山口瑞鳳『評説インド仏教哲学史』を読んで
2023,7,12 曽我逸郎
山口瑞鳳『評説インド仏教哲学史』(岩波オンデマンドブックス)を終盤まで読んでいたのに、斎藤幸平氏の影響でアナーキズムに浮気して、しばらくそのままにしていた。ようやく読み終えたので、思ったことを書いておきたい。
「名色(みょうしき)が我執を生み出す」というのは、わたしのかねてからの考えだ。山口氏も、同様の趣旨を何か所かで述べている。ただ、この本のテーマは、我執が生まれるプロセスの分析ではない。しかし、名色については、辞書も含めて分かったような分からないようなあいまいな説明ばかり目にする中、氏の論考は、明快であり、かつわたしと同じだ。それゆえ、「名色が我執を生み出す」というわたしの考えをサポートしてもらったと思う。
山口瑞鳳氏は東京大学名誉教授。主たる研究の来歴は、サムイェーの宗論などチベット仏教、インド大乗仏教中観派、さらにパーリ経典研究と「はじめに」に書いている。中観派の寂護と蓮華戒を釈尊の教えを正しく引き継ぐとして高く評価する一方で、説一切有部などの部派仏教、唯識派、さらには中観派でも清辨や月称、チベット仏教中興の祖・ツォンカパ、またベルグソンはじめ西洋哲学まで手厳しく批判し、竜樹の『中論』も中論ではなく『般若論』と呼ぶべきで、しかもその『般若論』には「いかがわしい増広」が挿入されている、と主張する。舌鋒鋭く旗幟鮮明を恐れない大家だ。今年亡くなられたそうだが、お元気なうちにお会いしてみたかった。
500ページ近いこの本で氏が述べていることを乱暴にはしょって紹介しておこう。
外界(というより、自分も含まれるから、世界というべきか)は、時間の中で一瞬の停滞もなく移り変わり消失していく(無常)。それは我々の知覚の原因ではあるが、人はそれをそのままに感受することはできない。
途切れることなく移り変わる外界(先験的=経験不能な実相)に向き合う我々の知覚は、流れ移ろい消えていく外界の一部分を無時間的静止的な一瞬の痕跡・残像として捉える。それが表象だ。表象は、知覚不能な移り去る外界に縁起し一応それを反映してはいるが、静止した細切れの断片である。我々は外界そのままを表象として知覚していると思い込んでいるが、表象は外界の実相ではないから虚妄である。
この表象は、没時間的で常住な実体観念(rUpa、ルーパ、色)として記憶に蓄積される。表象が捕捉されるたびに過去に蓄積されたそれに相当する色(実体観念)が参照されて、そこに常住の実体が存在すると思い込むことになる。妄想された実体(色)は、言葉(nAma、ナーマ、名)で名づけられ、その名前には自分にとっての意味・価値が染みついている。名色(ナーマ・ルーパ)は、そのつどの虚妄なる表象をいつも変わらぬ意味と価値をそなえた常住の実体として妄想させ、それへの執着を生む。ところが、外界の実相は止まることなく移り変わり失われていくから、変わらぬ価値を備え常住であるはずの実体が壊れ失われていくのを目の当たりにして、人はおののき、苦しむ。
3種類の時間、つまり、途切れることなく流れ去る感受不能な実相の時間と、表象の断片的静止時間、さらに妄想された常住実体の無時間的時間を区別して考えねばならない、と山口氏は言う。
『評説インド…』では、このことが繰り返し詳細に説明されている。また仏教の歴史の名だたる学僧たちの多くが、そして西洋哲学も、これを理解せず三つを混同しているために、実体を妄想する間違いに陥っている、と批判している。
読みながら何度か思い返したのは、ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れた時』(新潮文庫)だ。左脳の言語野で脳卒中が起こった神経解剖学者の報告である。山口氏の説明する名色の働きが停止した時の実例として読むことができる。表象さえ機能不全になったのかもしれない。
