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2019 02.25

ベーシックインカム『お金のために働く必要がなくなったら~』を読んで

 同志社大学の山森亮先生から、新著『お金のために働く必要がなくなったら、何をしますか?』を頂戴した。(光文社新書。エノ・シュミット、堅田香緒里、山口純各氏と共著)

 拝読していろいろと考えた感想をお送りしたので、ここにも掲載しておく。ベーシック・インカムについて詳しく御存じでない方は、先にhttp://mujou-muga-engi.com/b-income/を読んで頂けるとありがたい。

*****

前略

 『お金のために働く必要がなくなったら、何をしますか?』お送り下さり、ありがとうございます。拝読いたしました。

 ベーシック・インカムそのものについては勿論、BIに繋がってる思想や、BIがもたらすであろうものまで、社会のあるべき姿、そこにおいて人はどう生きるのかなど、掘り下げて論じられており、大変刺激を受けました。
 現代は、資本主義、市場における交換経済ばかりが幅を利かし、互酬経済は蚕食され痩せ細っています。経済のあり方だけでなく、我々の考え方までお金に支配されています。出産や障碍のある人を「生産性」で論ずる輩は、まさにこの典型ですし、学生は賃労働者として有利なポジションを得ることばかり考えています。そして、思いどおりに賃労働者になったら、明日食うためにあくせく賃労働を続けて、ふと気づいたときには、もうほとんど明日がなくなっているのです。
 BIは、こういう歪なありかたを健全な状態に戻してくれるでしょう。さらには、BIを頭の中で考えてみるだけでも、金額に換算された効率や生産性ではない、もっと大切なものがあることに気づかせてくれます。

 2017年4月の同志社大学での集まりで、エノ・シュミットさんにご紹介いただいたのに、短時間しかいられずしっかりとお話を聞けなかったことを、大変残念に思いだしました。本町エスコーラの集いにも行けず、貴重な機会を逃したと本を読んで気づきました。

 以下、刺激を受けて思ったこと、必ずしも肯定的でないものもありますが、書いてみます。

 シュミットさんの言っておられる社会彫刻という言葉に目を開かれました。
 わたしも世の中がもっとよくなればいいという思いを少なからず持っていますが、政治的なことは不純な要素が多く、煩わしいとも感じています。しかし、政治的なことも、よりよい社会を創ろうという創作活動だと考えれば、ポジティブに捉えることができます。ひとりで過ごすことの多いわたしは、音楽のバンド活動や演劇のような集団での創作活動に憧れていましたが、よい社会を創ろうとする社会彫刻は、まさに集団での創造行為の最たるものです。勿論、意見を異にする人たちとの協働には、一人での創作を超えた創造の苦しみがあるでしょうが、逆にまた、喜びもあるでしょう。政治的な活動も、少し前向きにとらえてみようと思いました。

 「BIは人を怠惰にする」のではなく、「言われるとおりに生きて自分は何をしたいのか考えない」怠惰を克服させる、という言葉は、ぐさりと突き刺さりました。
 ただ、どれだけの人が「何をしたいか考えない怠惰」を克服できるのか、とも思います。山口さんは、<人は食うために「こうあるべき」を内面化してしまい、「こうしたい」が分からなくなっている>と書いておられます。『自由からの逃走』という本がありました。「小人閑居して不善をなす」という言葉もあります。BIを得たけれど、自分がなにをしたいのか分からない人たちは、新興宗教に取り込まれてBIを貢ぐくらいならまだしも、新たなナチズムの勃興を招くかもしれません。拙速なBIには危険があり、みんながしっかりと自分の考えを持つようにならねばならないのでしょうか。だとすれば、これはBIの実現以上に実現困難な「夢物語」のようにも思えます。(わたしが、釈尊の教えによって世の中の執着のレベルを下げて、世界の苦を減らせないか、と考えているのと同じ程度に。)

 ゲッツ・ベルナー氏の本ではじめてBI を知ってワクワクした時は、BIによって人の嫌がる仕事の対価は正当に上昇する、と考えました。長期的にはそうなると思います。しかし、近年の低賃金が当たり前になった状況を見ていると、BI導入の初期には、問題が生じそうです。
資金のある大企業は、賃金を上げるなり、AIや自働化で対応をするでしょう。しかし、低賃金で働いてもらってもようやくやっとやっとの経営をしている中小企業の場合、BIは今以上の人手不足を招き、倒産が相次ぐかもしれません。そうなれば、生まれたばかりのBIはたちまち廃止されてしまいそうです。BI導入後、社会構造がBIを前提としたものに変化するまでの間、中小企業には人件費の増加分を補填するとか、なんらかの対策が必要になるでしょう。
 
 堅田さんのジェンダーの視点からの問題提起については、洗濯物の取り込みと皿洗いを時々する程度の家事労働しかしていないわたしには、言えることが少ないのですが、BIは、賃労働の面でも家事労働の面でも差別されている女性に、賃労働も家事労働も放棄する自由をもたらすものだと思います。BIは、抑圧的搾取的な傾向のある家族を壊すでしょう。そのため、日本社会の垂直ピラミッド支配体制を存続させたいと思い、その底辺を支える「家族」を重要視する一部の人々から、BIは激しく攻撃されるに違いありません。しかし、これはまさにBIの存在意義です。抑圧的搾取的な家族を壊す一方で、BIは互いに尊敬しあう自律的な共同体を育むことでしょう。

