~旧サイトから転載~
2008年8月3日
以前意見交換を頂いた阿呆陀羅經さんが、『上座部仏教の思想形成 -ブッダからブッダゴーサへ』(馬場紀寿著 春秋社)の書評を mixi に書いておられる。それを見て、私も読んでみた。
「なるほど、そうだったのか」と教えられる点が多く、また一方で、私的には困った点もあった。両方書き留めておきたい。
まず、私自身の頭の整理のため、読み取ったところを以下にまとめる。
ブッダゴーサは、5世紀初頭のスリランカ、上座部大寺派の学僧である。大註釈家として著名だが、著者は、それに留まらず、同派の思想を決定付ける点でも非常に重要な働きをした、と捉えている。
かつてスリランカの上座部には、他に無畏山寺派と祇多林寺派とがあって、大乗も兼学し積極的に受容していた。しかし、12世紀パラッカマブーフ王によって、両派の僧も大寺派で再出家するよう命じられ、スリランカの上座部は大乗とは相容れない大寺派に統一された。
ブッダゴーサの仕事としてまず挙げるべきは、パーリ三蔵を現在ある形に確定したことであろう。
有部や大衆部など各部派が今に残す三蔵(律蔵・経蔵・論蔵)は、さまざまに異なっているが、それらの発展の跡を文献学的にたどると、共通した原型があることが分かる。経蔵については、長部・中部・相応部・増支部の4部構成が各部派共通の原形であった。
その後、諸部派は、結集で集約されていない伝承を収集し、五番目の部として経蔵に追加する。上座部大寺派も同様であり、十五書を採用して新たに小部として経蔵に加えた。
しかし、一方で同派が他の部派と異なったのは、ブッダゴーサが、小部を追加した新三蔵をもって「すべてのブッダの言葉」であると定め、それ以降の増広を禁じた点である。
有部などの他部派では、仏の言葉かどうかを判定するのに、伝統的な「法と律」に追加して「法性」も基準にした。それによってブッダの言葉として採用される基準が甘くなり、そのことが大乗の旺盛な経典創作へとつながっていった。
それに対して、ブッダゴーサによって箍を嵌められた上座部大寺派は、ブッダゴーサが確定した「すべてのブッダの言葉」を守っていくことになり、この点で大乗とは著しい対比となっている。
ブッダゴーサによって確定された上座部大寺派の新三蔵は、絶対の権威をもつ正典 (Canon) として機能した。
15~17世紀の大交易時代、東南アジアに勃興した新興国は、支配地域に残存する首長たちから力を奪うため、彼らの権威の背景となっている土着宗教を圧 倒し弱体化すべく、普遍的権威を主張する正典宗教を利用した。イスラム教、キリスト教とともに、上座部大寺派はその役割を果たした。その際、東南アジア大陸部に既に広まっていたヒンドゥー教や大乗仏教も、土着宗教と共に数世紀の内に席巻された。(p263、p7)
次に、ブッダゴーサが残した思想上の影響を見てみよう。
ブッダゴーサが経蔵に加えた小部には、『無碍解道』と『義釈』が含まれている。ブッダゴーサは、このふたつから大きな影響を受け、先行する修行体系書『解脱道論』を引き継ぎながらも、その主著『清浄道論』で重要な転回を行った。
すなわち、四諦から縁起への転回である。
成仏伝承のうち、経蔵(主に中部)で繰り返し説かれ律蔵にも登場し、三蔵での出現回数が最も多いのは、三明説だ。これは、「四禅によって禅定を深めていった後、順に三明を得て、成仏した」というもの。三明とは、宿命知(自分の過去の生涯の想起)、死生知(衆生の業による死生転生に関する知)、そして漏尽知(四諦の認識による煩悩滅尽)のことだ。
