見解ではなく私からのメッセージですが、一私人としてではなく、村長として書きました。
「村政に直接係わらないことを、なぜ村の公式HPに掲載するのか」といった疑問があるかもしれませんが、村の行政のレベルを超えたテーマについても、村民の生活に大きく影響しかねない問題については、冒頭に述べた考えに基づき、問題提起し、皆で考え、全体の流れを少しでも村民に苦を与えないものにしたいと思っています。村の内だけでいくら頑張っても、大きな流れに問題があれば、村もその波に翻弄されることになります。例えば、格差社会の問題、勤務医不足の問題など、これまでも思うところを表明してきました。今回のテーマは戦争です。戦争を拒否する努力を不断に積み重ねていかなければ、日本は戦争のできる普通のありきたりな、志のない国になってしまい、世界の敬愛は得られず、そしてもし日本が今以上に戦争に足を踏み入れれば、村民に多大の悪影響が及びます。したがって、そうならないよう、村長として微力ながら問題提起をした次第です。
Q2
おそらく靖国神社が外に公的に出している文書や祝詞をいくら探しても、「国のために死ねる兵士を用意する」とか「戦争準備施設」とか、そういう趣旨のことは書いていないと思います。そして、おそらくは靖国神社の宮司さんや職員の皆さんにもそんな考えはないものと思います。私の意見表明が、関係する方々の気分を害していたら申し訳ないことです。その点は謝ります。
しかし、私が想像するのは、現在の職員の皆さんの心積もりではなく、もっと国の中枢部・上層部においてあったであろう政治的な意図です。政治的な事柄に関しては、公式の発表と異なるところに真の狙いがあることは良くあることだと思います。本当の狙いを表明してしまえば、それが実現できなくなる場合、表明されるわけはありません。例えば、世界史上の侵略戦争は、ほとんど例外なく大義や美名のもとに始められたのではないでしょうか。
実際に靖国神社をめぐって起こったことを想起すれば、神社関係者の思いはどうであったにせよ、兵士達が「靖国で会おう」と言い合って死地に赴くことであり、息子を亡くした母親が、悲しみを抑圧して、「息子は国のため天子様のために戦死した。こんな名誉なことはない。靖国神社に神として祀って頂いて、勿体ないことだ」と自らに言い聞かせることだったのではないでしょうか。靖国神社は、このような効果が発揮されるよう周到に工夫されているように感じます。勿論、靖国神社が単独でこういう活動を展開したとは思いません。政府や、軍部、学校、マスコミなどが連携してこういう情勢がつくりだされていった。その中で靖国神社はひとつのキィとなる役割を果たした。こういったことが頭にあって、「国のために死ねる兵士を用意するための施設」、「戦争準備施設」と書きました。
靖国神社の公的資料の中にこういう意図を示すものを見つけるのは、難しいと思います。ひょっとすると昔の何かの予算要求書だとか、そんなものの中にあるかもしれません。あるいは、誰か関係者の日記の中に見つかるかも。
私は歴史学者ではありませんし、生資料に当たる余裕もありませんが、Oさんからご質問を頂いて、もう少ししっかりした論拠はないかと探してみて、このような資料を見つけました。1895年11月14日の『時事新報』の論説「戦死者の大祭典を挙行す可し」から抜粋します。(ちくま新書『靖国問題』高橋哲哉 p37〜を参照しました。)
特に東洋の形勢は日に切迫して、何時如何なる変を生ずるやも測る可からず。万一不幸にして再び干戈の動くを見るに至らば、何者に依頼して国を衛る可きか。矢張り夫の勇往無前、死を視る帰るが如き精神に依らざる可らざることなれば、益々此精神を養ふこそ護国の要務にして、之を養ふには及ぶ限りの光栄を戦死者並に其遺族に与へて、以って戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず。
(中略)…いま若し大元帥陛下自ら祭主と為せ給ひて非常の祭典を挙げ賜はんか、死者は地下に天恩の難有を謝し奉り、遺族は光栄に感泣して父兄の戦死を喜び、一般国民は万一事あらば君国の為に死せんことを冀ふなる可し。多少の費用は惜しむに足らず。くれぐれも此盛典あらんことを希望するなり。