 山口さんの言っておられる、交換と再分配と互酬の三つの経済パターンで、今幅を利かせている交換経済から互酬に比重を移していくべきだという主張、同感です。ただ、p233で「縮小経済を目指し、貨幣を媒介とした雇用と消費を減らしていきたい」ともあって、同感しつつも、そうなると税収も減るな、と思いました。
 これまでわたしが目にしてきたBIの財源シミュレーションは、現在の財政規模をベースにしたものでした。財源についても、BI導入時と、BIが世の中の有り様を変化させた後とを分けて、別々にシミュレーションする必要がありそうです。
 BIは人の生き方、考え方に大きな変化をもたらし、社会も大きく変えることでしょう。その変化を、導入期、移行期、定着期と区別して想定し、影響を見極めて対応を想定しつつ進めなければなりません。人々が自分で考えるようになることを嫌う勢力は、BIを葬り去るべく問題が起これば付け込もうと虎視眈々と狙うでしょうから。
 また、今は経済指標は数字で把握され、(素人なので分かりませんが、多分)市場経済だけしか反映していないのではないかと思います。GDPに代わるGDE(Gross Domestic Exchange)?といった指標が欲しくなりますが、「交換」は数字による把握は難しそうです。幸福度といった数値化もあるようですが、どの要素をどの程度重視するか、恣意的にならざるを得ないでしょう。恣意的ではない、客観的な分析のベースが欲しい気がしますが、数値化を求めるのも旧態依然の思い込みなのでしょうか。

 以上、とりとめのない感想で申し訳ありません。
 行き詰った資本主義の閉塞を打ち破るために、引き続きBIの御研究を進めて頂きたく、何卒よろしくお願い申し上げます。

草々

山森亮先生


2019年2月24日        曽我逸郎

2018 12.02

きむきがんさんの一人芝居『在日バイタルチェック』を見て

昨日(2018年12月1日)、長野朝鮮初中等学校(松本市)で、きむきがんさん・劇団石(トル)の一人芝居『在日バイタルチェック』を見てきた。以前辺野古に行ったときに来ておられて、お話しするチャンスはなかったけれど、面白い、でも凄い一人芝居をする人だよ、と教えられて気になっていた。

朝鮮学校に行ったのは初めてだ。すこし小さめの体育館に体操用のマットを敷き、後ろにはパイプ椅子を並べ観客席がつくってある。父母会の主催だそうだが、観客の大半は女性。中学生たち?も団体で観ていた(授業の一環?)。聞こえる会話は、日本語と朝鮮・韓国語の両方。日本語の方がやや多いか。(朝鮮語というべきなのか、韓国語というべきか。どちらを使うかによって、北・南のどちら派か判別されるのだろうか。その辺りの事情もわたしはよく分かっていない。)

きむきがんさんの芝居は、エネルギッシュで楽しい。福祉施設に通い、90歳の誕生日を祝ってもらう在日一世のオモニと職員たちのやり取りを演じ分けるのだが、語られる思い出話は、当然重くつらく悔しい。でもそこにたくましくもかわいいオモニのキャラクターがまぶされている。

わたしは関西で育ったので、在日韓国朝鮮人の人たちへの差別的な言葉は、日常的に聞いていた。けして意識は高くなかったので、私自身面白がって口にしていた。しかし、周囲に在日の人はいなかった。いや、いたかもしれないが、そうとは知らないままだったのかもしれない。高校の、さほど親しくはなかった先輩が、卒業後北朝鮮(共和国と言うべき?)の大学に進んだと聞いて、へぇそうだったのかと後から思ったことはあった。
文字で読んで想像していた差別を、改めて芝居でオモニの口から生々しく聞くと、ハラワタの煮えくり返る出来事が連続する毎日だったろうと思う。

わたしは、日韓・日朝関係をよくするにはどうすればいいか考えるために、韓国・朝鮮の人の話を聞きたいと思っている。韓国に行ったことがないので、行かなければ、とも考えている。
しかし、韓・朝鮮半島よりももっと身近に在日韓国・朝鮮人の人がいたのだ。先日は「信州渡来人倶楽部」の集まりに参加して、朝鮮半島情勢を聞いたが、それ以上に、日本において差別され口惜しい思いをしてきた在日韓国・朝鮮人の人たちの体験を聞くべきではないのか。

