釈尊の教え

釈尊の教えに反する「困った経文」、自由、責任、精進・努力

 『自由なる人、空なる自己  自由と主体性、二諦に照らして』という英語の論文を読んだ。
“Free Persons, Empty Selves  FREEDOM AND AGENCY IN LIGHT OF THE TWO TRUTHS“ Karin Meyers
 
 インドのさまざまな思想が自由意志や主体、自己をどう捉えているのか、それを考える論文集”Free Will, Agency, and Selfhood in Indian Philosophy”(Oxford University Press, Usa 2013/12/26) の中に納められており、Karin Meyersは仏教の立場からこのテーマを議論している。
 
 これを読んだきっかけは、東京大学東洋文化研究所の馬場紀寿先生の『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(岩波新書)に言及されていたとある経文である。これは、わたしにとっては大変「困った経文」なのだ。
 
 『初期仏教 ブッダの~』は、緻密な学術研究によって多くの重要な指摘をしている。例えば、これまで最も古い経典として重視されてきたスッタニパータなどの韻文経典は、初期仏教僧団が組織として伝承してきた「結集仏典」ではなく、民間に歌い継がれてきた雑多な物語がずいぶん後になって三蔵に取り込まれたものであると論証している。(小論を参照)
しかし、この中で取り上げられているひとつの経文は、釈尊の教えについてのわたしの解釈を根本から崩壊させかねないものだ。しかも、それは、僧団が組織をあげて引き継いできた結集経典のなかの一文なのである。(同書p121~を参照)
このような経文だ。同書から引用する。
「私は、意思を行為と説く。思ってから、身体・言語・意によって行為をなす。」『増支部』6・63「洞察経」 p121
 あたりまえのことではないかと思った読者もおられよう。しかし、これは、わたしに言わせれば、釈尊の教えに反するのである。
 
 わたしは、無常=無我=縁起こそ釈尊の教えの核心だと考えている。その意味するところは、「わたしは、縁によって起こされるそのつどの脈絡のない反応・現象であり、主体的第一原因になれるような常住の存在ではない」ということだ。これが本当に納得できれば、執着はおのずと鎮まるのである。
「そのつどの現象にすぎないわたしが、どうして執着(我執)の対象になり得るだろうか。我など妄想であったのだ。我執は、むなしく愚かな努力であった」と、おのれのこととしてドスンと腑に落とすことができれば、我執はその対象を失って霧消し、我執から派生するもろもろの執着も消沈して、苦をつくることは停止する。これが、苦の滅に至る釈尊の教えである。
 
 ところが、この「困った経文」では、あたかも私は「思って行為をなす」第一原因、主体的存在であるかのように聞こえる。『初期仏教 ブッダの~』には、このような記述もある。
「行為の原動力としての意思」p122
「仏教は、意思の自発性を否定する見解を認めなかった」p122
「仏教は、自業自得論を意思の自由を認めることによって基礎づけた」p123
「こうして初期仏教は、「自律」と呼ぶべき倫理的な指針を生み出している」p124
「仏教では、「行為」とは自発的な意思にもとづく諸行為だと説く」p125
 
 ここに書いてあるとおりだとすると、釈尊の教えは、わたしの理解とは違うのだろうか。わたしは間違っていたのか。
そんな心配をしていたところ、HPを読んで下さった「にこさん」が、この論文を紹介して下さった。(にこさんとの意見交換は、こちら
 
 著者、Karin Meyersは、説一切有部など部派仏教を研究の中心テーマにしているらしい。論文では、唯識の思想家、無著や世親への言及もあった。この本が様々なインド思想を取り上げる中に、ひとり仏教の立場を代表して書いているのだから、それにふさわしい研究者であるはずだ。その内容も、仏教の専門的探求に根差して非常に深い。米国生まれの白人女性でカトマンズの大学でも研究したようだ。
 一方、わたしは、日本で生まれ育ち、仏教の研究を一旦は志しながら挫折し、自分勝手につまみ食い的に釈尊のもともとの教えを試行錯誤しつつ模索しているに過ぎない。背景もアプローチも目的も異なる。にもかかわらず、Meyersの主張は、わたしの考えと非常に近い。心配して読み始めたのだが、逆に大いに勇気づけられた。「困った経文」について教えてくれただけではなく、小出裕章さんからご指摘を受けた「無常=無我=縁起では、原発災害を引き起こした連中などの責任を追及できなくなる」という問題提起や、わたしが以前から考えてきた「無常=無我=縁起であるのに、なぜ精進・努力が可能なのか」といった問題についても関連する議論を展開している。
 