一新聞の論説にすぎず、靖国神社とは関係ない、と言われるかもしれません。しかし、時事新報は、福沢諭吉創設・社主で、当時の思想動向の本流にあり影響力もあったでしょう。この考えは、政府や軍部の上層部、指導層とも共通するものだったのではないでしょうか。
靖国神社は、1869年に東京招魂社として創建されたということですから、この論説の掲載された1895年までは、国のために死ねる兵士を用意する機能を持っていなかったことになります。私が「メッセージ」において、「明治2年の創建以来一貫して」と書いたのは、どうやら誤りでした。訂正します。しかし、この後、靖国神社は、まさにこの論説のとおり、「及ぶ限りの光栄を戦死者並に其遺族に与へて、以って戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめ」「遺族は光栄に感泣して父兄の戦死を喜び、一般国民は万一事あらば君国の為に死せんことを冀ふ」ようにしていく機能を果たすようになっていったと思います。
Q3
このご質問は、上記2とほとんど同じ趣旨かと存じます。上記のとおりです。今はそれ以上の知識・論理は持ち合わせていません。
Q4
遊就館に行ったのは、確かもう5,6年前のことで、メモも取っておらず、どの展示がステレオタイプであったか、個別具体的に展示を挙げるのは困難です。今唯一眼前に思い起こせるのは、大きな戦果を上げた数人乗りの小型船舶(魚雷艇?)が一艘夜の海を敵艦に向かって疾走するシーンを描いた大きな油絵です。
「ステレオタイプの自己犠牲の美化と忠君愛国の勇敢さを強調する」というのは、今となっては、全体的な印象としか言えません。遊就館の全体的印象では、一人一人の兵士がどのような暮らしをしてきて、戦争に直面して何をどう感じていたか、心の葛藤を想像させるような展示は少なかったと思います。一方、無言館の展示では、たとえば出征を目前にした画学生が描き残していった妻や恋人の肖像から、言葉にならない様々な思いが伝わってきました。
遊就館の展示でも、兵士達の家族への断ちがたい思いはあったと思います。兵士達は、それを自ら断ち切って、国のため天皇のため、命を顧みず攻撃を敢行しました。展示の主題は、前者ではなく、自己犠牲の部分に重きが置かれ、そのため一人一人の生身の思いの襞は感じられず、そのことをステレオタイプと申し上げました。無言館では人間が見えるのに、遊就館では兵士しか見えないのです。
兵士の自己犠牲がいけないと言っているのではありません。自分の利益より人々のためを優先することは、すばらしいことです。
しかし、兵士として国のために人を殺して死ぬことが、大きな目で見て本当に人々のためになったのか。それよりも、農家として、職人として、技術者として、芸術家として、その他さまざまにのびのびと力を発揮してもらったほうか、国のため、社会のため、世界のために何倍もよかったのではないでしょうか。
自己犠牲をせざるを得ない状況を作り、自己犠牲を強いることは、政治の失敗であり、愚かな政治です。自己犠牲を強いた政治の失敗を問題にすることのないまま、自己犠牲を顕彰しつづける靖国神社は、愚かな政治を支える側に立ち続けていることになると思います。
Q5
不明確な文章であったかもしれません。「靖国神社が戦争をする」とは思っておりません。しかし、先の戦争を「止むを得ないものだった」と捉える考え方は、論理として必然的に、同じ「止むを得ない」状況になれば、再び戦争をする、ということになります。確か「ABCD包囲網に追い込まれた」というように書いていましたが、戦争を「止むを得ないものだった」と考える発想は、将来また「追い込まれたら」再び戦争を容認することになる考え方であり、そのことを問題にしました。
田母神前航空幕僚長は、「戦争をしたのは、はめられたから」というような趣旨の論文を書かれたそうですが、はめられたのなら落ち度はなく、反省する必要がないのでしょうか。はめられて自国民を含む多くの人々にこの上ない災厄をもたらし、その挙句に無条件降伏するのは、愚かでなくてなんでしょうか。こんなことにも思い至らないなら、本当に愚かだと思います。
