脳科学からのヒント

ベンジャミン・リベット 『マインド・タイム』を読んで

~旧サイトからの転載~

2008年1月5日
曽我逸郎

 これまで、何度かベンジャミン・リベット(Benjamin Libet)の発見について言及してきた。しかし、実を言うと、リベットの本は読まないまま、誰かの本やサイトで読み齧った情報だけで書いていた。一度きちんと目を通さねば、と気になっていたが、ようやく『マインド・タイム 脳と意識の時間』(下條信輔訳、岩波書店)を読んだ。

 ダマシオと同じように、リベットの発見も、釈尊の教えの核心、無常=無我=縁起を説明するよい方便になっていると思う。のみならず、無常=無我=縁起でありながらなぜ戒や精進・努力が可能なのか、考えるヒントにもなりそうだ。

無常=無我=縁起と精進・努力の問題は、2004年7月にA・Hさんに提起いただいて以来、ずっと気になってきた問題である。

 はじめに、リベットの発見について、私なりに極簡単に要約しておこう。

 リベットは、脳外科治療中の患者さん達の協力を得て、人の主観的自覚的「意識」(アウェアネス=気づき)について研究を行った。それによって感覚や意図のタイミングに関して、常識を揺るがす発見がなされた。

◆感覚に関して

  1.  刺激を感覚として気づくためには、0.5秒以上持続する反復的な刺激が脳の感覚皮質に与えられる必要がある。従って、感覚意識の発生は刺激の開始から0.5秒遅延せざるを得ない。
  2.  刺激の持続が0.5秒間に及ばない場合は、気づきは起こらない。但し、反応は起こり得る。(サブリミナル知覚や盲視などの気づきのない反応。また、スポーツや音楽演奏、突発事態での素早い反応などは、意識を待たずに起こる。このような場合では、意識は、反応の後に発生している。意識した上での対応は、非常に遅いためスポーツや音楽や突発事態では役に立たない。かえって邪魔をする。)

    「考えるな。感じるのだ。」…武道でいう「無心」とは、集中を高めて、意識なく的確で素早い反応をすることをいっているのだろう。

  3.  実際には意識は遅延しているにも拘らず、主観の上ではそれを感じていない。その理由は、感覚皮質で刺激を受けるとすぐに発生する初期EP反応の時点にまで、主観的な遡及が起こるからである。

    前野隆司さんの言い方をすれば、時間的な「錯覚」ということになろう。

  4.  遅延の間に、無意識下の意識内容の抑圧・変容が起こっている。つまり、意識されるのは、ありのままの現実ではなく、人それぞれに異なる独自の内容である。意識内容の変容は、「その人物のこれまでの歴史や経験、そして彼を形成している情動や品性を反映したもの」(p141)である。

◆意図に関して

  1.  自由で自発的な行為を実行する時、意識を伴った意志のアウェアネスが現れるのは、その行為の150~200ミリ秒前であるが、その意識よりさらに400ミリ秒ほども前に、準備電位が発生している。つまり、行為は無意識のうちに起動されている。意図はそれを後付で意識したものにすぎない。
  2.  従って、意識が意図をもって行為を引き起こすのではない。但し、意識的な意志は、無意識のうちにスタートした「行為に至るプロセス」を行為が起こる前に阻止することはできる。

 大変興味深く、また概ね共感をもって読んだ。リベットの発見は、無常=無我=縁起という釈尊の教えに合致するし、私自身の体験や考えとも符合する。

 無常=無我=縁起とは、「我々には第一原因としてなにかを始めたり、止めたり、変えたりするような采配を揮う主体はない(無我)。我々は、その時その時の縁によって起こされる(縁起)そのつどそのつどの一貫性のない(無常)現象である」ということである。
 <意図は後付であり、意図以前に無意識のうちに行為に至るプロセスはスタートしている>というリベットの発見は、まさに無我の教えそのままだ。

 (但し、リベットは、上記のとおり「意識は行為を起こせないが、起こされかけた行為を中止することはできる」と言っている。これは、無我の教えと相容れないが、この点については、この小論の中心テーマとして後程考えたい。)

 読んでいて、私の経験で思い当たったのは、ヴィパッサナーの歩く瞑想で気づいたことだ。「すべての動きを意識した上で行おう」とどれほど固く誓ってみても、動きを意図したときにはすでに身体はその準備態勢に入っている。例えば、引き戸の前に来て「では戸を開けよう」と意図して、「戸を」と思った時には、すでにもう片方の手首は180°回転していて、気づかぬうちに指を掛ける準備が整っている。これは、私にとって大変新鮮な発見だった。意識が後付であり、行為は無意識のうちに始まっていることの現われだと思う。