◆ 「困った経文」について
 
 さて、では、まず「困った経文」について考えていこう。
この経文は、しばしば話題になる有名なものらしい。ネットで検索しても、すぐにいくつかの記事が見つかった。ほとんどは、自由意志や主体性を説くと解釈している。
Meyersも、この経文に触れている。
(過去の偉大な)仏教思想家の考えの中に(西洋哲学における自由意志と道徳的責任とのつながりに)類似するものを探すことによって、学者たちは、「業(すなわち行為)はcetanAである」という釈尊の発言に自由意志は含意されている、と推察している。
The search for an analogue in Buddhist thought has lead some scholars to infer that free will is implied in the Buddha’s statement that karma (i.e., action) is cetanA. p45
 ここにある「業はcetanAである、という釈尊の発言」というのが、「困った経文」のことだ(p45.注9)。つまり、自由意志や道徳的責任という西洋の問題意識を持ち込むことによって、「困った経文」を自由意志を説くものと曲解している、とMeyersは批判しているのである。
 
 キイとなるのは、『初期仏教 ブッダの~』で「意思」と訳されているcetanA(チェータナー)だ。漢訳の伝統では「思」と訳されてきた。ネット上のサンスクリット語辞書を引いてみると、volition(意志)、intention(意図)、consciousness(意識)といった単語が並ぶ。これを見ると高次機能のように思われる。やはり、「人は考え意図をもって、それに基づいて行動する」と「困った経文」は語っているのだろうか。
(以下、サンスクリットのアルファベット表記は、京都・ハーバード方式による。)
 
 Meyersの主張は違う。cetanAをどう捉えているか、もう少し詳しく見ていこう。
cetanAは、自由意志についてどのようなよくある説明をするにしても、自由意志をもたらすものではない。
cetanA does not entail free will under any of the common descriptions of free will. p46
 
cetanAは、熟睡中も含めて、心(citta)の一瞬一瞬に存在する要素として、必ずしも自覚的でも、考えた上のものでも、自主的でも、(その人の)選択に従うものでもなく、―(要するに)自由意志には不可欠だとみなされるものの組み合わせではないのである。
as a factor present in every instance of mind (citta), including deep sleep, cetanA is not always conscious, deliberate, voluntary, or subject to choice―some combination of which is typically regarded as essential for free will. p46
 
cetanAは、必ずしも自覚的でも意図的でも自発的でもなく、仮にcetanAを一種の「選択」として捉えることが適切であったとしてさえも、仏教が人にあるとみなすなんらかの経験的自由の根拠を説明するには、不十分である。
cetanA is not necessarily conscious, deliberate, or voluntary, and so even if it were appropriate to conceive of it as a kind of “choice” this would not be sufficient to account for some of the empirical freedoms Buddhists attribute to persons. p55
 
