執着が苦を生む。だから、執着の反応を鎮めなさい。これが釈尊の教えだ。しかし、それなら、釈尊は、執着という、動物進化上では高度な反応を取り除いて、イヌやネコの状態に戻れと説いたのだろうか。否、そんなはずはない。
では、執着を持たないイヌやネコと、執着の反応である凡夫(普通の人)と、執着の反応を鎮めた仏とでは、なにが違うのだろうか。
先日、マズローの欲求5段階説に言及している記事を見て、マズローの言う欲求のレベルを高めていく力は、後半においては執着であろうと思った。そして、仏になりたいと思う発心やそのために努力する精進は、心理学の用語を借りれば、昇華された執着であり、マズローの5段階のさらに一段上にあると考えた。
マズローの考えは、学説としては批判も多いようだが、よく知られているし、大まかなな理解の前提としては便利だ。これを材料にして考えてみたい。
まず5段階の最下段にあるのは、生理的欲求である。食事、水分摂取、呼吸、睡眠など、ホメオスタシスを保ち、生命を持続するためには不可欠の欲求だ。
生理的欲求が満たされると、次に安全であることが欲求される。安心してくつろげる状況が求められる。
その次の第3段階は、社会的な欲求である。仲間に一員として受け入れられたいという気持ちだ。
第4段階では、単に一員として受け入れられるだけではなく、周囲から一目置かれたいという承認の欲求を抱く。
最後の欲求は、他人の評価ではなく、自分で認められる自分でありたいという欲求だ。
我が家のテラスには、雄ネコ、雌ネコ、その子ネコ4匹が住み着いて、エサをせがんだり、のんびり昼寝をしたりしている。明らかに彼らには、第1段階、第2段階の欲求がある。
その次の社会的欲求については、ネコたちは家族でたむろしているから、それも備えているようも見えるが、単にエサがもらえて安全だから集まっているだけかもしれない。しかし、私にさえ警戒しながらも撫でて欲しそうにするから、愛されたい欲求はあるのだろう。イヌの場合は、明らかにかまってもらいたがる。
つまり、マズローの5段階の欲求のうち、第1から第3までは、イヌ、ネコの段階からある単純な欲求であり、まだ執着と呼べる段階には至っていない。
4番目の承認欲求は、「自分は他の仲間とは違う。特別だ」と周囲から認められたい欲求である。つまり、この段階で初めて「自分」という要素が入ってくる。
執着とは、自分の存在を妄想して対象として捉え、それに執着して大切に守り、強く大きくしようとする我執が根本である。そこからさらに派生して、我に益となるとみなされたものと我に害となるとみなされたものとに、それぞれプラスとマイナスの執着(我所執)が生まれる。我所執の元には我執があり、我執は自分を存在として妄想するところから生じる。
自己意識は、単独の個体の中からおのずと発生してくるものではないだろう。欲求の第3段階で仲間の一員として生活し、家族や群れの他のメンバーが自分を見る目を学習し、それを経由することで、自分という意識は生まれてくる。他人の視点を鏡にすることで、自分の姿が浮かび上がってくる。母親をはじめとする家族などから、名づけられ、呼びかけられ、可愛がられ、褒められ、叱られることで、「自分」という意識が誕生する。
動物での実験観察(鏡像認知=鏡に映る自分を、他者ではなく自分として認識できるか)では、鏡像を自分として捉えられる(=自己意識がある)のは、チンパンジーやオランウータンなど限られるそうだ。イヌ、ネコでは観察できない。では、チンパンジーは、承認欲求を持っているのだろうか。チンパンジーの群れには序列があり、毛づくろいなどで常にそれを確認しあうというから、おそらく序列の中の少なくとも高位の個体には、「自分のポジションが仲間内に共通認識されるべきだ」という承認欲求はあるだろう。
人間の場合は、2歳ころから鏡像認知が可能になるそうだ。そして、幼稚園の頃には、「弟のくせに」とか「お姉ちゃんばかりずるい」とか言い始める。これは、兄弟の中での自分のポジションに一定の認識を持ち、それを要求しているのであり、承認欲求の始まりを示すできごとであろう。
