釈尊の教え

釈尊成道の過程

※旧サイトからこちらに転載するにあたってあらためて読み返すと問題を感じる部分もあるが(例えば、「主客未分」を警戒なく肯定的に考えている点など)、そのまま転載します。

* * * * *

(98年7月書き込み、同8月加筆)

この春、釈尊成道までの道筋を振り返ってみたいと予告した時は、釈尊の生涯に関する私の知識は断片の寄せ集めにすぎず、「あたりまえ般若」に書いた自分の仏教理解を釈尊成道の過程に当てはめることはそうむずかしくはないだろうと高をくくっていた。
そんな目論見で、釈尊成道を順にきちんと辿ろうと中村元選集(決定版)11巻ゴータマ・ブッダⅠ(春秋社)を読んだのだが、実はがっかりしてしまった。阿含部をはじめとして文献学上最初期とされる経典には、肝心の「釈尊は何を悟ったか」についての記載が、あまりに貧弱である。同書417ページ以降に中村博士は以下の趣旨を述べている。

「釈尊の悟りに関する経典間の不一致・混乱は、釈尊の悟り自体が不安定・曖昧模糊たるものであったことの反映で、仏教の教えは未だ確立していなかった。仏教に特定の教義はない。」
中村博士は、「仏教はこの特徴によって、後の多様な展開が可能となったし、科学と対立したり社会の進歩を阻害することもなかった」と好意的に書いておられるのだが、不安定・曖昧模糊・未確立・無教義とは、あまりな解釈である。

私は、釈尊の解脱は確固たるものだったと信ずる。前代未聞の画期的なできごとであったに違いない。では原始仏教経典の「混乱・曖昧模糊」との落差をどう説明するのか?

以下の三つの理由は、こじつけである。こじつけではあるが、こじつけてみると案外これこそ事実に近いはずだと私には思われる。

理由1:悟りは、言葉にできない=戯論寂滅の=主客未分の大事件であって、それをそのまま言葉にすることはできない。
理由2:経典は、釈尊が自分の悟りを追体験させるために語った方便の言葉の記録であって、釈尊自身の悟り体験の直接の記述を意図していない。釈尊は解脱を追体験させるための方便に集中して、自己の体験の陳述には力を割かなかった。1の理由により不可能でもあったので。
理由3:経典は、釈尊自身による解説ではなく、「このように私は聞いた」で始まる当時の人々の仏教理解の記録であって、その時の人々が理解できなかった釈尊の言葉は、あったとしてもこぼれ落ちている。時代を経て、人々の理解が釈尊のレベルに近づいてはじめて、経典も釈尊の深みor高みに近づくことができた。古い経典ほど必ず釈尊に近い訳ではなく、古いがゆえに釈尊のレベルに遠いということもあり得る。
このように書くと、「では何を頼りに釈尊の悟りに迫るのか?」と批判されそうだ。この批判には、「文献学をはじめとする学問的研究成果を頼りにする」と答えたい。ただし、経典の記載にまったく忠実なあまり、「釈尊の悟りは不安定・未確立・無内容であった」などと結論づけるのではなく、合理的な想像力を働かせて研究成果を深読みする。「おまえのような凡夫に釈尊の事を想像できるか」としかられそうだが、学問研究成果と想像力から仮説を立て、その作業の繰り返しによって、仮説を解体・再構築して深めていくほかに私には方法がない。

では中村博士の研究成果に想像力を加えて、釈尊成道の道を辿ってみよう。私の想像部分は段落の頭に*をつける。

釈尊は、紀元前500年前後(100年位の巾で諸説あり)インド・ネパール国境付近にいた釈迦族の有力指導者の嫡男に生まれた。誕生後7日で母を失うという不幸はあったものの、贅沢な衣を着、召し使いも白い米を食べ、夏・冬・雨季それぞれのための宮殿があったというから、物質的には、なに不自由ない生活であった。妻も娶り(16歳頃)、息子ももうけ、イエス・キリストとは対極の生活であった。