最も基本の意味においては、cetanAは、対象や目的に向かう心の動きに過ぎない。
In its most basic sense, cetanA is simply the movement of a mind (citta) toward an object or goal. p46
 cetanAは辞書にあるような高次の機能ではないと、Meyersは言っているのである。
考えてみれば、cetanAを高次の意識作用と考えると、「困った経文」には矛盾が生じる。仏教では「身口意の三業」という。思うことも行為なのである。「思ってから、身体・言語・意によって行為をなす」とあるが、cetanAが「思うこと」という高次機能であれば、「意業が生じてから、身口意の三業が生じる」という循環論に陥ってしまう。よってcetanAは高次機能ではなく、身口意の三業を引き起こす多くの連鎖するダルマ(後述)のひとつと考えるべきだろう。
ただ、「困った経文」には、「意思を行為と説く」という言葉もある。Meyersの訳は前後が逆で”karma is an intending (cetanA).”となっているが(p45、注9)、いずれにせよ、これは「cetanA =業(行為)」という意味ではなく、「cetanA(対象を指向すること)があれば行為となる」といった意味ではないだろうか。Meyersも、「対象に向けた心の動き」であるcetanAは、「行為を単なる動きから区別するもの」(what distinguishes bodily and vocal action from mere movement:p45)と書いている。ただし、以下に引用するようにこれによってcetanAを過大評価するのは間違いなのだ。
まとめれば、行為を(単なる動きから)区分する機能であるから、cetanAは道徳的責任のための必要条件であるということはできる。しかし、十分(条件)ではない。cetanAは、それ自体において、人を賞賛や非難の適切な対象にはしないし、それ自体において自由意志に等しくもない。
In sum, because it is the distinguishing feature of action, we can say that cetanA is a necessary condition for moral responsibility, but it is not sufficient; it does not, in itself, make a person an apt target of praise or blame and it is not, in itself, equivalent to free will. p46
 にもかかわらず、cetanAが行為と単なる動きとを分けるということを根拠に、西洋流の解釈を仏教に持ち込んでしまうという間違いが起こっていると、Meyersは批判する。
(仏教における)業の果報と(西洋哲学の)道徳的責任や賞罰との間の類似を引き合いにして、一部の解説者は、cetanAは自由意志の機能に等しい、もしくは、cetanAの存在によって、行為は自由に意志されることになる、と示唆するためにこのこと(cetanAの有無が行為と単なる動きとの違いを生じること)を用いる。
Drawing an analogy between karmic fruition and moral responsibility or deserts, some interpreters take this to imply that cetanA is equivalent to a faculty of free will or that its presence entails that an action is freely willed. p45
 つまり、自由意志に基づく行為とか、それに対する道徳的責任、賞罰という西洋の枠組みを仏教にあてはめることが、cetanAを、あたかも自由意志を有する主体の高次機能のように捉えさせ、仏教も自由意志や主体性を認めているとする誤解を生んでいると、Meyersは問題提起しているのである。
 
 「困った経文」についての疑念は、完璧に打ち砕いてもらった。「困った経文」は、西洋流の考え方に歪められて解釈されてきたのである。
念を入れて、仏教が主体や自由意志を認めていないことについても、いくつか引用しておこう。
歴史上の仏教思想家たちの言葉や概念に「自由意志」に等しいものはない。
there is no Buddhist term or concept equivalent to “free will.”p42
無我説は、行為が主体から生まれることをはっきりと否定する
the doctrine of non-self (anAtman), which explicitly denies that actions originate from an agent (kartR) p42
無我説は、行為が主体に起因することを否定する
the doctrine of non-self, which denies that actions are caused by agents. p43
 「困った経文」が主体や自由意志を説いていないというだけではなく、このように、仏教そのものが主体や自由意志を説いていない(否定している)と述べている。無我であり縁起なのだから、当然のことである。
 
◆ 責任について
 
 自由意志と道徳的責任と賞罰について考えることが西洋の哲学の継続的なテーマであると、Meyersは述べている。人間には複数の可能な選択肢からどれかを選ぶ自由があるという考えや、反対に、未来はひとつの決まった道筋しかないから選択の自由は見せかけにすぎないという考えなど、何人かの哲学者を引き合いにしている。その上で、西洋哲学のこのような問題設定とそれへのこだわりは、仏教にはないという。
 
