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2022 11.22

釈尊の教えって仏教とは違うの?(動画)

中川村の文化祭で、表題のお話をしました。その動画をYouTubeに上げたので、こちらでも紹介します。
長いので、お時間許す折に少しずつ観て頂いて、ご批判頂ければ嬉しいです。

2022 08.21

『サンライズ・ムーブメント』に<政治のつくりかえ方>を学ぶ

『サンライズ・ムーブメント』に<政治のつくりかえ方>を学ぶ

2022,8,21
曽我逸郎

 先日投稿した『農山村持続化個人給付金は資本主義への蟻の一穴』を読んでくださった方から、『グリーン・ニューディールを勝ち取れ』も読むように、とのお薦めを頂いた。那須里山舎の本である。

 おそらく、上記の投稿で、斎藤幸平氏の脱成長の立場からのグリーン・ニューディール(以下GND)・SDGs批判を紹介したことへの反応ではないかと思う。 (本の奥付を見ると「発行者 白崎一裕」とあって、ずいぶん前だが、白崎さんが主催されたベーシック・インカムの学習会に参加させてもらったり、いろいろお世話になった方だ。ご縁に驚いた。)

  読んでみると、気候危機に立ち向かう米国の若い人たち(Z世代、ミレニアル世代)の運動「サンライズ・ムーブメント(以下SM)」を、活動家自身や周辺の人たちが紹介している。 彼らのやり方は大変参考になる。
 日本では、「政治への無関心、政治嫌い、政治離れ」といった言葉が、あきらめのため息とともに口にされる。しかし、この状況を変えるために彼らから学べることは多い。

 彼らの取り組みに入る前にまず、斎藤幸平氏のGND批判は、SMにも向かっているのだろうか。
 そうではないだろうとわたしは思う。
 斎藤氏は、商品・サービスにGNDやSDGsのフレーバーを振りかけることによって売り上げと利益を伸ばそうとする資本の狡賢さと、それに嬉々として騙され(たふりをし)て消費を楽しむ消費者大衆とを批判しているのだと思う。気候変動に立ちはだかろうとするSMの頑張りまで否定してはいないはずだ。

 とは言え、いくつかの点では、斎藤氏はじめ先のメルマガで紹介した研究者たちとの違いも気になった。
 この本を読む限り、SMは、脱成長とは言わない。資本主義は行き詰まりだ、とも言わない。大企業や超富裕層への課税強化も、多少は触れられているが、声高の主張にはなっていない。
 (第7章を寄稿しているノーベル賞経済学者スティグリッツは、汚染産業への課税、企業に用意された税の抜け道をふさぐこと、資本家に少なくとも庶民と同程度の税負担を負わせること、を書いている。ただし、スティグリッツは、「GNDが経済を刺激し、需要と供給の両方に作用して税収を増やす」とも書いている。GNDが経済成長をもたらすことを期待しているのだとすれば、斎藤氏の考えとは相いれない。)

 両者の考え方は違うのだろうのか。それとも、同じ考えだけれど、SMは幅広い共感を得るために一般の人たちを不安にさせる言い方(脱成長とか脱資本主義とか)は敢えて戦術的に封印しているのだろうか。
 違うにせよ違わないにせよ、超富裕層への課税強化は絶対に必要だ。1%の超富裕層が、世界人口のうち所得の少ない側の50%の人々が排出するCO2総量の2倍を排出している。この不正義を正すためには、超富裕層が過剰に蓄積した富を回収しなければならない。

 MMTなど新しい貨幣・財政理論によって、税は歳出のための財源確保という役割から解放された。過剰なマネーを過剰にあるところから回収するのが税の役割だ。
 これまで景気刺激策として投資家や大企業に過剰なマネーがばらまかれてきたが、案の定トリクルダウンなど起こらず、超富裕層や大企業に莫大な富がため込まれた。
 この偏在する過剰な富を税によって回収することなく、ただ積極財政に走るなら、格差はますます拡大する。特に今の日本の政権のような、勝ち組を優遇しつつ自己責任論で人々を切り捨てる新自由主義的な政治が積極財政を取り入れたら、「お友達」ばかりがさらに甘い汁を吸うことになる。

 もうひとつ、これはわたしとの違いとして感じたことだが、SMは賃労働する労働者が正当に報われる社会を目指しているようだ。
 わたしは、もちろんやりがいのある賃労働でたくさん収入を得ることはすばらしいし、投資で儲けてもいいが、賃労働せずに(細々とであれ)自分が大事だと思うことを大事にする暮らしも可能な世の中がいいと思う。グレーバーの言う「勤勉でない貧者」もおおらかに包み込む社会であってほしい。

 そんなわけで、気風というか、カルチャーというか、SMとは微妙な違いも感じるが、まあしかし、このあたりの差異は、さしあたり重視すべきではない。本当の敵を見失って、内ゲバ的論争に走るのは愚かだ。
 増殖し成長しようとする資本の盲目的意志ばかりが優先され、気候も環境も伝統文化も暮らしも踏みにじられる今のあり方を正すこと。
 これが共通の目的だ。
 これを実現するには、啓蒙や市民運動だけではなく、強制力のある法律・制度をつくらねばならない。
 そのためには、立法府(議会)への影響力を持たねばならない。このための政治的戦略・戦術において、SMは非常に長けている。この点は学ぶべきだ。

 ではSMから学ぶべき点を書こう。

 SMは、組織の拡大方法、政治家への対峙の仕方、さらにはプラカードのデザインのルールといった細かな具体的なことまで、練り上げられたスタイルが出来上がっていて、それに則れば全米どこにおいても、統一され効果的で間違いのない活動を自発的に立ち上げられるように組み立てられている。

 彼らの目標は、温室効果ガスを減らすことだけだけではない。人種・ジェンダー等の差別の解消、貧困・格差の克服、労働者の権利拡充なども同時に掲げている。無関係なことにまでテーマを拡大しているという批判も受けるが、彼らにとって、これらは実はつながった一つの事象であり、一体として取り組んで克服しなければ解決にはならない、と主張している。わたしが先の投稿で述べた考えと同じだ。

 彼らはまた、GNDは、米国史上三度目の「再編成」になると位置付けている。最初の「再編成」はルーズベルトのニューディールで、二番目はレーガン革命だ。これらは、良かれ悪しかれ新たな常識で米国社会を塗り替える大転換だった。GNDも、それらと同格の「再編成」にまで高めなければ達成できないと自覚している。

 そして、それら過去の「再編成」や他の事例の研究をとおして、GNDを「再編成」に育て上げ米国社会を根本変革するための戦略を立てている。中でももっとも参考にされているのは、彼らとは真逆の方向性の右派ポピュリズム運動、ティーパーティーだ。
 運動を自己満足で終わらせるのではなく、社会全体を動かす実効性のあるものにするためには、そのための強制力のある法律・制度が必要だ。立法府にそれを作らせねばならず、そのための議員を増やさねばならない。
 ティーパーティー(以下TP)は、共和党のために働くのではなく、反対に、共和党を自分たちのために働かせようとした。SMはそう捉えている。

