~旧サイトから転載~
2003年10月28日
ある方から、ブッダダーサ比丘(Buddhadasa Bhikkhu)という仏教者がタイにおられたと教えていただいた。聞いてみると、とても興味深い人だ。残された言葉をいくつかネットで見つけ、そのうちの「Handbook for Mankind」(人類のためのハンドブック)を読んだ。(www.buddhanet.net/budasa.htm)
想像したとおり私の考えと非常に近いと感じ、勇気づけられた。これまでに接した様々な仏教理解の中で、最も親近感を覚える。多くのことを学んだ。
ブッダダーサ比丘の考えの全体については、たくさん関連のサイト(但し日本語は未発見)があるので、詳しくはそちらで見ていただくとして、私が興味を抱いた点を中心に書き止めておきたい。
- カタカナ表記は、プッタタート比丘とするものもある。(03,12,11,加筆)
- タイ語の翻訳をされている自然(じねん)さんから、「タイ語のままプッタタート比丘と呼ぶべき」とのご意見を頂いた。2006,10,29,の意見交換参照。(06,11,5,加筆)
- ブッダダーサ比丘公式サイト Suan Mokkh(英文)。
- 日本語訳は、なるべく忠実な訳を心がけた。読みにくいけれど、お許し下さい。間違った読みがあれば、是非御指摘を。
【 1, 略歴 】
はじめに、ブッダダーサ比丘がどういう人だったのか、紹介しておく必要があろう。(上記ハンドブックから要約)
1926年、20歳で出家。バンコックで数年学んだが、大都市には純粋さはないと思い知らされ、1932年、シャム湾に面する故郷 Pum Riang の近くに、当時南部タイにおいては数少ないヴィパッサナー瞑想に専心する場所であり、唯一の森の仏法センター( forest Dhamma Center )である Suan Mokkhabalarama を設立。
注釈や儀礼や僧団内政治などの下に埋め隠される以前の、釈尊本来の「原始仏教」の根本を回復し広めようと努めた。その活動は、パーリ経典の広範な研究と自身による教えの実践・経験に基づいている。
教育・環境保護・福祉・地域発展などに取り組む若い活動家達や僧にも影響を残した。
仏教の他のすべての宗派のみならず他の主な宗教をも、学問的というより実践的な関心から研究し、世界から真に宗教的な人々を結集して、物質主義の影響下から人類を引き出そうと考えた。
1993年、死去。
ブッダダーサ比丘の呼び方には、サイトによってただ「Buddhadasa Bhikkhu」とするものと “Ven.” (Venerable) という尊称をつけるものとがある。”Venerable”は「尊者」あるいは「長老」などと訳すべき称号であるが、タイの仏教の伝統からすればかなり異端的なブッダダーサ比丘が、上座部からそのような称号を受けたのだろうか。タイ大学の名誉博士号も得ているので、あるいは”Venerable” も貰ったのかもしれない。だとすれば、その称号を用いずにただ「Buddhadasa Bhikkhu」と呼ぶように本人が希望したのだろうか? このあたりの事情は確認できていない。
なんとなく「Buddhadasa Bhikkhu」のほうが、一仏弟子として仏教に取り組んだ彼の姿勢にふさわしいような気がするので、そのように呼ぶことにする。
【2004,4,19,加筆】
“Ven.”については、あまり厳密なものではなく、気にするべきではないとのこと。 04,4,13, Pannyadhikaさんからのご指摘。
【 2, 全体的な考えの概略 】
かなり乱暴ではあるが、ブッダダーサ比丘の説く仏教を私なりに要約しておく。
「ものの本性は、無常、苦、無我である。しかし、我々はそのことを知らず、ものに惹かれ、ものに執着し、苦しんでいる。戒・定・慧によって、もの(特に五蘊)の無常、苦、無我を正しく段階的に徹底的に見極めて行こう。真にそれが理解できた時、すべての欲望・執着は滅尽し、我々は、苦のまったくない安らぎの状態(涅槃)になることができる。仏教は、そのための実践的技術を教える体系である。」
私に実践的技術がない事を別にすれば、私の考えとほとんど同一である。私が要約したからそうなっただけかもしれないので、皆さん御自身で確認して頂きたい。それほど間違ってはいない筈だ。
(ブッダダーサ比丘は、私がよく使う「縁起」をあまり使わず、私のさほど使わない「無常」をよく使う。ブッダダーサ比丘の方が正統的なのであるが、私は、無常・苦・無我・縁起はすべておなじひとつの事態を異なった側面から捉えていると考えるので、ブッダダーサ比丘の言い方でもまったく異存はない。)
【 3, 現代の仏教は釈尊の時代のままか? 】
「器の水を一滴も漏らさず次の器にそそぎ伝える」と自負する上座部の伝統においては、経典に残された言葉はすべてそのまま受け入れられなければならない。なぜならすべて正確に引き継がれてきたのだから。
しかし、ブッダダーサ比丘はこう言う。
いかなる宗教の経典も後世の付加を必ず含んでおり、我々の三蔵も例外ではない。
Now any religious text is bound to contain material which later people have found occasion to add to, and our Tipitaka is no exception. (LOOKING AT BUDDHISM)