この夏に出た本『苦をつくらない』http://www.koubunken.co.jp/book/b372784.html の冒頭で、インドのアウト・カーストに位置づけられたダリットたちへの差別を取り上げ、「差別される側よりも、差別する側こそが釈尊の無常=無我=縁起の教えを学び、執着のレベルを下げ、苦の生産を鎮めるべきだ」と書いた。
しかし、遠いインドのことではなく、ここ日本において、在日韓国・朝鮮人をはじめとする人たちへの苛烈な差別の実態を注視し、わたしたちがどのように差別をしているのか知らなければいけない。なぜそんな差別をしでかすのか分析すれば、苦を生む執着の反応がどのように発現するのか、発見できることがあるだろう。
わたしたち自身の執着や我執をしっかりと見極め、世界全体の苦の生産を鎮めるために、とても重要なことだと思う。

写真は、きむきがんさんと、旦那役で引っ張り出された観客。ちょっとピンボケ

2017 11.02

野党の質問時間を減らそうとするのは民主主義の真逆

 衆議院選挙で多くの議席を獲得すると、たちまち与党側は、議会での質問時間を議席数で比例配分すべきだと言い出した。

 野党:与党の質問時間の割合は、以前は7:3だったものを、自民党が野党の時代に8:2にするよう要求し、当時の与党の民主党が了解したものであるという。
 自分たちが要求して野党の質問時間を増やした経緯を頬かむりしてまでこのような恥知らずなことを言い出す現政府与党は、よほど質問されたくないのであろう。

 このサイトでは何度も申し上げていることであるが、我々は皆凡夫である。不完全で失敗ばかりしている平凡な人間だ。その凡夫が寄り集まって、なんとかなるべく間違いの少ないやり方で社会を運営していかねばならない。その方法が、民主主義である。
 民主主義は、多数決ではない。多数決では、「空気」に操られた付和雷同で大きな間違いを犯しかねない。特に日本人の場合、「空気」の乗ってはしゃぐ輩や、「空気」に抵抗できずに唯々諾々と服従する人が多いように思われ、おかしな方向に走り出す危険性は高い。みんなで歩調を合わせることばかりに躍起になって、行先もわからぬまま突き進む「ムカデ競争」社会に陥りがちだ。
 本当の民主主義は、熟議である。少数意見であれ黙殺せず、議論し批判しあう。間違っているものは論破し、異なる意見は批判しあうことで互いに考えを深め合っていく。そのようにして凡夫の過ちをできる限りそぎ落として正しい答えを探っていくのが本来の民主主義だ。
 今回の、野党の質問時間を減らそうとする与党の考えは、民主主義の真逆である。政府与党、すなわち執行する側は、安倍首相の言葉どおりに、批判を積極的に聞いてそこから学ぶ「謙虚な」姿勢を持たねばならない。このところの日本は、政治的にも経済的にも重要性を失い凋落の一途なのだから、どのような国にすべきか熟議によって一から真摯に問い直さねばならない。政治が正しければ、国民の生活を向上させ、世界の人々にも貢献する国になれるはずだ。

 野党の質問時間を削減しようとする今回の与党の態度は、国民のことはどうでもよくて、よい国づくりをしようとする志もなく、自分たちの権力維持だけが重要で、誰にも批判させないという考えの表れである。

2017 10.25

日本経済の現況

 今回の衆院選(2017年)に立候補したことで、古い友人からメールを貰った。由緒正しい企業の役員をしている。忙しい立場だろうが、これからも続けてやりとりができると嬉しい。
 下は、私からのメール。

*****

 忖度させたり、型にはめるばかりで、のびのびと個性を発揮させて活躍させることをしない日本の空気が、わくわくさせる新製品、新サービスを生めなくしており、日本経済の沈滞を招いていると思います。
 安倍政権は時代遅れになりつつある大企業を優遇するばかりで、大企業は人件費をコストと考え削減し、その結果人々の購買力は低下し、内需はやせ細る。優遇され人件費を削減しても、新たな投資先を見つける目を持たない大企業は、内部留保を貯め込むだけで、国内で金が回っていかない。内部留保は海外のタックスヘイブンに流出し、その金は、海外の元気のいい先端企業に投資され、ますます日本経済は置いてけぼりをくう。
 アベノミクスも、投資家にとって分かりやすく儲けを吸い取りやすいやり方だから投資家は歓迎しているのであって、一般国民の実生活の底上げには繋がっていない。
 要は、バブルの時に実力もないまま成功体験に酔いしれた連中が、その思い上がりのまま今のトップに居座っているのが、諸悪の元凶でしょう。政治も含めて。
 日本経済の現状については、概ねこのように感じています。
 いずれまたご教授ください。じっくりお話を伺える機会を楽しみにしております。

