農山村持続化個人給付金の創設は、幅広い効果を生み出す。

2022 07.18

農山村持続化個人給付金の創設は、幅広い効果を生み出す。

(少し長いですが、読んでください。資本主義に替わる未来も考えています。)

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 農山村で元気に暮らす人が増え、ふるさとが美しいまま未来に引き継がれていくようにすることは、農山村に止まらず、幅広い大きな波及効果を生み出す。以下、その期待できる効果を説明し、それを実現する具体的方策を提案したい。 

 今、農山村は、限界集落という言葉が端的に示すとおり、少子高齢化・人口減少で非常に苦しい状況に追い込まれている。産業としての農林業だけではなく、景観保全・災害防止など農林業がもつ多面的機能、さらに集落そのもの維持が危機に瀕している。役割を担える人が極端に減って、共同体の自治・運営も、伝統のお祭りも、続けていくことが難しい。

 わたしが暮らす長野県の中川村も、過疎自治体の指定を受けている。中川村の村長として、なんとかせねばと様々な取り組みをしたが、手ごたえのある成果は上げられなかった。自治体でできることは、子育て支援と他の自治体との人の引き抜き合戦くらいだ。企業誘致という声もしばしば上がるが、不向きな町村も多い。企業進出によって自然環境や農山村の美しい暮らしがかえって損なわれる事例も少なくない。

 過疎化の逆転は、基礎自治体個々の努力で達成できることではないのだ。
 農山村衰退の根本の原因は、個々の自治体ではなく、もっとずっと深いところにある。そして、それは、日本全体が抱える多くの問題(例えば、少子化、格差と貧困、自殺の多発など)あるいは、世界全体が直面する様々な課題(例えば、気候変動、極端な富の偏在、南北問題、資源の収奪・浪費、環境汚染など)の根本原因でもある。

 つまりは資本主義が肥大して限界に達している。資本主義に宿る歪が、「経済成長」によって今あちこちに噴出している。
 この歪を修正すれば、資本主義を立て直すことができるのだろうか。そう考える人もいる。「新しい資本主義」という言葉は、そんな考えなのだろう。
 あるいは、この歪は資本主義の本質であって、それがついに覆い隠せない段階に達したのだ、と考える人もいる。わたしが最近読んだ本で言えば、斎藤幸平氏やトマ・ピケティ、デヴィッド・グレーバーなどがおそらくそうだろう。彼らは、資本主義の継続はもはや不可能で、それにとってかわるものが必要だと考えている。

 斎藤幸平氏は、グリーン・ニュー・ディールやSDGs(持続可能な開発目標)を、罪悪感を薄めつつ浪費を続けるための免罪符、阿片、エコロジーをよそおった偽善だとして批判している。また、氏は、欧米の4人の研究者による本『なぜ、脱成長なのか』(NHK出版)に、「資本主義に亀裂を入れるために」というタイトルで長文の解説を書いている。ピケティは、『来たれ、新たな社会主義』(みすず書房)の2ページ目に「いまや私たちは、資本主義を超える新しい体制・・・新しい形の社会主義について考える必要がある」と主張している。

 わたしも彼らと同じ考えだ。
 成長し増殖しようとする資本の盲目的意志だけが貫徹されて、自然は乱獲され、環境は破壊・汚染され、人間らしい暮らしも伝統文化も踏みにじられていく。それが資本主義の本質であり、その結果が今あちこちに現れている。「限界集落」もそのひとつだ。
 岸田首相の「新しい資本主義」は、世界史が今突き当たっている事態の深刻さを把握できていない。資本主義の部分的な修正では直面する課題は克服できない。

 となると、資本主義に替わるものをつくり出さねばならないことになる。それはどんなものか。
 ピケティは、先に挙げた本で、累進性を高めた税制度(前掲書p14の表1では、最高税率90%の所得税、資産税、相続税)で超富裕層に課税して、極端な富の偏在を是正すべきと提案している。(世界の1%の最富裕層が、世界の下位50%の貧困層全体の2倍のCO2を排出しているというレポートがあり、富の偏在を糺さなければ気候変動は防止できない。)さらに、税逃れの国外逃避には出国税を課すというアイデアにも言及している(2020年の米国大統領選民主党予備選候補ウォーレンの提案)。分配については、ベーシック・インカムや25歳で誰もが12万ユーロを受け取る最低相続保障などを提案し、あわせて公的教育の充実などを訴えている。
 斎藤幸平氏は貨幣経済を縮小して(=脱成長して)コモンズを復権すること、ケア労働を正当に評価することを主張しているし、『なぜ、脱成長なのか』は社会連帯経済の拡充を提案している。ピケティも企業経営に労働組合が参画すべきと説いている。 これらの提案は重なり合っており、ひとつの共通した未来社会のイメージが浮かび上がってくる。

