「苦をつくらない」を読んで

2019 03.22|Samadhi Chan さん

Samadhi Chan さん
曽我から
2019 3.20
曽我逸郎様

とても仏陀の教えの核心部分が良く纏まっていて、分かり易い表現で、未読の方々にはお薦めの一冊です。曽我さんのネットでの投稿以外の内容(学生時代からのアイデンティティなど)も書かれていて、とても面白く読ましていただきました。

ただ、第五章「戒」に書かれているプロパガンダや政治の話は、やや仏教の直接的な課題ではないとも思えて(お気持ちは察しますが)、むしろ最終章に置かれた方が、仏陀の智慧を今後の政治、社会に活かすとの趣旨でより読み易くなったのではと思います。

東日本大震災・津波災害から8年経っても福島原発の周辺地域などでは今だに4万人が避難を強いられ、廃炉(デブリ処理等)には今から40年間かかること、放射能汚染水などの廃棄物処理・保管場所も今だに決まらず混迷を極めていること、事故から今までに投入された処理コストは一兆円以上、おまけに、毎月の電力料金に消費者負担を永年課すなど、原子力発電の危険性と総コスト(発電コストだけでない)が極めて高いことなどへの認識が甘い政府、国会議員、電力会社役員にはウンザリしています。愚かとしか思えません。私たちの子供や孫にツケを残すような政治からもう私たちも目覚めなくてはいけませんね。

そのほか、近隣諸国に緊張を引き起こしかねない改憲や集団的自衛権も私は反対です。以上が貴著第5章一部への感想です。

さて、私の約25年間の「仏陀の教え」の探求における現時点での理解・結論と曽我さんのネット投稿や同書で述べられている苦しみの四聖諦の理解は100%とは言えずとも、ほとんど同じであったことを再確認し、安心と自身納得のいく内容でした。

下記に曽我さんとの意見がほぼ共通と思われる点Aと、100%でないという若干の相違点Bは概略次の諸点です。

A.【共通点―ご著書からの概略抜粋】

・四聖諦と戒・定・慧の重要性とその理解

・「わたし」という気持ちが立ち上がってくる具体的なプロセスとして縁起を説明していること。※1
・我執の前提として、本来そのつどの現象である自分が存在として実体視されていること。※1
・ほとんどの自分の振る舞いは、自覚なしに自動的に起こされていること。
・「私」がいて、それがものを読んだり、頭をひねったり、眠くなったりするのではなく、この肉体(身体)において、読んだり、考えたり、食べたりということが起こっていること。

・さまざまな、そのつどバラバラの反応に後付けで「私」というラベルをかぶせてしまっていて「私」を幻想していること。
・これらの反応は動物進化の過程から生じたと考えられること。
・「自動車の運転中に音楽に合わせてリズムをとり、缶コーヒーをすすり、~
ウィンカーを出し、車線変更するのも、自覚的でなく、自動的に行われています。~~わたしたちの振る舞いの大半は「私」の関与なく、ほぼ自動的に行われています。」※2
・仏陀とは、DNAの変異によらない、「業縁」による進化であること。
・仏陀の教えは、当初数百年は口伝であり、初期経典といえども100%そのままの記述ではないこと。

※1
私(Samadhi Chan)は、「私」だけでなく、夫/妻、子供、母、父、先生、家、車、飛行機、道路、信号機、空、テーブル、椅子、風呂、トイレ、バイク、弁護士、パイロット、パン職人、聖者、僧侶、長老、幸福、怒り、勉強などなど、言葉で表現されているもの(パーリ語のパンニャティ)は、同じプロセスで生まれていて、実体のないものであることも含めて、仏陀は教えていると思っています。
※2
上記の自動の例は、とても重要なポイントです。
私(Samadhi Chan)は、仏陀が悟られた後の日常の心境、行為(考えること、話すこと、所作などの行為)は、「オートパイロット」であったであろうと考えております。つまり、八正道(世間レベル:―時性)が聖八正道(出世見レベル)になっていると思います(パーリ中部経典「聖道経」、春秋社版)。