ブッダゴーサが下敷きにした『解脱道論』にも、このように書かれている。ところがブッダゴーサの『清浄道論』では、三明説をとりながらも、その第三明が四諦(苦・集・滅・道)の認識ではなく、縁起の認識に変えられている。
縁起を認識することによって成仏したとする縁起型三明説は、すでに2世紀頃の仏伝作品に登場し、多くの部派に広まっていた。また、ブッダゴーサに先行す る大寺派文献『島史』にも見られる。従って、上座部大寺派の縁起型三明説は、ブッダゴーサのオリジナルではなく、おそらくはインド本土からスリランカへ輸入されたものである(p56)。
しかし、ブッダゴーサの縁起の捉え方は、ある意味で厳密であり、他の部派とは異なっていた。他の部派の多くが縁起を無為法(条件によって作り上げられたのではない、永遠不滅の法)として捉えていたのに対し、ブッダゴーサは、縁起を『無碍解道』が説くところに従い「輪廻的生存における結果でありまた条件である縁起支」として、すなわち無常なる現象として捉えている。縁起を永遠不滅の無為法とか理法としては考えない。ブッダは、永遠不滅の無為法である縁起を認識して仏となったのではなく、条件によって生じ滅する無常なる縁起支を観察・認識して仏となった、とする。
(ブッダゴーサが無為法とするのは、涅槃のみである。)
さらにまた、他部派の仏伝作品の縁起型三明説が、四諦も残したまま縁起の観察を追加する併存型であるのに対して、ブッダゴーサの『清浄道論』の場合は、 念入りにも四諦の観察を除去している。つまり、ブッダゴーサは、縁起の認識による成仏、すなわち「無常なる縁起支を観察し認識して仏になった」という考えを純化し徹底した、と言うことができよう。(p56)
釈尊成道プロセスについての上記のような解釈は、当然ながら、仏弟子の修行プロセスをどう考えるか、というテーマにも直結する。
『解脱道論』が、他部派と同様、慧の修習の中心に四諦の観察を据えるのに対して、ブッダゴーサの『清浄道論』は、四諦の覚知を修行の結果としては捉えるものの、実践すべき修行内容からは四諦観察を排除している。
四諦観察の替わりにブッダゴーサが重視するのは、諸行の観察である。諸行とは、「諸条件によって構成されたもの」「作り上げられたもの」であり、すなわち五蘊である。ブッダゴーサは、小部に含めることで経蔵に追加した『義釈』にのっとり、諸行を「三種の完全知」によって観察すべきだ、と主張する。
「三種の完全知」の第一は、「認識としての完全知」であり、「諸行の確定」と「諸行の条件の把握」である。第二は、「審察としての完全知」で、「諸行が 生起し衰滅する様を観察し、無常・苦・無我であることを知ること」。第三は、「放棄としての完全知」で、「諸行は常である、楽である、我である、浄である、という想念の放棄」である。
これがブッダゴーサにおける慧の修習であり、この修行を達成した結果として、修行者は四諦を覚知し、修行完成者となるという。四諦はあくまで結果であり、方法ではない。
一方、他の部派に受け継がれる修行方法は、先に述べたとおり四諦の観察であった。四諦には、滅諦、すなわち涅槃が含まれる。涅槃は無為法である。他部派の修行は、無為法の観察を含んでいることになる。対するブッダゴーサの修行方法は、無為法を観察対象としないという点で他とは際立った違いを見せる。
以上が、一読して私の印象に残った点である。誤りがあるかもしれないので、気になる点があれば、原本を読んでいただきたい。また間違いをご指摘いただければうれしい。
次に、触発されて私が思ったことを書く。