****様
             2017年10月24日                    曽我逸郎

2017 10.24

御礼。衆院選、残念ながら安倍政権&小池新党に立ちはだかれず。 
2017年10月24日
今回の衆議院選挙でお世話になった皆様へ
御礼
長野5区候補者だった
曽我逸郎
 今回の選挙戦では多くの方々に一方ならぬご支援を賜り、真に有難うございました。
 ひょっとすると、という期待もありましたが、やはりそんなに甘いものではありませんでした。運動中、今の政治に危機感をもった人たちの熱い思いを何度も感じましたが、得票数をみれば、広がりをつくるには至らなかったと認めざるを得ません。多くの人々の胸にわだかまっている不安を受け止めて、一つの力にまとめ上げる受け皿になれなかったことは大変残念です。やはり時間が足りませんでした。
 小池新党の出現を受け10月2日夜に急遽開いた会議で何の準備もないまま出馬することになり、翌3日に記者発表、10日公示という慌ただしいスケジュールをあらため思い返すと、よくできたものだと感心もします。しかも、伊那谷市民連合という、野党共闘を呼び掛けるためだけの、自分たち自身では選挙をしたこともない寄り合い所帯でありました。伊那、中川、飯田、それぞれに個性的で独自のスキルを備えた人たちが梁山泊のように結集し、事務所の開設、選挙カーの準備、マスコミ対応、広報・印刷物の制作、集会などの仕込み、食事の手配、電話かけなど、私の気づかないところでもたくさんの皆さんが自主的に懸命に取り組んで下さいました。そのおかげで短期間にもかかわらず、これだけの票を得ることができたのだと思います。
 また、共産党、社民党、緑の党、上伊那の立憲民主党の皆様のご支援にも感謝します。皆様のご協力、アドバイスでなんとか選挙戦をやりとおすことができました。特に、共産党の水野さんは、出馬に向けた準備を重ねてこられたのに、無所属候補が出るならと、道を譲って下さいました。真に申し訳なく思います。
 今回の選挙を総括すれば、小池百合子氏にかき回されてしまいました。改憲勢力に対抗する一枚岩をつくり上げることができなかったのは、非常に残念です。安倍首相と小池氏とは同類であり、そのどちらの陣営にも伊那谷から一議席を与えてはならなかったのに、、。
 
 選挙が終わり、強い勢力を維持した与党とその補完勢力は、これまで以上に自分勝手な振る舞いを始めることでしょう。改憲の画策もいよいよ本格化してくると思います。
 それに対抗するため、今回の取組みの経験とつながりを活かして、市民の側の強力な体勢をつくることが、とても重要だと考えます。
 また、若者たちに、自分たちの苦しさの原因は国の仕組みにあり、国の仕組みを変えるには政治に関心を持つことが必要だと分かってもらうことも大きな課題です。
 何卒、引き続きのご尽力をよろしくお願い申し上げます。
 大変ありがとうございました。
 
得票数
  宮下一郎(自)   91,542
  曽我逸郎(無)   48,588
  中嶋康介(民→希) 43,425

 

2017 10.05

安倍政権・小池新党に立ちはだかる 衆院選挙に出馬します

 安倍政権がやってきたこと、やろうとしていることは、問題だらけです。
 憲法改変、集団的自衛権、共謀罪、TPP、種子法廃止、お仲間への利益(税金)誘導、原発再稼働、北朝鮮危機の煽り立て、などなど、数え上げればきりがありません。
 それ以上に、進め方のスタイルが問題です。情報の隠蔽、証拠隠滅、憲法や法制度の精神を軽んじた都合のいい解釈、その場しのぎの言い逃れ、質問・批判からの逃亡、人間かまくらに代表される力づくの運営、などなどの横着ぶり。熟議によって互いに考えを深めあい正しい答えを探るという民主主義の精神からはるかに隔たっています。もうそろそろ日本の政治をちゃんとしたものにしなければなりません。
 そういう考えで、長野5区において民進、共産、社民の3党に共闘と候補者一本化を求めてきました。ところが、実現の前に小池新党が立ち上がり、民進党の大半がそこへなだれ込むことになりました。
 マスコミの報道は、今回の衆院選を安倍政権・小池新党の政権選択選挙と位置付けています。しかし、安倍・小池両氏の考え方は、非常に近しい。選挙が終わってしまえば、小池氏はまた「ウフフ」と笑って、安倍氏と手を結ぶかもしれません。その公算は大変大きいと思います。その時は、憲法改変に必要な三分の二どころか、四分の三、ひょっとすると5分の四さえ伺う状況になっていることも考えられる。そうなると、「全権委任をもらった」と都合のいい拡大解釈をして、これまで以上に横着な国政運営が行われることでしょう。その結果、どんな恐ろしい結果にいきつくか、想像もできません。
 安倍・小池両氏に抵抗する人間が全国で出馬し、立ちはだかる必要があります。政権奪取は無理でも、「有権者をなめると怖いな、丁寧に手続きを踏んだ政治をしなくてはいけないな」という反省はさせねばなりません。安倍・小池両氏に立ちはだかる一人にならねば。この思いで2017年衆院選挙長野5区に立候補します。