つまり、正定「サンマー・サマーディ」にある心境です。概念を超えて、車の運転であれば、「正知(サンパジャナー)」または「捨(ウッペカ)」で運転しているのと同じ心境です。正知と捨は、定から生まれる智慧の一部です。

そのとき概念に対する判断、評価(例えば好悪)などがありません。「ベタ」「全体性」で運転しています。運転中に念(サテイ)に囚われると、事故を起こしかねません。これは、もう昔ですが、個人的に日本テーラワーダ仏教協会の会員の一部の人々との雑談でも何回か言ってきました。

なお、曽我さんの本196ページにある脳学者ベンジャミン・リベットの何かを行為するその0.5秒前には既にそのプロセスは始まっているとの研究成果の話は、ほぼ同じ内容を4年ほど前に慶応大学大学院前野教授のネットライブでも言っていました。教授は人口知能の研究の一環として、同じような人間の脳神経細胞の働きを調査していたら海外にその研究成果がある旨話していました。
また201~202ページに書かれている神経解剖学者ジル・ボルト・テイラーの脳卒中での体験「~左脳が停止していて、右脳だけで世界に接すると自分自身を含めて個物を対象として世界から切り出す作用がなくなり、過去もなく未来もなく、~
~。しかし、左脳の機能が回復すると、怒りなどの感情で心の平安が破れ始める」旨述べて、その心境をニルバーナと表現している、旨はとても興味深いことと思いました。

その「~個物を対象として世界から切り出す作用がなくなり、~」は、私(Samadhi
Chan)が言う「全体性・ベタ」と同じことを表現していると思いとても興味深いです。

なぜかというと、例えば初期経典にヴィパッサナー第一禅定では、当初「尋」と「伺」つまり思考(左脳)が残っていたものが、ヴィパッサナー第4禅定では「尋、伺」も「喜、楽」(感覚・感情)も消えて「捨(ウッペカ)のみの心境になると説かれているからです。

「七覚支」の七つ目の「捨」と同じです。
この「捨」を育てて、「あるがままに観る」心を育てることが仏陀の教えと思っています。

この「捨」を心に保つことが「反応しない心」をつくり、「あるがまま」を自然に受け入れる心を養うことになる、が仏陀の教えと理解しています。

「あるがままに観る」ことができていないとき、「気づき」が抜けています。正念、正知がありませんので、すぐに思考、妄想が走りはじめてしまいます。いわゆるモンキー・マインドです。

瞑想指導者は、八正道が観察による洞察瞑想の緒であること、それを深めてその八正道を聖八正道に押し上げて(中部「聖道経」)、「七覚支」から得る「捨(ウッペカ)」を得ていくことの重要性を繰り返して説明しなくては、瞑想は、単なる一時的な心の落ち着きだけを得るものになってしまっています。

八正道には「止観」(サマタ、ヴィパッサナー)が自然に同時性としてあります。

ヴィパッサナー瞑想は、タイのブッダダーサ比丘が述べているとおり、釈尊の時代のもではなく、仏滅後、後世に開発されたものです。
この現代のヴィパッサナー瞑想は、ミヤンマー比丘であるレディ・サヤドー(1884年
~1923年)から伝えられたミャンマー上座仏教の瞑想法で、サヤ・テッ・ジ(1873~1945年)によって在家の瞑想法として確立されたものとも言われています。

また、日本の多くの方々が近年実践されているお腹の膨らみ、縮みの観察瞑想は、近年、今から約100年前にミャンマーのマハシ―長老が在家向けに開発されたものであることはもう上座仏教国では有名です。

日本に来日しているスリランカ僧やミヤンマー僧から指導を受けているのはそのマハシ―式瞑想ですが、多くの方々は、まさに実質的にはヴィパッサナー瞑想でなくサマタ瞑想になってしまっているのです。また、歩行瞑想なども足を極めてゆっくり持ち上げたり、下ろしたりする瞑想も「その足の微妙な動き」を観察する、単なる集中性を養うサマタ瞑想なのです。足をゆっくり1mm、1mm・・・上げていくことを観て本当に意味があるとお思いでしょうか。

