釈尊の教えと社会変革

<協同労働の意義と可能性 協同総研『協同の發見』誌に書いた記事>

日本で唯一の労働者協同組合(ワーカーズコープ)の専門研究機関「協同総合研究所」の所報『協同の發見』に以下の原稿を書いた。

『協同の發見』 2019年1月号 「会員だより」       曽我逸郎

日本社会連帯機構の玉木さんが中川村に移住してこられて、協同総研との縁をつくって下さった。池袋のオフィスで日本労協連名誉理事の永戸さんから、「株式会社は所有と経営と労働が別々であるが、協同労働の協同組合は、それらすべてを労働者の組合が担う」と教えて頂き、「へえ、なんだかおもしろそうだな」という緊張感に欠けた感覚のまま、2017年に理事をお引き受けした。以来理事会には何度も出席したけれども、たいして理解を深めることができないままこれを書いている。以下、釈迦に説法となるが、お許しを。
実は、昨年(2018年)8月に釈尊(ブッダ)の教えについて本を書いた。(『「苦」をつくらない』高文研)
世に満ちる苦は、世界規模の搾取や戦争、差別であれ身近ないざこざであれ、我々自身が執着によってつくっている。無常=無我=縁起を覚る(単なる知識ではなくおのれのこととして、自分は存在ではなく現象であったと腑に落ちて納得する)ことで、執着はその根幹である我執の対象を失っておのずと消沈し、苦の生産は停止する。これが釈尊の教えだ。ただ、これまでの、一部の修行者だけがそれを目指すやりかたではなく、無常=無我=縁起という人間理解、自己認識を世間一般の常識として広めることによって、社会全体の執着のレベルをいくらかでも下げ、苦を減らせないか。支配する側こそが大きな力によっておびただしい苦を撒き散らしているのだから、苦を減らすためには、彼らを含めて、人類全体が無常=無我=縁起を学ばねばならない。そんな問いかけをした。しかし、「私がいる」という常識(我執という自然な妄想)が書き換えられるには、数世代か、あるいはもっと長い時間が必要だろう。わたしが生きているうちに達成できることではない。今できることは、この問いかけをタンポポの種のように風に任せて飛ばし、そのうち一つでもどこかに根付き次の種が広がってくれることを期待するしかない。
この本を「脱原発をめざす首長会議」で何度かお会いした城南信用金庫の吉原顧問に読んで頂いて、思いがけず好意的な評価を頂いた。それに甘えてご多忙の中お時間を頂戴したところ、話題は仏教以外にも広がっていった。
経済の根本のところには生産第一主義とでもいうべき傾向があるのではないか。消費側の需要にはおかまいなく、それぞれが生産能力最大限の生産をしようとする。そのために三交代で働かせるなど労働者に過酷な条件で過剰労働をさせ、広告で欲望を煽るなどして無理やり消費させる。目いっぱい生産しておいて必死で売りさばくという姿勢が、資源の浪費や地球温暖化など環境の悪化を生み、搾取や恐慌も生み出すのではないか。
それに対して、吉原さんは、株式会社という仕組みが元凶だとおっしゃった。所有と経営と労働とがばらばらにされ、所有する株主が最も発言力を持ち、執着にまみれて「利益配当をもっと増やせ」と欲求する。その結果、労働者に無理を強いて過剰な生産を強いるなど、さまざまな方面におびただしい害(=苦)を生み出している。これに対抗するには、助け合いや協同が大切だ。信用金庫は、みんなが仲良く幸せに暮らせる社会をつくるための協同組織の金融機関であって、けして銀行に成り下がってはならないと考えている、とおっしゃった。
株主資本主義の弊害をどう克服するかという課題であろう。今回、利根川専務理事から原稿依頼を受け、なにを書こうか考えるうちにこのお話を思い返し、協同労働という思想の持つ意義にようやく気づいた。
産業革命は、技術革新を利用し女性や子供も酷使することで生産を爆発的に増大させたし、植民地支配は武器や阿片などを売さばくための市場獲得競争の一面もあっただろう。そもそも株という仕組みは、大航海時代に植民地との交易の資金調達のために始まったと聞いている。今では、労働は生存を確保するためだけの賃労働に疎外され、所有(投資、資本)は欲望・執着のまま際限を知らず暴走している。
ソビエトが崩壊した後、「計画経済はうまくいかないことが実証された」と言い囃され、「みんながそれぞれ自分の欲望のままにふるまうことが、結果的に最も高い効率を生み、社会を進歩させる」といった主張がまかりとおっている。しかし、これは勝ち組の自己正当化にすぎない。執着のまま欲望を発散させれば、初めから有利な条件にいる勝ち組がますます富を独占するに決まっている。持たざる者は、欲望の追及どころか、ますます奪われていく。
勝ち組の最上位にいて、多くの企業を所有するグローバル資本は、今や国家をも支配し、法律や制度を自分たちの都合のいいように変えさせて、強欲に富を独占している。国家は、グローバル資本が富を吸い上げる道具にされつつある。TPP,種子法廃止、水道民営化など、日本でもその動きは目白押しだ。