テイラー氏は、脳卒中の最中には、個物は消失し世界の全体が渦を巻き溶け合うエネルギーの流れだった、と言う。自分自身も世界と混じり合い溶け合い、自他の境界もなくなった。そしてそれは、驚きであると同時に、幸せな安らぎの境地だったとレポートし、ニルバーナと表現している。
(興味深いのは、リハビリをして回復してくるにつけ、怒りなどの悪い感情が立ち上がる頻度が増えていき、それに気づくたびに、自分自身に言葉で「それを止めよ」と言い聞かせる、という話だ。これは、仏教の三学(戒定慧)の戒に違いないし、言語野の回復に伴う悪い感情を言語によって制御するというのも興味深い。末尾にテイラー氏のTEDでのプレゼンテーション動画へのリンクを張っておいた。)
では、釈尊が教えたのは、脳卒中の最中のテイラー氏のようになることだろうか。そうではないだろう。釈尊は、巧みな方便として言葉を用い、弟子たちを教え導いた。であれば、流れる渦の世界ではなく、個物が見えていたはずだし、それは名色に紐づけられてもいた。さもなくば言葉は使えない。つまり、成道後の釈尊は名色を保持していた。しかしそれでも、表象として捉えた個物が、時間の中を流れ去る現象であると承知しており、実体として妄想することはなく、執着はもはや起こらなかったのである。
さて、では次に、わたしの考える名色について述べよう。
世界においてさまざまなことが現象しているが、それらはそれぞれそのつど一回だけの現象である。しかし、縁としてそれらに触れたとき、我々はそれをそのつど一回だけの個別の現象としてではなく、カテゴリーで捉える。カテゴリーは、現象からそのつどの一回性を奪い、「いつものあれ」として実体視させる。カテゴリーには、それぞれに固有の、自分にとっての意味・価値が染みついている。このカテゴリーが名色だ。名色によって、現象は、変わらぬ価値・意味をもったいつもの存在として実体視され、人はそれに(プラス or マイナスの)執着をすることになる。
山口氏のように実相と表象の区別をしていないし、時間について氏ほどの掘り下げはない。しかし、実体視をもたらし執着を生み出す仕組みとして名色を捉える点で、同じ考えと言っていい。
この考えの発端になったのは、動物の条件反射だ。
動物は、空腹を抱え、天敵に襲われる危険におびえながら、必死に生きている。食べられるものがあれば迅速に見つけて獲得し、天敵の気配を敏感に察知して逃れねばならない。そういった自分にとって重要な意味を持つ縁(事象、刺激)をすばやく感知し、ふさわしい反応をすぐさま自動的に引き起こす縁起の仕組みが条件反射だ。条件反射は、ご存じのとおり、何度か経験を重ねることで形成される。
条件反射において、縁の一回的な個別性は重要ではない。例えば、小鳥にとって、枯れ枝が踏み折られる音の仔細な違いに関心を向けることはかえって有害であり、音を耳にした瞬間、一瞬の間もおかず飛び立たねばならない。つまり、反応すべき重要な縁(刺激)であるかどうか、そのカテゴリーに属するかだけが重要なのだ。カテゴリーの輪郭線は、経験を重ねることで精緻化されていく。ブラックバスにとって、餌となる獲物と釣り人のルアーの区別は命に係わる。カテゴリーの輪郭線の内か外かのみが重要で、縁の一回的個別性は捨象される。池のほとりで手を打てば、大人の手でも、子供の手でも、手袋をしていてさえ、コイたちは押し寄せてくる。カテゴリーの内側の縁(刺激・事象)であれば、それに対応する反応がすぐさま立ち上がる。縁となった現象は、一回性個別性を失い、重要な意味をもったカテゴリーとして処理される。このことが、わたしたちが現象を実体的存在として捉えてしまう理由の根っこにある。