この見解は、私からすれば極々当然の主張だ。しかし、上座部の伝統の中でこれを明言したのは勇気ある事だと思う。
このような言葉もある。
釈尊が亡くなられた日から(仏教の中に)腫瘍は休みなく広がりつづけ、今日に至るまであらゆる方向に拡大しており、今や非常に大きなものになっている。
The tumour has been spreading constantly since the day the Buddha died, expanding in all directions right up to the present day, so that it is now quite sizeable. (LOOKING AT BUDDHISM)
この文章の前に腫瘍の例として挙げられているのは、主に習慣や儀礼であって、深部まで根を下ろした教えではない。しかし、伝統的「仏教」の中に、真の仏教と非仏教(より正確には反仏教)を分別しようとする自覚は重要である。次に触れるように、ブッダダーサ比丘はこの自覚にもとづき、伝統教義の重要な部分にも批判の目を向ける。
【 4, 輪廻の否定 】
通常輪廻と訳されるサンサーラを、ブッダダーサ比丘は輪廻の意味には取らない。
この言葉、サンサーラは、ひとつの色身が別の色身の後に続く終わりのないサイクルとして受け取られてはならない。本当は、三つの事の悪しき円環のことを言っている。すなわち、欲、欲に伴う業、業から結果する果報、欲を止められずもう一度欲を抱き、業、また別の果報、欲の更なる増大、、、こうしてどこまでも続く。
Now this word samsara is not to be taken as referring to an endless cycle of one physical existence after another. In point of fact it refers to a vicious circle of three events: desire; action in keeping with the desire; effect resulting from that action; inability to stop desiring, having to desire once more; action; once again another effect; further augmenting of desire … and so on endlessly.(THREE UNIVERSAL CHARACTERISTICS)
この考えは、業についての私の考え、「そのつどの反応である我々がなにか反応する度に(業)、脳内を信号が走り、それによってシナプスの信号の通しやすさなどが変わり、信号の流れるパターン、すなわち我々という反応のパターンが変化する(果報)。こうして果報は業の直後ただちに実現される」に近いと感じる。
以下の主張も興味深い。(「Handbook for Mankind」ではなく、ブッダダーサ比丘の設立した Suan Mokkh のサイトにある「仏教における業」(Kamma in Buddhism) www.suanmokkh.org/archive/kamma1.htm からの引用)
行為(業)せんとする欲望は、行動を起こさせ、行動の果報を受けさせる。そして、行為せんとする欲望は繰り返し終わりなく起ってくる。だから、生とは業(カンマ)のパターンに過ぎない。正しく業を理解する事ができれば、生を平安へ、障害も苦もないあり方へ導くことができる。
Desire to do deeds (kamma) causes one to perform actions and receive the results of those actions; then, desire to do deeds arises again and again endlessly. Therefore, life is merely a pattern of kamma. If we rightly understand kamma, we can lead our lives at peace, without any problems or suffering.(Kamma in Buddhism)再生は行為(業)をするたびに起こり、その再生は、行為(業)の瞬間に自動的に起こる。世間で一般に考えられているように死後にやってくる再生(生まれ変わり)を待つ必要はない。人が考え行動する時、心は、欲望と執着の力によって自動的に変化し、縁起の法則に従ってすぐさま生まれることになる。再生するために肉体の死を待つ必要はない。この真理は、仏教の真の教えとして、(すなわち)生まれ変わるべき我(attA:サンスクリットのAtmanにあたるパーリ語)は無いと説く本来の初期仏教の核心の原理として、認識されねばならない。死後の再生という考えがどのようにして仏教に忍び込んだのか、説明することはむずかしいし、我々はそんなことに拘らう必要はない。