ブッダゴーサは、無為法である涅槃の観察・認識を慧の修習から排除した。替わりに諸行の観察・認識を修行の中心に据えた。釈尊成道の過程においても三明から四諦の認識を取り除き、そのことによって涅槃の観察・認識を排除している。縁起についても、他部派に見られるように無為法とするのではなく、あくまで無常なる縁起支、現象として捉えている。
ブッダゴーサは、永遠不変不滅のものを観察対象・認識対象にすることを正当にも警戒したのだと思う。永遠不変不滅のものを瞑想すれば、たやすく梵我一如思想に陥る。空にしても、大乗の多くに見られるように、それを実体視して対象化して瞑想すれば、すぐに梵の代用になる。
涅槃という無為法は、そのつどの自分という反応を徹底して観察して、自分が無常にして無我なる縁起の現象であると真に納得した結果としてもたらされるのであって、涅槃にせよ、「理法としての縁起」にせよ、空性にせよ、なんにしても永遠不滅の存在と考えて、それを修行の段階で対象にしたりしてはならないのである。そもそもブッダゴーサにとっては、無為法は涅槃しかなく、涅槃以外のものを無為法と捉えることは誤りなのだ。
大乗のほとんどが梵我一如化したのに比して、上座部大寺派に梵我一如的傾向が薄いのは、ブッダゴーサのこの思慮深い警戒によるものだろうと思う。
また、無常なる縁起の諸行、五蘊の観察というブッダゴーサの修行方法が、時を経て、最近盛んになっているヴィパッサナー瞑想に発展したのではないだろうか。
(一方、涅槃を対象として瞑想することが、「無念無想の座禅」に繋がっているのかもしれない。)
経典の形を保持する点においても、梵我一如化を防いだ点でも、修行方法の発展の点でも、ブッダゴーサが現代の上座部に残した影響は、計り知れない。仏教全体の歴史においても、きわめて重要で独特の流れを形作ったと思う。
私が困惑している部分も書いておかねばならない。
ひとつは、縁起という考えは、明確な形では釈尊にはなかったのかもしれない、という疑念だ。
私にとっての縁起は、「私とは様々な反応の連続であり、それらすべての反応は、そのつどの縁によってそのつど起こされる脈絡のない反応である」という自己理解である。
この「そのつど性」を言葉にしたのが「無常」だと思うし、「反応であって主体ではない」ということが「無我」だと思う。だから、無常=無我=縁起という形で一体として捉えてきた。無常・無我・縁起は、「私」という現象というひとつの事態の三つの側面だと信じている。
従って、縁起という考えが後世の付加であって、釈尊のお考えではまったくなかった、ということになれば、私としては大変困る。
この本で著者は、四諦型三明から縁起型三明に変わっていくのは2世紀頃からだ、と書いている。時を同じくして、縁起法頌の札を仏塔に納めることが流行した、とも言う。
2世紀というと、釈尊から600年以上隔たっていることになる。縁起という考えが広まるのは、釈尊からそんなにも時代を置いた後だったのだろうか?
法印に縁起が含まれないこと、また、縁起(pratItyasamutpAda)という言葉が、いかにもこなれない、人工的な専門用語のように感じられることは、私も以前から気になっていた。また、縁起は、釈尊よりサーリプッタとの関連が深いといった意見もなにかで読んだ覚えがある。縁起法頌も、サーリプッタが釈尊の弟子となった機縁として経典に残されている。仏弟子アッサジによる釈尊の教えの要約であって、釈尊の直接の言葉ではない。
縁起は厳密には釈尊の教えではないのか? 2世紀まで下らなくとも、サーリプッタか、彼の流れを汲む誰かが言い出したことなのだろうか?