大人になっても、メンツをつぶされれば怒り、時には暴力沙汰にもなる。ヤクザのみならず、職場でも隣近所でもそういういざこざは珍しいことではない。人は、周囲から一目置かれようと、格好をつけ、自慢し、見栄を張り、弱い者を虐げてみせ、強い者との繋がりを吹聴し、その他様々に画策する。自己意識に裏打ちされた承認欲求は、よい方向に働くこともあるが、苦を生む執着であることも間違いない。
しかし、もっと本格的に苦をもたらす執着は、マズローのいう最後の段階、自己実現欲求だと思う。
この自己実現欲求は人間に成長を促すものであり、普通は、肯定し推奨すべきものと考えられている。競争を勝ち抜くうえでも有効だろう。それは一面では確かにそうかもしれないが、苦の生産という面からみれば、危険な執着だ。あるべき自分を対象化し、それになろうとするのは、端的に言って我執である。
もっと強くなりたい。もっと支配力を持ちたい。もっと権力を持ちたい。もっとあがめられたい。もっと儲けたい。生理的欲求が満たされ、安全の欲求も、社会的欲求も、承認欲求も、どれもがかなえられていても、自己実現欲求には限界がない。我の妄想が、いうならばターボチャージャーのように低位の欲望に過給圧をかけ、執着へと変化させる。様々に策をめぐらし複雑な段取りを整え、大規模に巧妙に組織的に、さらなる欲求の実現を目指す。これによってもたらされるのは、例えば、搾取であり、環境や生態系の破壊であり、戦争であり、途上国の子どもたちの悲惨な日常だ。勝ち組と言われる人たちの際限のない自己実現欲求が世界にまき散らす苦は甚大である。
ここで最初の問題に立ち戻ろう。執着の生み出すこのような甚大な苦をなくすために、我々は、マズローの言う3段階目の欲求のレベル程度に退化すべきなのか。仏とは、イヌやネコと同じなのか。
そんなはずはない。釈尊が無我を説かれた時、自己意識がなくなっていたのではない。 徹底的に自分を追求した結果、そんなものはない、妄想だ、と気づかれたのである。自分があると思い込み、必死になってそれを守り育てようとしてきたが、自分があるという思いは妄想に過ぎず、私とは、そのつどそのつど縁によって起こされる無常でさまざまな現象の断続であると気づき、執着は不可能で愚かな努力であると痛感し、妄想に操られなくなった。しかし、自己意識がなくなったのではなく、それを将棋の駒のように道具として活用し、自分がどう説けば弟子たちはどう受け止めるかさまざまにシミュレートし、弟子たちに配慮の行き届いた説法をした。その動機は、我執でも我所執でもなく、慈悲である。
マズローの5番目の自己実現欲求は、執着として始まっても、ある時、苦をまき散らしている自分のあり方に気づく。これまで執着してきたのとは違うあり方、違う自分に変わらねばと願う。苦を生まない自分になろうとする。これが発心だ。自己実現欲求が、これまでとは全く異質な自己を求めるようになるのである。その結果、精進がなされる。マズローにならえば第6の欲求と呼んでもいい。苦を生んできた執着が苦を生まないことを求める執着になった、と言っていいと思う。執着が昇華されて、発心や精進になるのである。
「仏教」の一部には、覚り(無常=無我=縁起を自分のこととして腹に落ちて知ること)を求めることも執着だとして否定する考えがある。あれこれ努力することは、さかしらなはからいだという。あるがまま無分別でいるべきだと主張する。煩悩もそのまま肯定せよという。これでは、イヌやネコに戻れと言うに等しい。
釈尊の教えはそうではない。人を苦しめ、自分を苦しめる凡夫から、人を苦しめず、自分を苦しめず、慈悲に満ち、方便に優れた仏を目指すのである。そのきっかけは、自己実現を目指してきた執着が、苦を生んできたことに気づき、釈尊の教えに学ぼうと決意する発心である。執着は取り除かれるべきではなく、発心、精進へと昇華すべきなのだ。
2017年7月8日 曽我逸郎