「止むを得なかった」と容認するのではなく、なにが、誰が、どこが間違っていたのか、なぜ多くの人が犠牲になったのか、つきつめて検証し、同じ間違いを繰り返さない努力が不可欠です。
日本が戦争に踏み込んでいった過程には、さまざまな出来事が積み重なっており、政府や軍部やマスコミのみならず国民も含めた多くが関わり、それぞれにさまざまな役割を果たしました。靖国神社も、それらのうちの一つとして、上記2に述べたようなユニークで重要な役割を担ったと思います。
改めてご質問に答えますと、「靖国神社が戦争をする」とは思わないが、戦争を「止むを得ないものだった」と捉え、戦争を始めるに至った過程をきちんと検証しないまま、国のための自己犠牲の顕彰だけを続けるなら、靖国神社は、日本を再び戦争のできる国にしようとする動きに連帯していると言わざるを得ない、と考えます。
Q6
上に述べてきたように、(靖国神社の現場の人たちにそのつもりがなかったとしても、結果的であれ)国のために死ねる兵士を用意する機能を果たしてきたこと、それによって、彼我の多くの兵士と一般人が戦争の犠牲になったことに加担したことを反省し謝罪すべきではないかと思います。「どのように」と問われても、反省と謝罪を表明すること以外には思いつきませんが、それで十分だと思います。
そして、さらにお願いできれば、核兵器やクラスター爆弾その他一切の軍備の廃絶を訴え、あらゆる紛争を停止するよう関係国・関係組織に働きかけ、戦争の可能性を少しでも高めるようなあらゆる動きに対抗していただければ、と思います。もっと言えば、地雷除去や難民の救済支援などの活動まで踏み込んで下されば、この上もなくすばらしいことです。
これらは、反省と謝罪も含めて、「しなければいけない」というような命令では勿論ありません。私にそのような権限はありません。提案です。
ご検討いただいて、靖国神社がこのように変わられたら、世界中の人々の賞賛が集まると思います(一部日本人の反対があるかもしれませんが…)。靖国神社がこのようになれば、日本にも大きな変化をもたらし、日本も世界中の市民から尊敬され愛される国になるでしょう。世界へもいい影響がある筈です。新しい靖国神社は、アジアの国々からも肯定的に評価されるでしょうし、遺族会が求めて止まない首相の公式参拝も、さらには天皇の参拝さえも実現できるのではないでしょうか。
大抵の人は「ありえない、馬鹿げた提案だ」と笑うでしょう。私も実現の可能性は極めて低いと思います。しかし、靖国神社さえその気になれば、けして不可能ではありません。なにより靖国神社自体が、尊敬を集め、新しいあり方で飛躍的に発展すると思います。是非前向きにご検討いただきたいと願います。
Q7
残念ながら、鎮霊社というのは存じ上げませんでした。境内を歩きましたが、気づきませんでした。教えていただければ幸甚です。
Q8
HPに掲載した文章は、私のつもりとしては、圧迫・干渉などではなく提案です。靖国神社にお送りした手紙も、単なるHP掲載のお知らせです。「陰口」みたいなやり方は嫌なので、HPに掲載したことをお知らせしなければ紳士的ではない、と思いました。もうひとつは、HPの文章を一読いただいて、間違いや見えていない部分があれば教えていただきたい、とお願いをしました。圧迫・干渉と思われたとすれば、大変申し訳ありません。郵送した手紙のとおりの趣旨であって、他意はありませんので、よろしくご了承ください。
(靖国神社に送った手紙は、このメールの下に掲出します。)
Oさんは、憲法の定める政教分離原則について、私よりはるかに厳格に考えておられるようです。しかし、私としては、一村長が遺族会の願いを実現するために思いついたことを問い掛けることが、憲法違反にあたる、とは思えません。靖国神社に関しては、現に大きなテーマとなっており、国内政治においても、外交上でも、しばしば問題になります。遺族会でも、靖国神社とは別の追悼施設が作られるのではないかといった心配や、首相や天皇の靖国参拝をなんとか実現したいという願いがあります。靖国神社自身が変わることで、こういったさまざまな難題を克服できるのではないか、という思いつきを得たので、それをHP上で問いかけてみました。この問題について広くオープンな意見交換が行われるなら、大変いいことではないかと思います。