 そのために使われたのが予備選挙だ。共和党を代表して連邦議会選挙に出馬する候補を決める予備選挙に、現職が大物議員であったとしても意に添わなければ対立候補をぶつけていく。たとえ負けたとしても、極端な主張の選挙戦をとおして、共和党全体を右へ、すなわち、小さな政府=規制緩和=民営化⇒競争社会⇒自己責任の新自由主義へ引きずっていった。

 (先日8/16にも予備選で「戦果」をあげた事例がある。トランプ元大統領が、ワイオミング州の共和党予備選に自分の推薦する候補を出馬させ、自分に批判的な現職を破って、下院議員選挙の候補にしたのだ。つまり、トランプに批判的な現職共和党議員は、予備選の段階で下院への道を閉ざされた。分かりやすく言えば刺客である。)

 草の根運動に人々を動員するためにTPが巧妙に利用したのが、大衆の怒りだ。
 「俺たちが搾り取られた税金を、移民たちが福祉制度を悪用して掠め取っている。」
 「順番待ちの列に、優遇された移民たちがどんどん横入り(割り込み)してきて、俺たちはいつまでたっても長い列の一番後ろに置き去りにされている。」
 「政財界のエリートたちやマスコミは、結託して俺たちの税金で狡賢く私腹を肥やしている。」
 こういった「犬笛」を吹いて、白人労働者階級の怒りを煽った。その怒りに押されて、共和党のみならず、米国全体のムードが、新自由主義に引きずられてしまった。

 SMは、逆の立場からこれを参考にしている。
 気候変動をせめて穏やかにするための時間さえほとんど残されていない中、なにもしようとしない民主党議員(例えば、先日いたずらに台湾・極東の緊張を煽ってあわただしく去っていったペロシ下院議長など)に、「(気候変動への)あなたの対策はなにか」という問いを突き付ける。
 あるいは「化石燃料企業からの政治献金を拒否すると誓うか」と迫る。
 その時の反応を動画で撮影してネットに公開し、人々、特に地球温暖化後を長く生きる若者たちに晒す。
 SMの原動力は、いつまでも動こうとしない政治家たちへの怒りだ。この怒りを共有することで、組織を拡大し、政治への圧力を高めている。

 ところで、米国の政治に旋風を巻き起こしているアレクサンドラ・オカシオ=コルテス民主党下院議員(AOC)も、SMに連帯している。SMからの彼女への期待も大きい。
 AOCも、民主党の予備選で「最大の番狂わせ」と評される形で大物議員を破り、さらに共和党候補にも勝って、下院議員となった。ただし、これはSMが仕掛けたものではないようだ。
 AOCが民主党予備選候補になり、予備選に勝つまでの過程は、ドキュメンタリーフィルム『レボリューション -米国議会に挑んだ女性たち-』に詳しい。
 それを観ると、SMとは別のグループが、予備選の仕組みを利用して米国の政治を民衆の手に取り戻そうと、女性・マイノリティの候補を組織的に公募、選別、支援して連邦議会に送り込もうとしたようだ。その顕著な成功例がAOCだった。

 予備選は日本にはない制度だ。日本では、候補者は、政党の幹部が密室で決めるか、無所属で出馬するしかない。
 わたしが前々回の衆院選に出た際は、「安倍政権も小池(百合子)新党も嫌だ。投票できる選択肢がない」という声に押されて、間際に無所属で立候補することになったのだが、結果的に野党票を割ることになり自民党を利する結果となった。
 前回の衆院選への出馬は、立憲民主党県連からの声掛けであったが、その背景には、国民民主党より先に長野5区の選挙区に唾を付けたいという思惑があったのだろうと想像する。ところが、長野5区に先に旗を立てられた国民民主党から横やりが入り、それまで立憲民主党からは「はやく決断を」とせかされていたにもかかわらず、正式な決定に至るにはずいぶん時間がかかった。(当時の立憲民主党と国民民主党は、分裂後かつ合流前で、長野県では互いにライバルでありながら仲間でもあるような微妙な関係だった。)

 つまり、日本の政党選挙では、地元の一部有力支援者の声が参考にされる部分もなくはないが、基本的には現職国会議員を中心とする政党幹部が、様々な(自分たちの)事情を勘案して、候補者を選定する。主権者に与えられる選択肢は、提示された候補者の中から誰かに投票するか、あるいは棄権するかしかない。 候補者を主権者の側から政党に押し込むことのできる米国の予備選の仕組みは、マイナス面もあるかもしれないが、主権者が主体的に政治を動かす度合いを高めるという意味で、うらやましいと感じた。
 ただし、予備選がこのような形で使われ始めたのは、米国でも最近のことで、しばらく前までは選挙のたびに大物議員が当然のように候補者になるのが普通だったようだ。

 日本に予備選の制度は今のところない。しかし、ただうらやましがるだけではなくて、主権者の側から眼鏡にかなう候補をたてて国会に送り込む方策を考えるべきだろう。それができてこそ、主権者は主権者と名乗るにふさわしい存在になれる。

 日本では、主権者と政党との関係には三つのタイプがあるのではないだろうか。
 ひとつには、特定の政党を応援する人たちがいる。選挙にも熱心に参画する。
 もうひとつは、政党どころか政治にも無関心な層だ。残念ながら、多くの人がこれにあたる。
 三つ目に、特定の課題を持ち、その達成のために政治にアプローチする人たちも存在する。この人たちは、目的を実現するために、たいていは与党にお願いをする。まれには、与野党を問わず賛同してくれそうな政治家に陳情するグループもある。例えば、わたしも一時理事を務めた協同総研は、労働者協同組合法の法制化を目指して、与野党の国会議員に理解を求め、協力を取り付けて、見事それを成し遂げた。
 (労働者協同組合法とは、従来の株式会社の、所有(株主)と経営と労働とが分断されたあり方とは異なり、労働者が労働だけでなく組織の所有も経営もすべて自分たちで担う協同労働の組合を、法人として認める法律。これもまた、資本主義への蟻の一穴であり、社会連帯経済を拡大することにつながる。)

 ところが、SMの政治へのかかわり方は、これら三つのどれでもない。政治家にへつらわず、政党のために働くのではなく、動きの鈍い政治家をケンカ腰で突き上げ追いつめ追い落とし、まさに「政党を自分たちのために働く」ものに変えようとしている。
 このような形の政党へのかかわり方は、日本ではこれまでほとんどなかったのではないだろうか。
 予備選という制度がない日本でも、この発想は、主権者がイニシアチブを握る新たなやり方として戦略の選択肢を増やし、民主主義の可能性を広げてくれると思う。

