序論 釈尊について

◆ 序論 釈尊について

 初めに、釈尊について簡単に触れておきます。

 釈尊は、わたしたちと同じ人間です。神と呼ばれるような超越的存在ではありません。
 そもそも「宗教を興そう、教祖になろう」としたわけでもありません。自分自身の苦悩をなんとか解決しようともがき、それを成し遂げてみれば、すべての人にあてはまる革命的な発見だったので、人々を苦から救うために懸命にそれを教え伝えようとした。それが釈尊の生涯です。
 ですから、もし宗教が「超越者に帰依すること」であるならば、釈尊の教えは宗教ではありません。また、宗教がなにか不合理で非論理的なことを信じることだとすれば、釈尊の教えは、やはり宗教ではありません。釈尊の教えは、自然なものの見方から大いに隔たり、常識的には理解しがたいけれど、きわめて合理的、論理的です。ですから、宗教としてではなく、宗教の枠を超えて、他の宗教を信仰している人にも納得してもらえる余地はあるはずです。この小論を読み進んで頂ければ、そのことは納得して頂けるでしょう。

 昔、ガンジス川とヒマラヤ山脈の間、現在のインドとネパールの国境付近に、釈迦族と呼ばれる人たちが暮らしていました。その部族のリーダーの一人を父として、釈尊は、紀元前五百年前後、今から二千五百年ほど前に生まれました。
 日本ではよく「お釈迦様」という呼び方をしますが、釈迦は部族の名前であって、個人や家族の名前ではありません。釈尊の姓はゴータマで、経典でも「ゴータマよ」と呼びかけられている記述がありますが、この試論では、釈迦族の尊者、という意味で「釈尊」と呼ぶことにします。(以下の釈尊の生涯についての記述は、基本的には『中村元選集第11巻 ゴータマ・ブッダⅠ』春秋社を参考にしています。)

 夏用と冬用に別の館があったという伝承もあり、豊かな生い立ちでしたが、生みの母は釈尊を出産してすぐに亡くなっています。
 生まれたばかりの釈尊を仙人が見て、「この子は、世界の偉大な王になるか、あるいは出家すれば世界を救う偉大な覚者になる」と預言します。我が子の出家を恐れた父は、息子に悩みを抱かせないように、不幸を遠ざけ、楽しく充実した毎日を送らせます。釈尊は、聡明で健康な若者に成長し、結婚し、子どもも生まれます。
 しかし、父親の心配りも虚しく、釈尊は深く思い悩むようになり、ついに出家に至ります。

 そのエピソードとしていくつかの物語が伝えられています。
 ひとつは、有名な「四門出遊」です。父の配慮によって不幸から注意深く遠ざけて育てられた若き釈尊は、ある日、街の門から出かけ、老いさらばえた人に会い、次の門の外に病人に出会い、別の門の外では死人を見て、老病死の苦を初めて知り、憂え、四つ目の門を出て、出家修行者に出会い、その清い姿にあこがれ、出家を考えるようになった、という物語です。

 四門出遊はできすぎた話のようにも感じますが、もう一つの話は、わたしには、とても説得力があり、共感できる物語です。
 宴の後、夜更けにひとり目を覚ました若き釈尊は、踊り子や歌い手などの着飾った娘たちが、よだれを垂らし着物もはだけただらしない姿で月の光を浴びて眠りこけている姿を目にして、まるでたくさんの死体のようだと思い、窓の外の父の館も墓のように見え、今の暮らしを厭う気持ちが高まった、というものです。

 わたしは、ポスト全共闘世代で、学生時代は、今のような貧困問題もなく、生きることにはそれほど不安を感じないものの、なにごとにも価値を認めることができずにいました。社会全体が無意味さから目を背けるためにただ時間つぶしに明け暮れているとしか思えませんでした。どう生きればいいのか、なにをすればいいのか、すべてがむなしく感じられ、いらいら鬱々としつつ、自分自身も世の中の人々も軽蔑して日々を過ごしていました。その頃のわたしの気分とこの物語の釈尊の気持ちとは、繋がるものがあるように感じます。

