はじめに

◆ はじめに

 2016年10月、インドのナグプールに出かけて、ヒンドゥー教から仏教への集団改宗運動60周年を祝う式典に参加してきました。この改宗運動は、単なる宗教運動に留まらず、カーストの差別に対する抵抗運動でもあります。

 カースト制度というと、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという四つの階層が思い浮かびますが、そのさらに下、カーストの外側に大勢の人々が不可触民として位置づけられ、厳しい差別を受けてきました。紀元前15世紀、アーリア人がインドに侵入し、先住のドラヴィダ人を征服したことに端を発するそうですから、三千年以上続く差別の歴史ということになります。

 不可触民とされた人たちは、ダリットと自称するので、ここでもそう呼びます。ダリットたちは、イギリスからの独立運動に呼応して、差別撲滅の取り組みを始めます。それを先頭で導いたのが、アンベードカル博士です。ダリットに生まれ、学校で学ぶことの許されない身分であったけれど、非常に優秀であったので教室の外で授業を聞くことを許され、藩王(マハラジャ)の支援を受けて留学し法学を学んで帰国しました。
 アンベードカルは、カースト廃絶のためにさまざまな制度の実現を目指しますが、ガンディーの抵抗にあっていくつかは実現できませんでした。ガンディーは、西洋文明に対してインドの伝統や文化を守ろうとする思いが強く、差別には反対するものの、カースト制度そのものはインドには当面必要と考えていたのです。
 独立したインドの法務大臣となったアンベードカルは、憲法草案を起草し、差別解消の多くの施策を盛り込みます。しかし、壁に阻まれることも多く、晩年、差別の根本原因はヒンドゥー教であるとして、亡くなる2か月前に50万人のダリットとともにナグプールで仏教に改宗しました。

 アンベードカルの死後、改宗運動はいったん下火になります。しかし、日本からインドに帰化した破格の僧、佐々井秀嶺師によって運動は勢いを取り戻し、多くの人々がつぎつぎと仏教に改宗しています。
 ナグプールの式典会場は、60年前にアンベードカルが集団改宗を行った場所です。おびただしい仏教徒が広場を埋め尽くし、周辺の道路も雑踏であふれ、アンベードカルの肖像や著作、仏像、その他さまざまなものを売る露店がならんでいました。
 仏教徒たちは皆元気で明るく、われわれ日本人十数名がぞろぞろと歩いていくと、つぎつぎと「ジャイビーム!」と声がかかり、合掌をしてくれます。こちらも同じように「ジャイビーム!」と返すと、何人もが私の手をとり両手でしっかりと握ってくれました。あちこちに仏旗が翻り、自動車にも誇らしげに掲げられていました。
 インド全体での仏教徒の割合はまだ1%程度ともいわれる中、仏教徒が40%を占めるナグプールという特別な街での記念式典とはいえ、長らく絶望的な差別に苦しめられてきたダリットたちの、希望と自信と誇りに満ちた表情に大いに感銘を受けました。

 アンベードカルと佐々井師とがやり遂げた業績に感嘆しつつ、一方で、こんなことも考えました。
 釈尊(ブッダ)の教えに学ぶべきは、差別され苦しめられている側ではなく、差別している側、世の中を支配している側の人たちではないか、と。
 釈尊は、執着によって人が苦をつくり、自分と人を苦しめ、互いに苦しめあっているのを見て、苦をつくらなくなる方法を教えてくれました。世の中を支配する影響力をもつ人たちの方が、支配されている人たちよりもはるかに多くの苦を作り出しています。であるなら、世の中の苦を減らすためには、支配している側にこそ、釈尊の教えは学ばれねばなりません。

 それにまた、目を転じてみれば、苦しめられているのはダリットたちだけではありません。
 悲惨な状況として、今、誰もが思い浮かべるのは、中東のありさまでしょう。宗教間の対立があり、また同じ宗教内の宗派間の対立もあります。自爆テロが繰り返され、テロ組織壊滅を掲げる攻撃でたくさんの女性や子どもが巻き添えになっています。一見宗教対立のように見えますが、権力争いや利害の思惑がその裏には渦巻いています。人々の欲を掻き立てる石油がもしもなかったら中東はもっと安定していただろうと言われますが、そのとおりでしょう。さらに事情を複雑にしているのは、利権だけではない他のたくさんの要因です。自分たちの文化や歴史への自尊心が西側先進国にないがしろにされているという怒りもあるでしょうし、家族や友人が殺されたことへの復讐心や、小さな子どもまで巻き添えにされていることへの義憤もあるでしょう。
 混乱する中東やアフリカを逃れて、安定していて経済的にも恵まれたヨーロッパへ危険を冒して移動しようとする人たちも大変な数になっているようです。そして、彼らが危険を冒して向かうヨーロッパの人々の間では、自分たちの平穏な暮らしがかき乱されるのではないかと恐れて、排外主義や差別が広がっています。
 世界のあちこちで、人種・宗教などに対する憎悪・差別・排斥が高まっています。先進国では失業者が溢れ、格差が拡大しています。途上国では、劣悪な環境下での低賃金労働による搾取が相変わらず続いています。日本国内でも、ワーキング・プアと呼ばれる人たちが、将来の展望を持てない暮らしを強いられ、フクシマでは、多くの人々が、東京電力による原発事故のために、放射能への不安を抱えながら家族の気持ちさえばらばらにされ、ふるさとでの暮らしを破壊されました。沖縄の人たちは、日本と米国の政府の勝手な都合で、米軍基地被害を延々と押しつけられ続けています。
 もっと身近なところでも、わたしたちは、職場で、地域で、家庭で、また満員電車の中ででも、いらいらを募らせています。インターネットには、立場の弱い者人たちへの意地悪な書き込みがあふれています。