小論《日本テーラワーダ仏教協会実践会に参加して》参照。

 身体は動き出しているのに、2、3秒してやっと自分が何をしようとしているのか理解したという経験もあり、これにも鮮烈な印象を受けた(上のリンク先の続き、「舟遊び」の部分を参照)。 無意識の内に、人はずいぶん高度なことまで思考し、実行する。
 リベットも、数学や物理学などの重大な発見が、しばしば無意識の内に行われることに言及している。天才ではない我々凡人のレベルでも、スムースな会話においては、「話される内容でさえ、話が始まる前にすでに無意識に起動され、準備されている」(p125)と言っている。

 また、無意識のうちの意識内容の変容については、盲点の実験が端的に示してくれる。旧サイト 意見交換 masayuさん 2005,3,2,でご自身で確認して頂きたい。
 無意識の内の意識内容の変容という考えは、私のクオリアについての考えにも通底する。
 私たちは、感覚器でとらえた事象に直接反応するのではなく、それが起動するクオリアに反応している。クオリアは、本来は条件反射を可能にする仕組みであり、事象をカテゴリーで捉えることによって利害に適うふさわしい反応を引き起こす仕組みである。クオリアによって事象のばらつきは捨象され、カテゴリー一般へとイデア化・いつも化される。一回的な事象を個別性のまま感知していたのでは、ふさわしい反応は起動されない。すばやくふさわしい反応を起動するためにクオリアは働く。そして、その反応がふさわしくなかった時は、そのクオリアで対応する事象の範囲が修正され、カテゴリーは精緻化されていく。クオリアは経験によって形成され、経験によって修正されていく。
 そのつどの本来一回的な事象と、それによって立ち上がるクオリアとはイコールではない。我々は、個別の事象ではなく、経験によって熟成されたカテゴリーであるところのクオリアに反応している。このことがリベットのいう、無意識のうちの「その人物のこれまでの歴史や経験、そして彼を形成している情動や品性を反映した」意識内容の変容(p141)だと考える。

 私の言うクオリアは、かなり特殊な意味に限定している。小論 《クオリアについて》、 《クオリアとホムンクルスを仏教(無我=縁起)の視点から考える》、 《ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え》を参照頂きたい。

 以上のとおり、リベットの発見は、釈尊の教えに導かれて私が考えていることを援護してくれているように感じられ、心強く思った。しかし、一方で、意外な点もあった。
 それは、まるでちょっとした悪戯がおもいがけず大事になってしまって慌てている子供のように、リベットが、自分の発見の破壊力から自由意志と責任の概念を懸命に守ろうとしている点だ。その結果、せっかくの発見が示唆する可能性をさらに追求するのではなく、自分の発見の鋭い刃先をかえって丸めるような推論をしているように思える。

 リベットは、<自由意志は、行為を起こすことはできないが、無意識のうちに起動された『行為に至るプロセス』を実行の前に意識的に拒否することはできる>と主張する。無意識によって行為へのプロセスが起動された400ミリ秒後に意図が意識され、その上で自由意志がその行為を実行すべきかどうか判断し、すべきでないと判断した場合は、行為が起きる前に行為を中止できる、と言う。<人は自由意志によって悪い行いを止めることはできるのだから、責任を問うことができる。>これがリベットの主張だ。

 しかし、これは、<自由意志と責任とが保障されねば困る>という彼自身の価値基準によるものであって、自分の要請・願望にすぎないものを主張しているのではないだろうか。リベットは何度も、実験による検証が可能な形で主張はなされねばならない、と書いている。しかし、自由意志と責任の問題に関しては、その厳格な態度はすこし甘くなっているように感じられる。

 私は、無常=無我=縁起という釈尊の教えの上に立ちたいと思っている。この立場からすれば、自由意志は無我=縁起と相容れない考え方だ。また、責任というような狭量な概念などなくても釈尊の教えは人の行動規範(戒や精進や慈悲)を導き出している。
 親鸞は、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言った。本来の仏教は、無我であり縁起であると教えるのであるから、主体性や自由意志は認めない。そのような概念は、第一原因となるべき主宰者を想定するものであるから、無常=無我=縁起に反する。

