脳科学からのヒント

『サピエンス全史』を読んで ホモ・サピエンスにおける執着の発生

 『サピエンス全史 上』ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社を読んだ。まだ下巻は読んでいないが、同じような人類史についての考察は、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の方が刺激は多かったと思う。
 とはいえ、冒頭の、人類という属(ホモ属)の中でなぜ我々サピエンスという種だけが生き残ったか、という分析は興味深かった。(生物分類学において、「種」は「属」に内包される下位カテゴリー)
 
 ホモ・サピエンス以前に、ホモ属の多くの種がアフロ・ユーラシア世界(アフリカ、ヨーロッパ、アジア)に暮らしていた。例えば、ヨーロッパからアジア西部にかけてはネアンデルタール人、東アジアにはホモ・エレクトス、その他にも様々な種がいた。これら先発のホモ属は、火や道具の利用をおぼえ進化の頂点にいたとはいえ、食物連鎖のヒエラルキーの中では中位に留まり、大型肉食獣の食べ残しをハイエナやハゲワシなどがあさった後に恐る恐る近づき、残された骨を砕いて骨髄をすするような生活をしていた。
 ホモ属には様々な種がいたにもかかわらず、その後ホモ・サピエンスが東アフリカに生まれ、しばらくしてヨーロッパ、アジアへと広がっていくと、先住のホモ属は、ホモ・サピエンスの進出にタイミングをあわせて次々と滅び去っていく。その理由として著者は、部分的な交雑も認めながら、単なる「追い払い」に留まらない、ホモ・サピエンスによる他のホモ属の「民族浄化」を示唆している。
 しかし、例えばネアンデルタール人の方が体格はよかったのに、なぜホモ・サピエンスは他のホモ属を絶滅できたのか。
 ホモ・サピエンスのDNAに突然変異があって、認知革命がおこり、虚構、すなわち、現実には存在しないものを語り始め、神話が生まれ、それをもとに、ホモ・サピエンスは大きな集団で同じ目的を共有して動くようになった、と著者は言う。現代社会の貨幣経済システム、宗教、国家、人権思想なども、すべて共有された虚構の神話である。
 そのような虚構の共有なしに、血縁や地縁だけで協調できるサイズは、せいぜい150人程度だと言う。ネアンデルタール人やその他のホモ属の種が150人前後の規模(群れ)で行動するのに対して、神話(虚構)で結びついたホモ・サピエンスは、ずっと大きな集団で団結することができ、体格に劣っても数の力でホモ属の他の種を圧倒することができた。
 
 現実には存在しないものを虚構することを、仏教では妄想という。妄想のなかで最も根深く影響力の大きいものは、「我」を妄想することだ。ありもしない「我」を妄想し、それに執着することが我執であり、あらゆる執着がそこから生まれる。執着は、生存競争においては有利に働いたが、同時に苦を生んだ。
 苦を生む執着がどのようにして始まるのか、大変興味がある。そのプロセスが分かれば、執着に対する理解が深まるし、執着を制御するヒントも見つかるかもしれない。
 このことについての私の仮説は以下のようなものだ。
 
 動物は、条件反射によって、自分の利害に関係する(あるいは、利害の前触れとなる)現象を、カテゴリーで捉え、それにふさわしい反応が自動的に引き起こされるようになった。条件反射によって、エサや天敵など重要な出来事に(フライングで)機敏に反応するようになった。同時にそれは、一回一回異なるそのつどの現象の個別性を捨象し、無時間的、イデア的なカテゴリーに該当するかだけで捉えることであり、そのつどの時間的現象を持続的な「いつも」の存在として捉えることに繋がった。
 この仕組みが、周囲の現象のみならず、自分の色身(身体)で起こる様々なそのつどの反応にも適用されつようになる。本当は、わたしとは、この色身で起こっては終わる雑多な反応、現象であるのに、それらがひとからげに「我」のカテゴリーで捉えられ、「我」が存在として妄想されるに至る。
 時間的な、起こっては消える現象は執着の対象にはならないが、存在し続けると思いこまれた「存在」は、現実には起こっては消えるはかない現象であるにもかかわらず(あるいは、はかないが故に)、激しく執着される。存在として妄想された「我」も、激しく執着される。「我」に利害をもたらす「存在」(たとえば、資産、名誉、地位、権力、神、我が物、、)も執着される。ところが、執着は、はかない現象を永遠に所有しようする不毛で無理な努力であるから、けしてうまくいかず、自分と周囲とにおびただしい苦をもたらす。
 また、「存在」として捉えられた「我」は、将棋の駒のように扱うことができ、別途可能になったエピソード記憶の仕組みと組み合わされて、シミュレーションが可能になった。シミュレーションによって、私たちの執着は、複雑な段取りの組み込まれた、規模的にも時間的にも大掛かりなものになっていった。それに相関して、生み出される苦も持続的、組織的に広範囲にもたらされるようになった。
 
 この仮説が正しいとして『サピエンス全史』と対照してみよう。著者の言う「虚構」は、ホモ・サピエンスが大きなグループで共有する神話、つまり、自分たちの物語である。おそらく、進化がホモ・サピエンスの段階に至って、自分を「存在」として対象化して捉え妄想することが本格化した。そして、「まずこうすればこうなって、次にああして」とシミュレーションによって執着を高度化することが可能になった。
 一方、他のホモ属の種は、まだそれができなかった。執着としては未発達な、その時その時の欲望から大きく踏み出せない彼らは、高度な執着で段取りを整え、大集団で徒党を組むホモ・サピエンスの敵ではなかったのであろう。
 