いや、どう考えても、縁起という概念・用語が固められていなかったとしても、縁起的な発想が釈尊のお考えの根底にあることは間違いない。そもそも四諦が、苦の原因(集)を断って苦を滅する方法(道)、という教えであり、縁起の考えだ。
縁起という用語は使われていなくとも、「縁によって起こる(縁がなくなれば滅する)」という記述は、経典に溢れている。
そのすべての者は、六の接触処をとおして、つぎつぎと触れ、感知します。それらの感知を縁として渇愛が生じ、渇愛を縁として取著が生じ、取著を縁として 生存が生じ、生存を縁として生まれが生じ、生まれを縁として老・死が生じ、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生じるのです。(長部第一梵網経144、片 山一良訳、大蔵出版)
しかし、経典の記述は、上のとおり、ほとんどが具体的に縁起支をあげながらの有支縁起だ。釈尊は、縁起支から縁起支への関係を考察し、それを説きながらも、縁起という概念は持っておられなかったのか。言葉として明確化するには至っておられなかったのか。
ひょっとすると、こうだったのかもしれない。
先に触れたように、「縁起」といった動名詞・抽象名詞は、すぐにたやすく普通名詞として扱われ始め、やがて実体視されることになりかねない。「空」にしてもそうだった。現実に、多くの部派は、「縁起」を永遠不滅の無為法として捉えるようになっていった。
釈尊は、この危険をあらかじめ察知しておられて、注意深く「縁起」という言葉を用いることを避け、あくまでも具体的な縁起支から縁起支への関係のみを説かれたのかもしれない。もしそうだとすると、釈尊の思慮深さ、先の展開を見通す力に感嘆せざるを得ない。
そう考えると、アッサジによる釈尊の教えの要約、「諸法は因より生じる。如来はそれらの因を説く。また、それらの滅をも。偉大な修行者はこの様に説く」(縁起法頌)において、既に縁起支の抽象化が行われていることに気づく。「具体的説明⇒抽象名詞⇒普通名詞化⇒実体視⇒梵我一如化」の傾向は、抜きがたく 凡夫の発想に根付いているのだ。
(そうなると、涅槃を無為法とすることにも同じ危険があるように思うが、今はこれを考えることは控える。)
確かに執着を滅するためには、私という反応が立ち上がってくるプロセスをそのつど具体的に観察し、その結果、無常であり、無我であることを納得できれば 十分である。私という反応が立ち上がってくるプロセスとは、具体的な縁起支から縁起支への連鎖なのだ。具体的な縁起支を離れて、縁起一般へと抽象化・概念化すると、やがて「重々無尽の法界縁起」などという梵我一如思想に転落することになりかねない。
縁起という言葉・概念が誕生し普及したのは、釈尊からずいぶん後のことであったのだろう。縁起という言葉・概念は、釈尊の教えに別の角度から光を当て、 私という反応の発生プロセスの新しい説明となり、その理解を助けた一面はある。しかし、私という反応のみならず、世界の生成までも説明してしまい、そのことによって梵我一如思想を招き入れる危険性も孕んでいる。縁起という言葉のこの危険性は、しっかり認識しておかねばならない。
次に、もうひとつの困惑は、輪廻転生である。
私は、無常=無我=縁起こそが釈尊の教えの核心と考えており、輪廻転生はこれと相容れないから、釈尊の教えではないと考えている。サンサーラは、肉体の滅んだ後に続く転生のことではなく、縁を受けたそのつどそのつど反応が起こされることである筈だ。タイのブッダダーサ比丘も、同じ趣旨を書いている。(小論『2003,10,28, タイ上座部の「異端」ブッダダーサ比丘』参照)
とはいえ、輪廻転生への言及が経典にいくつも見られることも承知している。その多くは、何か別の主題を説くための方便だと解釈することが可能だ。しか し、方便としてではなく、主題として輪廻転生を説いているとしか読めない経典もある。他ならぬ三明がそれで、中部第4恐怖経などに、ひとつの完成されたパ ターンで繰り返されている。これをどう考えるべきか。しばらく無視していた問題に再び直面させられた。
