四諦3:滅

 執着が苦をつくる原因でした。従って、根本の執着である我執がなくなり、そこから派生しているその他の執着もなくなれば、苦をつくることもなくなります。これが、滅です。

 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起こるのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 岩波文庫)

 「執着をやめろ」「執着するな」という宗教や道徳の教えをしばしば目にします。しかし、執着をやめろ、といわれて、「はい分かりました」とやめられるでしょうか。そんなに簡単にはいきません。執着をなんとかなくそうと歯ぎしりするほど頑張れば、執着しないことに執着している、と言われるようなねじ曲った事態にも陥りかねません。ではどうすればいいのか。

 執着に直接立ち向かうのではなく、執着の根っこである我執を掘り崩すために、我執の対象である「自分」を見極めるのです。つまり、無常、無我、縁起を自分のこととして納得するのです。それができた時、自分はその時その時の反応であって、執着の対象にはなり得ない、ということが分かります。

 無常、無我、縁起である自分とは、どういうことか。後でしっかりと説明しますが、とりあえず簡単にイメージをもっておいて頂きましょう。
 例えるなら、さざ波に反射する光のようなものです。無数の小さなきらめきが川面に瞬いている。そのひとつひとつが、感覚であったり、感情であったり、行動であったり、思考であったり、さまざまなその時その時の反応です。この身体という場所において、そのように明滅する無数のばらばらな反応の断続が、そのつどの縁を受けて、次々に一瞬きらめいては消えていきます。
 それらの反応を一絡げにまとめて、そこに「私」というラベルを貼り、「私」という存在が変ることなく実在するかのように思いなして、それを大事に守り育てようとしている。それが我執です。
 皆さんは、水面のきらめきがいかに美しくとも、執着するでしょうか。一体どのように執着できるでしょう。そんなことは不可能です。
 それと同様に、この身体で次々と起こる様々な反応の明滅に執着しても意味がありません。自分が、万事をしっかりと取りはからう実在などではなく、縁によってその時その時に起こされてはすぐに終わる、その時その時に明滅する一貫性のないさまざまな反応の寄せ集めであることが見極められれば、これまで必死になって自分に執着してきたことが、なんと愚かだったことか、と馬鹿馬鹿しさが痛感され、自然に我執が鎮まるのです。

 我執が弱まり、執着が弱まると、慈悲の働きが広がります。
 慈悲の行動は、動物でも観察されているので、仏教によって新しく生まれるものではないと思います。ただ、慈悲心よりも執着心の方が強力で、執着は慈悲に制限をかけるので、執着のゆるす範囲でしか慈悲は働きだしません。分かりやすい例を挙げれば、執着の許す金額しか寄付できないということです。したがって、執着を弱めることができれば、その分だけ、慈悲は活発になります。慈悲は、人の苦を抜こうとすることですから、執着を弱められれば、新たな苦をつくることがまず減り、さらに、活発化した慈悲で、今ある苦を減らす努力もなされることになります。苦を減らす二重の効果が生まれるのです。

 さて、ここは釈尊の教えの核心ですので、ぎくしゃくした文章になるのを恐れず、滅をきちんと定義しておきましょう。
 滅とは、苦を生む原因になっている執着を停止するために、根本執着である我執の対象、自分が、存在ではなく、いくら執着しても執着不可能な、そのときそのときの縁によって起こされる、一貫性のない反応の断続であることを腹に落ちて納得し、我執の愚かさが痛感され、それによって執着が鎮まり、苦の生産が停止されること、です。

 いろいろな説明をしてみましたが、「自分が、存在ではなく、そのときそのときの縁によって起こされる、一貫性のない反応の断続である」というのは、読者の皆さんにはどう聞こえるでしょうか。やっぱり何を言っているのか意味不明なちんぷんかんぷんでしょうか。そうだとしても当然です。釈尊も説法を諦めかけたほどに、日常の自然から遠いものの見方なのですから。でも、是非もう少し我慢して読み続けて下さい。

 あるいはまた、読者の中には、「考えてみればまあそうだろう。しかし、それを知ったとしても、執着が消えるとは思えない」と感じた人もおられるでしょう。そのとおり、無常、無我、縁起は、単なる理屈として理解してもほとんど効果はなく、他ならぬ自分のこととして納得することが必要です。

 自分のこととして納得するというのは、簡単に聞こえるかも知れませんが、時として非常にむずかしいことです。例えば「人は皆必ず死ぬ」ということは理屈では誰でも分かっています。しかし、タイマーの針がゼロに近づくように、自分が今刻々と死につつあるということは、なかなか実感できません。執着に反することは、簡単には受け入れられないのです。

 無常、無我、縁起も、理屈としては理解できたとしても、自分のこととしては簡単には腹に落とすことはできません。しかし、釈尊は、そのためのカリキュラムも用意してくれました。それが四諦の最後にある道です。