 とはいえ、行為の拒否は、確かに起こる。それに、それが起こり得ないなら、戒も精進・努力も不可能になる。
 主体性や自由意志を認めずに、行為の拒否を認める方法はあるのか? ある。意識的拒否も、無意識のうちに始まるという考えだ。リベットも一応検討はしているが(p170~)、<それでは自由意志や責任が否定される>という理由であろう、それほど真剣に追求していない。<自由意志を否定する証拠が見つかるまでは、自由意志があるという意見を受け入れるべきだ>と言っている。(p184)
 しかし、感覚についても行為の意図についても、意識は後から遅れて起こるというのであれば、行為の拒否についても同様に考えるのが自然ではないだろうか。どうして拒否の場合にだけ、自由意志を導入する必要があるのか? 行為を拒否する意志も、感覚や行為の意図と同様に、無意識の内にプロセスが発動しており、それを後から拒否の意図として意識したと考えた方が一貫性があり、シンプルではないか。
 リベット自身、「いかなる種類のアウェアネスも現れないうちに、すべての意識を伴う精神事象が実際には無意識に始まっている」(p124)と言っている。

 以下の推論は、私には科学的検証方法を提示する能力がないので、リベットに叱られそうだが、行為の拒否の局面においても無常=無我=縁起を貫き、そのことによって、無常=無我=縁起でも戒や精進・努力が可能となる可能性を探る試みである。

 行為を起こすプロセスが無意識のうちに起こるのと同様に、それを中止するプロセスも無意識のうちに起こる。おそらく、中止のプロセスは、行為のプロセスが起動したこと自体を縁として発動するのだ。

 リベットを一旦離れて、動物がどのように環境の中で暮らしているか、考えてみよう。動物は、常に様々な外部の縁に晒され、それぞれの縁が意識されないままドミノ倒しのように次々と内部の縁を引き起こしている。一匹の動物の中で、様々な縁が反響し、残響し、共鳴し合い、重なりあい、ぶつかりあい、せめぎあう。そのうちのあるものが行為を起動する。
 空腹時、餌の匂いは食餌行動のスイッチを入れるだろう。一方、天敵の気配は、身を潜ませる。一匹の動物の中で、縁は、しばしば互いに競合し、勝ち残った縁が行為を引き出す。
 餌の匂いだけあって、天敵の気配がなく、自動的に食餌行動に入った動物が、気づかなかった天敵に襲われ、命からがらの目に遭ったとしよう。そのことは学習され、天敵の気配が感じられなくても、その動物個体は、安易に食餌行動に走らず、まず慎重に周囲を警戒するようになるだろう。
 この場合、食餌行動のスイッチが入ったこと自体が縁となり、すぐさまの食餌行動を停止しているのだと思う。ひとつのプロセスが起動したことが、それと競合するプロセスを起動し、後者は先行する前者に追いつき(先回りし?)、前者を停止させるのである。
 進化の道筋の上で、条件反射・学習はできるが意識がまだ成立していない段階(魚類あたりから、類人猿の前あたりまで?)で、既に行為の停止は実現していると思う。つまり、行為の停止に意識は必要ではない。

 であれば、意識には一体どんな役割があるのか? この問いは、以前安泰寺のネルケ無方さんから頂いた問題提起でもある。リベットは、適切でない行為をしないようにすることが意識の役割だと言っているが、それもまた無意識のうちになされるのなら、意識は一体なにをしているのか?

 ここから先は、これまで以上にリベットの嫌う「検証不能な何でも言える理論展開」になってしまう。そのことは承知の上で、もう少し試行錯誤してみたい。

 意識の役割は、顕在記憶(宣言記憶)を可能にすることだと思う。

 リベットは、顕在記憶(宣言記憶)について、主題的には論じていない。感覚意識の0.5秒の遅延を記憶と結びつけて解釈しようとする説への反論の中で言及しているだけだ。意識は記憶の仕組みによって生まれるのではない、と主張している(p68~)。
それに対して、今私が提示したいのは、逆方向の仮説、つまり、意識によって顕在記憶(宣言記憶)が可能になる、という考えである。

 意識とは「気づくこと」であった。気づくことによって、宣言記憶(意味記憶やエピソード記憶)が可能になる。我々は、無数の縁が反響しあうざわめきであり、ざわめく縁のどれかが、関連した、あるいは思いがけない記憶を共鳴させ、ワーキングメモリに浮上させる。意識によって保存された宣言記憶は、縁の刺激を受けたとき、無意識のうちに浮上する。

 座禅をする人なら、掃っても掃っても妄想がいつの間にか湧いて出てきて、気がつけば延々と連想を紡ぎだしている自分に呆れ果てておられる筈だ。無意識のうちの宣言記憶の浮上という考えに、納得・共感していただけると思う。