 釈尊の生まれ育ちは、イエス・キリストと好対照です。イエスは、貧しい家庭に育ち、独身のまま若くして十字架にかけられました。一方の釈尊は、豊かな家庭に生まれ、早々に生母を失ったものの、不自由なく育てられ、妻子も持ちながら、その生活に虚しさを感じていたのです。

 父親の期待、また部族や家族への責任を背負いつつ、内面の苦悩との間でずいぶんな葛藤があったことでしょう。そして、ついに二十九歳の時、釈尊は、父親の期待を裏切り、妻子を棄て、家を出ます。

 初めに都会へ向かい、二人の瞑想の達人を順に訪ねます。どちらの師についても、早々に同じレベルに到達し、ここにはこれ以上学ぶべきものはないと知って、森に入り苦行の生活を始めます。
 絶食、不眠など、ありとあらゆる苦行を行いました。痩せて骨と皮ばかりになった釈尊が座禅する像をなにかで見た方も多いでしょう。動物の排泄物を食べる、息を止めたまま瞑想する、といった苦行も経典には書かれています。

 激しい苦行を六年間続けましたが、ある日、苦行は無意味である、と知って放擲し、娘スジャータの供する乳粥を食べ、快適な場所で瞑想し、ついに縁起の法を見いだし、長年の苦悩は解消されます。

 縁起とは、どういうことかというと、刺激(縁)を受けると、そのたびに身体という場所において、いくつもの反応が次々とドミノ倒しのように連鎖して起こる。自己意識、つまり「私が・・・」と意識する反応は、それらの連鎖の一番後に起こる、という発見です。
 これは、別の言い方をすれば、「わたしとは、そのつどそのつど縁によって起こされる、一貫性のないそのつどの反応の断続であって、はじめから一貫して存在している実在ではない」ということです。すなわち、無常、無我と同じことを言っています。一貫性のないそのつどの断続的な(=無常な)反応を十把一絡げにまとめて、後付けで「私」というラベルが貼られるのです。
 この「わたしとは無常であり無我であり縁起の反応である」という発見は、釈尊の教えの核心でもありますし、認知科学や脳科学の知見とも重なるところが多く、そういった方面にも触れながら、後で詳しく論じます。

 さて、仏教に詳しい方は、わたしの説明に対してこう思ったかもしれません。「釈尊が覚ったのは十二支縁起である。その最後のふたつは、生、老死である。曽我の説明は違う」と。十二支縁起については、後ほど検討するので、しばらくお待ち下さい。

 苦業放擲の理由を、経典は「苦行は無意味だと知って」と書いています。しかし、苦行がまったく無意味だったかというと、実は、わたしにはそうとは思えないのです。六年間の長い苦行を放棄したすぐ後に覚りを得たのですから、なんらかの貢献はあったはずです。おそらく、「苦行は無意味である」という気づきそのものの中に、縁起の発見に至る閃きが宿っていたと思います。

 一般に、苦行とはどういう考え方に基づくのでしょうか。
 〈わたしの霊魂、あるいは「本当の私」は、本来清浄で自由で限界のない存在であるのだが、肉体がそれを閉じ込め汚し、自由な働きを阻害している。なんとかして肉体の束縛を弱めて、「本当の私」を肉体から解放しよう。〉
 こういう考えが、苦行の背景にはあると思います。

 肉体の中に閉じ込められた「真の我」を解放しようというのは、インドの伝統であるバラモン教思想の考え方でもあり、釈尊の時代にも広く共有される主流でした。バラモン教では、「真我」はアートマンと呼ばれました。「アートマンをしがらみから解放し、ブラフマン(梵、すべてを超越する宇宙原理)とひとつにする(本来ひとつであることを体得する)ことが真の救済である。」これがインド主流の梵我一如思想です。

 苦行を始めた釈尊も、当時のそのような常識を当初は共有していたことでしょう。しかし、激しい修行を続けながら冷静に自分を観察する釈尊に、まったく新しい閃きが準備されていきます。

