長野県松本市の「平和の種をまく会」が発行しておられるニュースレター『平和の種』に、以下の原稿をお送りした。(2019年3月14日の80号に掲載)
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釈尊(ブッダ)の教えと民主主義
日本国憲法前文が好きだ。日本だけでなく、世界中の人々が「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存」できる世界を実現するという「崇高な理想と目的を」「全力を挙げて達成することを誓」っている。<自分たちさえよければ>という<XXファースト>の考えとは正反対だ。もし憲法前文の誓いどおり真摯に努力できれば、我々自身も自分の国を誇りにできるし、近隣も含め世界中の人々が日本を尊敬し愛してくれるに違いない。
ところが現実はどうだ。世界中どころか国内においてさえ、生存を脅かされている人が多い。格差社会で搾取され、ブラック企業で追いつめられる。弱い人を怯えさせるヘイトが、醜さむき出しで表通りを闊歩している。憲法前文の崇高さを理解できず「いじましい」と評する人物が、総理大臣だ。外国資本に国を売り、近隣国への憎悪を煽って自分の人気を上げ底し、集団的自衛権と称して自衛隊の若者を「どうぞお好きに戦場へ」と差し出して宗主国の歓心を買う。若者の命で自分の保身を図っているのだ。
なぜこうなってしまうのか。考えてみれば、これは日本だけ、今だけのことではない。人類の歴史は、戦争や支配や差別や搾取の連続だ。確かに人類は、行きつ戻りつしながらも少しずつ社会をよくしてきたのだろう。しかし、今も戦争や差別や搾取や環境破壊を繰り返し、人間は人々を苦しめ、互いに苦しめ合い、みずから苦しんでいる。家庭や職場、学校、電車の中など身近なところで苛立ち悩むのも、我々自身の生み出す苦だ。つまり苦は、運命がどこかから降らせるのではない。我々が自分でつくり出しているのである。
それを2500年前に説いたのが、釈尊(ブッダ)だ。苦をつくる原因は執着である。人類(凡夫=普通の人)は、自分には立派な「我」が存在すると妄想し、妄想に過ぎない「我」を現実化しようと空しく懸命に努力する。自分が思い描くどおりの立派な、周囲から一目置かれる「我」を実現せんとする。そのために富や地位や名誉を掴もうと足掻き、自分より下とみなす人を踏みつけて自分の高さを示そうとし、期待どおりの扱いをされなければ怒る。
「我」があると妄想しそれを実現しようとする我執は、サピエンス固有の習性であり自動的な反応だ。目先の生存競争への闘争力を高めてくれる。しかし弊害も大きい。特に、社会が複雑に肥大し科学技術の発達した現代では、執着が生み出す苦は飛躍的に増大している。
力のある連中は、影響力を駆使して、自分が妄想する「我」をますます肥え太らせる。極端な場合、法や制度を自分たちの都合のいいように変えさせ、国を集金装置にして税金を吸い上げる。あるいは、「X国が攻めてくる」と人々の不安を煽って軍事予算を増やさせるのは、使い古された手口だ。それでも、小さな幸福が惜しい人々の執着は、たやすくプロパガンダに乗せられて、かえって戦争の危険を高めるようなやり方で貴重な税金を吸い取られていく。特に義憤は危険だ。正義の怒りは火をつけやすく、攻撃的な炎に仕立てやすい。影響力のある連中は、自分の執着のために、不安を煽り怒りに火をつけ、人々の執着を巧妙にからめとっていく。人々は、不安や怒りから、また保身のために忖度して、執着のヒエラルキーの中へ歯車として取り込まれていく。執着は結合し、巨大装置となって苦をつくる。
執着は自然な反応だ。気をつけないとたやすく操られてしまう。執着のまま誤った反応をしないようにするには、まず自分は間違いやすい凡夫だと自認し、お互いに凡夫と赦し合い、異なる視点を容認し合い、各自が積極的に意見を表明して批判に晒し、批判しあい、学び合い、考えを深め合うしかない。すなわち熟議の民主主義である。苦の少ない社会を築いていくには、凡夫の自覚と情報公開と積極的な発言と批判、そして議論からの学び合いが必要なのである。なのに残念ながら、日本の政治は熟議から程遠い。執着に凝り固まっている。
ところで、釈尊は、「我」が妄想に過ぎず、執着できる対象でないことを教えるため、無常=無我=縁起を説いた。肉体は、ろうそくの炎と同様に物質が通り抜けていく場所であり、そこに縁が接して反応を起こす。そのつどの縁によって起こされるそのつどの反応・現象がわたしたちなのだ。「我」などという一貫した存在があって、それが行動するのではない。このことが、単なる知識としてではなく、他ならぬおのれのこととして腑に落ちて納得できれば、「我」への執着(我執)はその対象を失っておのずと消沈し、我執から派生するその他の執着も鎮まり、苦の生産は止まる。これが釈尊の教えの核心だ。しかし、人類(凡夫)の自然な思い込みに反するので、簡単には納得できない。専門的な修行が必要だった。
しかし、脳科学、認知科学などの近年の成果は、2500年遅れて釈尊の発見に近づきつつある(例えばベンジャミン・リベット『マインド・タイム』岩波書店など参照)。釈尊が組んでくれた修行カリキュラムに個人としてみんなが精進しなくとも、無常=無我=縁起を人類共通の自己理解として広げていくことはできるかもしれない。
わたしとは、存在ではなく、そのつどの反応であり、現象である、という認識が、人類共通の常識になれば、世の中全体の執着は、根絶はできなくても、少しはレベルが下がるだろう。執着のレベルが下がれば、執着同様に自然な反応である慈悲は、執着の束縛が緩んだ分だけ活発になる。苦の生産が減り、思いやりが広がり、世界は少しずつよくなっていくだろう。実現には数世代が必要かもしれない。それでも、初めは非常識だった地動説が天動説に置き換わったように、いつか無我が常識になる時代は来る。あきらめず、タンポポのように風任せでも、どこかで誰かが縁を引き継いでくれることを信じて、無常=無我=縁起の種をまいていきたい。憲法前文の「国家の名誉にかけ」た誓いも、いつか「全力を挙げて」取り組むことができるはずだ。
2019年2月 上伊那郡中川村 曽我逸郎