 著者は、サバンナモンキーが言葉で仲間に危険を知らせ、敵の種類(ライオン、ワシ、etc)によって鳴き声を使い分けており、時には偽の危険信号で仲間を追い払い獲物を独占することも紹介している。しかし、これは、高度に見えても「今、ここ」についての言及だ。サピエンス以外のホモ属は、「今、ここ」でないことについても語り得たのだろうか。火を熾したり道具をつくったりしていたということは、「今、ここ」の反応だけではなく、ある程度先のことも考えていたことになる。それはどれくらい先まで考えていただろう。石をこう割れば鋭い刃が得られるといった程度の短時間でしかなかっただろうか。夏に冬のことを心配していただろうか。子供に手がかからなくなる将来のことを想像していただろうか。
 自分を認識するというのは、チンパンジーなどでも、できる個体とできない個体があるという(レスリー・J・ロジャース『意識する動物たち』青土社)。だから、自分を対象化してとらえるのは、進化論的にはかなり高度なことだ。ホモ属たちには、どの程度できただろうか。そして、「私」という主語を使って語ることができただろうか。
 おそらくできただろうと想像する。執着するという反応も一応は始まっていたのではないだろうか。
 進化の系統発生を、成長の個体発生になぞらえて言うと、ホモ・サピエンス以前のホモ属は、思春期以前の子どものような段階だったのではないかと思う。小学生の子どもも、「ぼく」「わたし」という主語を使って自分を語る。夏休みの宿題をこなす計画を立てたりもする。かっこよくふるまって友だちに一目置かれたいとも思う。しかし、執着としては、「今、ここ」の欲望のレベルに近くまだ発達の度が低い。
 しかし、思春期になると、現実とは違う自分なりの理想を抱き、周囲の現実に反発し、現実の自分に苛立つ。自分を対象に据えて検分し、満足できない部分を造り変えようとする。思春期とは、いわば危険な自己改造手術の時期であり、それゆえに不安定で危うい。
 ホモ・サピエンスは、進化史上の思春期を切り抜けて、自分を子細に検分し、自分という反応に改造手術を施し(自分の反応の仕方を反省し、よりよい反応をしようと努力することを覚え)、したたかで計算高い大人に成長したのだ。
 
 「大人になった」ホモ・サピエンスにできて、他のホモ属にはできなかったことを、『サピエンス全史』に則って言うと、「ぼく」「わたし」からさらに一段階すすんで、自分たちを、友だちや家族といった規模を超えて、もっと大きな抽象的集団として妄想し対象化・実体視して、「我々」という主語を使い始めたことだ。それによって、親しくもないみんなに誰かの妄想、執着を共有させることが可能になった。大きな集団として同じ妄想、執着(神話)を共有したホモ・サピエンスは、高度な段取りを組織的に分担、実行し、進出した先々で他のホモ属を「民族浄化」し、マンモスやオオナマケモノなどの獲物を根こそぎにしていった。執着は、おびただしい苦をまき散らす段階に進化した、というわけだ。
 
 『ホモ・サピエンス全史』を読んで学んだことは、ホモ・サピエンス(凡夫)において、執着は大きな集団で共有され、人はつくりあげられた執着のシステムのなかで育ち、その執着を学び共有し、執着のシステムの中に自分の居場所を見出す、ということだ。たとえば、貨幣経済、宗教組織、国家、企業、地域団体、家族などが、執着を教え共有させる集団だ。
 これまでわたしの考察は、個人、動物個体のレベルばかりで執着を考えていた。執着の共有や共有された執着が個人(凡夫)にもたらす影響についてもよく考えていく必要がある。自然環境より社会環境の方が人間には重要なのであるから、共同体と個人の関わりに注目するという視点を忘れないようにしたい。その意味で、仲間内の噂話こそが言語の発達を促したという指摘は、興味深かった。
 
 誤解する人はいないと思うが、一応念のために書いておこう。わたしは、ホモ・サピエンスより前の段階に戻るべきだ、と考えているのではない。執着の仕組みは、社会変革など苦を減らす方向に働いている一面もある。執着による苦の生産を停止する術を教えた釈尊は、言葉によって分析し、言葉によって教えを説いた。いうなれば、執着の働きをうまくつかうことによって、執着から苦を作ることを抜き去るのである。
 まだ読めていないが、下巻では、ホモ・サピエンスの次に現れるホモ属(ニーチェの言う「超人」?)についての言及もあるようだ。
 わたしは、仏とは、凡夫(ホモ・サピエンス)を超える生態だと思っている。「私とは、色身において縁によって起こされるそのつどの反応であって、実在ではない」と知って、執着がむなしい愚かな努力であると認識し、苦の生産が停止するのが仏だ。つまり、仏とは、凡夫(ホモ・サピエンス)を超えた新たなホモ属なのだ。DNAの突然変異によらない、発心と精進と覚りによって生まれる新たな進化だということもできる。
 
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2017年6月17日    曽我逸郎