 しかし、考えてみれば、これらはみんな本来苦しむ必要のない、無用な苦ではないでしょうか。なぜなら、いま挙げたたくさんの苦は、どれも人がつくりだしているからです。人が苦を生み出し、自分と他の人とを苦しめています。
 そして、先に書いたとおり、苦をつくらなくなる方法を教えたのが、アンベードカルが希望を見た釈尊です。釈尊は、全生涯をかけて、苦をなくす方法を懇切丁寧に、工夫を凝らして教えてくれました。

 確かに、釈尊の時代にも釈尊の身近なところで戦争はあり、釈尊が生まれ育った部族も攻め滅ぼされています。その後の仏教圏の歴史においても、人々は戦争を繰り返し、立場の弱い人たちを抑圧してきました。残念ながら、釈尊の教えも苦をなくすことはできなかった、と言わざるを得ません。

 しかし、釈尊が発見したことは、釈尊自身が教え伝えることは不可能だと諦めかけたほど、普通のものの見方からは遠く隔たっています。宗教としての仏教はずいぶん広まりましたが、本当の釈尊の教えは、釈尊が心配したとおり、ほとんど理解されることはなく、仏教は次第に釈尊の教えとは異なるものに変わっていったのです。

 釈尊の教えの核心は、端的に言えば「無我」、つまり「私は存在しない」ということです。
 このことが一般論としてではなく、自分のこととして実感として分かれば、自分に執着すること(我執)が、愚かで無駄な努力であることが痛感され、執着の反応は鎮まり、苦をつくることはなくなる。これを自分のこととしてどしんと腑に落ちて納得し、実現できた人は、「仏」と呼ばれます。

 「なにを馬鹿なことを言っている!? わたしはここにいるぞ! わたしがいなければ、誰がこのサイトを読んでいるんだ!?」
 そうお考えになったことでしょう。そのとおり、確かに釈尊の教えは、一見、荒唐無稽の常識外れです。自然なものの見方とはなかなか相容れません。なぜなら、自然なものの見方の間違いを根本から訂正するものだからです。それゆえ、釈尊自身が危惧して説法を躊躇したとおり、正しく理解する人はほとんどいませんでした。「仏教」と呼ばれる宗教は広がりましたが、今やその大半は釈尊の教えとは違うものです。
 ですから、釈尊以降も世界の苦が減らなかったのは、釈尊の教えが無力だったからではなく、釈尊の教えが正しく伝わらなかったせいだと考えることができます。

 釈尊から二千五百年が過ぎました。科学技術は発達し、社会の複雑化が進みましたが、同時にわたしたちの生み出す苦は甚大なものになっています。その一方で知識もずいぶん増えました。釈尊は自分自身を徹底的に突き詰めて探究しましたが、科学にも人間を研究する分野があります。それらを参照しつつ、もう一度釈尊の教えに向き合ってみれば、我々は、かつてよりは釈尊の教えを理解しやすくなっている一面も少なからずあるのではないかと思います。釈尊の教えの可能性を再度検討してみて、今の世界を少しでもよくすること、苦しむ人を減らすことに活かせないでしょうか。

 ただし、この試論が目指すところは、読者を仏にすることではありません。仏教に改宗させようとしているわけでもありません。
 釈尊の教え、「私は存在しない」ということを考えていくことで、わたしたちが自分を解釈する仕方を多少なりと改め、社会が共有するパラダイム、つまり物事を考える時の枠組みをずらして、世の中の価値観を今より苦を生まないものに変えられないか。それがわたしの目論見です。大それた考えかもしれませんが、この試論だけで、あるいはわたしだけでできることだとは思っていません。一人でも二人でも共感してくれる人がいて、その人がさらに掘り下げ展開して下さり、そんな鎖がつながっていけば、「なるほどそういう見方もあるか」と考えてくれる人はもっと増えるかもしれません。そんな希望にすがってみたいと思います。

 今、世界を動かしているパラダイムは、このようなものではないでしょうか。
 「世界は、決まった法則に則って変化している。その法則を知ってうまく利用すれば、自然を自分に都合よく便利に得に使うことができる。」
 自然法則の発見や理解、その利用方法の開発は大変なスピードで進展しています。しかし、その根っこにある「自分に都合よく便利に得に」という動機が執着であることには、ほとんど注意が向けられていません。ましてや、執着が苦をうむ反応であることも忘れられています。その結果、科学技術の発達にともない、「都合のよさ、便利さ、得さ」が増大したのに比例して、執着によって生み出される苦も甚大なものになっています。ハイテク兵器やグローバル経済における富の独占がもたらした状況を見れば、それは明らかです。
 この状況を多少なりとも「まし」なものにするために、我々の自己評価を、「合理的にしっかりと考えてものごとを計画し、実行する賢い存在」としてではなく、「執着という根本動機に突き動かされて苦を作り続ける危うい凡夫」として捉え直すようにパラダイムを修正できないか。それが、この試論の狙いです。

 もとよりこのような中途半端な試論で、釈尊さえ躊躇したことが達成できるはずもありません。しかし、この苦にまみれた世界にさらに新たな苦を加えることをなんとか減らしたいと考えている人たちの中から、誰かが引き継いでくれて、よいものを継ぎ足してくれることを期待して、わずかな努力でも試みてみたいと思います。