 とはいえ、実のところ、個人的には若干の違和感も感じている。
 TPもSMも、原動力にしているのは人々の怒りだ。わたしとしては、もっとポジティブなあり方で、みんなが政治にワイワイと楽しんで参加するようになればいいのに、と思う。足立力也さんがレポートしているコスタリカの状況は、とてもうらやましい。(『平和ってなんだろう「軍隊をすてた国」コスタリカから考える』岩波ジュニア新書)
 日本人の国民性では難しいのだろうか。しかし、そんなことを言っていても始まらない。国民性も時代によって変わる。

 またSMの、スタイルが完成していてそれを研修や訓練によって習得させ、トレーナー、リーダーを育てるというやり方は、軍隊的とまでは言わないが、やや上意下達的だとも感じる。気候変動対策に残された時間がほとんどないという状況ですぐに効果を上げねばならないことを考えれば仕方がないのかもしれないが、わたしのような、人の言うことを聞かないひねくれ者には不向きだとも感じた。しかし、自分に合わないと感じる人は、自分なりのやり方を模索すればいいし、その場合でも、SMは大いに参考になる。
 台湾のオードリー・タン氏は、誹謗中傷やフェイクニュースが飛び交うネットの世界にも、上手に設計すれば、互いに考えを深めあうことのできる議論の空間をつくりだせる、と言っている。『オードリー・タンが語るデジタル民主主義』 (大野和基 NHK出版新書)
 ひとり一票ではなく、複数の票を複数の選択肢に分散して投じる投票の仕組みも紹介している。

 たくさんのやり方、たくさんのアイデアがある。米国の予備選挙の仕組みは面白いし、日本の小選挙区制度は変えなくてはいけないという人も多い。
 しかし、それらを実現するためには、とにもかくにも今の制度の中で国会の過半数を取らねばならない。今の制度でどう突破口を開くか。
 考えあぐねるより、とりあえずあれこれやってみることだろう。わたしとしては、まずは農山村持続化個人給付金で農山村の暮らしに活力をとりもどすことを模索してみたい。

 最後にSMから学ぶべき一番大切なポイントを書いておこう。
 それは、世の中を正そうという志だ。
 今、日本の若者の多くは、「現状はおかしい、間違っている」と認識しながら、その中で、自分一人がいかにうまく立ち回ってぬけがけるか、そればかりに心を砕いているように見える。(違っていたらごめんなさい。)
 競争と自己責任を所与として受け入れ、「その中でも自分はうまくやれる」と考える。
 しかし、しばらくはうまくやれても、多くの人はやがて挫折する。自己責任論を内面化してしまっていたら、助けを求めることもできない。極端な場合は、展望を失い無差別殺人に走る人もいる。あれは、殺人というより一種の自殺、無差別無理心中ではないだろうか。(安倍元首相を自作銃で殺害した犯行も、無理心中だったと思う。)

 間違った世の中に自分を適合させて、自分だけがどううまく生きるかを考えるのではなく、間違った世の中をみんなで正すにはどうすればよいか。それを考えるべきだと思う。
 これこそがサンライズ・ムーブメントから学ぶべきことだ。

*****

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2022,8,21

2022 07.18

農山村持続化個人給付金の創設は、幅広い効果を生み出す。

農山村持続化個人給付金の創設は、幅広い効果を生み出す。

(少し長いですが、読んでください。資本主義に替わる未来も考えています。)

* * *

 農山村で元気に暮らす人が増え、ふるさとが美しいまま未来に引き継がれていくようにすることは、農山村に止まらず、幅広い大きな波及効果を生み出す。以下、その期待できる効果を説明し、それを実現する具体的方策を提案したい。 

 今、農山村は、限界集落という言葉が端的に示すとおり、少子高齢化・人口減少で非常に苦しい状況に追い込まれている。産業としての農林業だけではなく、景観保全・災害防止など農林業がもつ多面的機能、さらに集落そのもの維持が危機に瀕している。役割を担える人が極端に減って、共同体の自治・運営も、伝統のお祭りも、続けていくことが難しい。

 わたしが暮らす長野県の中川村も、過疎自治体の指定を受けている。中川村の村長として、なんとかせねばと様々な取り組みをしたが、手ごたえのある成果は上げられなかった。自治体でできることは、子育て支援と他の自治体との人の引き抜き合戦くらいだ。企業誘致という声もしばしば上がるが、不向きな町村も多い。企業進出によって自然環境や農山村の美しい暮らしがかえって損なわれる事例も少なくない。

 過疎化の逆転は、基礎自治体個々の努力で達成できることではないのだ。
 農山村衰退の根本の原因は、個々の自治体ではなく、もっとずっと深いところにある。そして、それは、日本全体が抱える多くの問題(例えば、少子化、格差と貧困、自殺の多発など)あるいは、世界全体が直面する様々な課題(例えば、気候変動、極端な富の偏在、南北問題、資源の収奪・浪費、環境汚染など)の根本原因でもある。

 つまりは資本主義が肥大して限界に達している。資本主義に宿る歪が、「経済成長」によって今あちこちに噴出している。
 この歪を修正すれば、資本主義を立て直すことができるのだろうか。そう考える人もいる。「新しい資本主義」という言葉は、そんな考えなのだろう。
 あるいは、この歪は資本主義の本質であって、それがついに覆い隠せない段階に達したのだ、と考える人もいる。わたしが最近読んだ本で言えば、斎藤幸平氏やトマ・ピケティ、デヴィッド・グレーバーなどがおそらくそうだろう。彼らは、資本主義の継続はもはや不可能で、それにとってかわるものが必要だと考えている。

 斎藤幸平氏は、グリーン・ニュー・ディールやSDGs(持続可能な開発目標)を、罪悪感を薄めつつ浪費を続けるための免罪符、阿片、エコロジーをよそおった偽善だとして批判している。また、氏は、欧米の4人の研究者による本『なぜ、脱成長なのか』(NHK出版)に、「資本主義に亀裂を入れるために」というタイトルで長文の解説を書いている。ピケティは、『来たれ、新たな社会主義』(みすず書房)の2ページ目に「いまや私たちは、資本主義を超える新しい体制・・・新しい形の社会主義について考える必要がある」と主張している。

 わたしも彼らと同じ考えだ。
 成長し増殖しようとする資本の盲目的意志だけが貫徹されて、自然は乱獲され、環境は破壊・汚染され、人間らしい暮らしも伝統文化も踏みにじられていく。それが資本主義の本質であり、その結果が今あちこちに現れている。「限界集落」もそのひとつだ。
 岸田首相の「新しい資本主義」は、世界史が今突き当たっている事態の深刻さを把握できていない。資本主義の部分的な修正では直面する課題は克服できない。