そんな恵まれた生活の釈尊がなぜ出家したのだろう? これについては、有名な説話がふたつある。

ひとつは四門出遊である。14歳の時、城から遊びに出かけた際、年老いた人、病人、亡くなった人をみて、さらに出家者にあったという。
これには伏線がある。釈尊誕生の際、仙人が「この子は将来出家し、仏となって多くの人を救うか、さもなくば偉大な世俗の王になる」という予言をしたので、我が子の出家を恐れた父・浄飯王は、釈尊にさまざまな歓楽を用意し、人生の悩み・苦しみを見せないようにしてきた。釈尊は、いわば、苦に対して無菌状態にあったことになる。免疫のない状態で苦を知った衝撃は大きかった。予言を避けようとして逆に予言を実現させてしまうという、まるでギリシャ悲劇のような話である。
老・病・死を見た釈尊は、単に自分もまた老い、病い、死ぬことをおそれたのではない。経典には、自分も老い、病い、死ぬものでありながら、老人や病人や死者を厭い恥る気持ちを内省して、若さの驕慢は消えた、とある。確かに、他人の老いや病や死をみても、自分が健康な時は驕りのためそれを自分の問題と捕えることはなかなかできない。ただ馬鹿にするか煩わしがるだけである。経典の表現に釈尊の高い感受性と内省の深さが伺える。

もう一つの説話は、女官に囲まれた宴の夜、目を覚ましてみると、歌姫や踊り子たちが互いに互いを枕にして、服をはだけ、よだれを垂らして眠っている。おそらく月の光が照らしていたのだろう。釈尊には、娘たちが屍のように見え、自分の宮殿も墳墓に映り、父の住む宮殿もまた墳墓のように見えて、出家への思いが強まったという。
非常に具体的な話で、この時の釈尊の気持ちは、私には生々しく想像できる。

*ともあれ出家前の釈尊は、物質的・社会的にはきわめて恵まれていながら、老・病・死という誰も避けられない人間の根源的有限性を見つめざるを得なかった。時間の中で老い、患い、死につつあるという自覚のもとには、世俗の雑事や歓楽など苦痛であったに違いない。周囲の人を見ても、死にゆく存在でありながら、目先の事に一喜一憂し、争い、一時の喜びもかえって大きな苦の種になっているのを見て、暗澹たる気分であっただろう。

また、無我説との関連で言えば、一切の世俗的なものが無常であり壊法であることは、出家前の釈尊は、既に十分痛感していた。(無我説の原段階)それだからこそ壊法でない永遠の価値をもとめて出家にいたった。

*釈尊が捕えた苦を経典は「一切皆苦」とまとめてしまっているし、釈尊が以下のように分けたという記述はないが、現代の我々からすると、苦を三つに分類してみると理解しやすくなる。
1:生理的な苦。老・病・死。痛み・空腹・渇き・暑さ・寒さ、、、など。
2:世俗的な苦。損得、嫉妬、恨み、虚栄心、驕り、競争心、、。
3:実存的あるいは宗教的苦。真の自己・究極の目的・絶対の価値を求めつつ見出せない苦しみ。あるいは100%完璧に宗教的でいることのできない自責。

*1については、成道後の世尊も逃れられるものではなかった。晩年の世尊は背中の痛みに苦しんだという。(角川選書、増谷文雄「仏陀 その生涯と思想」P283) 仏教は、病や苦痛を調伏するような、超能力・オカルトではない。(あたりまえ般若、秋の説法での娘の報告、「2種類の苦」を参照)
2については、周囲の人々が自覚なくそれに苦しめられていることを暗澹たる思いで見つめ、また自分のなかにも深く根を張っていることを自省したであろう。
3については、日夜一人孤独に煩悶したことだろう。