そして、この条件反射を引き起こすカテゴリーが、クオリアだ。クオリアとは、赤の赤らしさとか、チョコレートを口に含んだ時の甘くほろ苦くねっとりと溶けていく舌ざわりとか、他の人とは共有しがたい独特の生々しい感覚質感と言われる。クオリアは、生々しいのに空疎で捉えどころがない。生々しいのは、クオリアが本来自分にとって重要な縁を検出する仕組みであり、ふさわしい反応を自分に引き起こすからだ。空疎で捉えどころがないのは、クオリアは広がりのあるカテゴリーであって、個別の具体的な事象ではないからである。プラトンのイデア(**の純粋本質、例えば「三角形の三角形性そのもの」)は、クオリアをプラトンなりに見出し解釈したものだと思う。ともあれ、このようにあれこれ考えた末に、我々がそのつどの一回的な個別な現象を「いつも化」して実体視してしまうことに、クオリアが重要な役割を果たしている、と気づいた。
(空疎で捉えどころがないカテゴリーというクオリアの性質を示していると曽我が考えるスケッチを添付した。ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー『脳の中の幽霊』角川書店p249。三つのうち一番下にある馬の絵は、8歳の健常児が描いたもので、単純化・抽象化が著しく、極めて平板だ。これはその子の馬のクオリアが描かれていると思う。右は、ダ・ヴィンチのスケッチ。上は、5歳の自閉症サヴァンの子どもが描いた馬。この子は、クオリア(カテゴリー)をとおさず、現象を一回的な現象のまま、山口氏のいい方なら「表象のまま」見ているのではないかと思う。)
クオリアは本来、我々にとって何らかの意味あることを素早く検出してふさわしい反応を引き起こすしくみである。だから、格別の意味のない対象にはクオリアは生じない。例えば、食べることもできず、美しくもなく、特段の用途も害もない草は、ただの草でしかない。逆に言えば、クオリアにはいつもなんらかの価値や意味(プラス or マイナスの)が染みついている。このことが、実体視した「存在」に好悪の執着をする原因だ。
実体視を生み執着を生み出すクオリアという着想を得てからずいぶん時がたって、ある時名色について調べてみた。名色は、中村元の翻訳によるパーリ経典などに「名称と形態」という訳語で頻出し、非常に重要そうだと感じるのに、さまざまな解説を読んでもいまひとつピンとくる説明に行き当たらない。ずっともやもやしていた。
改めていくつかの仏教辞典をしらべ、山口氏同様にわたしもスッタニパータ(わたしの場合は、中村元訳)の関連する詩句を抜き出してあれこれ考えてみた。その結果みえてきたのは、名色とは、我々が何かを感受するとき、感受した対象の側ではなく感受した我々の側において、その対象への執着(プラス or マイナスの)を引き起こす働きだ、ということである。これはまさに、クオリアに他ならない。名色は、そのつど一回的な現象をいつもの存在に変え、それに執着させる仕組みなのである。
ところで、名色=クオリアが対象にするのは、外の対象ばかりではない。最も強力な執着であり、他の欲求を執着へと高めてしまう我執もまた、名色=クオリアが生み出す。わたしの身体という場所でおこるそのつどの反応・現象が、「わたし」という名色=クオリアの対象になり、カテゴリーで捉えられ、実体の「わたし」が妄想され、執着される。
動物進化の上で、自分を対象として捉えることができるのは、(鏡の中の自分を自分だと認識して反応するか、という実験で)霊長類の中でも一部に限られるとかつては言われていた。しかし最近、魚類(ホンソメワケベラ)でも同様の実験で確認された(幸田正典『魚にも自分がわかる』ちくま新書)。さらに、ハエトリグモでも、摂餌対象(獲物)を、相手が見えくなる物陰のルートを経由し先回りして待ち伏せする行動が確認されているそうだ(シモーナ・ギンズバーグ、エヴァ・ヤブロンカ『動物意識の誕生 上』p287)。この動きは、獲物の動きを読むだけではなく、自分を対象化し「駒」のように動かしてシミュレーションしなければ実現できない。自分を対象として捉えることは、動物進化史上、思ったより早い段階で始まっているようだ。
しかし、本格的な我執が生まれたのは、系統発生的にはホモ・サピエンス、個体発生的には思春期においてだと思う。