 となると、資本主義に替わるものをつくり出さねばならないことになる。それはどんなものか。
 ピケティは、先に挙げた本で、累進性を高めた税制度(前掲書p14の表1では、最高税率90%の所得税、資産税、相続税)で超富裕層に課税して、極端な富の偏在を是正すべきと提案している。(世界の1%の最富裕層が、世界の下位50%の貧困層全体の2倍のCO2を排出しているというレポートがあり、富の偏在を糺さなければ気候変動は防止できない。)さらに、税逃れの国外逃避には出国税を課すというアイデアにも言及している(2020年の米国大統領選民主党予備選候補ウォーレンの提案)。分配については、ベーシック・インカムや25歳で誰もが12万ユーロを受け取る最低相続保障などを提案し、あわせて公的教育の充実などを訴えている。
 斎藤幸平氏は貨幣経済を縮小して(=脱成長して)コモンズを復権すること、ケア労働を正当に評価することを主張しているし、『なぜ、脱成長なのか』は社会連帯経済の拡充を提案している。ピケティも企業経営に労働組合が参画すべきと説いている。 これらの提案は重なり合っており、ひとつの共通した未来社会のイメージが浮かび上がってくる。

 ただ、それは現在のグローバル資本主義に席巻された社会の在り方とはずいぶん異なっているので、それにむけて移行していくには、どこから手をつければいいのか、途方に暮れてしまう。特に税制度の変革など、シミュレーション上は可能でも、既得権益層などからの激しい反発が予想され、政治的には容易ではない。
 なにより、新たな仕組みや制度づくりに先立って、わたしたち自身の根本的な意識改革が必要だと思う。
 <人並みの生存>のために追い立てられ駆り立てられて生きる今のあり方に疑問を持ち、立ち止まって自分の生き方を振り返ってみることが必要だ。自分が本当に生きたい生き方を考えることである。それがなければ、資本主義に替わるものを模索するといっても、ただの思考実験に終わるだろう。
 「生存のために自分を殺してブルシット・ジョブで競争を強いられるような毎日は嫌だ。別の生き方をしたい。」
 そんな思いが広がらなければ、資本主義に替わる考え方がスタンダードになることはない。

 このように考えたとき、最初の一歩として思い浮かんだのが、農山村持続化個人給付金である。
 少し説明が必要だろう。
 これまでさまざまな農山村支援策が講じられてきた。しかし、成果は乏しく、限界集落化はますます加速している。大胆な対策が必要だ。

 農山村に集落の一員として暮らす人たちとその同居家族一人ひとりに、毎月一定の金額(例えば3万円)を給付するのだ。
 農山村ベーシック・インカムといった方がピンと来る人もいるだろう。ただし、ベーシック・インカム(BI)と名乗っても危険なものもある。新自由主義者が説くBIは、名ばかりのBIだ。不十分な給付で「最低保証は確保された」と強弁して福祉を削減・廃止し、「あとは自己責任」と切り捨てようとしている。これでは意に添わない賃労働でも生存のために続けざるを得ない。本来のBIは、意に添わぬ賃労働や人間関係から離脱する自由を与え、生きたい生き方を可能にするものでなければならない。
 (BIについては、「ベーシック・インカムは妙案かも」http://mujou-muga-engi.com/b-income/ を一読願いたい。)

 農山村持続化個人給付金は、BIからの着想だが、BIではない。農山村からの転出を減らし転入を増やし、農山村に暮らす人を増やして農山村が未来に引き継がれるようにするための給付である。農山村の集落は、コモンズの塊だ。コモンズそのものと言ってもいい。日本の伝統的なコモンズを守り引き継ぐための給付である。
 BI同様に個人への給付がよいと考える理由は、個人、特に女性や若い人たちが自分の考えでこれまでにない取り組みを農山村で始めるようになることを期待するからだ。

 月3万円では少ないと感じる人も多いだろう。確かにBIと名乗れる金額ではない。本格的なBIを実現するには、ピケティが提案するような超富裕層への大幅増税やトービン税のような新しい税の創設、国家財政やお金についての考え方の抜本的変革など様々な改革が必要になる。とても大掛かりな話だ。それに対して、農山村持続化個人給付金は、最初の一歩として現行の諸制度を変えないままで押し込める規模を考えた。
 月3万円は個人への給付なので、3人家族なら毎月9万円になる。家族でなくても考えを同じくする仲間の共同生活なら、人数分の給付を合算することができる。定住、転入の支援としては、かなり期待できるのではないだろうか。

 対象とする農山村の範囲は、とりあえずは過疎法が指定する過疎自治体から始めるのがよいと思う。(将来的には、全国無条件のユニバーサル・ベーシック・インカムにまで広げていきたいが、その場合の給付額はもっと必要になるし、税制度や国の予算策定の考え方も大幅に変えなければならない。初めの一歩は、まずは抵抗少なく導入可能な形で始めるべきだと思う。)

 対象となる人は、集落に暮らして集落の活動(共同作業など集落の自治・運営・管理、またお祭など)に参加している人たちとその同居家族だ。過疎自治体に住民票があってもそこに暮らしていない人や、暮らしていても集落に加入していない人は、対象としない。集落の自治組織が認定し、それに基づいて基礎自治体が決定する。

 副作用はほとんどないと思う。あるとすれば、隣接する過疎指定されていない自治体からの人口移動くらいではないだろうか。それは交付税算定の際に配慮するといった技術的な方法で対処できるだろう。

 農山村持続化個人給付金は、現行の資本主義の枠組みの中で始めようとするものだが、資本主義に取り込まれた生活を問い直すような変化をもたらすに違いない。その一方で既得権益層の抵抗もないだろう。
 現在でも、都会の(資本主義に取り込まれた)生活に疑問を感じ、地方での新たな生活を考える人は多い。かく言うわたし自身が、20年ほど前に広告会社を早期退職し、家族とともにIターンしてきた。しかし、ほとんどの人は、地方の新天地で収入を確保できるか確証が持てず、あきらめるている。
 だが、農山村持続化個人給付金があれば、踏み切ることができる。半農半Xで生きたい生き方を始めることもできる。生存のためにブルシット・ジョブに追い立てられ疲れ果てた都会での生活から足抜けをして、自然の中で自分のペースでじっくりと自分が大切だと思うものを大切にする暮らしができる。これまでふるさとを離れざるを得なかった若者も、ふるさとに残って自分のプランにチャレンジすることができる。

 制度を利用して農山村でのびのびと生きたい生き方をする人が増えれば、われわれの意識の変革につながる。人々の生き方が変わってくる。この流れを拡大していくことができれば、資本主義に替わる未来社会の模索が本格化するだろう。 「蟻の一穴」という言葉がある。大きな堤も蟻の穴ひとつから決壊することがある、という意味だ。農山村持続化個人給付金が蟻の一穴となって「資本主義に亀裂を入れる」ことができるかもしれない。