 ここからはMeyersの意見ではなく、触発されてわたしが思いついたことだが、こんな見方も可能ではないだろうか。
 
 全知全能の善なる神が世界を創造したとする一神教の文化では、この世に悪のあることになんらかの説明が必要になる。神が承知の上で悪をつくったのなら、神はまったき善ではなくなってしまうし、あるいは、善なる世界を創造したはずが悪が生じてしまったのなら、神の全知全能性に傷がつく。この問題には、ヘッセも確か『デミアン』で言及していた。この袋小路から善なる神を救うために編み出された説明が、「神に与えられた自由意志を人間が誤って用い、その結果この世に悪が生まれた」という考えではないだろうか。この説明でも、神は結果を予知できなかったことになってしまうと思うが、ともあれ一神教の文化圏では、悪があることの責任から神を救うために、人々は一人ひとりが自由意志を正しく使わねばならないという責任を自分たちに課してきたのではないか。それがdecencyという言葉の本質ではないだろうか。
つまり、自由意志や道義的責任、賞罰という概念は、本来は一部の特殊な文化圏だけのものだったのかもしれない。その後、西洋文明が世界を席巻したが故に、世界の常識のようになっているけれども。
 
 それに対して、たとえばかつてのインドの梵我一如思想は、まったく違う考え方だ。
世界、宇宙の全体を、すべてを超越した絶対的なもの(梵)と捉える。これは、もともとは世界中に共通していたであろう、自然の大きな力を崇める原初的な宗教感覚を観念化して突きつめた発想かもしれない。梵は、すべての対立概念を超越した絶対であるから、善も悪も超越している。部分に対する全体でもない。我々も梵の中にあるが、梵の一部ではない。梵は部分と対立するような全体ではないのだから。我は梵とひとつであり、我もまた本来は絶対的超越であるはずなのだ。ところが、現実の我は有限で多くの制約に縛られている。その原因はさまざまに考えられた。肉体のせいだとすれば、肉体を追いつめる苦行によって束縛を脱しようとする。小賢しいはからいが原因だと考えれば、無念無想になれば梵の働きが内側からおのずと湧き上がってくると考える。善だ悪だと区別するから迷う、欲望もまた梵の発露、望むままに振る舞えばよい、と考えれば全肯定主義になる。絶対なる全体世界を構想する梵我一如型の思想のさまざまなバリエーションは、あちこちに見られるし、日本も例外ではない。仏教でさえ梵我一如化が広がった。梵我一如的世界観では、自由かどうかや善悪、責任よりも、梵との合一、梵への復帰・没入が課題になる。
 
 釈尊の教えは、それらとは全く異なる。
釈尊の考えでは、我々は皆、執着に突き動かされて苦をつくってばかりいる凡夫なのだ。
我々の行為が我執に伴われた強欲や憎悪、妄想に強制されている限りにおいて、すべての凡夫は子どもであり、機能上正気ではない
all ordinary persons are children (bAla) and functionally insane insofar as our actions are compelled by the greed, hatred, and delusion associated with self-grasping. p60
 全知全能の神が世界を創造したとする文化圏では、人間も神の被造物であり、本来善き者として創られたし、善であるべきだと考える。つまり、人間は、努力して本来の善を保持しなければならない。梵我一如型では、人間は本来絶対的超越的宇宙的存在であり、今そうでないのはおかしいと考える。一方、釈尊においては、人間は、もともとがダメな凡夫なのである。凡夫は、執着に束縛され突き動かされており、選択できる自由意志を持たないのだから、正しい選択をしなかったことの責任をとれ、と追及することはできない。
 
 では、釈尊はダメな凡夫をあきらめて見捨てたのだろうか。
けしてそうではない。執着にとらわれ操られて苦をつくっているあり様をいかに停止し、そこから抜け出すか。それが釈尊の最大の問題意識だ。
仏教の中心的関心は、道徳でも形而上学でもなく、救済論に関することである
The central concern in Buddhism is not moral or metaphysical, but soteriological: p42
 ダメな凡夫でも精進・努力して執着を滅し苦をつくらなくなれる道を編み出し、教えたのである。責任を負わせるのではないやり方で凡夫を救いへと導いたのだ。それが、八正道や三学(戒・定・慧)である。
 
 責任を負わせ、責任に違反したことを追及するよりも、よき縁に触れてもらい、苦をつくらないように精進・努力してもらう方がいいと、わたしは思う。そうしてくれない人がいても、凡夫であり、苦をつくったことを悔いる縁に恵まれなかったのだから、仕方がない。よき縁を世の中に拡げていく他はないと思う。よき縁はよき縁を生み、どんどん拡大していくと信じて。
 
◆ 凡夫になぜ発心や精進、努力が可能なのか
 
 人は、みずからの行為を好きなように選択したりコントロールしたりできる主体ではなく(無我)、その能力を持たない。そのつど縁によって起こされる(縁起)そのつどの一貫性なき反応(無常)である。その反応のパターンは、執着に操られている。
では、主体性を持たず、自由な選択も行為のコントロールもできない凡夫に、発心や精進・努力が可能なのだろうか?
 