我執とは、本来のあるべき自分を実体的に妄想し、それを実現しようと足掻くことだ。動物でも、生理的欲求や安全の欲求はある。小さな子どもにも、見栄を張ったり褒められたい欲求はある。しかし、「本来のあるべき自分」を妄想し、それを実現して確認しようとする行動は、思春期から始まると思う。例えば、カッコよくて異性にもてるはずの自分を実現するために精一杯のおしゃれをする。スポーツや勉強で満足できる(自分が思う本来の自分にふさわしい)結果を得るために、懸命の努力をする。さらには、「本来の自分」を実現するために必要だと思う地位や、名声、富を掴もうとし、ブランド品で身を飾る。こうして我執は、我執を実現するために他の様々な執着を生み出す。そのようにして「本来の自分」をなんとか作り上げたつもりになり、それを周囲に見せつけ、他の人たちの反応で確認しようとする。ふさわしい反応・対応をしない相手にはメンツをつぶされたと腹を立てる。あるべき本来の自分の実現を邪魔をするものは許せない。あるいは、本来そうであるはずの自分をどうしても実現できないと思えば、絶望して死を選ぶこともある。
我執は、世俗の暮らしを強く生きるための過給圧として強力に作用する。ホモ・サピエンスが、突出して支配的となったのは我執のためだろう。しかし、我執は、軋轢、いさかいも生む。絶望も生む。なにより、平穏に安らかに過ごすことを妨げる。戦争も差別も搾取も、根本にあるのは我執だ。気候変動をはじめとして自然環境を台無しにしても目先の儲けの追及をやめられないのも、我執のためである。
ホモ・サピエンス(凡夫)の我執のレベルを下げることが必要だ。抜本的には、わたしたちが実体的存在ではなく(無我)、この肉体・身体という場所で縁によって起こされる無常にして無我なる縁起の反応・現象であることを、自分のこととして腹に落ちて納得しなければならない。そのためのカリキュラムを、釈尊は、戒定慧の三学として教えてくれた。その核心のひとつは、ダ・ヴィンチが馬の動きをつぶさに観察してスケッチを重ねたように、自分というそのつどの反応をクローズアップ、リアルタイムで突きつめて観察すること(観・ヴィパッサナー)だ。そのつどの表象をつきつめることで(平板な“馬のクオリアの絵”のごとき)「我という常住なる実体」という名色の妄想を破るのである。それによって、「自分がいる」と考えていたのは妄想でしかなかった(=無我)、わたしは、さまざまな縁によってそのつど様々に起こされる(=縁起)脈絡のないそのつどの現象であった(=無常)、と見えてくる。
(ジル・ボルト・テイラーは前掲書に書いている。「わたしというものが自分の想像の産物にすぎなかったなんて!」)
確かに全人類がそれを達成するのは、きわめて難しい。しかし、自分のこととして腹に落とすところまでいけなくても、人間は存在ではなく、反応・現象なのだ、という見方が、一般的な常識として広がっていけば、ホモ・サピエンスが人新生にもたらしている諸々の苦もいくばくかは軽減されるかもしれない。
2023,7,12 曽我逸郎
<参考>
ジル・ボルト・テイラー氏のTEDのプレゼンテーション
https://digitalcast.jp/v/18436/
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このサイトの関連するページ
*ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』釈尊の教えと右脳・左脳
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*ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え
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*名色(ナーマ・ルーパ)をクオリアの視点から考えてみる