2017年10月5日    曽我逸郎

2017 07.17

飯田での講演の構想など、2017、7/16
 昨日(2017年7月16日)は、少し充実した一日だったので、FBにそれを投稿した。同じ文章をこちらにも掲載しておく。来月の飯田民主商工会での講演をどうするか、書き始めると長くなったが、おかげでいい試行錯誤になった。
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 今日は早起きして、久しぶりに飯田の禅寺(長久寺)に。長らく精進を怠っていたので支離滅裂で終わるかと思ったけど、結構うまく座れた。
家に戻って、飯田民主商工会からお話を頂いている来月の講演をどういう内容にするか、考えた。Workflowyで書き連ねているうち、いろんな考えが浮かんだ。
 「日本で最も美しい村」連合の理念、すなわち、外部資本に頼らず、自分たちの地域が宿す魅力・可能性を活かして持続可能な「美しい村」をつくり、美しいまま将来世代に引き継いでいく、というところから始めよう。リニア新幹線など交通網の発達が吉と出るか凶となるかは、地域の個性を活かせるかどうか。バイパスが通ってどこにでもある大きな看板が立ち並んで、昔からのお店がなくなるのは残念。安倍首相の言う「美しい国」との対比、TPPや原発によるふるさとの棄損を気にかけず、なにが「美しい国」か。
先日香港に行ったら、テスラ・モーターの電気自動車が普通にたくさん走っていた。「日本は自動車王国」はもはやガラパゴスの思い込み。内燃機関離れは着々と進んでいる。旧態依然の大企業の経営陣はなににどう投資すべきか判断できず、手厚い保護で得た利益をタックスヘイブンに積み上げるばかり、その一方で、生存のための切実なニーズを抱えた層に所得は分配されず、国内に購買力が足りないのが不況の根本原因。
自分が面白がりのめりこむところに創造性は生まれる。自分は何を求められているのかとおどおど忖度していては創造性は生まれない。型に嵌ったあり方を押し付けて上意下達で統治する空気が活力を萎ませる。
「日本で最も美しい村」連合でドイツ・オーストリアに行き、エネルギー自給の取り組みを見てきた。自分たちの地域が貧しい原因を分析し、せっかく稼いだお金がエネルギー購入に流出しているからだと解明した。それでエネルギー地域内自給の仕組み・体制を地域の人たちがみずからつくり上げた。地域の課題を地域で共有し、力を合わせて克服する。まさに地域自治。地に足の着いた身近な民主主義。
協同総合研究所の理事を仰せつかった。協同労働組合について考える集まり。協同労働組合は、地域の課題を克服するために組合を立ち上げ、持続可能な経営を模索する。これもまさに地域自治であり、民主主義の根。
中小企業は、地域の可能性や魅力の磨き手であり、地域のネットワークの核。リーダーシップを発揮し地域の様々な主体と連携し地域の課題克服にビジネスチャンスを見出し、地域自治や民主主義の成長にも貢献して頂きたい。とりわけ民主商工会の皆さんには、大いに期待申し上げる。
途中で近所の農家(信州くだもの村 富永農園)にサクランボを頂きに行った。リンゴを中心にブルーベリーなども作っておられるが、サクランボ狩りのシーズンが終わるので残っているのを採ってもいいよと声をかけて頂いた。大きなビニールハウスを少し奥まで入ると、綺麗なサクランボがまだ鈴なりに残っている。もうすぐ中国からの学生さんの体験宿泊を農家民泊で何人か受け入れるので、その時に食べてもらおう。
夜は、8月5日の中川村最大のイベント「どんちゃん祭り」に繰り出す柳沢地区のちょうちん神輿の改良作業。昨年までは村長として地酒・今錦を飲みながら本部にいたが、今年は柳沢の一村民として、神輿を気負う。頭の真上で炸裂する打ち上げ花火が楽しみだ。
2017 07.04

協同総研の理事になって 協同組合の可能性

いくつものご縁を頂いて、7月1日、一般社団法人協同総合研究所の理事になった。

とはいえ、実のところ、協同総研がどういう取り組みをしているのか、まだしっかりと把握できていない。どうやら労働者協同組合運動の発展、深化、普及をめざす団体のようだ、というのが今のところの私の理解である。

疎い分野であるが、普通、一定規模以上の企業は、資本が所有し、経営者の経営の下で労働者が賃労働をする、という構造になっていると思う。所有と経営と労働が分裂しているわけだ。その中で、一番弱い立場の労働者が、搾取、疎外、分断、解雇、失業などに晒されやすい。
それに対して、労働者協同組合は、労働者が組合をつくって、自分たちでそれを所有し、経営しようという取り組みだ。労働者が、組織の所有と経営も行っていく。

協同総研が、所有と経営と労働の分離を理念として否定し、労働者協同組合の形に全面的に移行すべきだと考えているのかどうかは分からない。少なくとも当面は、上に述べた、資本・経営・労働が分離したあり方も認めつつ、そこから生まれる弊害を補正し、労働者を守る役割を強化しようとしているのだと思う。

ところで、組合といえば、農業協同組合や森林組合がある。これらは生産者が集まって作った組合だ。生協(生活者協同組合)は消費者の組合だ。組合のベースとなるのは、賃労働者だけではなく、生産者や消費者も組合を設立し運営する主体になれる。

ここで思い出したのが、ドイツやオーストリアで見た自然エネルギーを地域で自給する組織だ。
働いても地域が貧しいのはなぜかと分析した結果、せっかく稼いだお金が地域外に流出しているからだと判った。そのうちでもっとも大きいのは、エネルギー購入によって産油国やロシア(天然ガス代)に流れている分である。であれば、地域でエネルギーを自給できれば、お金が地域の中で回る。そう考えた彼らは、薪や木チップのボイラーで湯を沸かし、地域を循環させる断熱パイプを埋設した。つまり、エネルギーの消費の分析から始めて、熱エネルギー供給、バイオマス燃料調達に広がる自主的組織を立ち上げたのだ。この組織が厳密にいって組合という形態かどうかは分からないが、おそらくそうだと思う。