 いや、とりあえずは、資本主義云々は置いておいて構わない。資本主義を修正すればすむのか、資本主義に替わるものが必要なのか、間もなくはっきりするだろう。
 それよりも喫緊の課題は、ふるさとを守り引き継ぐことだ。どこもかしこも雑草に埋もれた空き家と荒廃農地だらけ、歴史あるお祭りも続けていくことができない。ふるさとや伝統文化を守ることこそ、保守の立場ではないか。
 「GPSによる自働農機やドローンの導入で、高齢化・人口減少でも農業は大丈夫」などという発想では、ふるさとにますます人はいなくなる。資本の思惑に媚びを売って、ふるさとをないがしろにする発想だ。保守ではない。
 ともかく人を増やさなければ、ふるさとを維持することはできない。農家でなくてもいい。集落の仲間として集落の活動に参加してくれる人だ。人が増えれば、農林業だけでなく、商店やサービス業も息を吹き返す。

 過疎町村だけでなく、日本全体にもたくさんのメリットが生まれるだろう。
 食料自給率は回復する。都市部に比べて地方の出生率は高いから、少子化対策にもなる。都市の過密な状況も緩和される。保育園の待機児童問題も、農山村にはない。いざとなれば農山村で伸びやかな暮らしを始められる仕組みを提供できれば、都会の仕事や暮らしに疲れた人たちも追いつめられることはない。日本の高い自殺率も下げられるだろう。

 どこにそんな金があるのか? そんな疑問があるだろう。しかしこれは、なんとかできる。
 累進性強化というような税制度の大幅な変更には既得権益層の抵抗が予想されるが、ひとり月額3万円の農山村持続化個人給付金の導入には、そのような増税は必要ない。
 過疎法で指定された全国の過疎区域人口は、約1160万人だ(「みなし過疎市町村」を含む。一般社団法人全国過疎地域連盟HPより)。
 これに、毎月3万円、12か月をかけると、年間約4兆2千万円になる。
 一方、日本の国家予算は、一般会計が約100兆円、特別会計総額は約400兆円だが重複計上を除くと約250兆円。つまり、一般会計と特別会計を合わせると、年間国家予算は350兆円ということになる。
 すなわち、農山村持続化個人給付金に必要な予算は、国家予算の1.2%にすぎない。予算編成の工夫次第で十分にねん出できる額ではないだろうか。
 この制度で過疎自治体の人口が一割増えたとしても、比率は、1.3~1.4%だ。過疎に苦しむ集落で人が一割増えて、その人たちが集落(コモンズ)のために汗をかいてくれるなら、極めてありがたいことだ。効果を考えれば、知恵を絞って費用を捻出するだけの価値はある。

 どうだろうか。共感してくれる人はいるだろうか。 過疎自治体で将来に不安を抱いている人たち、そして、資本主義に取り込まれた毎日から足抜けをしたいと考えている人たちを中心に、様々な人と考えを深めあい、実現を模索できればと思う。
 あるいは、この制度の法制化を求める意見書を国に提出することを求める請願・陳情を過疎自治体の議会に提出して、採択してもらい、過疎自治体から国に声を上げてもらうのも効果がありそうだ。

 ご意見をお聞かせ頂ければ嬉しい。

 最後に、デヴィッド・グレーバーが大著『負債論』の締めくくりに書いている「勤勉ではない貧者」へのエールを引用しよう。
 「勤勉ではない貧者」とは、資本主義に取り込まれた生活から足抜けをして、自分が大切だと思うことを大切にしてじっくりと暮らす人のことだと思う。

 「だからこそ、わたしは勤勉ではない貧者を言祝いで、本書を終えたい。少なくとも、彼らはだれも傷つけていない。彼らが、余暇の時間を、友人たちや家族とすごすこと、愛する者たちと楽しみ、配慮をむけあうことに費やしている以上、彼らは考えられている以上に世界をよくしているのだ。おそらく、わたしたちは、彼らを、わたしたちの現在の経済秩序がはらんでいる自己破壊衝動を共有しようとしない、新しい経済秩序の先駆者とみなすべきだろう。」
『負債論』酒井隆史監訳、高祖岩三郎・佐々木夏子訳 以文社 p576

2022,7,18     曽我逸郎


2019 05.21

「全国首長9条の会」結成準備会

「全国首長9条の会」結成準備会の報告。

 5月18日、「全国首長9条の会」結成準備会が、神保町の日本教育会館で開催されました。首長とは市町村長のことで、この会は現職だけでなく元職も含めた集まりです。

 実はこの集まりは、「全国首長9条の会」を立ち上げることを目指す交流会として開かれました。<今後各都道府県毎にメンバーを募り、「全国首長9条の会」を立ち上げよう>という提案がされたのですが、議論の中で「安倍政権はいつ仕掛けてくるか分からん。そんな悠長なことではだめだ」という声が上がり、急遽この交流会を結成準備会として位置づけ直し、早急に設立総会の準備を進めることになりました。その間に新メンバーもできるだけ増やし、盛大に設立の記者会見をして、安倍「改憲」を阻止しよう、という決意です。

 ここに至る発端は、2008年に宮城県で市町村長の九条の会が立ち上がったことに始まります。お声がけを頂いて、わたしも名ばかりのメンバーになりました。<市区町村住民の生命財産を守ることが首長の究極の使命であり、戦争につながる9条の「改憲」は絶対に許せない>という考えは広がって、「東北6県市町村長九条の会連合」となり、ついに全国の市町村長の集まりへと拡大する運びとなったわけです。

 当日の出席者は、小森陽一先生(九条の会事務局長)、川井貞一元白石市長(宮城県の会長)、鹿野文永元鹿島台町長(宮城県副会長)他、計22名。「脱原発をめざす首長会議」からも、上原公子元国立市長、村上達也元東海村長など(わたしも含め)数名の参加がありました。出席されていなかったけれど、伊波洋一元宜野湾市長(参議院議員)や保坂展人現世田谷区長、山内徳信元読谷村長(元参議院議員)、稲峰進元名護市長らも名を連ねておられます。長野県では、高橋彦芳元栄村長、田中勝己元木曽町長、とわたし曽我。メッセージも、玉城デニー沖縄県知事他から多数寄せられました。

 参加者は一人ひとり思いを述べ、安倍首相が「自衛隊員募集に市町村は非協力的」というキャンペーンを張ったことなどが批判されました。
 わたしは、以下のようなことを申し上げました。

 日本国憲法前文は「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と述べている。「名誉ある地位を占めたい」とは、そういった世界の実現に向けてリーダーシップをとって貢献するという意味だ。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏を免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言している。これは、最近はやりの浅薄な「**ファースト」の対極だ。そして、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と述べて締めくくっている。
 しかるに、安倍首相は、この崇高さを理解できず、いじましい憲法と発言した。憲法前文で誓った努力を一切せずに、ただ米国に阿ることでみずからの保身を図っている。
 集団的自衛権は、攻撃された米軍を助けると言うが、戦争はいつもやられたふりで始まる。いうなればこうだ。
 「あ、おまえ今、俺様(米国)の足、踏んだな! おい、自衛隊、こいつが俺の足を踏んだんだ。ちょっとシメテやれ」
 結局、自衛隊員(日本の若者)が、米軍の指揮命令下で闘わされることになる。しかも、日本の税金で米国から高額で買った兵器で、米国の命令の元に、米国の戦争で。何重にも売国的だと言わざるを得ない。
 安倍首相は、国民の生命・財産を危険に晒すことで、米国に媚び、保身を図っている。住民の生命財産を守ることを究極の使命とする市町村長は、これを容認することはできない。

