『「苦」をつくらない』の感想

2018 09.09|小出裕章さん

小出裕章さん
曽我から
2018 9.4
曽我 逸郎 様 こんにちは。
2日の松本での中村敦夫さんの「線量計が鳴る」公演においで下さり、ありがとうございました。
とても迫力のある公演でしたね。「『苦』をつくらない」は8月末に読了しました。
感想をお送りするとお約束していましたが、なかなか難しいと思うようになり、苦慮してきました。

私自身が「無常=無我=縁起」であるとのことは、かなり素直に納得しています。
「アートマン(真我)」が存在すると思いませんし、ブッダが言ったという「アナートマン(無我)」の方がはるかに私の考えに近いです。
でも、本当に納得しているかと問われるとそうではないのかもしれません。
私は仏教の経典を読んだこともありませんし、きちんとした座禅もしたことがありません。
「無常=無我=縁起」ということも、ただ分かったような気になっているだけかもしれません。
私の行為はすべて「縁起」で決まっていると納得しても、それでも他の誰でもない私として、私らしく生きたいと思ってしまいます。

もちろん私は「凡夫」ですが、私自身が私に向かって「苦」を作っていることはほとんどありません。
したがって第2の矢については、私にとっては問題になりません。
しかし、巨大な第1の矢が存在しており、そのうちの大部分は、権力を持った「凡夫」たちが生み出していると思います。
曽我さんがお書きの通り、権力を持っている人たちこそ、ブッダの教えを知り「我執」を棄てるべきと思います。
そうすれば、この世から第1の矢が大幅に減るでしょう。
でもブッダ誕生から2500年たっても第1の矢による「苦」は減るどころか、どんどん増大してきました。
権力を持った人たちが「我執」を棄てるということは、たぶんこれから2500年たっても起こらないでしょう。
私は、どうせあと10年程度しか生きません。
それなら、権力を持っている人たちがブッダの教えを受け入れるのを期待して待つよりは、今彼らが作っている巨大な「苦」を少しでも減らさせるために、私の命を使いたいと思います。
そう私が考えることも「縁起」なのでしょうから、それを素直に受け入れればいいのだと思います。
それではいけないでしょうか?

曽我さんが書いてくださった本の感想としては、あまりに内容がなさすぎると思います。
お許しください。

またいつかどこかでお目にかかれる機会があることを願います。
今日は台風ですね。
中川村で災害が起こらないよう願います。

2018/9/4 小出 裕章

2018 9.5
前略

真剣に受け止めて下さり、ご多忙にもかかわらず感想を送って頂きましたこと、大変ありがたく、また恐縮しております。

仰るとおり、政治的にせよ経済的にせよ権力を持つ人たちが我執を捨てることは、極めて起こりそうもないとわたしも思います。
ただ、彼らが変わらなくても、世間の常識的な批判力は、2500年も待たずに一定の強さを獲得するのではないかと楽観的に考えています。
「人々に苦を撒き散らすことを気に留めず自分の執着にしがみつくのは、許されないことだ。恥ずべきことだ。」
そういう見方が、今よりさらに明確になってくるだろうと思います。力を持つ連中の本性は変わらなくても、また、権力から遠いが自分の執着には貪欲であり続ける人たちがいても、他人、特に権力者の執着に対しては厳しく批判する世相がさらに育ってくるのではないでしょうか。勿論、ずるい連中は、世間の目をかいくぐって相変わらず悪事をなそうとするでしょうし、そういったせめぎあいは続くと思います。プロパガンダはより巧妙になるでしょう。しかし、今よりは連中もやりにくくなり、その分生み出される苦も減らせるのではないかと希望的に考えます。