つまり、どんな分野、どんな課題であれ、地域で共有して、それをみんなで持続可能な形で克服しようとするとき、協同組合という取り組みが大きなツールになる。

そして、ドイツ、オーストリアの取り組みを見て強く感じたことは、行政の関与が乏しく、住民の自主性、主体性が目立った点だ。
日本だと、地域に課題があれば、行政に解決させようとする。ところが、ドイツ、オーストリアでは、日本とは自治体の役割が異なるのであろうが、行政に問題提起するよりも、住民自らが共同組合をつくり課題を克服しようとする。その主体性に、住民自治、民主主義の強さを感じた。自治体の存在感の薄さが、逆に住民自治の強さの証なのだ。

協同総研の母体(?)である「日本労働者協同組合」には、福祉や介護、その他さまざまな地域の課題に取り組む事業体が多い。働く人たちの組合というあり方からさらに発展して、そのサービスを享受する消費者はもちろん、地域のすべての人たちがみんなで地域課題を考える場を形成する核になっていければ、労働者協同組合運動は、労働者の権利保護だけでなく地域自治をたくましく育てることもできるのではないか。

協同組合運動の可能性は広い。

2017年7月4日    曽我逸郎

2017 06.14

村長職を離れて一か月
  村長の職を辞して一か月が過ぎた。これからどうすべきか明確に決まらないまま、雑事にかまけて日は過ぎていく。書類などは一応片付いたものの、読めないまま村長室の棚に突っ込んであった本は、まだ自室の床に積み重なっている。報告というより自分の記録として、この間のことを書き留めておこう。
 下の娘が、自分の生まれたところを見たいというので、家族の内4人で香港に行った。
昔暮らしていた頃の、中国への返還直前の慌ただしい切羽詰まったようなアグレッシブな雰囲気は薄れ、全体におおらかというか余裕ができたような雰囲気があった。泊まった宿は、なんと重慶(チョンキン)マンションの上層で、気づいたときは焦ったし始めは家族もびびっていたが、狭くて古いけれど安全で親切だった。金鐘(アドミラルティ)の林立するホテルにつながるモールには、昔どおりブランドの店がずらりと並び、相変わらずの高級感。テスラ・モーターの電気自動車がたくさん普通に行きかっているのにも驚いた。スターフェリーやトラム、ダブルデッカーのバスに乗り、末娘の生まれた病院、住んでいた浅水湾(リパルスベイ)、上の子たちの通った日本人学校などを訪れ、飲茶や海鮮料理を楽しんだ。帰りには、飛行機の出発が遅れて、値段で選んだ北京経由便の乗り継ぎができず、北京空港のそばで一泊するおまけまでついた。
 香港から戻ってからは、大阪の中学の農村体験修学旅行を受け入れた。近所にできた空き家を子供たちが農家民泊に改装していたのだが、認可が取れて、一校4人ずつほどで5校それぞれ一泊二日。リンゴの摘果やぶどうの房づくり、野菜の苗の植え付けなどをしてもらい、一緒に料理をつくったり、家族は大変だったようだが、私も多少お相手した。
 就農した息子が10日余り欧州にワイン造りの勉強に行って、その間人手が足りず、命じられた生食ブドウの房づくり(花が咲く前の房のつぼみを先端3.5cmを残して摘み取る作業)やワインブドウの畑の草刈りや葛退治に汗を流した。やっと房を付け始めたせっかくの苗木2本を草刈り機で切ってしまった。
 送別会や新村長後援会など、何度か飲む集まりもあった。
 原告の一員に加えてもらっているTPP反対訴訟の判決の傍聴に東京地裁に出向き、「TPP交渉差止・違憲訴訟の会」第3回総会に出席した。遺伝子組み換え作物の多面的な危険について、印鑰智哉さんの講演を聞いた。その報告は、こちら
 政治的な活動は、他にも阿南町で講演をしたり、いくつかの集まりに顔をだした。6月17、18日の土日は、中川村で長野地域住民大学が開催され、初日は大東文化大学前学長の太田政男さんのコーディネートで岡庭一雄元阿智村長とディスカッションをする。(13:00~中川村文化センター)
 伊那谷ワイガヤ会という集まりも立ち上げた。憲法記念日に長野市で『標的の島 風かたか』を観て三上智恵監督の講演を聞いた際、沖縄の問題は日本政府が問題であり、それを許している我々の問題だと感じた。「信州と沖縄を結ぶ会」の方からも、南信で活動を立ち上げられないか、との意見があった。それで有志を募ったのだが、共謀罪やらの動きもあるし、月に一度集まって、広いテーマで自由に堂々と楽しくオープンに議論して、共謀罪なんかに委縮しないところを示そう、ということになった。次回は、6月21日(水)19時に集まるので、ご興味あればご連絡を。

