小論「釈尊の教えに反する「困った経文」、自由、責任、精進・努力」、拝読いたしました。
素晴らしい論考、感謝いたします。
論の後半では仏教の修行がどのように始まり、どのように進み、完成されるのかという道すじがはっきりと指し示されたと思います。
> 釈尊の教えにふれること(他からの声)は、重要な転機になり得る。
ここを読んで思い出したのは浄土真宗などで言われる「他力」のことです。「他力」がこのことであるとするならば、仏法に出会った私たちの救済はすでに開始されていると言えますね。
しかし、これで安心、大丈夫とはどうしても思えません。現に苦しいままだからです。やはり、その次に「自力の修行」が無ければ救済は進まないのではないかと思います。以下の理由によります。
> 努力には我執が必要であり、主体性の妄想が役に立つ
勝義諦から見れば「自分が努力する」というのも実は他力であって、「自分が幸せになりたい」という我執と、仏法の縁によって突き動かされているのですが、凡夫としては、無常=無我=縁起が腹に落ちきるまでは、突き動かされた方がよい。それを世俗諦の言葉で言い直すと、努力しなければならないという表現になるのでしょう。「時時に努めて払拭し、塵埃を惹からしむことなかれ」ですね。
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> 努力を試みたり努力することの中にかすかな我執があるからである。
> 勝義諦においては、自由も主体性もない。そのつどの縁起のまま受動的にそのつど起こされるだけである。
凡夫は勝義諦より世間諦、更にそれよりも我執・煩悩で歪んだおかしなものの見方を現実だと感じています。それが戒や道徳の実践をしていると我執が減ってものの見方が世間諦に近づいていく。一方智慧を学び、禅定を実践することなどで勝義諦のリアリティが上がっていきます。そしてまるで老婆と貴婦人のだまし絵や、盃と人の横顔のだまし絵の見え方が反転するかのように、あるとき勝義諦の方がリアルに感じるようになる。これが「おのれなど存在しなかった」と腹に落ちる瞬間ではないでしょうか。
「本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん」
ところでこの現実感の入れ替わりについては正しく理解された勝義諦でなければ危険だと思いました。間違った考え方に入れ替わったのでは洗脳のようになってしまいます。
そこで、「勝義諦の理解が正しいかどうかはどのように判断されるのか」がとても重要だと思います。例えば私が少し考えたところですが、以下のような条件です。
・無常=無我=縁起に反するものでないか。但しこれは世間諦においても当てはまる真理だと思います。
・サンユッタ・ニカーヤ「一切経」や「ウダーナ」第10経にあるように、自らの体験=色声香味触法に基づいた見解であるか。勝義諦は事実をそのまま見たものであるので、想像に基づく部分があってはならない。ましてや本や他人の受け売りならば一言一句同じでも偽物です。
・慈悲喜捨の四無量心を否定するものでないか。これも世間諦においても当てはまりますが、自らや他者に苦を作り出すようなものは良いものではありません。
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> 釈尊の教えを縁として広げることは、やはり決定的に重要な、意義あることなのだ。
最後に、この曽我様のこの慈悲深い結論に全面的に賛成ですが、この点において一つお伺いしたいと思います。
無常=無我=縁起の理解からこの結論はどのように導かれるのでしょうか。自分と同じく、他人も縁による反応に過ぎないのであれば、実在感が無くなって何らかの感情を持つ手がかりがなくなる気がしているのです。
にこ
メールありがとうございます。
拝読して思いついたこと2点、以下に。
まず、「他からの声」について。
ずいぶん以前、予想していない意見を貰ったことを思い出しました。その方は、「他からの声」というのを、なにか天からの声とでもいうべき、超自然的な啓示のように理解されたようでした。
おそらくもともとの経典にある「他からの声」は、釈尊もしくは釈尊の弟子から聞く教えのことでしょうし、今わたしの言う「他からの声」は、本を読んだり、ネットでこのやりとりを見たりといった日常のありふれた経験として釈尊の教えに縁を得ることです。けして超自然的な啓示ではありません。
にこさんもそういう意味で言っておられないのは分かっていますが、「他力」とか「弥陀の本願」という言葉は、なにか超越的なもののイメージへと発展する危険性を内包するので、わたしは使わないようにしています。
『「苦」をつくらない…』でも紹介しましたが、中島岳志『親鸞と日本主義』新潮選書には、浄土思想が国家主義・天皇主義と化したことが生々しく描かれています。帯には「戦前、最も危険な右翼の核心に据えられた思想は、「絶対他力」だったー。」とあり、まさにそういう内容です。これも超越的なものを想定してそこに没入しようとする梵我一如的な発想の一種でありましょう。そういうものへと独り歩きしていく可能性を宿す概念は、なるべく避けたいと思っています。
つぎに、他の人たちを無常=無我=縁起の反応・現象としてみることから慈悲は生じるか、というご質問について。
わたしたちが心を動かされるのは、例えば、誰かの瞳に涙があふれてくるのを見たときとか、振り返った瞬間の屈託のない笑顔とか、そういう一瞬ではないでしょうか。つまり、存在としての人ではなく、そのときそのときの反応・現象としての人です。存在として捉えた人は、はく製のように干からびて動かない存在です。労働者数とか犠牲者数とか数字で把握し、生産性や効率で評価するのは、存在としての人の捉え方だと思います。生きた人のその時その時の反応に感応して、わたしたちも反応するのです。
現象を現象のまま見ることは、わたしたちの感性を高め、生き生きとした共感を生み出してくれます。無常=無我=縁起は、慈悲を発揮しやしくし、執着を鎮めるのです。
なんだかエラソーな文面になりました。お許しくださいませ。
にこ様
2019年2月26日 曽我逸郎
曽我様
そうですね、「他力」という言葉は一般的には死後に浄土に連れて行ってくれる阿弥陀如来の力とかそういう意味で使われますね。でも私はもともと他力というのはそういう超自然的な力のことではないのではないかと思ったので、敢えて「他力」と書きました。
ですが、この言葉が超越的なものを想像して、その意思に沿うと言われたら殺人でもなんでも肯定するというような没我的(無我とは完全に違いますね)、盲信的な思想操作・洗脳に使われた歴史があるのであれば、またその危険があるのであれば別の言葉を使うべきですね。
曽我様の論を拝読して感じたのはもちろんそういう非現実的な力ではありません。実際に読み、聞くことのできる仏の教えの言葉、それに触れ、学びたいという心を起こさせた縁の巡り合わせというごく普通のことが全部自分の外から与えられたのだという驚きと不思議、そしてこの教えの門を開いてくれたお釈迦様と、今へ伝えてくれた仏弟子の先人たちへの感謝の念でした。
また、慈悲についての解説ありがとうございます。私の疑問は「慈悲」を生き生きとしたそのときそのときの反応・現象でなく、概念化して干からびたものにしてしまったことで生じたのだと分かりました。「慈悲」などというものがあると考えるのではなくて、心を込めて料理を作るとか、道でものを落とした人がいたら拾ってあげたくなったとか、そういうことですね。
これは私に限ってかもしれませんが、ものを見たときに「これは無常である」「これは縁による反応にすぎない」などといちいちラベルをつけるのも良くないようです。そのままの現象・反応を味わう前に理屈が挟まってしまうのです。飯がまずくなる、とでも言いましょうか(笑)
私には、概念化したイメージを通して見ていないか注意しながら、そのままの現象・反応を味わうというやり方が合っていそうです。概念化したイメージには先入観も含まれるので、苦を作るような反応をしないように気をつけることにもなると思います。