そう思える理由のひとつは、小出さんのような方の存在です。
仏教について、特別に学んだことはないとのことですが、それでも、無常=無我=縁起という自己理解をしっくりくると感じておられます。それはやはり、小出さんの背景にある科学的なものの見方の成果だと思います。
釈尊の時代には、無常=無我=縁起を理解するには、釈尊の教えを聞いて戒・定・慧の集中的な修行に励むことが必要でした。無常=無我=縁起は、それくらい荒唐無稽な考えだったのです。しかし、今では進捗した科学のおかげで自分をそのつどの反応・現象としてみることは、そんなに突拍子もないことではないと感じる人も少しずつ増えているように感じます。このことが、個人が修行に励んで苦を鎮める伝統的な仏教のアプローチとは別に、「無常=無我=縁起を世の中全般の常識的人間理解として普及させることで、社会全体の苦を少なくできるかもしれない」とわたしが考えた理由です。

小出さんは、仏教の修行をなさったわけではないのに、富にも地位にも名誉にも興味を持たれず、苦をつくる人たちと闘っておられます。現在においては、そのような方は極めて稀ですが、無常=無我=縁起が常識として広がることで、富や地位や名誉に魅力を感じることなく、もっと大切なことのために自分の時間を使おうとする人がこれからだんだんと増えるのではないかと思います。

あまりに楽観的だとお感じになったかもしれません。確かに、ネット上では、執着と呼ぶのさえはばかられるほどに低級なヘイトがあふれています。あるいは、気候変動や天変地異によって、人々は自分の生存だけで手いっぱいになり、広く大きな視野で他の人々のことを考えられなくなるかもしれません。どこかの愚かな政治指導者が戦争の導火線に火をつけ、それが世界中に広がるかもしれません。世の中は少しずつ良くなるどころか、大きな後退があるかもしれません。行きつ戻りつしながらも、長い目では歴史はよい方向に進み、いつかサピエンスの我執は自覚され、批判され、警戒されるようになると思ってはいますが、しかし、その途中で破滅的な後退が一回あれば、そこで歴史は終わりです。
そうならないためにも、無常=無我=縁起という自己理解を広く積極的に問いかけ、釈尊の教えへの世の関心を高めたいと思っています。

以上が、無常=無我=縁起という見方を広げて、世の中の苦のレベルを下げようという長期的な目論見についてです。それとは別に、現に進んでいる個別の、大掛かりな苦をつくる動きにもひとつひとつ対抗していかねばなりません。
小出さんがそれに真摯に取り組んでおられることは、まさに慈悲のふるまいに他ならないと思います。

無常=無我=縁起を納得しようとすることの目標は、妄想の「私」に駆り立てられて苦をつくることを止めることです。ただし、無常=無我=縁起が納得された後も、無常=無我=縁起であることには変わりはありません。その時、我執はその愚かさを痛感されて霧消し、縁によって起こされる反応のパターンは、我執によるものから慈悲に基づくものへと大きく変化します。
小出さんは、釈尊の教えを特別に学んではおられないにもかかわらず、無常=無我=縁起に自然な共感を抱かれ、既に我執を離れ、大規模に苦をつくる事業をやめさせる取り組みを一貫して続けてこられました。これはまさに慈悲の行いであり、まことに稀有な方だと思います。
小出さんの取り組みの輪が広がり、引き継がれ、大きな成果を上げることを祈念致します。

もうひとつ別のテーマである「責任」について、他の方から問題提起を頂きました。我ながら本に書いた説明では十分でなかったと反省しました。その方への返事をHPに掲載しましたので、お時間許す折にお目通しいただければ幸甚です。

今後とも引き続きご縁を賜り、ご指導を頂戴したく、何卒よろしくお願い申し上げます。

2018年9月5日  曽我逸郎

≪追記≫
メールのみならず、お名前も公開することを了解して下さり、大変感謝している。
尊敬する小出裕章さんを「さん」づけでお呼びするのは、とても心苦しい。元のメールは「先生」としてお送りしたが、「先生」はやめてほしいとのことで、掲載にあたって「さん」づけに修正した。