そんなことで、こうして書き出してみると、一か月の間に結構いろいろやったんだと自分でも思う。しかし、これから何をどうすべきかというと、なかなか絞り込めない。

 学生の頃、なにが価値があるのか、なにをすれば意味があるのか、ずいぶん考えた。結局、そんな問いは自分に価値を与えたいという我執であって、人生には意味も価値も目的もない、という結論に達した。今もそれは変わらない。しかし、還暦に達して、元気に活動できるのは、あと幾夏か、幾冬かと考えると、だらだらと過ごしているわけにもいかない。
15年前に半分出家(会社勤めは棄てるけど家族は棄てないこと)といきがって中川村に移り住んだのは、釈尊の教えの勉強にもっと時間を割くためだった。今回村長を辞めて、2度目の半分出家ということになる。釈尊の教えについて発信し、批判をもらう場として、このホームページも今年になって刷新したのだが、新しい記事はほとんど書けずにいる。もっと本を読んで最新の研究成果を仕入れるなり、違う視点から自分の仏教理解を見直してみる必要がある。
ヒンドゥー教から仏教への集団改宗を導く佐々井秀嶺師の中部インド、ナグプールでの活動についても、昨年秋の訪問だけでは不十分だし、インド北部の釈尊の足跡も訪ねなければならない。
タイかビルマかの上座部の寺でしばらく出家修行するのも、収穫は多いだろう。
外国ということでは、韓国にも一度は行ってみたい。これまでの様々な歴史を振り返り、今後の関係を考える縁にしたい。
沖縄にも一定の頻度で通って、現状を知り、学び続けねばならないと思う。
それにまた、安倍政権の理念のない横道も阻止しなければ、看過できない苦をこれまで以上に広げかねない。そのための発信にも取り組まねばならない。

列挙してみると、やっぱりいろいろとテーマがある。計画したところでそのとおりにできないことは分かっているが、全体を俯瞰し課題を確認しながら、そのときにできることをしっかりと実践していきたい。

2017 06.12

TPP反対訴訟と遺伝子組み換え作物について

先日(2017年6月7日)「TPP締結差止・違憲確認訴訟」の判決傍聴(@東京地裁)と『TPP交渉差止・違憲訴訟の会』総会に行ってきた。(同会HP:http://tpphantai.com/

判決は、「行政権の行使は民事訴訟の対象にならない」とか「TPP協定はまだ発効していないから、具体的な権利や利益は侵害されていない」といった形式論による門前払いで、TPPの内実について議論することから逃げており、「憲法の番人」としての司法の自覚に欠けるものだった。
裁判傍聴後の総会では、抗議声明が出され、控訴すること、行政訴訟も行うことが決議された。

また総会では、水道民営化に道を開く水道法改定や主要農作物種子法の廃止が、TPPに向けた先取りではないかと危惧され、特に後者に関連して、「日本の種子(たね)を守る有志の会」の印鑰智哉(いんやくともや)氏の講演があり、グローバル化学企業の遺伝子組み換え技術による農業支配の危険についてよく理解できた。その概略は以下の通り(文責:曽我)。

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 グローバル化学企業は、戦争に爆薬や生物兵器(枯葉剤など)を売り込んで大きくなり、その技術を化学肥料や農薬に転用して農業に参入した。70年代、遺伝子操作された細菌が発明物として特許を認められた。それ以降、GATT-WTO TRIPS条約やUPOV1991条約によって、遺伝子組み換え(GM)で作られた作物の排他的権利が認められるようになった。これらの条約を批准した国は独自個別の基準で遺伝子組み換え作物(GMO)を規制することはできないし、遺伝子操作の情報開示を義務付けることは禁止され、遺伝子組み換えの特許のルールは米国に準ずることになる。TPPに参加すると、UPOV条約を批准せねばならない。

本来、農家は自分らの種を持っており、自分の作物から種子をとり、保存し、交換し、共有してきた。これを制限し、大企業が独占する種子を毎年農家に買わせようとする上記の条約や法律の動きに、特に南米で激しい反対が起こり、「モンサント法」はコロンビアやグアテマラなどで撤回に追い込まれた。また、欧州のみならず北米でもGMOの危険性への不安が消費者に広がっており、GMOの普及は一時の勢いを失っている。(曽我補筆:除草剤耐性を与えられたGMOは、除草剤をじゃぶじゃぶとかけられ、他の植物が全くはえない裸地の圃場で育成される。殺虫毒素を組み込んだGMOでは、毒素は人間には吸収されないとされているが、カナダでの調査では妊婦や胎児の血液中から高い頻度で検出されている。家畜に与えたGMO飼料の毒素が肉や牛乳、卵などを経由して人体に入ったと考えられる。)

一方、日本は、イネ、麦、大豆の良質の種子を都道府県が管理することを定めた「主要農作物種子法」を、民間企業の品種開発や種子供給ビジネスへの意欲を阻害しているという理由で、来年4月に廃止する。これは、TPP(またはそれに代わって、グローバル企業による種子利権寡占体制に道を開く新条約)への下準備であると考えざるを得ない。