ブッダダーサ比丘が述べているとおり、集中性は軽いレベルのもので良いとの話は、私は大賛成です。

観察するには心が俗世の五蓋(欲・怒りの感情など)に浸っていては正しく観察できません。だからある程度の集中性は必要なのです。でも、深い集中性、サマタになってしまうと心の落ち着きが得られますが、身・心の観察が疎かになってしまうのです。一時的に五蓋などが抑えられているから、落ち着きを得ます。でもいずれ消えてしまいます。結果、智慧が育つ瞑想にならないのです。
また、その一時的な落ち着きはもとに戻ってしまうのです。

観察による洞察瞑想が仏陀の教えであるからです。智慧は一度得たら、消えたりしません。無常、苦、無我(縁起)を知るのです。

例えば、プールや海での身体の浮力を生まれて初めて体験するには、足の着かない深いプールなどで身体を入水してみることが必要です。その身体の浮力というものを一度体験するともう忘れないことと同じです。

仏陀の説いた瞑想法は『サティ・パッサーナ』(パーリ語)という四念処の観察による洞察瞑想の教えです。中部経典の第10番にある「念処経」です。

『マインドフルネス』(英単語)と世界で最初にパーリ表現「サティ・パッサーナ」を英訳したのが英国人の仏教学者リス・デイヴィッズ(1843年~1922年没)です。

だから、もう150年以上も前から『マインドフルネス』が欧州、北米などの英語圏にも普及し始めています。東南アジアは欧州の覇権、植民地化の歴史もあり、僧侶、在家とも英語が堪能な人々多いです。
そのこともあり、昔から、現代でも英語圏であるイギリスや欧州をはじめ、北米にはミヤンマー、タイ、インドを含むアジアで仏教修行を英語で修行を積んだ欧米人も多いのです。半端じゃないです。25年前にタイの寺に3泊させてもらいましたが、30人以上修行者がいても日本人は一人もおらず、クリスチャンの国々の方々が多かったのはとても皮肉なことです。でも真理探究には国境がなかったことも裏付けている証とも言えます。

世界的に多く読まれてきている、仏教徒ではない(表向き)、ダリル・ベイリー著「ファンタジーの終焉」、クリシュナムーティ「自我の終焉」(日本語版は40年前に発行)などは仏陀の教えと一部ですが同じ部分(仏陀の「中道」に近い)が見られますが、今流に言うと、パクッた、のではとも勝手に思えます(笑い)。

また、数世紀のころのヒンズー教徒であったシャンカラ(何代かの世襲名)が仏陀の教えを口伝で知り、パクッて、ヒンズー教に混ぜて、それをさらに後代の人々が取り入れた別のアジア、欧州・北米人も他にいた可能性もあります。

勿論、純粋にミャンマーやタイなどで仏教修行を積んだ欧米人も多いです。本も多数書いています。

瞑想は、観察による洞察瞑想である、原始経典の中部経典に出てくる「サティ・パッサーナ」(四念処)を説明した『サティ・パッサーナ・スッタ』(念処経)で十分です。または、長部経典に出てくる「大念処経」です。

ブッダダーサ比丘が「サティ・パッサーナ」は、身、受、心、法の4処の観察対象をカタログ的に列記したものと揶揄していますが、だからこそ口伝のそのものが箇条書きのように述べられているのです。とてもシンプルに覚えやすい古代インド人が好んだ箇条書き的な形式です。古代インド人は、韻文というか、短い文章(日本の短歌のような)で仏陀の教えを覚えたのです。

仏滅1000年後のブッダゴーサ学僧のように、とかくパーリ語が得意な人は、十分な観察や洞察瞑想を実践せず、表面的な「ことば」の解釈で経典の注釈書(アッタ―カタ)をだらだらと論文化(「清浄道論」など)してしまい、邪見を織り込み混ぜてしまっています。

