政治的な…

「改憲の議論を安倍首相とすべきでない」

 国民民主党の玉木代表が、改憲について、自民党との議論に応じるような発言をしている、といった情報が流れている。
 真偽のほどは分からないが、国民民主党幹部が、「市民連合や他野党との文書への署名は、合意の署名ではなく、市民連合の要望を受け取ったという受領印の意味だ」という趣旨を述べている動画はネットで見た。
 これが事実であれば、今回の参議院選挙で「市民と野党の統一候補」として国民民主党の候補者に投票した有権者への裏切りである。
 安倍政権に立ちはだかるため長野県区で羽田雄一郎さんを積極的に応援したわたしも、それに加担したことになってしまう。そんなことはないと信じたいし、もしそうなら容認できない。

 安倍首相と改憲について議論すべきではない。
 なぜなら、安倍首相は、改憲だけでなく、一貫して議論から逃げてきたからだ。そもそも、議論をとおして正しい答えを見つけようという考えが、安倍首相にはない。
 例えば、開かねばならない国会を開かない、予算委員会を開かない、といったやり方で、議論の場を閉ざしてきたのは、安倍首相自身である。
 「議論」の場においても、はぐらかしや時間稼ぎといった不誠実なやり方で、議論から逃げてきた。その場しのぎのウソをつきハッタリまでして、そのツジツマ合わせのために、公文書の隠ぺいや改ざんをせざるを得なくなった。その挙句、自殺に追い込まれた職員までいた。
 そのようにして議論をごまかしながら、安倍首相は、数の力にものを言わせ、国会のルールを捻じ曲げたやり方で強行採決を重ねてきたのである。

 その実態を、玉木代表は間近で見てきたのではないのか。
 今、安倍首相が「改憲の議論」を主張するのは、議論したいのではなく、強行採決を可能にするために「議論した」という形式的なアリバイが欲しいためでしかない。
 玉木代表は、安倍首相が真の議論に応じるつもりだと、本気で考えているのだろうか。
 もし、安倍首相に議論する気はないと知りながら安倍首相と「議論」するというのなら、なんらかの思惑(例えば、裏取引というようなこと)があるのではないかと邪推せざるを得ない。(そうではないと納得させて、安心させてほしい。)

 実は、この心配は、わたしがまだ共同代表のひとりを務めている「信州市民アクション」でも危惧されていた。前回の衆議院選挙の小池新党踏み絵事件という苦い経験があるからだ。長野県で固く約束をしても、党本部が寝返れば、県でも裏切られることになるのではないか。そういう心配だ。
 それゆえ、市民と4野党との政策協定に、統一候補となった羽田雄一郎さん個人も署名してもらった。羽田雄一郎さんには、この協定を重く受け止め、仮に国民民主党本部がなにを言い出したとしても、政治家個人としての約束をブレることなく堅持して欲しいし、そうして頂けるものと期待している。(「信州市民アクション」協定書の写真参照)

 念のため、誤解のないように言い添えておくと、わたしは議論を否定しているのではない。それどころか、熟議こそが真の民主主義だと主張してきた。
 安倍首相は形式的な「議論をやったフリ」を強行採決のために利用しようとしている。だから、その相手役を演じることに反対なのだ。

 議論は必要であり、非常に重要である。しかし、議論は、安倍首相ではなく、主権者とすべきである。議論し熟議し、みんなで考えを深めていくのが民主主義だ。
 特に、安全保障は全世界の人々に関わるテーマである。一旦事が起これば、悲惨な事態は国境を超えて広がる。地球に暮らすものとして、日本国民のみならず、地球上のすべての人たちと議論を重ねるべきだ。
 安全保障に関して、自国のことのみに専念すれば、互いに軍事力を増強し合う「抑止力の罠」にたやすく陥ってしまう。世界中の市民が議論し、軍事力はどれだけ必要か、税金はどこに投入すべきなのか、考えを深め合うべきだと思う。考えが深まれば、人類の歴史を振り返ることになり、これからどういう世界を目指すべきかも見えてくるだろう。
 その時、日本国憲法前文が謳う「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存する権利」や「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することが、人類の未来に向けた指針として共有されるものと信ずる。

 政党各党は、安倍首相の誘いに乗らず、市民の議論に積極的に加わり、議論の深化に貢献すべきだ。

2019年7月28日
 立憲民主党長野県第5区総支部長 曽我逸郎

(立憲民主党の立場になったので、信州市民アクションの共同代表はもうすぐ解任となります。)