 安倍「改憲」策動に立ちはだからねばなりません。全国の首長の皆さんに参集を呼びかけます。また、市区町村住民の皆さんから、地元の現職の市区町村長、元職の方々に加入をお勧めください。

 「全国首長9条の会」からも公的な発表があると思います。ご注目下さい。

2019年5月21日
#曽我逸郎立憲民主党長野5区調整中

(上記ハッシュタグは、今の中途半端な立場のわたしの花押のようなものです。「全国首長9条の会」は、政党にとらわれない、志を共にする集まりです。)

2019 02.25

ベーシックインカム『お金のために働く必要がなくなったら~』を読んで

 同志社大学の山森亮先生から、新著『お金のために働く必要がなくなったら、何をしますか?』を頂戴した。(光文社新書。エノ・シュミット、堅田香緒里、山口純各氏と共著)

 拝読していろいろと考えた感想をお送りしたので、ここにも掲載しておく。ベーシック・インカムについて詳しく御存じでない方は、先にhttp://mujou-muga-engi.com/b-income/を読んで頂けるとありがたい。

*****

前略

 『お金のために働く必要がなくなったら、何をしますか?』お送り下さり、ありがとうございます。拝読いたしました。

 ベーシック・インカムそのものについては勿論、BIに繋がってる思想や、BIがもたらすであろうものまで、社会のあるべき姿、そこにおいて人はどう生きるのかなど、掘り下げて論じられており、大変刺激を受けました。
 現代は、資本主義、市場における交換経済ばかりが幅を利かし、互酬経済は蚕食され痩せ細っています。経済のあり方だけでなく、我々の考え方までお金に支配されています。出産や障碍のある人を「生産性」で論ずる輩は、まさにこの典型ですし、学生は賃労働者として有利なポジションを得ることばかり考えています。そして、思いどおりに賃労働者になったら、明日食うためにあくせく賃労働を続けて、ふと気づいたときには、もうほとんど明日がなくなっているのです。
 BIは、こういう歪なありかたを健全な状態に戻してくれるでしょう。さらには、BIを頭の中で考えてみるだけでも、金額に換算された効率や生産性ではない、もっと大切なものがあることに気づかせてくれます。

 2017年4月の同志社大学での集まりで、エノ・シュミットさんにご紹介いただいたのに、短時間しかいられずしっかりとお話を聞けなかったことを、大変残念に思いだしました。本町エスコーラの集いにも行けず、貴重な機会を逃したと本を読んで気づきました。

 以下、刺激を受けて思ったこと、必ずしも肯定的でないものもありますが、書いてみます。

 シュミットさんの言っておられる社会彫刻という言葉に目を開かれました。
 わたしも世の中がもっとよくなればいいという思いを少なからず持っていますが、政治的なことは不純な要素が多く、煩わしいとも感じています。しかし、政治的なことも、よりよい社会を創ろうという創作活動だと考えれば、ポジティブに捉えることができます。ひとりで過ごすことの多いわたしは、音楽のバンド活動や演劇のような集団での創作活動に憧れていましたが、よい社会を創ろうとする社会彫刻は、まさに集団での創造行為の最たるものです。勿論、意見を異にする人たちとの協働には、一人での創作を超えた創造の苦しみがあるでしょうが、逆にまた、喜びもあるでしょう。政治的な活動も、少し前向きにとらえてみようと思いました。

 「BIは人を怠惰にする」のではなく、「言われるとおりに生きて自分は何をしたいのか考えない」怠惰を克服させる、という言葉は、ぐさりと突き刺さりました。
 ただ、どれだけの人が「何をしたいか考えない怠惰」を克服できるのか、とも思います。山口さんは、<人は食うために「こうあるべき」を内面化してしまい、「こうしたい」が分からなくなっている>と書いておられます。『自由からの逃走』という本がありました。「小人閑居して不善をなす」という言葉もあります。BIを得たけれど、自分がなにをしたいのか分からない人たちは、新興宗教に取り込まれてBIを貢ぐくらいならまだしも、新たなナチズムの勃興を招くかもしれません。拙速なBIには危険があり、みんながしっかりと自分の考えを持つようにならねばならないのでしょうか。だとすれば、これはBIの実現以上に実現困難な「夢物語」のようにも思えます。(わたしが、釈尊の教えによって世の中の執着のレベルを下げて、世界の苦を減らせないか、と考えているのと同じ程度に。)

 ゲッツ・ベルナー氏の本ではじめてBI を知ってワクワクした時は、BIによって人の嫌がる仕事の対価は正当に上昇する、と考えました。長期的にはそうなると思います。しかし、近年の低賃金が当たり前になった状況を見ていると、BI導入の初期には、問題が生じそうです。
資金のある大企業は、賃金を上げるなり、AIや自働化で対応をするでしょう。しかし、低賃金で働いてもらってもようやくやっとやっとの経営をしている中小企業の場合、BIは今以上の人手不足を招き、倒産が相次ぐかもしれません。そうなれば、生まれたばかりのBIはたちまち廃止されてしまいそうです。BI導入後、社会構造がBIを前提としたものに変化するまでの間、中小企業には人件費の増加分を補填するとか、なんらかの対策が必要になるでしょう。
 
 堅田さんのジェンダーの視点からの問題提起については、洗濯物の取り込みと皿洗いを時々する程度の家事労働しかしていないわたしには、言えることが少ないのですが、BIは、賃労働の面でも家事労働の面でも差別されている女性に、賃労働も家事労働も放棄する自由をもたらすものだと思います。BIは、抑圧的搾取的な傾向のある家族を壊すでしょう。そのため、日本社会の垂直ピラミッド支配体制を存続させたいと思い、その底辺を支える「家族」を重要視する一部の人々から、BIは激しく攻撃されるに違いありません。しかし、これはまさにBIの存在意義です。抑圧的搾取的な家族を壊す一方で、BIは互いに尊敬しあう自律的な共同体を育むことでしょう。