ついに釈尊は29歳で出家する。かつてはもっと早いと思っていたので、初めて29歳と知った時は意外だった。随分長い間俗事にかかずらいながら悩み逡巡していたことになる。

*家を捨てた時の釈尊は、世俗的な執着の対象が実のないはかないものであることは痛いほど実感していた。しかし、当然ながらまだ解脱していない。まだ無我を知らない。「あたりまえ般若」の「町からきた娘」風に言うなら、「世俗を超え老死を超える真の価値、自分にふさわしい絶対的価値があるはずだ、それを自分は見つけ、実現するのだ」といった志があったと想像する。経典には「善を求めて出家した」とあるが、善とは何であるのか、明確ではなかったに違いない。真の善、真の価値、真の自己はなにか、その存在を疑わず、その内容を問うための出家であっただろう。

出家した釈尊は、まずマガダ国の首都ラージャガハへ行く。山に入るのではなく都会へでたというのも私には最初意外で、不謹慎にも、家を捨て都会に出るとはまるで不良青年のようだとつぶやいてしまった。
都会へ出た理由は、そこにはそれまでのバラモン教にかわる新しい教えを説く思想家達がいたからである。
釈尊は、まずアーラーラ・カーラーマ、次にウッダカ・ラーマプッタという師に師事する。アーラーラ・カーラーマは無所有処を説き、ウッダカは悲想非非想処を説いたという。前者は「なにもないという境地」、後者は「表象する意識作用があるのでもなくないのでもない境地」だそうだが、資料が不足しているようで、私にはよく理解できない。ともかく釈尊は短期間のうちに師と同じレベルに達し、その教えが役に立たないと知り、師のもとを離れたとある。
とはいえ、二人の師は全否定されたのではなく、古い経典ではこれらの教えが釈尊自身の言葉として記されているし、解脱の後説法を決意した釈尊が最初に教えを説くべき相手として彼らを想定したのに、彼らは既に他界していたのを知って残念がったとあるから、釈尊は彼らを評価し尊敬し恩義を感じていたと思われる。

師を離れた釈尊は、苦行を開始する。絶食・不眠・不臥などはまだ想像がつく。その他にも、牛小屋を這って糞を食べる、自分の糞尿を食べる、墓場で骸骨を集め寝床として眠る、止息禅(息を止めての瞑想)を繰り返すといった、常軌を逸した苦行が6年間続けられた。

*釈尊がどのような意図でこのように激しい苦行に入ったのか、明確な理由を記した資料をまだ私は知らない。苦行は当時の修行者の一般的な修行法であったのであろうが、では、修行者達はなぜ苦行したのか?
「ゴータマ・ブッダⅠ」の資料からその理由を拾えば、「清浄にする」「悟る」「欲望からの離脱」「智慧を得る」といった言葉が得られる。これらの言葉と当時支配的であった思想とを考え合わせると、「肉体を苦しめ弱めることによって、その中に閉じ込められた本当の自我(アートマン)を、肉体の汚れ・欲望から解き放ち、アートマンが本来もっている智慧を自由に働かせよう」としたのではないかと思う。つまり、苦行を開始した時の釈尊は、まだ自我(アートマン)の存在を疑っていなかったと推察する。

常軌を逸した6年間もの苦行を、しかし、釈尊は突然放擲する。なぜか? その理由を経典は、簡単に「苦行は無益と知って」としか書いていない。しかし、こんな単純な説明にあっさり納得することはできない。

*絶食や不眠や止息を6年間も繰り返せば、釈尊は何度となく気絶・昏倒したことだろう。幻覚・幻聴もあっただろう。現代の安直な自称「宗教者」なら「神に出会った」とか「霊界を訪れた」とか言い立てるであろうような多くの経験もあったにちがいない。「わたしのアートマンは肉体から解放され輝いた」と叫んでもおかしくない状況を何度も経験しながら、しかし釈尊はひたすら冷静であった。