B【相違点】

・十二支縁起の識の位置づけ

曽我さんの疑問「~ 十二支縁起が六処より前に識を置くのは、先に識あり、先に我ありの有我論的傾向ではないかと思います。」

については、とても大事な論点です。

多分、十二支縁起を「身色(肉体)と精神活動の生起」との関係として捉えると、曽我さんの疑問が出てきてしまうと思います。

十二支縁起は、十二支がバラバラにあるのではないので、あたかも私たちが冠婚葬祭で身につける12個玉の真珠のネックレスや、葬儀で腕に付ける数珠のように「鎖チェーン・ひも」で連結されており、例えば、渇愛や幻想などを断つのは、その12支のチェーンのどこで切っても断ち切ることができます。

縁起の説明において、仏陀はA支とB支は、あたかも互いに寄り掛かった二本の葦(あし)の枝・葉のようなもので、片方だけでは存在しない(働かない)、と説かれました。そして、
それもあり十二支は、同時性だとやはり私は思えてなりません。でもそれほど拘っていません(笑い)。

仏陀の原因と結果の捉え方は、結果の中に次の原因が含まれているとします。原因と結果の同時性です。
今の私は、一瞬前の私のコピー(結果)であると「同時に」今の私が次の瞬間の私(原因)となります。連綿と続きます。

・識の働きについて

「何かを見たい」「聞きたい」などなど潜在性の「行」(衝動性)が「識」の働きを奮い立たせます。

だから、昔から集積してきた習性・クセ(業カルマ)という「行」が「識」の縁起であるので、曽我さんの心配「~先に我ありの有我論的傾向で~」は一切ないと思っております。

そして、識が生まれると名色(名称と形態)が生起する。識が消えると名色あるものは消滅する、とあり、行が生まれると識が生起し、行が消えると識が消える、と書かれています。

十二因縁の識に拘わらず、五蘊に出てくる「識」は、認識の基本的なベースとなる働きと思います。
識は、既にご存知のとおり、一切人格性をもっているものではありません。

翻って、五蘊では、識は、色受想行識と最後に出てきますが、この識の基本的な機能が色、受、想、意志(行)を「司っている働き」です。

識は、色、受、想、行を「識っている」働きです。

五蘊を名色、ナーマ・ルーパと表現する時は、ナーマ=名=受想行識、ルーパ=色、です。

いすれにしましても、この五蘊はバラバラでは働かない機能であって、肉体(色)が死亡で滅すれば、当然、受想行識もありません。
識は色、受、想、意志(行)に依存していますし、一方それらと独立して存在しません。相互依存みたいなものと思います。

「色受想行識」の「識」は「心」と考えた方が分かり易いと思います。

だから識(心)は、身体活動を生かすための生命維持の「ハタラキ」です。その識(心)は、捕食、代謝、消化、休養、睡眠、生殖、移動、思考、判断、感情、成長、老化、死など生命という身体という場を使用して「ハタラキ」が展開しています。

そして、内部、外部の情報を情報処理する「ハタラキ」全体は受想行識です。

この受想行識に基づいて「自律的」に生命活動、動き、運動をしています。

曽我さんが夜から朝まで熟睡して、朝、ベッドで目覚めたら、Mr.SogaがMr.Jonsonになっていないのは、「識」と記憶を引き出す「想」の働きを含む五蘊のハタラキです。

「マハープンナマ教」(中部経典第109)では、五蘊が自我「わたし」であると思い描き、五蘊を所有するものが自我であると思い描き、自我において色受想行識を色受想行識において自我を想い描いている、と書かれています。「無我相経」(長部経典)も同じことを説いています。

これが自我に関する誤った見解、つまり邪見です。仏陀はこれを知らないのも無知だと説きました。

「わたし」が歩くのではなく、五蘊が歩くのです。
「わたし」が食べているのではなく、五蘊が食べているのです。

何かご感想、疑問、ご意見などありましたら、お聞かせください。

Samadhi Chan 2019.3.20


返事はまだです。