 浮上した意味記憶・エピソード記憶が様々に組み合わさって、無限に近いシミュレィションが可能になる。

勿論、このシミュレィションは、無意識のうちに行われる。無意識下のシミュレィションは、<独り言>において観察可能だ。

 生物の進化とは、適応の術を向上させていくことだと思う。後口動物で言えば、原索動物のあたりまでは、条件反射(学習)も成立しておらず、適応は、遺伝子の変化によって、種の単位でしか進まなかった。頭索動物か、遅くとも魚類になると、条件反射が可能になり、適応は個体単位で経験によって向上するようになった。類人猿かヒトの段階に至ると、さらに意識と宣言記憶が実現し、宣言記憶が様々に組み合わさることでほとんど無限のシミュレィションが可能となり、その結果、適応は、条件反射・学習のレベルより格段に向上し、はるかに深読みした長期的で計算高いものになった。

 例えば、諺で「損して得取れ」という。短期的に損をして長期的に得をするという知恵は、条件反射・学習からは導き出され得ない。条件反射では、そのつどの短期的得からしか学習できない。短期的に小さな損をしても長期的には大きな得ができるという適応は、意識が宣言記憶を可能にし、宣言記憶がさまざまな記憶の比較を可能にし、シミュレィションを可能にした成果である。意識・宣言記憶・シミュレイションは、条件反射を超えた適応を可能にした。

 但し、ひとつ注意しておきたいのは、意識と宣言的記憶によるシミュレィションは、後からじっくりと行われ、リアルタリムでは行われ得ない、という事である。
 そのつどの反応は、反射やそれまでに培われてきた条件反射によって、無意識のうちに自動的に実行されてしまう。意識されても、後付けにすぎない。後付けの意識には、今のこの反応はコントロールできない。しかし、今のこの反応が意識されることで、宣言的記憶が生まれ、シミュレィションが可能になり、反省を引き起こし、今以降の反応パターンの修正が行われる。

 反省とは、既存の条件反射と競合する別の新たな条件反射の回路の道筋をつけることだ。それでも当初はおそらく古い条件反射が勝つだろう。しかし、そのことはより深い反省をもたらす。新旧のせめぎあいが繰り返されるうち、やがて新たな条件反射の回路のシナプスが強くなり、新たな条件反射が古い条件反射に取って代るようになる。この過程が努力だ。意識・宣言的記憶・シミュレィション・反省・努力は、そのつどの反応をコントロールすることはできないが、今以降の反応の適応度を上げるのである。

ところで、短期的に損をしても長期的により大きな得を取ろうとする高度化した適応は、欲望をも高度化し、執着を生んだ。その結果、狡猾に大きな得を獲たつもりが、実はもっと大きなを生み出している。そのことに凡夫はなかなか気づけない。執着の反応回路のままに反応を繰り返し、執着をさらに強固にしていく。
 しかし、一部の人は、シミュレイションによって、自分が得をしようとしてかえって苦を生んでいることに気づく。その気づきによる反省が発心であり、それに基づく努力が精進である。

 そして、先ほど動物進化の過程における適応の発達を概観したが、意識・宣言記憶・シミュレィションに追加すべきもうひとつの適応向上は、言語である。言語によって、適応は、知恵として個人を超えて共同体に共有されるようになった。個人の寿命を超えて共同体で蓄積されるようになった。共同体に蓄積された知恵は、縁として個人に働きかける。

 釈尊の教えも、そのように言葉として共有・蓄積され、よき縁となり、発心や精進を導き出す。だから、釈尊の教えを広く問いかけることは、世界の苦を減らすため、重要なことだ。そして、この言葉自身が、よき縁になれば、ありがたい。

 以上、粗雑な推論であるが、リベットの発見とこすりあわせることによって、「我々は無常にして無我なる縁起の現象であり、かつ、反省や努力といった反応も縁によって起こる」という仮説を検討してみた。検証不能でなんとでも主張できる不毛な理論展開だ、と非難されるかもしれないが、私としては、この仮説にも可能性があることくらいは示せたのではないか、と考えている。  矛盾点や見逃している問題点も多いと思うので、お気づきの点、是非ご意見ご批判をお聞かせ頂ければありがたい。私にとっては、考えを深めるきっかけになりますので、、。