*幻聴・幻覚を神秘体験と騒ぐのではなく、五蘊(色受想行識)六入(眼耳鼻舌身意)等々として後に整備される形で自己と自己の意識を分析し、「アートマン」といわれているものがどれほどに肉体の状態に左右され、一貫性がないか、を釈尊は深く観察した。その結果、おのが頼りにし、高めようとしてきた「自我」に疑問符がともった。肉体をいかに苦しめても「アートマン」は働き出さない。肉体に閉じ込められた純一なる本来の自己(アートマン)などない、アートマンと言われているものは、存在物ではなく、肉体によって大きく影響される現象であって、肉体を過度に苦しめることには害があるばかりだと見出したのだと推察する。
苦行は無益であるから放擲された、と経典は書くが、6年間の苦行における「アートマン」の観察によって、無我・縁起という前代未聞の思想が準備されたに違いない。苦行によって無我説が(戯論の段階ではあるが)成立し、その成立によって苦行が放擲された。苦行放擲とは、即ち第1段階の(戯論レベルの)無我説の成立であったのである。

*勿論、釈尊は精神を否定し、肉体がすべてだと思ったのではない。心・精神は、肉体に依存するばかりではない。逆に精神の状態によって、肉体が影響される様も釈尊は観察しただろう。食物・水・気温といった外部要因によって肉体が激しく左右される様も観察しただろう。墓場で骸骨を床にした釈尊に肉体のはかなさが分からないはずはない。そもそも老死を超える価値を自分に与えることが出家の目的ではなかったか? それなのに、自分の精神も肉体も、等しく他に依存する実体のない現象だと知ってしまった、、、

苦行を放擲し、娘スジャータの捧げた乳粥を口にしながら、釈尊は、無我を前提に、もう一度原点に戻ってすべてを考え直さねばならないと決意したことだろう。

苦行をやめ、沐浴し、適切な量の食事をとり、快適な座をしつらえた釈尊は、不退転の決意で瞑想に入る。経典には、悪魔による様々な誘惑・脅しに釈尊が打ち勝つ様が長々と記されるが、しかし、肝心の釈尊解脱の内容については、はじめに書いたように(無作法な言い方ではあるが)碌な物がない。

唯一まともな説明は十二支縁起説を悟ったとするものであるが、中村元博士は、十二支縁起は、釈尊が解脱後7日間の瞑想を出てから考察した内容であって悟りそのものとは関係ない、しかも十二支縁起説は文献学的に後の成立であると否定している。(前掲中村書P392)
これに対して、駒沢大学の松本先生は、十二支縁起説が後の成立と認めながらも「釈尊は十二支縁起を悟った」と主張しておられる。(大蔵出版 縁起と空P22)

*ひとつ深読みが可能な経典の記述に、苦行を捨てることがそのまま悟りであったというものがある。(前掲中村書P351)
私としては、これを頼りに、ここまでに述べた苦行放擲までの過程に添って想像するほかはない。

*もう一度ここまでの過程をふりかえってみよう。
1)出家前に世俗的なものの無常と三種の苦を痛感した釈尊は、真の価値、真の自我(アートマン)を求めて出家し、苦行に励んだ。
2)苦行の過程で、肉体も意識も他に影響される不安定な現象であることを観察し、アートマンは存在しないのだからいかに苦行に励んでも無益であると悟り、未完成なレベルながら無我と縁起を知り、釈尊は苦行を放擲する。しかし、このレベルでの無我・縁起はまだ戯論であり、対象(考察された自己という対象も含む)の無我・縁起にすぎず、考察する主体の自己はまだ残っていた。

