四諦1:苦

1 苦

 古来、仏教には、仏教と仏教でないものを見分ける仏教の教えの四つの印、四法印といわれるものがあります。そのひとつが、「一切皆苦」です。
 ですが、読者は多分こう感じたのではないでしょうか。
 「なにもかも一切が苦しみだと言われたって、人生には、好きな人とおいしいものを食べたり、海に遊びに行ったり、音楽を聴いたり、楽しいこともたくさんあるじゃないか、、、」
 そう思った方が大半でしょう。しかし、仏教では、それらは「執着の楽しみ」と言われます。

 釈尊は、成道を遂げた直後、一旦は説法を躊躇するのですが、そのときの気持ちが、サンユッタ・ニカーヤにこのように書かれています。

 「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人々には、〈これを条件としてかれがあるということ〉すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。私には憂慮があるだけだ。(『ブッダ 悪魔との対話』中村元訳 岩波文庫)

 お得意様や上司に無理して調子を合わせ、残業して溜めたストレスをバカンスで発散する。徹夜して練り上げた企画でライバルに打ち勝ち、大きなプロジェクトを獲得して祝杯を挙げる。いろいろな喜びがあるでしょう。しかし、おそらくそれらは皆、なんらかの苦と表裏一体の喜びです。自分の苦か人の苦か、あるいは大抵は両方の苦が、裏側にへばりついています。得をしよう、幸せになろうと画策して、うまくいかなかった結果は苦です。うまくいってもつかの間の喜びをもたらすだけで、手に入れた幸福はすぐに退屈に変ります。

 もうひとつ、サンユッタ・ニカーヤから引用しておきましょう。

 そのとき悪魔・悪しき者は尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとで、この詩句をとなえた。
「子あるものは子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。
人間の喜びは、執著するよりどころによって起こる。
執着するよりどころのない人は、実に、よろこぶことがない。
[尊師いわく、――]
「子あるものは子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
人間の憂いは、執著するよりどころによって起こる。
実に、執着するよりどころのない人は、憂うることがない。」(同上)

 薬物やギャンブルなどへの依存症というのがあります。喜びが得られそうで得られないフラストレーションの状態が続き、それが適当な間隔をあけて、まれな喜び、達成感で解消され、それが繰り返されると依存症になってしまうのだそうです。そう考えると、たいていの喜びは、依存症の喜びであり、つまり、わたしたちはみんな、執着依存症なのかもしれません。

 宗教や民族の違いを理由にする対立が、世界各地にあります。その中には、激しいテロの応酬に陥っている地域もあります。繰り返されるテロの報道を聞くと、こういう言いかたは不謹慎かも知れませんが、報復依存症という言葉が思い浮かんでしまいます。相手方からひどい仕打ちを受けて、憤慨し報復を計画し、うまくいかなければ悔しさをつのらせ、次こそは、と決意し、うまくいけば快哉を叫んで達成感を喜び、またすぐ相手から報復され、復讐心を燃え立たせる。これもまた、長く続く不満状態の中にまれな達成の喜びがランダムに訪れるパターンです。遠くから見ると、「なんと愚かな、、。どうして止められないのか」と思いますが、テロの応酬のさなかに身を置く人たちには、広い視野で客観的に自分たちを見ることができず、自分たちの苦を認識できません。

 阿片窟で陶然と煙を燻らせる人は、自分では幸福の絶頂を味わっているのでしょう。しかし、扉の外から観察する人の目には、苦にまみれた哀れな姿としか見えません。仏の立場からすれば、ときどきの執着の喜びに浮かれそれを追い求める凡夫も同じように見えているのではないでしょうか。

 執着の対象はいろいろです。まわりからの評価だったり、地位だったり、お金だったり、グルメだったり、、、。しかし、おいしい料理も、満腹以上に食べても気持ち悪くなるだけですし、バカンスもずっと続けば飽きてきます。多分、出世も、それ以上の上がなく、責任もなく、まったく誰にも気をつかわないでいい身分があるとすれば、すぐに飽きることでしょう。お金だけは、いくらたくさん蓄えても飽きる人は少ないようですが、それはいくら蓄えても満足できない、ということです。執着の喜びは、ほんとうの喜びではなく、一時の気散じに過ぎず、裏側に苦が張り付いています。

 とは言え、この小論の目的は、読者を出家修行者にすることではありません。家族でごちそうを食べたり、子供の成長に目を細めたり、いい仕事に誇りを持つといったことまで否定はしません。
 一番問題にしたいのは、戦争や搾取や差別といった、大規模に人々を苦しめる構造です。

 執着の欲に駆られて富を独占しようとする人たちと、その下にコバンザメのように張り付いておこぼれに預かり、保身だけでなにも考えない凡庸なアイヒマン的人間たちとがいます。彼らは、幾重にも積み重なり複雑に組み合わさって、大規模に苦を量産する巨大工場を形成し、それを動かす歯車になっています。他の人たちを犠牲にすることを「仕方がないさ」と容認し、夥しい苦をつくり、世界にまき散らしている。この現状をなんとか少しでも改善したい。富を独占する者たちと持たざる者たちとの格差が拡大するほど、差別や見下し、妬みや義憤は拡大し、苦は世界に充満していきます。

 「自分が存在しないのに、存在しない自分を増強しようとして、なにもかも自分のものにしようと執着するのは、愚かなことだ。そのために人を犠牲にしてはばからないのは恥ずべき罪だ。」
 そういう考えが、あたりまえの規範、常識としてわずかずつでも広がっていくようにできないものか。
 今の世界でも、差別心をまだ根絶はできていなくても、差別する言動があれば非難されます。それと同じように、自分の執着や保身のために人を犠牲にしたり、それを見て見ぬふりをすることが、ありもしない自分に執着して苦をつくり、苦を放置することだと、厳しく糾弾されるような世の中にならないものかと思います。

 社会の大きな問題だけではありません。地域や会社や家族や、さらには満員電車の中のような身近な場所であれ、自分が執着の反応であり、思わず知らず苦をつくっているという自覚、そして、他の人たちも自分と同じように自動的に苦を生み出す執着の反応であると理解することは、赦しあいをもたらし、ぎすぎすした人間関係に柔らかいクッションを差し挟んでくれるはずです。