四諦4:道

 我執を消し、執着の火を消すための方法は、自分の無常、無我、縁起を自分のこととして納得することでした。しかし、これは、自然なものの見方に反することであり、執着に逆らうことです。おいそれとはできません。段階的に準備をしながらそこに導いてくれるプログラムが必要です。それが道です。

 三学(戒、定、慧)や八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)が、そのプログラムです。八正道は三学に包摂されますので、三学で説明します。

【脱線③ 漢訳仏教用語の危険】

 八正道のトップに掲げられる「正見」に関係して、論の流れからはずれたことを少し書きます。「正見」について、〈正しく見ること〉とする安直な解釈をときどき見かけますが、間違っています。

 「正見」の「見」の原語は、パーリ語では“diTThi”です。「常見・断見」(死後も個体存在は持続するという見解と絶えるというふたつの対立する見解)、あるいは「邪見」の「見」と同様に「見解」の意味です。ですから、「正見」とは、「正しい見解」を意味します。八正道の先頭に正見があるのは、まず第一に正しい見解に触れて学ぶ必要がある、間違った見解に従ってはならない、という至極当然の教えです。

 このように、漢訳の仏教用語だけで考えると危険な場合があります。
 中国では、経典を中国語に訳した後は、原典にあたることをほとんどしなかったため、よく言えば中国独特の発展をしました。しかし、これは、釈尊の教えからすれば逸脱ということになります。先に触れた老荘思想によって解釈された挌義仏教の影響もありました。

 例えば、大乗仏教の中観(ちゅうがん)思想の空は、サンスクリット語zUnya(シューニャ)の訳語で、本来は「空っぽの」「虚ろな」という形容詞です。「そこにあるだろうと想定されるものがその場所にない」ことを表します。空き瓶とかタクシーの空車の空です。「我々という場所にアートマンはない」というのが、仏教における本来の意味だったでしょう。ところが、もともと形容詞であった空(シューニャ)は、接尾辞tA(ター)がつけられて空性(シューニャター)となり、抽象名詞化されます。漢訳般若心経に頻出する「空」は、「性」はつけられていませんが、元のサンスクリットではシューニャターであり名詞にされた空です。名詞化された「空」は、抽象名詞からしだいに普通名詞のように捉えられ、対象化され、実体視され、ついには「空」という超越的実在が妄想され、バラモン思想のブラフマン、あるいは老荘思想の「道」(タオ)と変らぬ役割を果たすようになります。仏教が梵我一如化した一例です。わたし自身、空を宇宙生成のエネルギーとして考えていた時期があることは、先に告白しました。
 また、真如は、tathatA (タタター)で、tathA(タター)「~の如くに」という意味の副詞に 同じ接尾辞がつけられて抽象名詞化した言葉で、「そのようであること」といった意味であったものが、普通名詞のように扱われるようになって対象化、実体視され、やはりブラフマンやタオのような存在になっていきます。

 漢字に訳された仏教用語は、しばしば一人歩きして意味がずれてしまっているので、なるべく仏教辞典などで元のパーリ語、サンスクリット語のスペルを調べて、本来の意味を確認した方がいいと思います。ネット上には、ほとんどが英語ですが、パーリ語、サンスクリット語の辞書があります。
 特に日本人にとっては、漢訳された仏教用語は、漢字によってイメージを触発されて、とんでもない解釈に陥ることが多々あるので、要注意です。
 パーリ語は、南伝仏教(スリランカ、ビルマ、タイなどの仏教)上座部が、釈尊が話していた言葉だと主張する昔の言葉で、口語的な日常言語です。上座部に伝わる経典はこれで書かれています。一方のサンスクリットは、宗教や学術、文学の領域で使われた雅語で、大乗仏教はこちらを多用します。
 (ただ、経典が文字で記されるようになったのは紀元前後と推定され、既に釈尊から五百年が過ぎています。その間、口から口へと伝えられるうちに教えにどのような変遷があったのか、なかったのか、経典の研究だけでは知ることはできません。この五百年を遡って釈尊の教えそのものににじり寄るのは、簡単ではありません。)
 サンスクリット語は、単語と単語が切れ目なくつながって城壁のように見えるデーバナーガリーという文字で書かれますが、この本ではHarvard-Kyoto (HK) conventionという便宜的なアルファベット表記法を使いました。ネット上の辞書を調べる際は、これを知っていると便利です。


【閑話休題】

 さて、話を戻して、三学、すなわち執着を鎮めて苦の生産をとめるために、無常、無我、縁起を自分のこととして納得するためのカリキュラム、を考えましょう。