Rebirth occurs every time one does a deed, and that rebirth occurs spontaneously at the moment of action. We need not wait for rebirth to come after death, as is generally understand in the worldly sense. When one thinks and acts, the mind is spontaneously changed through the power of desire and clinging, which lead immediately to becoming and birth in accordance with the law of Dependent Co-origination (paticca-samuppada). There is no need to wait for physical death in order for rebirth to occur. This truth should be realized as the true teaching of Buddhism, as a core principle of the original, pristine Buddhism that states there is no self (atta) to be reborn. How the concept of rebirth after death crept into Buddhism is difficult to explain, and we need not concern ourselves with it.(Kamma in Buddhism)
「我々は、内部の縁の仕組みによるそのつどの反応であり、無我=縁起を知らないために、欲望・執着に導かれて、苦を生み出す自然な反応パターンを繰り返している。無我=縁起を知って、縁の仕組みを改変し、反応パターンを欲望・執着に導かれないものに変えていくことが仏教である」という私の考えに通底していると思う。
【 5, 定 その目的と深すぎた場合の危険性 】
日本では「無念無想の三昧」が目指すべき境地として捕らえられがちであるが、対してブッダダーサ比丘はこのように言っている。(再び「Handbook for Mankind」から引用)
言葉を替えれば、それ(正しい定のあり方)は、働くのに適したものであり、(知るべきものを)まさに知らんとするものである。これが目指すべき定の程度であって、気づき(念)のない、石のように固まって座る深い定ではない。このような深い定で座るなら、なにものをも詳しく観察することはできない。これは(念のない)不注意の状態であり、慧の役には立たない。(それどころか)深い定は、慧の修行に対する主要な障害のひとつである。内省の修行のためには、まずもっと浅い定のレベルにもどらねばならない。そうすれば心が得た力を使うことができる。高度に開発された定も、(完成の境地や目的ではなく)(慧の修行のための)道具に過ぎない。
In other words, it is fit for work, ready to know. This is the degree of concentration to be aimed for, not the very deep concentration where one sits rigidly like a stone image, quite devoid of awareness. Sitting in deep concentration like that, one is in no position to investigate anything. A deeply concentrated mind cannot practice introspection at all. It is in a state of unawareness and is of no use for insight. DEEP CONCENTRATION IS A MAJOR OBSTACLE TO INSIGHT PRACTICE. To practice introspection one must first return to the shallower levels of concentration; then one can make use of the power the mind has acquired. Highly developed concentration is just a tool.(INSlGHT, BY THE NATURE METHOD)
下線は、「Handbook for Mankind」の本文のなかで、唯一ヶ所、大文字で書かれている部分だ。ブッダダーサ比丘はよほど強調したかったのだろう。
(2006,11,7,加筆:タイ語の翻訳をなさっている自然(じねん)さんによると、タイ語オリジナルで太文字で強調されているのはこの部分だけではなく、あちこちにあるとのこと。プッタタート比丘自身によるのではなく、その後本になる過程で強調が加わったと推察しておられる。)