p84の注73に著者が書いているように、三明の第一と第二は明らかに輪廻転生の観察であるが、三明の主眼は第三の漏尽知にある。三明の古い形である四諦型では、四諦認識によって煩悩が滅せられるのであり、第一明・第二明と四諦との内容の関連性、展開の必然性は乏しい。もし四諦形三明説が出来上がる前の段階があるとするならば、輪廻に関する第一、第二明と四諦認識による漏尽知とはもともと別々に存在して、それが後に連結されたのかもしれない。
p72注6 によれば、四禅→三明という成仏伝承のパターンが完成する前の形について、漏尽知を第三明とする三明説が先にあって、そこに四禅が附加されたとする考えもあるけれど、四禅→漏尽知がもともとの形で、そこに後から第一・第二明が挿入されたとする考えもあるようだ。後者の場合、漏尽知と輪廻転生の認識とは、本来関係なかったことになる。
三明は、もともとはバラモン教の三ヴェーダ(聖典)のことであったが、バラモン教に対抗する仏教が三明という言葉に新しい内容を与えた(p27)。であるなら、仏教は、バラモン教よりもよく輪廻転生を知り、輪廻転生を停止できる、と主張するために、新たな三明を説いたのだろうか。それは釈尊の言葉だったのだろうか。
三明説は、律蔵の冒頭や増支部でも説かれるが、頻出するのは中部だという(p72注5)。これは、三明を伝えたのは特定のグループだったことを示唆し得るのだろうか。
三明は、テーラガータにも頻出する。テーラガータは、結集にはなく、最後に付け加えられた小部の書であるし、三明の記述は、何人もの長老達が同じ類型化した表現を繰り返すばかりだ。本当に自分自身の過去生を具体的に思い出したとすれば、痛切な後悔・懺悔や篤い感謝などが表出される筈、と思うのだが、そのような言葉は見当たらない。またサーリプッタの言葉は、第一明(宿命知)や第二明(死生知)を否定するもののように読める。
三明は、釈尊が自身の成道における事実として自ら語ったことなのか。それとも、例えばバラモン教などに対抗する必要に迫られたとか、何らかの理由で後の時代に導入されたものなのか。
いろいろ考えれば様々な可能性を想定できるが、ともあれ三明がすべての部派の三蔵に共有されていることからすると、遅くとも根本分裂以前に教団内に広く普及していたことになろう。だとすれば、かなり釈尊に近い時代のことになる。
あるいは、縁起型三明説が部派の壁を乗り越えて広まったように、輪廻転生の認識(第一、第二明)も根本分裂の後に、多くの部派に歓迎され受け入れられていったというような可能性はあるのだろうか。
三明説による成仏伝承とは別に、釈尊は縁起を認識して仏となったという伝承も、経典にはあるそうだ。長部 大品第十四経「大本経」、相応部 因縁相応第六五経「城邑経」、相応部 因縁相応第四経「毘婆尸仏経」~第十経「釈迦牟尼経」がそれにあたるそうだが、私はまだこれらを見ていない。早めに読んで検討 してみなければならない。
もう一点、ブッダゴーサが、縁起の解釈において『無碍解道』を重視していることは先に触れた。『無碍解道』の縁起説の特徴は、四略三世二十様相三連結と形容され、このうちの三世とは「前世・現世・来世」のことである。つまり、ブッダゴーサの考える縁起は、輪廻転生と直結した縁起支であった。三明説をこのような縁起解釈に基づく縁起型に変形することによって、ブッダゴーサは、第一、第二明と第三明との間の希薄な関係に輪廻転生という一貫性を与えた、と著者は書いている(p84注73)。第一明から第三明まで、一貫して輪廻世界を観察することで釈尊は智恵を得た、とブッダゴーサは考えていた。縁起を、輪廻転生を実現する仕組みとして捉えていたことになる。縁起支から縁起支への縁起を観察し、それを停止することで、もはや輪廻転生しないことを目標にしたのであろうか。確かにそれはそれで一貫性があるとは思う。しかし、輪廻転生は、色身壊滅後も、色身に縁起せず、色身から独立し、時空を飛び越えて持続するなにものかを必要とする。そんなものを想定することは、無常=無=縁起に反することではないだろうか?
永遠不滅の存在(無為法)に対してあれだけ正しく警戒することのできたブッダゴーサが、縁起については輪廻転生と直結した形で解釈していたことは、私にとって困惑することである。
ご意見、なんなりとお聞かせ下さい。
2008年8月3日 曽我逸郎