 山口さんの言っておられる、交換と再分配と互酬の三つの経済パターンで、今幅を利かせている交換経済から互酬に比重を移していくべきだという主張、同感です。ただ、p233で「縮小経済を目指し、貨幣を媒介とした雇用と消費を減らしていきたい」ともあって、同感しつつも、そうなると税収も減るな、と思いました。
 これまでわたしが目にしてきたBIの財源シミュレーションは、現在の財政規模をベースにしたものでした。財源についても、BI導入時と、BIが世の中の有り様を変化させた後とを分けて、別々にシミュレーションする必要がありそうです。
 BIは人の生き方、考え方に大きな変化をもたらし、社会も大きく変えることでしょう。その変化を、導入期、移行期、定着期と区別して想定し、影響を見極めて対応を想定しつつ進めなければなりません。人々が自分で考えるようになることを嫌う勢力は、BIを葬り去るべく問題が起これば付け込もうと虎視眈々と狙うでしょうから。
 また、今は経済指標は数字で把握され、(素人なので分かりませんが、多分)市場経済だけしか反映していないのではないかと思います。GDPに代わるGDE(Gross Domestic Exchange)?といった指標が欲しくなりますが、「交換」は数字による把握は難しそうです。幸福度といった数値化もあるようですが、どの要素をどの程度重視するか、恣意的にならざるを得ないでしょう。恣意的ではない、客観的な分析のベースが欲しい気がしますが、数値化を求めるのも旧態依然の思い込みなのでしょうか。

 以上、とりとめのない感想で申し訳ありません。
 行き詰った資本主義の閉塞を打ち破るために、引き続きBIの御研究を進めて頂きたく、何卒よろしくお願い申し上げます。

草々

山森亮先生


2019年2月24日        曽我逸郎

2018 12.02

きむきがんさんの一人芝居『在日バイタルチェック』を見て

昨日(2018年12月1日)、長野朝鮮初中等学校(松本市)で、きむきがんさん・劇団石(トル)の一人芝居『在日バイタルチェック』を見てきた。以前辺野古に行ったときに来ておられて、お話しするチャンスはなかったけれど、面白い、でも凄い一人芝居をする人だよ、と教えられて気になっていた。

朝鮮学校に行ったのは初めてだ。すこし小さめの体育館に体操用のマットを敷き、後ろにはパイプ椅子を並べ観客席がつくってある。父母会の主催だそうだが、観客の大半は女性。中学生たち?も団体で観ていた(授業の一環?)。聞こえる会話は、日本語と朝鮮・韓国語の両方。日本語の方がやや多いか。(朝鮮語というべきなのか、韓国語というべきか。どちらを使うかによって、北・南のどちら派か判別されるのだろうか。その辺りの事情もわたしはよく分かっていない。)

きむきがんさんの芝居は、エネルギッシュで楽しい。福祉施設に通い、90歳の誕生日を祝ってもらう在日一世のオモニと職員たちのやり取りを演じ分けるのだが、語られる思い出話は、当然重くつらく悔しい。でもそこにたくましくもかわいいオモニのキャラクターがまぶされている。

わたしは関西で育ったので、在日韓国朝鮮人の人たちへの差別的な言葉は、日常的に聞いていた。けして意識は高くなかったので、私自身面白がって口にしていた。しかし、周囲に在日の人はいなかった。いや、いたかもしれないが、そうとは知らないままだったのかもしれない。高校の、さほど親しくはなかった先輩が、卒業後北朝鮮(共和国と言うべき?)の大学に進んだと聞いて、へぇそうだったのかと後から思ったことはあった。
文字で読んで想像していた差別を、改めて芝居でオモニの口から生々しく聞くと、ハラワタの煮えくり返る出来事が連続する毎日だったろうと思う。

わたしは、日韓・日朝関係をよくするにはどうすればいいか考えるために、韓国・朝鮮の人の話を聞きたいと思っている。韓国に行ったことがないので、行かなければ、とも考えている。
しかし、韓・朝鮮半島よりももっと身近に在日韓国・朝鮮人の人がいたのだ。先日は「信州渡来人倶楽部」の集まりに参加して、朝鮮半島情勢を聞いたが、それ以上に、日本において差別され口惜しい思いをしてきた在日韓国・朝鮮人の人たちの体験を聞くべきではないのか。

この夏に出た本『苦をつくらない』http://www.koubunken.co.jp/book/b372784.html の冒頭で、インドのアウト・カーストに位置づけられたダリットたちへの差別を取り上げ、「差別される側よりも、差別する側こそが釈尊の無常=無我=縁起の教えを学び、執着のレベルを下げ、苦の生産を鎮めるべきだ」と書いた。
しかし、遠いインドのことではなく、ここ日本において、在日韓国・朝鮮人をはじめとする人たちへの苛烈な差別の実態を注視し、わたしたちがどのように差別をしているのか知らなければいけない。なぜそんな差別をしでかすのか分析すれば、苦を生む執着の反応がどのように発現するのか、発見できることがあるだろう。
わたしたち自身の執着や我執をしっかりと見極め、世界全体の苦の生産を鎮めるために、とても重要なことだと思う。

写真は、きむきがんさんと、旦那役で引っ張り出された観客。ちょっとピンボケ

2017 11.02

野党の質問時間を減らそうとするのは民主主義の真逆

 衆議院選挙で多くの議席を獲得すると、たちまち与党側は、議会での質問時間を議席数で比例配分すべきだと言い出した。

 野党:与党の質問時間の割合は、以前は7:3だったものを、自民党が野党の時代に8:2にするよう要求し、当時の与党の民主党が了解したものであるという。
 自分たちが要求して野党の質問時間を増やした経緯を頬かむりしてまでこのような恥知らずなことを言い出す現政府与党は、よほど質問されたくないのであろう。

 このサイトでは何度も申し上げていることであるが、我々は皆凡夫である。不完全で失敗ばかりしている平凡な人間だ。その凡夫が寄り集まって、なんとかなるべく間違いの少ないやり方で社会を運営していかねばならない。その方法が、民主主義である。
 民主主義は、多数決ではない。多数決では、「空気」に操られた付和雷同で大きな間違いを犯しかねない。特に日本人の場合、「空気」の乗ってはしゃぐ輩や、「空気」に抵抗できずに唯々諾々と服従する人が多いように思われ、おかしな方向に走り出す危険性は高い。みんなで歩調を合わせることばかりに躍起になって、行先もわからぬまま突き進む「ムカデ競争」社会に陥りがちだ。
 本当の民主主義は、熟議である。少数意見であれ黙殺せず、議論し批判しあう。間違っているものは論破し、異なる意見は批判しあうことで互いに考えを深め合っていく。そのようにして凡夫の過ちをできる限りそぎ落として正しい答えを探っていくのが本来の民主主義だ。
 今回の、野党の質問時間を減らそうとする与党の考えは、民主主義の真逆である。政府与党、すなわち執行する側は、安倍首相の言葉どおりに、批判を積極的に聞いてそこから学ぶ「謙虚な」姿勢を持たねばならない。このところの日本は、政治的にも経済的にも重要性を失い凋落の一途なのだから、どのような国にすべきか熟議によって一から真摯に問い直さねばならない。政治が正しければ、国民の生活を向上させ、世界の人々にも貢献する国になれるはずだ。