 Meyersは、論文の副題に”The Two Truths”「二つの真理」という言葉を使っている。わたしはこれを「二諦」と訳した。勝義諦(paramArtha-satya)と世俗諦(saMvRti-satya)である。
少し長くなるが引用したい。
我々は自由意志を楽しみみずからの行為を選択しコントロールする一定の程度を有するという考えと、無我の教え(それは行為が主体に起因することを否定するのであるが)との間に、矛盾が現れる。初期仏教とアビダルマの資料では、これは、人についての記述を反映する世俗諦と、ダルマ、存在や経験の根本要素を構成する非人間的な刹那滅の心身の出来事、に関する記述を反映する勝義諦との間の明白な対立に集約される。前者によれば、人は主体であり、あるいはその行為の原因である。後者に従えば、主体は存在せず、行為はダルマの組み合わせから発生する。
There appears to be a contradiction between the notion that we enjoy free will, that we have some degree of choice or control over our actions, and the doctrine of non-self, which denies that actions are caused by agents. In the context of early Buddhism and the Abhidharma, this amounts to an apparent contradiction between the conventional truth (saMvRti-satya) reflected in discourse about persons, and the ultimate truth (paramArtha-satya) reflected in discourse about dharmas, the impersonal, ephemeral mental and physical events that constitute the basic elements of existence or experience. According to the former, persons are the agents or causes of their actions; according to the latter, there are no agents, and actions issue from a combination of dharmas. p43
 いささかややこしいので少し補足して解説しよう。
仏教は、世俗の真理(世俗諦)と究極の真理(勝義諦)という二種類の真理を立て、目的や状況に応じてそれらを使い分けて人々を導く。人を人という全体的なまとまりとして捉え、例えば精進・努力を説いて励ますのが世俗諦であり、人が行為に至る過程などを分析し、その過程の中のさまざまな要素の縁起の関係を明らかにするのが勝義諦である。
(世俗諦・勝義諦については、仏教の歴史上のさまざまなグループがそれぞれの解釈をもっている。読者の中にも、これとは異なる解釈をしている方はおられよう。どうか、定義が違うことで否定せずに、Meyersの考え方を理解したうえで批判して頂きたい。ここに書いたのは、Meyersの考えの曽我なりの理解である。)
究極の見地からは、自由意志はない、それを楽しむ人はいないのだから。単にダルマの流れがあるにすぎない。
From the ultimate perspective, there is no free will because there are no persons to enjoy it; there is merely the flow of dharmas. p64
 つまり、勝義諦によれば、人は存在せず、さまざまなダルマ(心身における刹那滅の要素的事象)の自動的な縁起のプロセスの結果として反応が起こっているだけなのである。ここで言われているダルマは、わたしが「次々と倒れる小さなドミノ」と言ってきたものと同じだ。例えば、cetanAも、ダルマの一つであり、縁起の連鎖の中の「対象や目的に向かう心の動き」という単純な刹那滅の要素(ドミノの一駒)であって、それがダルマの一連の縁起の中に介在すれば、動きは行為となる。人が主体性をもって行為を選択したりコントロールしたりするのではない。人がみずからなにかの行為を起動することもない。人は、ダルマの縁起の連鎖よって起こされる、刹那滅の(そのつどの)受動的反応=現象だということになる。
(ダルマという言葉も、グループによって解釈に違いがある。Meyers自身、p43の注2でそのことに言及している。Meyersのダルマの捉え方は、これまで私が接した解釈の中では、人という反応が縁によって起こされるプロセスに特化しているように思われる。しかし、「行為は、さまざまな心身の要素的事象が次々と縁起した結果起こる反応である」という捉え方は、正しい仏教理解だと思う。)
 