*快適な座をしつらえて瞑想に入った釈尊になにかが起こる。そして、釈尊は、7日もの間解脱の楽しみを味わい続ける。この楽しみは「あたりまえ般若」で町からきた娘の経験した「大きな大きな喜び」と同じだったに違いない。
すなわち、見る自己が見られる自己の無我を戯論するにとどまらず、見る自己も見られる自己も無く、無我なる世界とともに無我なる現象として縁起しあっていることを言葉にならない=主客未分の=戯論寂滅の智慧で悟ったのである。ここに真の無我=見る自己も包括した無我が完成した。これまで追求してきた真の価値の問いも、この大いなる喜びの前に意味を失ったであろう。ここにすべては完成し、釈尊はすべてを肯定し、大いなる安らぎ(ニルバーナ)を達成した。

(98年12月12日加筆)私の今の理解では、解脱とは、自己が世界とともに縁起する無我なる現象だと主客未分の体験で知ることである。その時は、本文に書いた「町からきた娘の大きな大きな喜び」のように、必ず自分とともに縁起する世界=自然の素晴らしさへの驚嘆がともなう筈だと思う。
しかし、津田眞一氏の「アーラヤ的世界とその神」(大蔵出版)で、「大乗仏教は自然の肯定であるのに対して、釈尊の仏教は自然の否定であって、両者は両立不能だ」という趣旨を読み、考え込まされた。大乗経典には仏国土の荘厳が説かれ、中国仏教では禅を中心にありふれた自然現象が感嘆され、日本では批判仏教グループの攻撃する天台本覚思想が栄えるが、確かに、初期仏教には自然への賞賛・賛嘆はほとんど、あるいはまったくないのではないか? なにより経典の釈尊成道の際の記述に、「自然がそれまでとまったく違う素晴らしさで現れた」というような表現があってしかるべきではないか。
もし、釈尊成道の際、すべてが今までとまったく違うみずみずしさで立ち現れたのでないなら、私の仏教理解は、釈尊の仏教とは全然別物ということになってしまう。釈尊あるいは初期仏教の自然観を調べてみなければならない。

(03年6月11日 加筆)
先月末、日本テーラワーダ仏教協会の宿泊実践会に参加した(詳細は小論集を参照)。テーラワーダ仏教とは、スリランカやビルマなどに伝わる上座部仏教の事で、釈尊の教えについて最も保守的な流れだとされる。そこでの瞑想方法の指導は、ひたすら自分自身を客観的に観察し、そこでおこっていることに気づくことである。気をそらしてはならない。「あたりまえ般若」で書いたような「自分を自然へ開くこと」「自然の変化を感じること」は、釈尊の方法ではなかったように感じる。自分を外に開いて世界と共に縁起する自分を知ろうとするのは大乗の方法で、釈尊の方法は、自分の無我=縁起を集中的に観察する内面的なものであったのではないだろうか? 修行中の釈尊は自然に目を向けることはなかっただろうし、修行中の弟子に自然の美しさを指摘されることもなかった。しかし、解脱後の釈尊が自然になんの感情も持っておられなかったかというと、そうではなく、大パリニッパーナ経には晩年死期を悟られた釈尊が、独り言のように風景を「美しい」とおっしゃるシーンが登場する。
外に自分を開き広げるという、釈尊とは別の方法をとった大乗は、宮澤賢治のようなみずみずしい感性も生み出したが、柳緑花紅、煩悩即涅槃、梵我一如的全肯定へも発展(堕落)していったのだと想像する。

 経典の有名な伝承では、この後、釈尊は自分の成し遂げたことを人々にも教えるべきか躊躇したとある。「この真理は深遠で思考の域を超え、執着に取り付かれた世間の人々には見ることが難しい。無駄な努力をしても疲労が残るだけだ。何もしたくない。」そう考えた釈尊の前に梵天が現れ、「汚れの少ないものもいる。彼らは真理を悟るでしょう。どうか彼らのためにお説きください。」と懇願したという。(前掲中村書P443)
実際の釈尊は、大きな慈悲心によって、入滅まで人を選ばず誰にでも(少なくとも性別や職業・身分によって差別すること無く)熱心に一貫して教えを説き続け、当時の社会の変化ともあいまって瞬くうちに多くの帰依者を集めることになった。