日本では、定と慧の区別があいまいになっているのではないだろうか?「計らいのない、何も考えない、主客未分の無分別知が般若(慧)である。」このように考えるから、深すぎる定を慧だと取り違える。定は慧のための道具である。慧は、無常=苦=無我=縁起を正しく見ることであり、それによって煩悩・執着や無用な苦が滅せられる。無分別の極みであるところの「煩悩即菩提」などが仏教である筈はない。
「Handbook for Mankind」と平行して、「パーリ仏典 中部 根本五十経篇Ⅱ」(片山一良訳・大蔵出版)を読んでいたのだが、心材喩経という大小の経があった。出家しながら、尊敬だけで喜び放逸となる者、戒を守ることを自賛し放逸となる者、定を自賛し放逸となる者、智見を自賛し放逸となる者を、心材(材木の最高の部分)をもとめながら枝葉・樹皮・皮材・軟材を心材と取り違えて満足してしまう者として諌めている。昔から陥りがちな落とし穴なのであろう。
しかしながら、「涅槃」という言葉は、多くの異なった宗派で用いられており、各宗派が使う意味はしばしばまったく違っている。例えば、ある宗派は、涅槃を単純に平安と冷静を意味すると考える、なぜなら、彼等は涅槃を深い定として捉えるからである。
Though the word “Nirvana” is used by numerous different sects, the sense in which they use it is often not the same at all. For instance, one group takes it to mean simply calm and coolness, because they identify Nirvana with deep concentration. (INSlGHT, BY THE NATURE METHOD)深い定によってもたらされる幸福感や安らぎあるいは無分別を、完全な苦の滅尽であるとする間違った理解は、釈尊の時代にも多くみられたし、現代においても依然として喧伝されている。
The mistaken assumption that the bliss and tranquillity or unawareness brought about by deep concentration is the complete extinction of suffering was common in the Buddha’s time, and is still promoted in the present day. (EMANCIPATION FROM THE WORLD)
【 6, ヴィパッサナー 】
ブッダダーサ比丘は、慧(Insight)を「自然な方法によるもの」(by the natural method)と「組織立てられた修行によるもの」(by organized training)に分けている。
自然な方法による慧とは、上記の正しい定から自然にもたらされるもので、釈尊在世当時や古い時代の阿羅漢達は皆これに依ったという。
それに対して、「組織立てられた修行によるもの」についてはこのように言っている。
慧の修行の組織立てられた体系、それは、釈尊の教えではなく、後世の師によって開発されたものである。
the organized systems of insight training, which were not taught by the Buddha but were developed by later teachers. (INSIGHT, BY ORGANIZED TRAINING)三蔵を詳細に検討すると、自然な方法だけが述べられていることが分かる。
when we examine the Tipitaka closely, we find the nature method is the only one mentioned. (同上)慧を開発する修行のこれらの体系は、現代では「ヴィパッサナー・デューラ」という専門用語で知られている。(パーリ語 dhura の意味は英語では burden。日本語なら「勤行」といったところか)
These systems of practice for developing insight are now known by the technical term “Vipassana – dhura.” (同上)
ネット上で「ヴィパッサナー」を検索すると、いくつかのサイトがあり、その多くは「ヴィパッサナーは釈尊直伝の方法だ」と主張している。しかし、ブッダダーサ比丘は、釈尊の教えではなく、後世考え出されたものだと言う。
パーリ経典を見ると、ヴィパッサナーを彷彿とさせる記述は多いし、特に念処経の説くところはヴィパッサナーそのもののように見える。ただし片山一良訳の念処経には、ヴィパッサナーの文字は、巻末の補注にただ一つ見えるだけで、本文・脚注にはない。あるいは、本文に頻出する「~を観つづけて住む」というのがヴィパッサナーの訳だろうか?
片山一良訳は、ビルマ第六結集版を底本にしており、1957年の出版らしい。念処経は、釈尊からかなり時代を経た後世のものなのか? それとも、念処経自体は十分古いけれどヴィパッサナーと呼べるほど「組織立てられた」ものではない、とブッダダーサ比丘は考えているのか?