 勝義諦においては、自由も主体性もない。そのつどの縁起のまま受動的にそのつど起こされるだけである。だとすれば、釈尊の教えに従って努力するどころか、釈尊の教えに従おうと考えることさえできないのではないか?
もっともな疑問である。
 
 Meyersの答えはこうだ。長い引用になるがご容赦願いたい。
我執やその他の不健全な要素によって条件づけられた心相続もまた、信zraddhA、慚hrI、軽安prazrabdhi、慧prajJAのような健全な要素に影響されやすく敏感であることは可能で、より大きな安寧や、我執の弱体化に資する行為をもたらす。
A series conditioned by self-grasping and other unwholesome factors can also be sensitive and responsive to wholesome factors like faith (zraddhA), shame (hrI), tranquility (prazrabdhi), or wisdom (prajJA), resulting in action conducive to greater well-being and a weakening of self-grasping. p60
 冒頭の”A series”は、引用から省いた前の部分の”the mental series (citta-saMtAna) issuing action”を受けている。citta-saMtAnaは、伝統的な漢訳では心相続である。「行為を起こす心相続」とは、「行為を起こす心のダルマの連鎖」ということになる。ここでMeyersが言っているのは、「悪い心のダルマが連続していても、よいダルマによって、心相続はよい流れに変わりうる」ということだ。
さらには、この動きの逆転を準備する健全な影響は、最初の段階では、心相続の中からやってくる必要はない、ということを、縁起は確実にする。必要とされることのすべては、釈尊や釈尊の教え、あるいは釈尊の弟子たちにある程度の理解や傾倒をもって向かい合うことのできる心である。そして、このことは、仮に、心相続が不善なる動機(すなわち強欲とか憎悪、妄想)やそのほかの不善なる心的要素に揺らいでいたとしても、起こり得る。
Moreover, dependent origination ensures that the wholesome influence that sets this reversal in motion need not come, in the first instance, from within the series. All that is needed is a mind that is able to attend to the Buddha, his teaching, or his representatives with some degree of understanding or affection. And this can happen even if the mental series is under the sway of unwholesome motivations (namely, greed, hatred, or delusion) or other unwholesome mental factors. p60~61
 つまり、悪い心相続の連鎖を逆転するきっかけは、その悪い心相続のなかから生じる必要はなく、新たに外から訪れることもある。人は、過去に積み重ねてきた業に縛られるばかりではなく、新たに出会った縁によっても影響される。縁起にはそういう一面もある。殺人鬼アングリマーラが釈尊との出会いという縁を得て回心し、発心したことは、これの端的な事例であろう。
例えば、摂大乗論において無著(インド大乗仏教唯識派の中心的学僧)は、現世を超えた心、それは見道と菩薩の第一段階への悟入の印であるが、そのような心は、(聞くことから生まれる智恵は、沈思瞑想の道によって徐々に進展していくというような)ブッダの教えを聞くことによって残る印象の結果である、と説明している。
In his mhAyAnasaMgraha, for example, asaGga explains that the supramundane mind, which marks entry into the path of seeing and the first bodhisattva ground, is the result of the impression left by hearing (zruta-vAsanA) the Buddha’s teaching, such that the wisdom born of hearing gradually develops by way of reflection and meditation (mahAyAnasaMgraha [MSg] i.45-49). p61
 このあたりかなりややこしい言い回しであるが、要するに、執着に深く染まった人であっても、釈尊の教えが縁として作用することによって、発心が起こり得る、と言っているのである。
パーリ仏典中部第43『大有明経』は、八正道の第一「正見」(「正しく見ること」ではなく「正しい見解」)の縁として、「他からの声」を挙げている。正しい修行を始めるには、最初に「正しい見解」を学ぶことが必要であり、その縁となるのは、「他からの声」を聞いて釈尊の教えに接することなのである。
 