今のまま執着にまかせて欲望をほとばしらせるのではなく、助け合い赦し合って世界の苦を減らす方策を模索せねばならない。協同労働という考え方は、そのひとつの可能性であり、現代の理不尽な社会に対する異議申し立てなのだ。今は、誕生したばかりの哺乳類の祖先のように目立たなくても、やがて恐竜にとって代わる進化を遂げるかもしれない。現在と未来のことだけではなく、産業革命やそれ以前の大航海時代の過去にまでさかのぼって根本の仕組みを改めようとする奥の深い修正動議だ。
ところで、地方の農山漁村では、高齢化、人口減少により地域の存続が危惧されている。わたしの暮らす長野県中川村も例外ではない。荒廃農地が増え、草刈りや水路の泥上げなどの共同作業が負担になり、お祭りの神輿も元気に荒ぶる回数が減っている。集落を維持するには問題が山積だ。一方、都会に出た若者も、必ずしも幸せではない。生存のためだけに意義の感じられない賃労働に厳しい条件で縛り付けられ、もがいている人も多い。だとすれば、故郷にもどって、故郷の課題を解決する仕事を始めてくれればありがたい。大儲けはできなくても、やりがいを実感できてゆとりも生まれるだろう。
今、若い人たちは、就職する、つまり賃労働者になること以外の道を想像できない人が多い。学生時代から、どの資格を取れば有利かなど就職のことばかり考えている。ゆとりを奪われ、若い時に一番大切な、悩みながら自分の内面を熟成させる時間を持てない。なんとか賃労働者の職を得てもこんなはずではなかったと挫折する人も多い。そんな若者が、経験を活かして地方で起業し、みずからの生業をつくってもらえたらと願う。地域の課題を解決してくれる仕事なら最高だが、そうでなくてもかまわない。都会から受注し、都会に納品するような仕事であっても、地域の一員になってくれるだけでありがたい。
起業を助け、その道を広げてくれるのが、協同労働の協同組合だ。いよいよ法制化が近づいている。ここに至るまで頑張って下さった皆さん方のご労苦に敬意を表し、感謝を申し上げる。
法律が整備されたら、労働者協同組合という選択肢があることを、まずは広く知ってもらわねばならない。そして、それがうまく活用されて、たくさんの組合ができて、その運営もうまくいき、成果が広がることを期待する。しかし、就職して賃労働者になることしか考えてこなかった人たちには、所有や経営についての知識は乏しい。どういう仕事を始めるかによって、株式会社、合同会社、社会福祉法人、農事組合法人などさまざまな形態が考えられ、そこに新たに労働者協同組合が加わるわけだが、どれが自分たちに最適なのか、それぞれどのようなメリットがあり、デメリットがあるのか、雲をつかむような感覚だろう。わたしの息子は、ワイン醸造を目指してブドウを植えているが、どういう法人形態を選択するかずいぶん悩んでいた。資金調達の方策にもこのことはからんでくる。そもそも資金調達など多くの若者は考えたこともないだろう。
労働者協同組合という道が開けても、そこに進むには多くのサポートが必要なのだ。しかし、地方の小規模な自治体では、職員数削減をしてきたせいもあり、特定の職種以外は専門知識を持つ職員を育てるゆとりがない。金融機関も、縦割りの傾向がある。労働者協同組合という組織を新たに立ち上げて頑張ろうという若者たちの個々の疑問や不安にこたえられる支援体制をどう構築するか、それが法制化後の課題になろう。
もうひとつ、みんなが平等に所有し経営に参画し労働する協同労働の協同組合には、運営上の独特の難しさもあると思う。我々はみんな、執着のままに反応する凡夫であるから、なにかにつけ対立しがちだ。上下の力関係のない組織において合意形成をするには、より丁寧な意見のすり合わせが必要になる。しかし、これは、他の組織のような服従を強要しないということだ。労働者協同組合の運営は、民主的にならざるを得ないのである。
だとすれば、協同労働は、民主主義の実践の場として捉えることもできる。全員が所有者でありまた経営者として参画しなければならないという自覚を持つことは、今の日本の貧弱な民主主義を骨のあるものに育ててくれるかもしれない。主権者とはいうなれば国家の所有者であり、統治する人たちは経営の立場だ。国家を所有する主権者は、所有者の自覚を持ち、統治者の経営がおかしければ、遠慮なく指弾しなければならない。労働者協同組合は、国家の所有者である主権者を育てる学校としても機能するのではないだろうか。
今、地方では、国が廃止した種子法に代わる条例を定めようという動きが広がっている。水道民営化についても闘いの現場は、それぞれの地方自治体になるだろう。沖縄では、自治体と住民が、豊かな自然と文化、伝統のなかでののびのびとした暮らしを取り戻すために、力を合わせて頑張っている。国家がグローバル資本の集金装置に成り下がりつつある今、足元の地方の草の根から巻き返していかなければならない。協同労働の協同組合は、そこにおいても大きな力を発揮してくれるだろう。
この原稿を書いて、協同労働の持つ深い意義と大きな可能性を認識した。