文献学のバックグラウンドもヴィパッサナーの実践知識もない私には判断できない。今はただ、ヴィパッサナーは後世の発案だという意見もあることだけ、頭に入れておきたい。
ブッダダーサ比丘は、また、ヴィパッサナーの注意点にも言及している。
気をつけねばならない点は、自然に高まる定の集中は通常十分であり内省に適切なものであるのに対して、組織立てられた修行からもたらされる定は、使いこなせないほど過剰であることが多い。さらに言えば、そのような高度に開発された定に伴って、間違った慢心が起こる場合さえある。
One thing must be noticed, however: the intensity of concentration that comes about naturally is usually sufficient and appropriate for introspection and insight, whereas the concentration resulting from organized training is usually excessive, more than can be made use of. Furthermore, misguided satisfaction with that highly developed concentration may result. (INSlGHT, BY THE NATURE METHOD)
とはいえ、ブッダダーサ比丘は、けしてヴィパッサナーを否定しているわけではない。それどころか、世俗的価値が執着に値しないことをなかなか理解できない現代人には適切な方法であり、苦を滅する正しい仏教の方法だと奨励している。
「Handbook for Mankind」には、細かく段階を追いながら、ヴィパッサナーを進める過程で次々に現れる様々な障害(執着の対象、例えば神秘的幻影のような)が列挙されている。それら途中のどの段階でも慢心せず、それらの執着の対象を詳細に観察しひとつひとつ見極めて行くことで、一歩一歩<心材>に近づくことができる。無常・苦・無我がしだいに明らかに見えてくる。「Nothing is worth getting or being」(なにものも得るに値せず、なるに値しない)というあり方が一段一段極められていき、ついにはすべての欲望・執着から自由となりあらゆる苦を滅した究極の平安(ニルバーナ)が達成されるのだという。(要約には不向きな内容なので、御自身で読んでいただければありがたい。)
ところで「Nothing is worth getting or being」は、執着の否定であるが、この執着は普通にいう「執着」のレベルを超え、あらゆる価値にまで徹底されている。つまり、あらゆる価値の否定なのだ。仏教においては、徹底した価値の否定こそが救済となる。
私は、いろいろな価値に疑いの眼差しを向けながら、自身は我執の固まりで、なにか価値あるものでありたいという思いからなかなか抜けだせない。「Nothing is worth getting or being」を早く体現して、無価値な生を充実して生きられるようになりたいと思う。
【 7, 般若と識(分析知) 】
このところ気になっている般若と識(分析的知)について、ブッダダーサ比丘はこう言っている。
(この部分は、目的語や代名詞がはっきりせず、かなり読みにくい。私の読みを明確にするために( )に思いきって言葉を補った。間違っていないか批判的に読んでください。)
般若と慧と訳した元の英語はともに insight(洞察)。仏教学辞典(法蔵館)を引いても、般若と慧は同意である。戒・定と関連して述べられている時は慧と訳した。
宗教的文脈においては、識と般若はどうしても同一ではない。識は、ある程度推論、合理的知性に依存している。(それに対して)般若は、それを超えている。般若によって知られる対象は、(般若に)吸収される。それ(対象)は透徹され真正面から向き合われる。心は、(対象の)吟味・調査をとおして完全にそれ(般若)に吸収され、揺るぎない状態であるので、理性的ではないが純にして心底からのそのもの(執着の対象)に対する目覚めと、それ(対象)への感情的関わりの完全な欠如(捨)が起こる。従って、仏教徒の般若の修行は、今日の学問や学者の世界〈そこではそれぞれの個人が自分だけの真理を持つ事ができるのであるが〉で用いられているような種類の知的理解とは合致しない。仏教徒の般若は、はっきりしたすぐさまの直感的洞察であり、一、二の方法による対象への透徹の結果でなければならず、それは心に明確な消し難い印象を残すことになるのである。
In the religious context, understanding and insight are not by any means the same. Understanding depends to some extent on the use of reasoning, on rational intellection. Insight goes further than that. An object known by insight has been absorbed; it has been penetrated to and confronted face to face; the mind has become thoroughly absorbed in it