 凡庸な修行者なら、苦行によって訪れた変性意識体験を「宇宙の真理、ブラフマンの光を見た」などと勝手な意味づけをし、興奮してさまざまに言い立てることでしょう。しかし、釈尊は、ひたすら冷静でした。不眠や絶食といった苦行やその他の外部条件によって、自分が時には激しく時には微妙に影響を受ける様を徹底して詳細に観察したのです。その結果、「本当の私、本来の自分(アートマン)が一貫して存在し続けているのではないのではないか(無我)。わたしとは、その時その時の条件、刺激によって引き起こされる、その時その時の反応なのではないか(縁起)」という、空前絶後の閃きが準備されます。
 苦行(肉体を弱らせて、「本来の自分」を解放する試み)など無益ではないか、と気づいた時には、まだこの閃きは明確に言語化されてはいなかったかもしれません。しかし、なにかを掴んだという感触はあった。そして、苦行を放棄し、体制を立て直して座禅を組み、じっくりと時間をかけてさまざまに検討し分析して、閃きを深く掘り下げていった。そして、その結果、一貫する「我」があらかじめ存在するのではないこと(無我)が間違いのない事実として確認され、遂に成道は達成されたのです。

 無我は、サンスクリット語では、アナートマン(パーリ語:アナッタン)であり、アートマン(同:アッタン)に否定の接頭辞をつけた言葉です。つまり、釈尊は、梵我一如思想が前提とする「真我」の存在を否定したのです。
 バラモン教が想定する「本当の私」、アートマンは、〈唯一無二であり、一貫して存在し続け、私のすべてをしっかりとコントロールする何者か〉という位置づけでした。釈尊は、そのような「本当の私」などもともと存在しない、と気づいて、みんなが捕らわれていた思い込みから逃れ出たのです。

 アートマンほど観念的でなくても、わたしたちも、「私はいる、私は存在する」と考えています。それが自然な考え方であるし、また現実のいろいろな問題に対して、そういう前提に基づいて対処した方が、素早く、そして大抵は目先の損をしない有利な反応をすることができます。
 しかし、そのように「私がいる」と考えるのは思い込みであり、またその思い込みが、わたしたちに執着を起こさせ、苦をつくらせています。それゆえ、釈尊の無我の教えは、梵我一如をもはや信じていない現代のわたしたちをも、苦をつくることから救ってくれます。

 覚りを得てそれを間違いのないものだと検証した釈尊は、達成感を喜びながらも、「わたしが見つけたこの真理は、世間の常識からあまりにも遠い。理解できる人は誰もいないだろう」と思い、「このままなにもせずに死んでしまおう」と一旦は考えます。しかし、「極めて少ない人数かも知れないが、理解する人もいるかもしれない」と思い直し、説法を開始します。

 以後、八十歳で亡くなるまで、ガンジス川流域の広い範囲で熱心に教えを説き続けます。その内容は、単に真理を説明するというものではなく、自然なものの見方とは相容れない事実を、凡夫(自然なものの見方にどっぷりと染まった普通の人)にもなんとか体得するに至ることができるように段階的に導こうという、慈悲の方便、工夫にあふれた実践カリキュラムでした。

【脱線① 梵に対する釈尊の考え】

 釈尊は、アナートマンという教えでバラモン教のアートマンを否定しました。一方で、アートマンとペアであるブラフマン(梵)については言及していません。少なくとも私は見たことがありません。これは、釈尊が梵を認めていたということではなく、釈尊にとって梵は、無用であるだけでなく害のある概念であり、無視したのだと思います。
 ところが、梵を想定して憧れるのは、人間の抜きがたい性向であるらしく、釈尊から500年を経て生まれた大乗仏教の歴史では、梵と同じ概念がいくつも違う名前で再生されることになります。(後述)
 一方、南アジアに展開する上座仏教(いわゆる小乗仏教)では、梵的な要素は乏しいのですが、それは、上座部の伝統をつくりあげた5世紀初頭のスリランカの学僧、ブッダゴーサによるところがおおきいと思います。ブッダゴーサは、賢明にも瞑想修行中の観察対象から無為法を取り除きました。無為法とは、「他に縁起せず、生滅・変化することなくそれ自体で存在するもの」という仏教の概念で、涅槃や虚空が代表です。もし「他に縁起せず、生滅・変化することなくそれ自体で存在するもの」を思い描いて瞑想すれば、たやすく梵的ななにかを夢想することになります。その結果、大乗では真如などが妄想されるようになりました。他方、上座部では、縁によって生滅・変化する自分自身を観察するのが流儀になりました。(『上座部仏教の思想形成-ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿 春秋社、参照)