 野党の質問時間を削減しようとする今回の与党の態度は、国民のことはどうでもよくて、よい国づくりをしようとする志もなく、自分たちの権力維持だけが重要で、誰にも批判させないという考えの表れである。

2017 10.25

日本経済の現況

 今回の衆院選(2017年)に立候補したことで、古い友人からメールを貰った。由緒正しい企業の役員をしている。忙しい立場だろうが、これからも続けてやりとりができると嬉しい。
 下は、私からのメール。

*****

 忖度させたり、型にはめるばかりで、のびのびと個性を発揮させて活躍させることをしない日本の空気が、わくわくさせる新製品、新サービスを生めなくしており、日本経済の沈滞を招いていると思います。
 安倍政権は時代遅れになりつつある大企業を優遇するばかりで、大企業は人件費をコストと考え削減し、その結果人々の購買力は低下し、内需はやせ細る。優遇され人件費を削減しても、新たな投資先を見つける目を持たない大企業は、内部留保を貯め込むだけで、国内で金が回っていかない。内部留保は海外のタックスヘイブンに流出し、その金は、海外の元気のいい先端企業に投資され、ますます日本経済は置いてけぼりをくう。
 アベノミクスも、投資家にとって分かりやすく儲けを吸い取りやすいやり方だから投資家は歓迎しているのであって、一般国民の実生活の底上げには繋がっていない。
 要は、バブルの時に実力もないまま成功体験に酔いしれた連中が、その思い上がりのまま今のトップに居座っているのが、諸悪の元凶でしょう。政治も含めて。
 日本経済の現状については、概ねこのように感じています。
 いずれまたご教授ください。じっくりお話を伺える機会を楽しみにしております。

****様
             2017年10月24日                    曽我逸郎

2017 10.24

御礼。衆院選、残念ながら安倍政権&小池新党に立ちはだかれず。 
2017年10月24日
今回の衆議院選挙でお世話になった皆様へ
御礼
長野5区候補者だった
曽我逸郎
 今回の選挙戦では多くの方々に一方ならぬご支援を賜り、真に有難うございました。
 ひょっとすると、という期待もありましたが、やはりそんなに甘いものではありませんでした。運動中、今の政治に危機感をもった人たちの熱い思いを何度も感じましたが、得票数をみれば、広がりをつくるには至らなかったと認めざるを得ません。多くの人々の胸にわだかまっている不安を受け止めて、一つの力にまとめ上げる受け皿になれなかったことは大変残念です。やはり時間が足りませんでした。
 小池新党の出現を受け10月2日夜に急遽開いた会議で何の準備もないまま出馬することになり、翌3日に記者発表、10日公示という慌ただしいスケジュールをあらため思い返すと、よくできたものだと感心もします。しかも、伊那谷市民連合という、野党共闘を呼び掛けるためだけの、自分たち自身では選挙をしたこともない寄り合い所帯でありました。伊那、中川、飯田、それぞれに個性的で独自のスキルを備えた人たちが梁山泊のように結集し、事務所の開設、選挙カーの準備、マスコミ対応、広報・印刷物の制作、集会などの仕込み、食事の手配、電話かけなど、私の気づかないところでもたくさんの皆さんが自主的に懸命に取り組んで下さいました。そのおかげで短期間にもかかわらず、これだけの票を得ることができたのだと思います。
 また、共産党、社民党、緑の党、上伊那の立憲民主党の皆様のご支援にも感謝します。皆様のご協力、アドバイスでなんとか選挙戦をやりとおすことができました。特に、共産党の水野さんは、出馬に向けた準備を重ねてこられたのに、無所属候補が出るならと、道を譲って下さいました。真に申し訳なく思います。
 今回の選挙を総括すれば、小池百合子氏にかき回されてしまいました。改憲勢力に対抗する一枚岩をつくり上げることができなかったのは、非常に残念です。安倍首相と小池氏とは同類であり、そのどちらの陣営にも伊那谷から一議席を与えてはならなかったのに、、。
 
 選挙が終わり、強い勢力を維持した与党とその補完勢力は、これまで以上に自分勝手な振る舞いを始めることでしょう。改憲の画策もいよいよ本格化してくると思います。
 それに対抗するため、今回の取組みの経験とつながりを活かして、市民の側の強力な体勢をつくることが、とても重要だと考えます。
 また、若者たちに、自分たちの苦しさの原因は国の仕組みにあり、国の仕組みを変えるには政治に関心を持つことが必要だと分かってもらうことも大きな課題です。
 何卒、引き続きのご尽力をよろしくお願い申し上げます。
 大変ありがとうございました。
 
得票数
  宮下一郎(自)   91,542
  曽我逸郎(無)   48,588
  中嶋康介(民→希) 43,425

 

2017 10.05

安倍政権・小池新党に立ちはだかる 衆院選挙に出馬します

 安倍政権がやってきたこと、やろうとしていることは、問題だらけです。
 憲法改変、集団的自衛権、共謀罪、TPP、種子法廃止、お仲間への利益(税金)誘導、原発再稼働、北朝鮮危機の煽り立て、などなど、数え上げればきりがありません。
 それ以上に、進め方のスタイルが問題です。情報の隠蔽、証拠隠滅、憲法や法制度の精神を軽んじた都合のいい解釈、その場しのぎの言い逃れ、質問・批判からの逃亡、人間かまくらに代表される力づくの運営、などなどの横着ぶり。熟議によって互いに考えを深めあい正しい答えを探るという民主主義の精神からはるかに隔たっています。もうそろそろ日本の政治をちゃんとしたものにしなければなりません。
 そういう考えで、長野5区において民進、共産、社民の3党に共闘と候補者一本化を求めてきました。ところが、実現の前に小池新党が立ち上がり、民進党の大半がそこへなだれ込むことになりました。
 マスコミの報道は、今回の衆院選を安倍政権・小池新党の政権選択選挙と位置付けています。しかし、安倍・小池両氏の考え方は、非常に近しい。選挙が終わってしまえば、小池氏はまた「ウフフ」と笑って、安倍氏と手を結ぶかもしれません。その公算は大変大きいと思います。その時は、憲法改変に必要な三分の二どころか、四分の三、ひょっとすると5分の四さえ伺う状況になっていることも考えられる。そうなると、「全権委任をもらった」と都合のいい拡大解釈をして、これまで以上に横着な国政運営が行われることでしょう。その結果、どんな恐ろしい結果にいきつくか、想像もできません。
 安倍・小池両氏に抵抗する人間が全国で出馬し、立ちはだかる必要があります。政権奪取は無理でも、「有権者をなめると怖いな、丁寧に手続きを踏んだ政治をしなくてはいけないな」という反省はさせねばなりません。安倍・小池両氏に立ちはだかる一人にならねば。この思いで2017年衆院選挙長野5区に立候補します。

2017年10月5日    曽我逸郎