***追補***

 まとめようと呻吟しながら、取り込めなかったことをいくつか最後に羅列しておきたい。

  •  リベットの実験は、非常に単純な動作(いつでも好きなときに手首を曲げる)において意図が発生するタイミングを計っている。
     では、もっと高度な、長期的な段取りを組んで事を仕上げていくような場合でも、無意識の内に計画は立てられており、意識は後付けにすぎない、と考えていいのだろうか?
     リベットは、数学の難問が無意識のうちに解かれ、その瞬間、立証する前に正しいことが分かる、といった例を挙げて(p110)、無意識のうちに大きな仕事がなされることを力説している。しかし、だからといって、我々の試行錯誤しながらの計画立案・実行を、大数学者のインスピレィションと同列に捉え、無意識のうちに計画の全体を構想していると言うのはおこがましい。
     考えうる答えは、部分的なひとつのシミュレィションが無意識下で実行され、その結果が後付で意識され、宣言記憶として留められ、それがさらにシミュレィションの材料になり、、という具合に何度も繰り返される、という考えだ。尺取虫の歩みのように、無意識のシミュレイションと意識・記憶によるそれの固定・保存とが交互に繰り返され、全体として大きなシミュレイション、試行錯誤の検討が行われる。
    おそらくはこういうことだと思うが、これは今後の検討課題。
  •  意識は常にひとつの内容しか持てないのは何故か? 無意識では、いくつものプロセスが同時に進行しているのに? これも今後の課題である。
  •  条件反射において、経験を重ねることで反応が精緻化されていくのには、ふたつのパターンを考えることができる。
     ひとつは、反応を起動するクオリアのカテゴリー範囲を精緻化していくこと。例えば、ブラックバスにおいて、食餌行為を引き起こす餌のクオリアから、危険なルアーのクオリアが学習によって切り分けられるような場合。
     もうひとつは、クオリアが引き起こす反応が変る場合。例えば、大好きだったお酒であるのに、人間ドックの診断を聞いて、飲みたいと感じられなくなる。あるいは、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く。」(この場合、羹と膾はクオリアとして分別されないまま、新たな共通の反応(吹いて冷ます)を引き起こしている。)
  •  リベットは、意識の流れの継続性についても問題提起している。
     「500ミリ秒間の神経活動によって引き起こされる大幅な遅延の後に初めてそれぞれの意識事象が始まるとしたら、一連の意識事象は継続した流れとしては現れません。」(p131)
     この問題に対して、リベット自身は、
     「私たちの一連の思考のスムーズな流れという主観的な感情は、異なる精神事象がオーバーラップしているということで、おそらく説明がつく」(p132)
     「脳は、ほとんど同時に複数の意識事象を、時間的にオーバーラップさせて起こすことができる」(同じくp132)
    といった考えで、解決できると考えているようだ。
     しかし、意識は常にひとつの内容しか持てないとすれば、オーバーラップの考えで解決できるのだろうか?
     おそらく、クオリアの無時間的イデア性と意識の内容が常にひとつであることとを考え合わせることによって、手がかりが得られるのではないかと思う。これも今後の宿題にしたい。
  •  「責任というような概念などなくても釈尊の教えは人の行動規範(戒や精進や慈悲)を導き出している。」と書いた。そのことにも触れておかねばならない。
     釈尊の教えの一番根底にあるのは、苦を厭う気持ちだと思う。
     釈尊が残してくださったのは、苦をなくす、少なくとも第二の矢による苦をなくすための教えの体系である。その核心は、無常=無我=縁起を自分のこととして心底納得すること。それによって執着の愚かさが痛感され、執着の反応が停止されていく。そして、無常=無我=縁起を納得するためのカリキュラムが、戒・定・慧の三学、また八正道である。修行中の執着を抑えるために、慈悲も奨励される。慈悲と執着は競合する反応なのだ。よって、執着の反応が停止すれば、もともとあった慈悲の反応が、制約なしに働き出す。
     端的に行動規範として苦に言及しているのは、パーリ中部第61 アンバラッティカ・ラーフラ教誡経である。この経は、起こりつつある行為を意識によって実行の前に判定し、苦を生むものならば停止せよ、と説いており、まさにリベットと同じ考えのように見える。しかし、現今の行いをコントロールしようと努力しても、コントロールできない筈だ。だが、そのことによって、かえって強い反省が生じ、それによって反応が改善されていくのである。だから、教えの方便としては、これでいいと思う。
  •  「ありのまま」について。
     「仏教」の教えとして、しばしば「ありのままを見よ。感ぜよ。」といったことが言われる。
     しかし、私達という現象は、そのつどの一回的個別的事象に直接接して反応しているのではない。過去の経験によって形成されたクオリアのどれかがそのつどの縁に共鳴し、励起してふさわしい反応を引き起こす。後付の意識は、励起したクオリアと引き起こされた反応を意識するだけであって、そのつどの一回的個別的事象の「ありのまま」にはけして触れ得ない。
     釈尊の教えは、「ありのままを見よ」ではなく、縁によって起動するクオリアの反応パターンから執着を拭い去り、苦を生まない反応パターンに改変していきなさい、ということである。

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 この小論に、安泰寺のネルケ無方さんからご意見を頂戴した。