「分祀はあり得ない」という教義は、靖国神社の立場です。その一方で、愛する大切な人を戦争で奪われ、その上靖国神社で「勝手に」神にされていることに耐えられない思いをしている人々がおられるのも事実です。この人たちの感情はどうなるのでしょうか。心の深い傷に山砂と辛子を擦り込まれ続けているようなものではないでしょうか。人としての最も深奥の問題です。憲法云々以前の基本的人権だと思います。
こうしたさまざまな両立しがたい問題が絡み合う中で、政教分離原則だけをことさらに問題にされるのは、政教分離原則を、言論の自由を封殺して靖国神社について意見を言わせないための道具にしておられるのではないか、とも感じてしまいます。
また、一村長が靖国神社について思いつきを表明することを問題視される程に政教分離原則に厳密であるOさんは、首相の靖国神社公式参拝については、どうお考えになるのでしょうか。私自身は、靖国神社が反戦平和の先頭に立てば、そのことはたいした問題ではなくなると考えますが、厳格なOさんとしては、政教分離原則に照らして許されないこととお考えでしょうか。もし許されないとお考えなら、その旨遺族会に説明され説得されたらよろしいのではないかと思いますし、もしも問題ないとお考えになるなら、私の場合はダメで首相公式参拝は抵触しないとされる論理を教えていただきたいと思います。
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書き始めると長くなって、時間がかかってしまいました。お待たせして申し訳ありませんでした。
以上が私の考えていることですので、間違っている部分や見えていないところがありましたら、ご意見・ご批判・ご教授をお願い申し上げます。
また、広くさまざまな方からご意見を聞きたいと思っておりますので、先のOさんのメールは掲載しませんが、私のこの返事は村HPに掲載いたします。(Oさんのお名前はイニシャルにします。)
次に頂けるメールは是非とも掲載させていただきたく、宜しくご承認ください。
また、今回のやりとりを記事にされる場合は、一部分の抜粋で済まされるのではなく、少なくとも村HPのURLを記載し、文章の全体に目を通すよう貴紙読者の皆様に要請いただくようお願いいたします。
今後とも引き続きよろしくお願い申し上げます。
敬具
O様
2008年11月19日 中川村長 曽我逸郎
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【 HPに考えを掲載したことを靖国神社に知らせた手紙 】
2008年11月7日
靖国神社 御中
中川村長 曽我逸郎
拝啓
突然お手紙を差し上げるご無礼、お許しください。
「長野県戦没者遺族大会」ならびに「長野県戦没者追悼式」が、先月末、伊那市で開催され、出席を致しました。
その際、いろいろと感じたところがあり、文章にして村のホームページに掲出致しました。靖国神社についても書いておりますので、ご報告申し上げます。
たいへん失礼な内容かも知れませんがご寛恕賜り、お時間あればご一読頂いて、私の考えの及んでいないところなど、ご指導頂ければ幸甚です。
敬具
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この後、一般の方から何通かメール、手紙を頂戴し、また、Oさんの新聞(神社新報)が私への批判記事を掲載していることが判明した。
今後かなり踏み込んだ議論も予想されるし、神社新報の「アドバイス」も頂いているので、これ以降の展開については、私の個人サイトで報告したい。頂いた批判メールなどは昨晩そちらに掲出した。それに対する私の見解は、また追って掲載するので、また覗いていただいて、ご意見・ご批判をお聞かせいただけるとうれしい。