through examination and investigation so sustained that there has arisen a non-rational but genuine and heartfelt disenchantment with that thing and a complete lack of emotional involvement in it. Consequently the Buddhist training in insight does not refer to intellectual understanding of the kind used in present day academic and scholarly circles, where each individual can have his own particular kind of truth. Buddhist insight must be intuitive insight clear and immediate, the result of having penetrated to the object by one means or another, until it has made a definite and indelible impression on the mind. (THE THREEFOLD TRAINING)
訳すのに悩んだのは、「the mind has become thoroughly absorbed in it」の “it” が何を指すか。「対象」かとも思ったが、「対象」はすでにabsorbされているので、「心」と「対象」の両方が、般若にabsorbされるのだと考えた。あるいは、対象は心に、心は対象に、相互にabsorbされるということだろうか? いずれにせ、ブッダダーサ比丘は、ここである種の主客対消滅の状況を言っているのだろうと思う。
ただし、penetrateされるべき対象はある。対象無しに無分別に世界の全体を一挙に知るのではない。この点は重要だ。
私のレベルでは想像する事も難しいが、こういうことだろうか。「定において対象に向き合い透徹するまでそれを観察すると、対象も自分もabsorbされ(≒境目のない状態になって、ひとつになって?)、対象の真のあり方、すなわち無常=苦=無我が分かり、対象への執着はなくなる。」
ブッダダーサ比丘によると、一つの対象の本当のあり方を慧(=般若)によって見極め乗り越えると、次の対象が現れ、それを何度も繰り返し、段階を追って涅槃(欲望執着がない故に苦のない状態)になる、というのが道筋のようだ。
蛇足ながらついでに書き添えておきたい。「目覚め」と訳した「disenchantment」は、「enchantment」(魔法・魅惑)の反対語であり、「それまで惹かれていたものに対する幻滅」の意味である。すなわち「これまで執着してきた対象が執着に値しないものであったと目が覚めること」である。仏教の「覚」は、この意味であって、「現象世界を超越した輝く真理世界を知る」というような意味では、けっしてない。そのような解釈は、洗練された執着の一形態であり価値の捏造である。
【2004、8、23、加筆】 ヴィパッサナーの瞑想会に参加して、般若とは、定において観察する意識が観察対象にぴったりと重なってシンクロしていき、両者がともに働いたまま、前者が後者を明晰に感じることではないか、との仮説を得た。詳細は、旧サイトの小論集、04、8、23、「ヴィパッサナー合宿報告」を参照。
【2006、11、5、加筆】 タイ語の翻訳をしておられる自然(じねん)さんから、この部分と少し先までのタイ語オリジナルからの訳を頂戴した。旧サイト2006,10,29,の意見交換を参照。
「理解」と「明確に見る」という言葉は、仏法では同義ではありません。「理解」とは道理に従って考えたり、いろんな原因から推測するという過程をとおりますが、「明確に見る」はもっと意味が深く、自分自身経験し身に染みていることでなければなりません。あるものについて継続して注目、観察、検討評価した結果、そのものに惑わされることに心底飽き飽きすることであって、原因に基づいて考えたことではありません。だから仏教でいう智慧とは、現代の教育で行われているような、理論に基づいた知恵とは異なるのです。 (140)
仏教でいう智慧とは、何らかの方法で実際に体験し、実感として明確に見え、明確に知ったことであり、心に深く刻まれて薄れることのないものでなければなりません。智慧学にしたがって検討するには、今までの自分の人生で経験したことを素材とし、少なくとも自分の心に衝撃を与え、不確実で苦で実体のないものに対して真実興味を失わせるに十分な、重みのあることでなければなりません。 (141)
無常、苦、無我をいくら理論的に研究しても、それはただの理解にすぎません。心に衝撃をうけることもないし、俗世のことに飽き飽きすることもありません。飽き飽きするという心境は、それまで惑溺していたものへの欲望が緩むこと。すなわち「明確に見える」ということを良く理解してください。明確に見えれば必ず倦怠感が生じ、明確に見える状態に止まることはないと仏教では明言しています。明確に見えると同時に倦怠感が生じ、欲望が減少していきます。 (142)
ブッダダーサ比丘は、識に対比して般若を非常に高く評価している。では、識を否定しているのだろうか?