一般に、GMは生産性の向上をもたらすと考えられがちだが、現実はそうではない。ブラジルでの大豆生産の事例をみると、収穫高、利益ともに遺伝子組み換えでない方(Non GM)が高い。しかも、Non GMが年々着実に生産性を上げているのに対して、GMでは生産性の向上が見られない。

また、最近では、植物のみならず、動物でもGMが広がりつつあるし、GMのさらに上をいく合成生物(人工的に一から塩基配列を設計されたDNAによって自己増殖する生命体)の研究も進んでいる。これらが環境に漏れ出した場合、生態系にどのような影響をもたらすのか、非常に心配されるが、規制対象にはなっていない。

地球温暖化対策として、二酸化炭素排出規制や森林保全が叫ばれているが、二酸化炭素の吸収は、植物それ自体よりも植物の働きによって土壌に吸収される方がはるかに多い。植物は、二酸化炭素を光合成で炭水化物にして根から土壌に供給している。そこに土中の微生物が集まり、植物にミネラルをもたらす共生が行われている。ところが、化学肥料や農薬は、この、植物と土中微生物の相互依存の共生を止めてしまう。植物は、このような共生する善玉微生物に守られ悪玉微生物の害を防いでいる。微生物との共生を絶たれた植物は、化学肥料や農薬にますます依存せざるを得なくなり、大地は生命を育む力をどんどん失っていく。生命は大きな環境、生態系の中で複雑に依存しあって生きているのに、その一部だけを見て対症療法的な処置をすると思いがけない事態を招く。

日本では、GMOの商業栽培は今のところ行われていないが、承認されたGMOの数はとびぬけて多い。もし商業栽培が始まれば、一気に広がりかねない。また、食料自給率が低く、輸入食料、輸入飼料に依存し、加工食品の原料もほとんど輸入によっている日本であるのに、GM表示の基準が緩く、既に知らないうちに諸外国より多くのGMOを直接間接に摂取していると予想される。

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 印鑰さんの話を聞いて思ったことも書いておこう。

GMOが健康に及ぼす危険については、意識の高い消費者の間には広がりつつあるが、一般にはあまり知られていない。その理由のひとつは、国際機関や各国政府がすでにこれに関わるグローバル企業に取り込まれているからだろう。商業マスコミも、商売上の配慮なのか、突っ込んだ報道はしない。

GMOの危険は、健康への直接の影響に留まらない。世界各地、その土地その土地の自然、歴史、文化、風土に培われ、引き継がれてきた農作物の多様性が奪われるという危険だ。農家は、慣れ親しんだ品種を慣れ親しんだやり方で育てることができなくなる。それは、条約や法律を使ってそうされるだけではなく、例えば、除草剤耐性GMO圃場が広がり、大量に散布されそこから流れ出した除草剤で環境が破壊され、従来作物が作れなくなるということもある。その結果、GMOを栽培せざるを得ないことになれば、農家は毎年、特許に守られた高額の種子を買わなければならない。

TPPの最大の問題は、ISD条項に見られるように、各国の主権、自治が奪われることであるが、GMOについてもそのとおりで、受け継がれてきた文化、風土まで破壊される。

しかしながら、農山村の実情を鑑みれば、高齢化・担い手不足で疲弊し、TPPやGMO以前に、除草剤・殺菌剤などの農薬、化学肥料に頼らないとやっていけない悪循環に既に陥っている。

大きな自然の生態系に生かされた本来の農業に戻るにはどうすればいいのか。
荒れる農地を荒廃化にまかせて、一旦自然に戻し、改めて開墾すればいいのか。いや、そういうわけにはいかない。それは、農地のみならず農山村の暮らしそのものを荒廃させ、伝統・文化を終わらせることだ。
とはいえ、農薬や化学肥料を絶ち、微生物が増えて土の力が回復するのを待つには、数年の時間を要する。一挙にではなく、自然に配慮した圃場の割合をだんだんと増やしてしていくにせよ、その間の農家の経営を保障せねばならない。現状でさえほとんど成り立っていないのだ。
農業の生産性をあげるとか、儲かる農業にするとか、ましてや、輸出競争力のある作物をつくるとかではなく、農山村に暮らし、地域の共同体とともに農地を守り、農地を育むというだけの条件で、農山村で生存することへの支援をする他はないのではないか。

今回は、GMにからんで、農業と食と農村の健全な保全について考えた。しかし、TPPは、それらにとどまらず、大変幅広い分野で暮らしに大きなダメージをもたらす。
TPPは、人々の暮らしをグローバル企業に都合のいい様式に塗り固め、主体的で多様な生き方を奪おうとする。その反対に、個人の自由な主体的生き方を可能にするのがベーシック・インカム(BI)だ。BIは社会の在り方を根本から変えるので、副作用も大きいかもしれないが、検討する価値はある。農業を今の状態からあるべき姿に再生するには、それくらい抜本的な変革が必要だと思う。

2017年6月11日 曽我逸郎