 発心の後は、修行の努力を続けなければならない。縁によって起こされる主体性なき受動的反応にどうして修行が可能なのだろうか。
わたしは、「主体的努力もまた縁によって生じる」と言ってきた。Meyersは、もっとインパクトのある表現で説明している。努力には我執が必要であり、主体性の妄想が役に立つ、というのだ。
(仏教の修行の)道に着手し実践する際に必ず伴われる、一種のゴールを目指す行為や努力や決断は、心理的に言えば、ある種の我執、明確には、そこにおいて人が自分を自律的主体だとみなすような我執を必要とするように思われる。
The kind of goal-oriented action, effort, and initiative involved in taking up and practicing the path seems to require, psychologically speaking, a certain kind selfgrasping, specifically, the kind of self-grasping in which one regards oneself as an autonomous agent. p61言い換えれば、わたしたちは自分の行為を選び統御するという考えは、わたしたちの楽しむ選択や制御は(実は)非人間的なダルマの過程の結果なのだ、という考えよりも、役に立つ妄想なのである。ある段階までのことではあるが。
In other words, the idea that we choose or control our actions, rather than that the choice and control we enjoy are the result of impersonal dharmic processes, is a useful delusion, up to a point. p64
 修行を続けるには、勝義諦の(生半可な)理解によって主体的努力を放棄するのではなく、「俺は頑張って努力して修行するぞ」という自律的主体として自分を妄想する我執が必要だというのである。自力の妄想ということもできよう。凡夫はもともと自律的主体として自分を妄想しているのだから、それを良い方向に利用して修行に精進する。その結果、次第に、自分は自律的主体ではなく、そのつどの縁起の断続する反応であることが見えてくる。
 
 世俗諦とは、我執に基づく主体的努力をうまく発揮させて修行に邁進させようという教えであろう。『初期仏教 ブッダの~』では、釈尊の教えを信じていない人たちへの「次第説法」(未信者をはじめのうちは世間の常識に沿った説明で導く説法)が言及されている。世俗諦も次第説法も、相手の修行や理解の程度に応じて適切な導きする、という考え方だ。それゆえ、「ある段階までのことだが」と付け加えられている。
世俗諦に鼓舞されて、努力して修行に励み、自分を徹底的に観察していくと、自分が、存在ではなくダルマが次々と縁起した結果起こされる反応・現象であることが見えてくる。その結果、「必死になっておのれのために努力してきたのに、おのれなど存在しなかった、我執すべき対象は初めからなかったのだ。なんと愚かだったことか」と腹に落ち、主体的努力を生み出していた我執が、砂の城のように崩れていく。我執による努力によって、我執は霧消するのである。
わたしたちは手放すことを学ばねばならない、それによって(ダルマが縁起する)プロセスおいて自己を認知せず、プロセスを制御しようとすることがなくなる。というのは、努力を試みたり努力することの中にかすかな我執があるからである。この自己非認知は、行為の非人間的見方によってもたらされるのであるが、習慣的な我執を侵食し、不善なる動機や要素への執着をなくすことを助ける。
we must also learn to let go, to dis-identify with the process and stop trying to control it, for there is a subtle sort of self-grasping in trying or making an effort. This disidentification, which is facilitated by the impersonal view of action, erodes habitual self-grasping and helps loosen the grip of unwholesome motivations and factors. p64
 無我なる縁起の現象に、どうして発心、精進、努力が可能か。まとめると、こういうことだ。
悪い業ばかりを積み、悪い心相続ばかりの連鎖であっても、常に新たなさまざまな縁に接しており、そのなかのどれかの縁がこれまでとは異なるよい方向への心相続のきっかけとなることがあり得る。特に、釈尊の教えにふれること(他からの声)は、重要な転機になり得る。これが発心である。
これまでの自分を改めたいという発心が起これば、わたしがわたしをコントロールしているという妄想の我執が修行の努力となり、修行を続けることで無常=無我=縁起がおのれのこととして納得され、我執が完全に消失するに至る。その時、あらゆる執着の束縛から解放される。これが、好きなことを好きなようにやる自由ではない、仏教における真の自由である。
 
 釈尊の教えを縁として広げることは、やはり決定的に重要な、意義あることなのだ。
 
2019年2月7日      曽我逸郎