 ただ、それは現在のグローバル資本主義に席巻された社会の在り方とはずいぶん異なっているので、それにむけて移行していくには、どこから手をつければいいのか、途方に暮れてしまう。特に税制度の変革など、シミュレーション上は可能でも、既得権益層などからの激しい反発が予想され、政治的には容易ではない。
 なにより、新たな仕組みや制度づくりに先立って、わたしたち自身の根本的な意識改革が必要だと思う。
 <人並みの生存>のために追い立てられ駆り立てられて生きる今のあり方に疑問を持ち、立ち止まって自分の生き方を振り返ってみることが必要だ。自分が本当に生きたい生き方を考えることである。それがなければ、資本主義に替わるものを模索するといっても、ただの思考実験に終わるだろう。
 「生存のために自分を殺してブルシット・ジョブで競争を強いられるような毎日は嫌だ。別の生き方をしたい。」
 そんな思いが広がらなければ、資本主義に替わる考え方がスタンダードになることはない。

 このように考えたとき、最初の一歩として思い浮かんだのが、農山村持続化個人給付金である。
 少し説明が必要だろう。
 これまでさまざまな農山村支援策が講じられてきた。しかし、成果は乏しく、限界集落化はますます加速している。大胆な対策が必要だ。

 農山村に集落の一員として暮らす人たちとその同居家族一人ひとりに、毎月一定の金額(例えば3万円)を給付するのだ。
 農山村ベーシック・インカムといった方がピンと来る人もいるだろう。ただし、ベーシック・インカム(BI)と名乗っても危険なものもある。新自由主義者が説くBIは、名ばかりのBIだ。不十分な給付で「最低保証は確保された」と強弁して福祉を削減・廃止し、「あとは自己責任」と切り捨てようとしている。これでは意に添わない賃労働でも生存のために続けざるを得ない。本来のBIは、意に添わぬ賃労働や人間関係から離脱する自由を与え、生きたい生き方を可能にするものでなければならない。
 (BIについては、「ベーシック・インカムは妙案かも」http://mujou-muga-engi.com/b-income/ を一読願いたい。)

 農山村持続化個人給付金は、BIからの着想だが、BIではない。農山村からの転出を減らし転入を増やし、農山村に暮らす人を増やして農山村が未来に引き継がれるようにするための給付である。農山村の集落は、コモンズの塊だ。コモンズそのものと言ってもいい。日本の伝統的なコモンズを守り引き継ぐための給付である。
 BI同様に個人への給付がよいと考える理由は、個人、特に女性や若い人たちが自分の考えでこれまでにない取り組みを農山村で始めるようになることを期待するからだ。

 月3万円では少ないと感じる人も多いだろう。確かにBIと名乗れる金額ではない。本格的なBIを実現するには、ピケティが提案するような超富裕層への大幅増税やトービン税のような新しい税の創設、国家財政やお金についての考え方の抜本的変革など様々な改革が必要になる。とても大掛かりな話だ。それに対して、農山村持続化個人給付金は、最初の一歩として現行の諸制度を変えないままで押し込める規模を考えた。
 月3万円は個人への給付なので、3人家族なら毎月9万円になる。家族でなくても考えを同じくする仲間の共同生活なら、人数分の給付を合算することができる。定住、転入の支援としては、かなり期待できるのではないだろうか。

 対象とする農山村の範囲は、とりあえずは過疎法が指定する過疎自治体から始めるのがよいと思う。(将来的には、全国無条件のユニバーサル・ベーシック・インカムにまで広げていきたいが、その場合の給付額はもっと必要になるし、税制度や国の予算策定の考え方も大幅に変えなければならない。初めの一歩は、まずは抵抗少なく導入可能な形で始めるべきだと思う。)

 対象となる人は、集落に暮らして集落の活動(共同作業など集落の自治・運営・管理、またお祭など)に参加している人たちとその同居家族だ。過疎自治体に住民票があってもそこに暮らしていない人や、暮らしていても集落に加入していない人は、対象としない。集落の自治組織が認定し、それに基づいて基礎自治体が決定する。

 副作用はほとんどないと思う。あるとすれば、隣接する過疎指定されていない自治体からの人口移動くらいではないだろうか。それは交付税算定の際に配慮するといった技術的な方法で対処できるだろう。

 農山村持続化個人給付金は、現行の資本主義の枠組みの中で始めようとするものだが、資本主義に取り込まれた生活を問い直すような変化をもたらすに違いない。その一方で既得権益層の抵抗もないだろう。
 現在でも、都会の(資本主義に取り込まれた)生活に疑問を感じ、地方での新たな生活を考える人は多い。かく言うわたし自身が、20年ほど前に広告会社を早期退職し、家族とともにIターンしてきた。しかし、ほとんどの人は、地方の新天地で収入を確保できるか確証が持てず、あきらめるている。
 だが、農山村持続化個人給付金があれば、踏み切ることができる。半農半Xで生きたい生き方を始めることもできる。生存のためにブルシット・ジョブに追い立てられ疲れ果てた都会での生活から足抜けをして、自然の中で自分のペースでじっくりと自分が大切だと思うものを大切にする暮らしができる。これまでふるさとを離れざるを得なかった若者も、ふるさとに残って自分のプランにチャレンジすることができる。