確かに識に対する評価は低い。それを示す文章は多い。
念を確立すること、よく見て待つこと(自動的反応を止めて観察しつづけること;曽我の理解)、やって来る苦を説明されたやり方でよく調べること、-これが仏法に到達するまさに最良の方法である。この方法は、三蔵から仏法を学ぶよりもはるかに良い。言語的・学問的な視点から法を三蔵でこまごまと研究することによっては、ものの真の性質を知ることはけしてない。
To establish mindfulness, to watch and wait, to examine in the manner described the suffering that comes to one– this is very best way to penetrate to Buddha-Dhamma. It is infinitely better than learning it from the Tipitaka. Busily studying Dhamma in the Tipitaka from the linguistic or literary viewpoint is no way to come to know the true nature of things. (THE TRUE NATURE OF THINGS)直感的洞察(般若)、あるいは「法を見ること」と呼ぶものは、合理的思考とはまったく異なる。合理的思考によっては法を見ることはけしてないだろう。直感的洞察は、真の内的認識によってのみ得られる。
Now intuitive insight, or what we call “seeing Dhamma,” is not by any means the same thing as rational thinking. One will never come to see Dhamma by means of rational thinking. Intuitive insight can be gained only by means of a true inner realization. (THREE UNIVERSAL CHARACTERISTICS)無常、苦、無我という特質を量って、合理的にどれほど考えたとしても、知的理解の他には何の結果も得られない。世俗のものに対して幻滅や覚醒を起こすことはけしてあり得ない。
However much we think rationally, evaluating the characteristics of transience, unsatisfactoriness and non-selfhood, nothing results but intellectual understanding. There is no way it can give rise to disillusionment and disenchantment with worldly things. (THE THREEFOLD TRAINING)合理的思考は、人をして自分たちは我(=アートマン)ではあり得ないと納得させるに十分ではある。しかし、その結果は単なる信仰にすぎず、我として自分たちに執着することを完全に切除できるような明白な洞察ではない。
Rational thinking is sufficient to convince one that they cannot be selves; but the result is only belief, not clear insight of the sort that can completely cut out clinging to them as selves. (THE THINGS WE CLING TO)
しかし、それでは分析知はまったく無用なのだろうか?「さかしらに分別することは、悟りの障害」なのだろうか? けしてそんなことはない。
ヴィパッサナー・デューラは、学習(ガンタ・デューラ<書物・勤行>)と対照され、両者は今では修行の相補的側面と捉えられている。
Vipassana – dhura is contrasted with Study (Gantha – dhura), the two being considered nowadays complementary aspects of training. (INSIGHT, BY ORGANIZED TRAINING)
言葉で分析的に学ぶことは、当然必要なのだ。あたりまえのことだ。前にも書いた「月と指の比喩」になぞらえて言えば、月を見る前に、指がどちらを指しているのか、何を指しているのか、なにより、それは釈尊の指なのか、まず慎重に調べなければならない。
胡散臭い有象無象があふれ、信頼できる師を見つけることがむずかしい現代においては、特に重要なことだ。
その先の段階である般若も、日本で言われるような、何も考えず、分別せず、世界の全体を空性あるいは真如として一挙に知るのではない。粗雑な執着から精妙な執着へと、執着の対象をひとつずつ順を追って、定において観察し、透徹し、対象と一体となった静謐な智によってその本性(無常・苦・無我)を見極め、それへの執着を消し、そのようにしてひとつひとつ執着の束縛を解いていく。おそらくは、それが本来の仏教の方法だと思う。
【2003,10,31,加筆】
日本における大乗的般若とブッダダーサ比丘のいう慧(般若)の違いを明確にしておきたい。とはいえ、前者は私が勝手に抱いているイメージに過ぎないから、間違っているかもしれない。そういう指摘は是非お聞かせ下さい。大歓迎です。
般若の二種類の捉え方
日本大乗 | ブッダダーサ比丘 | |
対象 | 自分を含む世界全体。 対象を持たない。 無指向的・拡散的。 | 今自分が執着しているものを対象にする。 特に「色・受・想・行・識」。 対象を持つ。集中的。 |
内容 | 無内容。 空性、真如、実相といった単語で表現される以上の事は、 語ることができない。 全体を分節せずに見るから。 | 無常、苦、無我。 執着の対象は執着に値しないと知ること。 |
回数 | 一回のみ。(頓悟) 全体を一挙に知り尽くすから。 | 何回も。(漸悟) 粗雑な執着から洗練された執着へ、 段階を追って。 |
修行方法 | 無念無想の定で何も考えないこと。計らいの停止。 | 定における対象の観察。 その徹底による対象との一体化。 |
主客 | 主客未分 主客のない智を最初から目指す。 | 主客合一 客(対象)を立てそれに集中する事で、 主客が合一し、対象の無常・苦・無我を知る。 |
ご意見お聞かせ下されば幸甚です。
ブッダダーサ比丘の「仏教の教えの本質的ポイント」も小論集で和訳しています。あわせて御一読下さい。
曽我逸郎