Libraさんからの返事。『「苦」をつくらない』への違和感(続き)

2018 10.05|Libraさん

Libraさん
曽我から
2018 10.4
ご返事を拝読しました。それに対するわたしの反応を少し書いてみます。アルコールを少々摂取しておりますが。

わたしが関数といったものは時々刻々と変化するものなのですが(なので「そのつど性」を有する)、その変化には脈絡があるように思うのです。

もし、刺激に対するそのつどの反応を「わたし」ということにすれば、脈絡のない刺激の束に対する反応は、当然、脈絡のないものになりますので、その場合の「わたし」は脈絡のないものということになるわけですが、その場合の脈絡のなさは刺激の束の脈絡のなさに起因するものであろうとわたしは思います。

わたしがいうところの関数が仮に不変であっても(わたしはそのようなことはありえないと思っていますが)、もし刺激の束に脈絡がなければ、その関数によって導き出される反応も脈絡がないものになるでしょう。しかし、そこには一貫性のある関数があることになります。

以上の説明で、わたしの違和感が伝わるか自信がありませんが、とりあえず反応してみました。

2018 10.5
すみません。どうも「違和感」が共有できていないようです。
霧の中の見えない的にボールを投げるつもりで書いてみます。

「わたし」については、「わたしの色身という場所で起こる反応である」という点では一貫性があります。しかし、反応そのものは、そのつどさまざまに刺激を受け、反応するので、脈絡はありません。コンサートで音楽にうっとりと聞きほれていたのに、後ろの席からいびきが聞こえ始めて、いらいらし始めるというようなことです。くつろいでいたのに何かの拍子に、約束したことをほったらかしていたのを思い出し、急にあたふたする、といったことです。このようなそのつど刹那滅の、前後の脈絡のない反応が断続するだけで、「私」は存在しない、と考えます。にも拘らず、一貫した「私」がいると考えるのは、妄想です。

「関数」と仰るのがよく理解できていません。人間は機械ではないので、受けた刺激に応じていつも同じ反応を返すわけではありません。

縁は、外からの刺激だけではなく、内の条件もあります。満腹だとか、眠いとか、へとへとだとか、仕事がうまくいかずいらいらしてるとか、恋人ができてうきうきしてるとか、そういった内の様々な縁と、外からの多くの縁とがせめぎ合って、反応が起こります。

もうひとつ影響しているのが業です。業も内側の縁のひとつでしょう。業は川の地形のようなもので、そのつどの反応が一滴の水とすると、水が繰り返し流れるうちに、土を削り、砂をため、流れの道筋ができてきます。その流れの筋も、水の力に岩が押され、崖が崩れ、土砂にせき止められて変わっていく。
そして、この業という反応パターンも、ひとりの人の中に何通りもあって、そのどれに水が流れるか、それもまたそのときそのときの内と外の縁次第です。

余計なことを言うと、反応を起動する業の流れの道筋は、神経解剖学的には、神経細胞のつながり方とか、シナプスでの信号伝達の閾値の変化によっているのだと思います。
サピエンスとして進化の過程でできあがった脳の基本構造があり、それは反応の仕方に大きく影響しているでしょう。執着という反応パターンも、進化の過程で脳の構造に組み込まれていると思います。執着は、人類(凡夫)共通の反応パターンです。

反応を整えよう、苦をつくらないように気を付けよう、と思うのも、縁によって起こされる反応です。よき友に出会い、よき教えに触れて、自分という反応がよき流路を流れるようにしようと努力し始めます。まれには、突然の発心のように大きく反応のパターン(流路)が変わることもありますが、繰り返し精進努力をすることで、流れ方(業)は次第に変わってきます。

戒定慧の精進努力を続けることで、自分の無常=無我=縁起が腹に落ちてドスンと納得されたとき、重要な「我」があると妄想して必死になっていた愚かさが痛感され、執着の反応は鎮まります。これが覚りです。その瞬間において、脳の中では、たくさんのシナプスを次々とドミノ倒しのように伝わっていく信号の流れの道筋が、重要な部分でがらりと変化しているのだと思います。

返事になっているでしょうか。なにがしか伝わっていればうれしいのですが、、。

2018年10月5日  曽我逸郎

2018 10.5
返信を拝読しました。以下にコメントを試みます。

わたしは業という言葉をあまり使いたくないのですが、わたしがいうところの関数というのは、ある時刻における「川の地形のようなもの」といってもいいのかもしれません。刺激の束に応じて結果として反応を生じさせる構造ということなのですから。

この構造がどのようなアーキテクチャで実装されているのかという問題については、わたしは今のところ言及していませんが、ある個体の身体全体に沈殿している並列分散処理系ということにはなるのでしょう。

この構造が不変ではない(可塑的である)ということについてはお互いに意見が一致しているとおもいます。

人間の個体はこの構造を自由に変更することなどはできませんが、それが変化していく方向性については一定の関与が可能であろうとわたしは思います。それが人間の意志というものではないでしょうか。それすら不可能であるのだとすれば、自律の倫理が成立する余地もないということになるのでしょう。

以下は、余計なことになると思いますが、刺激の話についてのコメントです。

刺激には内因性の刺激と外因性の刺激があるというのはその通りだと思います。内因性の刺激(欲求)にもいろんな種類がありますが、それらを同時に満たすような反応が存在しえない場合にはそれらの欲求は競合関係にあることになります。内因性の刺激には、生理的な欲求もあれば、倫理的な(スーパーエゴ的な)欲求もあるでしょう。しかし、結果としては、そのようにせめぎあう刺激の束に応じてある反応を選択的に生じることになります。そのような選択が生み出される構造が身体には沈殿しているというのがわたしの理解です。

あと、外因性の刺激の束については、ある程度の脈絡をもたせることは可能だろうと思います。もちろん完全に制御することなどは不可能ですが。映画館などのように人工的に作られた環境に行けば、それなりに脈絡をもった刺激の束に触れることはだいたいは可能でしょう。