 制度を利用して農山村でのびのびと生きたい生き方をする人が増えれば、われわれの意識の変革につながる。人々の生き方が変わってくる。この流れを拡大していくことができれば、資本主義に替わる未来社会の模索が本格化するだろう。 「蟻の一穴」という言葉がある。大きな堤も蟻の穴ひとつから決壊することがある、という意味だ。農山村持続化個人給付金が蟻の一穴となって「資本主義に亀裂を入れる」ことができるかもしれない。

 いや、とりあえずは、資本主義云々は置いておいて構わない。資本主義を修正すればすむのか、資本主義に替わるものが必要なのか、間もなくはっきりするだろう。
 それよりも喫緊の課題は、ふるさとを守り引き継ぐことだ。どこもかしこも雑草に埋もれた空き家と荒廃農地だらけ、歴史あるお祭りも続けていくことができない。ふるさとや伝統文化を守ることこそ、保守の立場ではないか。
 「GPSによる自働農機やドローンの導入で、高齢化・人口減少でも農業は大丈夫」などという発想では、ふるさとにますます人はいなくなる。資本の思惑に媚びを売って、ふるさとをないがしろにする発想だ。保守ではない。
 ともかく人を増やさなければ、ふるさとを維持することはできない。農家でなくてもいい。集落の仲間として集落の活動に参加してくれる人だ。人が増えれば、農林業だけでなく、商店やサービス業も息を吹き返す。

 過疎町村だけでなく、日本全体にもたくさんのメリットが生まれるだろう。
 食料自給率は回復する。都市部に比べて地方の出生率は高いから、少子化対策にもなる。都市の過密な状況も緩和される。保育園の待機児童問題も、農山村にはない。いざとなれば農山村で伸びやかな暮らしを始められる仕組みを提供できれば、都会の仕事や暮らしに疲れた人たちも追いつめられることはない。日本の高い自殺率も下げられるだろう。

 どこにそんな金があるのか? そんな疑問があるだろう。しかしこれは、なんとかできる。
 累進性強化というような税制度の大幅な変更には既得権益層の抵抗が予想されるが、ひとり月額3万円の農山村持続化個人給付金の導入には、そのような増税は必要ない。
 過疎法で指定された全国の過疎区域人口は、約1160万人だ(「みなし過疎市町村」を含む。一般社団法人全国過疎地域連盟HPより)。
 これに、毎月3万円、12か月をかけると、年間約4兆2千万円になる。
 一方、日本の国家予算は、一般会計が約100兆円、特別会計総額は約400兆円だが重複計上を除くと約250兆円。つまり、一般会計と特別会計を合わせると、年間国家予算は350兆円ということになる。
 すなわち、農山村持続化個人給付金に必要な予算は、国家予算の1.2%にすぎない。予算編成の工夫次第で十分にねん出できる額ではないだろうか。
 この制度で過疎自治体の人口が一割増えたとしても、比率は、1.3~1.4%だ。過疎に苦しむ集落で人が一割増えて、その人たちが集落(コモンズ)のために汗をかいてくれるなら、極めてありがたいことだ。効果を考えれば、知恵を絞って費用を捻出するだけの価値はある。

 どうだろうか。共感してくれる人はいるだろうか。 過疎自治体で将来に不安を抱いている人たち、そして、資本主義に取り込まれた毎日から足抜けをしたいと考えている人たちを中心に、様々な人と考えを深めあい、実現を模索できればと思う。
 あるいは、この制度の法制化を求める意見書を国に提出することを求める請願・陳情を過疎自治体の議会に提出して、採択してもらい、過疎自治体から国に声を上げてもらうのも効果がありそうだ。

 ご意見をお聞かせ頂ければ嬉しい。

 最後に、デヴィッド・グレーバーが大著『負債論』の締めくくりに書いている「勤勉ではない貧者」へのエールを引用しよう。
 「勤勉ではない貧者」とは、資本主義に取り込まれた生活から足抜けをして、自分が大切だと思うことを大切にしてじっくりと暮らす人のことだと思う。

 「だからこそ、わたしは勤勉ではない貧者を言祝いで、本書を終えたい。少なくとも、彼らはだれも傷つけていない。彼らが、余暇の時間を、友人たちや家族とすごすこと、愛する者たちと楽しみ、配慮をむけあうことに費やしている以上、彼らは考えられている以上に世界をよくしているのだ。おそらく、わたしたちは、彼らを、わたしたちの現在の経済秩序がはらんでいる自己破壊衝動を共有しようとしない、新しい経済秩序の先駆者とみなすべきだろう。」
『負債論』酒井隆史監訳、高祖岩三郎・佐々木夏子訳 以文社 p576

2022,7,18     曽我逸郎