*しかし、確かに釈尊の得た悟りは、伝えることが難しい。無我を考察するに留まらず(それでは考察された対象の無我であり、自己の無我を考察しても、考察の対象としての自己の無我であって、考察する主体の無我ではない)、主客未分=戯論寂滅=言語化不能の体験=智慧を伝えるとなれば、自分自身で追体験させる他はない。したがって釈尊の説法は、そのための方便に終始した。

*釈尊の主だった教えを振り返ってみよう。

中道

(世間一般の生活のように欲望に従い執着心に追い立てられるのでもなく、苦行者のようにいたずらに幻聴や幻覚の世界に自分を追い込むのでもなく、落ち着いた静かな状況で修行すべきとの教え。世俗を離れ、苦行を避ける出家者の正しい修行の道。

四聖諦(苦・集・滅・道)

苦諦(すべては苦である)によって、世俗の事を喜ぶ人にそれがより大きな苦の原因となっていると教え、世俗の事に逃避しようとする人に苦と向き合うことを教える。2)集諦(苦には原因がある)によって、苦もまた縁起の現象であり、その原因は執着であることを教える。3)滅諦(その原因を断つことによって苦は克服できる)は、自己にかかわるものと自己自身への執着を断つことにより、苦は克服可能で、執着を超えてありのままに見ることにより、大いなる安らぎがあることを説く。4)道諦(苦克服の道)は、滅諦を成就するための方法であり、先に延べた中道、さらに中道を具体的に説明する八正道である。

八聖道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)

八正道は、いわゆる「戒・定・慧」に集約できる。まず悪行を遠ざけることによって心の状態を荒げないようにする。(戒=第1準備段階)。次にさらに心・精神を静め落ち着かせる(定=第2準備段階)。さらに正しい見解(=執着の対象は、ものも自己も無我なる縁起の無常なる現象であるという知<戯論の知、そしてさらに戯論寂滅の知>)を持つ(慧=完成)。

縁起=無我

すべて執着の対象が、他に依存し、条件に従って発生する(縁起)現象であり、壊れるものであり、実体を持たない(無我)ことを教え、執着を断たしめ、苦を超越させる。我執の対象としての自己のみならず、主体の自己も含めた縁起=無我を知るためには、主客未分=戯論寂滅の知を経験せねばならない。

無明

無我=縁起を知らず、縁起する無我なるものに執着する事。あらゆる世俗的苦、宗教的・実存的苦の原因。

ニルバーナ

あらゆるものの無我=縁起を如実に知って執着を超え、生理的以外のあらゆる苦を克服し、さらには、自己という執着の対象を真に(=主客未分のレベルで)壊して到達する、自分が世界とともに一瞬一瞬縁起している現象であるという戯論寂滅の(=言葉によって把握することのできない)喜び。

*以上のように、釈尊の教えは、苦行の放擲、中道、四聖諦、八正道、無我、縁起などなど、明確な意図を持った一貫性のある体系的思想であり、決して「不安定・曖昧模糊・未確立な」場当たり的対器説法ではなかったと考える。

*最後に、しつこいようだが、もう一度時系列でまとめて終わろう。

苦行開始まで

(3種の)苦を痛感し、すべて世俗的なものは無常であることを認識。しかし、永遠なる真の価値、真の我(アートマン)は、あるはず。

苦行中

肉体、認識、意識が、他に依存する不安定な現象であることを観察。肉体を苦しめてもアートマンは働き出さないことを経験。アートマンの存在に対する疑い。

苦行の放擲

アートマンは無いと確信。ただしまだ戯論のレベルで、対象化された自己の無我にとどまり、主体の自己(自己を無我と見る自己)はまだ残っている。

解脱

戯論寂滅の無我・縁起 主客未分 世界とともに生成する喜び 永遠の価値の問いの放棄。