斎藤幸平さんへの質問と回答 『ゼロからの『資本論』』 マルクスとアナキズム

<斎藤幸平『ゼロからの『資本論』』を読んで> をメルマガやFBでも配信したところ、多くのご意見を頂いた。多謝。
それらの中で複数の方からこんな質問があった。

「斎藤氏が紹介する晩年のマルクスの考えは、アナキズムそのものではないか。マルクスはアナキズムを空想的だと激しく攻撃していたはず。評価を変えたのか?」

言われてみれば、確かに非常にアナキズム的。
だとして、晩年のマルクスがアナキズムに歩み寄ったことが今明らかになりつつあるのなら、コミュニズムとアナキズムの融和を図るチャンスなのかもしれない。
また、マルクスが空想的でなく実効性のあるアナキズムの構想を持っていたのなら、それは現代の我々に多くの示唆を与えてくれるのではないか。
そう思って、斎藤さんに質問してみたところ、多忙にもかかわらず間を置かずに返信を頂いた。

以下、わたしからのメールと斎藤さんからの回答。

 

* * わたしからの質問 * *

『ゼロからの『資本論』』拝読いたしました。資本主義に覆いつくされて息もできないような状況に追い込まれている今の状況が、歴史も振り返りつつ非常に分かりやすく説得力のある形で分析されており、早速感想を書きました。http://mujou-muga-engi.com/shouron/zerokaranosihonnron/

これを、FBにも上げ、メールマガジンでも配信したところ、何通かの返信を頂きました。
その一部は、マルクスとアナキズムの関係についてです。

「相互扶助や連帯を基礎とした多様な自発的結社(アソシエーション)が相互に結びついて、ボトムアップで社会を変革していく」というのは、まさにアナキズムではないか。マルクスは、アナキズムを空想的だと激しく攻撃していたが、評価を変えたのか?」

そんな質問でした。わたしよりもこの方面に詳しい方々のようだったので、『ゼロからの~』第6章に「パリ・コミューン以後のマルクスの思想を「アナーキスト・コミュニズム」と呼びたい」と書いておられることだけ紹介しました。

それで考えたのは、以下のようなことです。

◆晩年のマルクスは、アナキストになったのか?

◆そこまでではなくとも、アナキズムに歩み寄ったことが今明らかになりつつあるのなら、過去、コミュニズムとアナキズムの間にあった(らしい?)対立を解消し、アソシエーション間の連帯を拡大するチャンスではないか?

◆アナキスト・コミュニズムが、アナキズムの「空想性」を克服しているのなら、今の我々が状況を変えていくのに、そこから多くのヒントを得られるのではないか?

前にもぶしつけなメールにお返事を頂戴したことに甘えて、ご多忙とは重々承知しながら、質問のメールを送ります。
可能な範囲でお教えいただければ幸甚です。
またご許可いただけるなら、いただいた返信をこのメールともども、またHP、FBなどで公開したいと存じます。
何卒よろしくお願い申し上げます。

斎藤幸平先生
           2023,2,22          曽我逸郎

 

* * 斎藤さんからの返信 * *
 

◆晩年のマルクスは、アナキストになったのか?

まぁそれは少し言い過ぎになるでしょう。
バクーニン相手にはアナキスト批判を展開し、プロ独の必要性を説いているので・・・

◆そこまでではなくとも、アナキズムに歩み寄ったことが今明らかになりつつあるのなら、過去、コミュニズムとアナキズムの間にあった(らしい?)対立を解消し、アソシエーション間の連帯を拡大するチャンスではないか?

それを狙って、思想の一面を強調しております。

◆アナキスト・コミュニズムが、アナキズムの「空想性」を克服しているのなら、今の我々が状況を変えていくのに、そこから多くのヒントを得られるのではないか?

とはいえ、ユートピアではありますね。むしろ、ユートピア(空想という訳語はよくないかなと思っています)を擁護したいのです。

斎藤
 

* * * * *

どうやら、こういうことらしい。

「アソシエーションの連帯でボトムアップを図る」というところまでは、後期マルクスもアナキズムも同じような考えだ。しかし、トップダウンについては、考えが異なる。
アナキズムの中にも様々な考え方があるようだ。

理屈で考えれば、「国家からのトップダウンは、必ず抑圧・支配となるから、容認できない」(アナキズム)という考えから、「トップダウンは、社会を正しく運営・統治していくために必要であり、抑圧・支配に陥ることなくそれを行う方法はある」という立場までの幅があり得る。その間にはいろいろなバリエーションが可能だ。
例えば「トップダウンには、抑圧・支配の面もあるが、不可欠な必要悪であり、欠陥をできる限り抑えて健全なトップダウンを行う仕組みをつくりあげるしかない」とする人もいるだろう。立憲主義は、権力にタガをはめようとするものであり、この考え方だ。

斎藤さんの返事にあるように、マルクスは、革命達成後の一定期間に限り、ブルジョアジーの反撃から革命を守るため、プロレタリアート独裁が過渡的に必要だと考えた。
しかし、その後の歴史を見れば、マルクスの目論見に反して、プロ独は、安定した体制を築いた後も権力を手放すどころかかえって締め付けを強化して人々を抑圧し、その結果ソビエト連邦は、行きづまってついには崩壊するに至った。
アナキストたちの予言的コミュニズム批判は、的を射ていたことになる。

にわか勉強のわたしからすると、結局のところ、トップダウンがどうあるべきかという点については、コミュニストとアナキストが激しく議論を戦わせていた頃から、ほとんど進展はないように見える。晩年のマルクスの考えも「ユートピア」なのだから。

しかし、当時の議論が忘れられかけた今、行き詰まった資本主義の中で、人間性をすりつぶされながら賃労働・競争・ブルシットジョブに追われる他ないわたしたちが、「生きたい生き方がなぜできないか」と喘ぎながら次の時代の仕組みを夢想するとき、マルクスの時代のコミュニストとアナキストの激論を振り返ることは、さまざまな示唆を与えてくれるのではないか。

さらに言えば現代、我々は産業革命後の資本主義勃興期よりもはるかに強力な敵に対峙している。
今や、資本は、国境を越えグローバル資本と化し、環境・自然を食いちらかし修復不能にすることを気にもかけず、国家をみずからの集金装置にして税金を吸い取り、国家を好きに操りながら富を独占している。

この状況において、アソシエーションの連帯だけでグローバル資本と闘えるのだろうか。
国家をグローバル資本から我々の手に取り戻し、グローバル資本と闘うための武器にすることも検討してみる必要があるのではないだろうか。
いうなれば、国家をアソシエーションと捉え、国家というアソシエーションの連帯でグローバル資本に対抗する。タックスヘイブンに利益を移転して税金逃れをすることを許さない仕組みなど、グローバル資本を縛る法制度を定めるのだ。

しかし、これも「法学幻想」なのだろうか。

正直なところ、収拾がつかなくなってきた。あまりにも多角的に考えなければならない。
自由を侵さず、空想的でなく実効性と安定性があり、資本主義に人も自然環境も犠牲にさせず、グローバル資本にも対抗できる社会制度・・・。

当面は、現行のすりきれた資本主義と民主主義をこまめに繕って補修しながら考えるしかないか。

課題の列挙で終わらざるを得ない。もっと勉強が必要だ。
 

      2023,2,26       曽我逸郎