アントニオ・R・ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』(田中三彦訳 講談社)を読んだ。(原題 The Feeling of What Happens: Body and Emotion in the Making of Consciousness, by Antonio R. Damasio, M.D.)
私は、脳科学や進化論などの科学は、仏教に合致するし、無常=無我=縁起を新しい仕方で説明し、自分が無常にして無我なる縁起の現象であるということを理解するのを助けてくれる、と思っている。今回もそういう目論見で読み始めたのだが、期待にたがわぬ内容だった。
自分とはどのような反応であるのか、私の仮説の考え方とこの本の説くところは、およその方向性で重なっていると思う。それは以下の諸点だ。
- 「私」という意識は、脳を含む肉体において、肉体に縁起して発生する現象である。
(霊などといった、肉体とは別に独自の起源を持つものではあり得ない。また、一旦意識の仕組みができれば意識から肉体への縁もあるが、発生の順としては、系統発生上も個体発生上も肉体が先である。) - 「私」という意識は、原始的な生命から進化を積み重ねてきた過程の、ある段階から付加された新しい仕組みによって生み出される。
- 「私」は様々なサブシステムの自動的作用の組み合わせによって発現しており、「私」という意識は、それらの上に、後から付加された仕組みによる現象である。
- 「私」という意識を生み出す仕組みは、よりよく環境に適応し有利に生き抜くことを可能にしている。
(同時に「執着」も生み、それによる「苦」も生んだのだが、、。) - 「私」という意識は、持続的存在ではなく、瞬間瞬間に縁によって生み出されているそのつどの現象である。
言語は、意識の誕生に関してさほど重要ではない。意識を生む仕組みは、もっと深く古いところに根ざす。
これだけなら、新鮮味もない思いつきにすぎない。しかし、ダマシオは、自己意識を生み出すプロセスについて、さらに突っ込んだ仮説を提案している。ダマシオは、アイオワ大学メディカルセンターの神経学者だそうだ。脳などにどのような損傷があれば、どのような症状が現れるのか、どういう機能がどの機能の前提になっているのか、豊富な症例を基に考察し、自己意識生成の仮説を構築している。
素人で心もとないが、興味を持って頂くために、概略を紹介してみる。ただし、脳科学のサイトではないから、忠実な紹介ではなく、私の問題意識による私の理解の概略である。用語も、必ずしもダマシオの言葉にこだわらない。
背景となっている私の問題意識については、小論集の「私という現象について」を御一読下さい。
【 第一ステップ 原自己 】
単純なものから進化したものまで、すべての生物は、生き続けるためにホメオスタシスを維持している。激しく変化する外部環境の中で、内部環境を極狭い幅の中に保っている。それに失敗すれば、その生物は死んでしまうのだから、まさに命懸けの作業である。
進化に伴って、ホメオスタシスを維持する仕組みも複雑精緻になり、中枢神経系が生まれた。中枢神経系は、体内の状況を常に感知し続け、時々の状況に応じた調整を自動的に行ない、ホメオスタシスをコントロールしている。
中枢神経系によって、前意識的にモニターされた身体の状態の把握が原自己である。
具体的には、血液中の化学物質濃度の感知や、神経による内臓や血管の平滑筋の状態の感知であり、筋骨格や前庭からの信号による姿勢や運動の状況の把握も含まれる。その時その時のそれらの情報が脳のいくつかの場所(脳幹核、視床下部、前脳基底部、島皮質、S2として知られる皮質、内側頭頂皮質)の相互作用によって協調的に処理統合されて、瞬間瞬間の原自己が生まれる。
ただし、これは自分で自分の内部を省察しても自覚できるものではない。あくまで前意識的に実行される自動的反応である。例えば、空腹を自覚する場合であれば、それより前の段階で行なわれている筈の血糖値や内臓の状態などの前意識的な感知である。
意識が生まれる出発点が、このように身体の生々しい感知から始まるということが、我々が「一人の自分」と思い、「一貫した自分がずっと居続ける」と抜き難く思い込むことの起源である。
ダマシオに従えば、その時その時の身体の状況の感知が我々の意識を生み出す源であるのだから、ホメオスタシスが破綻し身体の活動が停止すれば、我々の意識も生まれなくなる。つまり、死後生はあり得ない。(曽我の解釈展開)
【 第二ステップ 対象とそれによる原自己の変化 】
ここでいう対象とは、意識の対象ではない。意識が先にあって、対象を選び注意を集中するのではない。反対に、対象が意識を生み出す。いずれ意識が発生した時には、対象は意識の対象になり得るが、この時点では、まだ意識は発生していない。
対象とは、身体の状態に変化をもたらすもののことである。顕著な例は、天敵の姿や獲物の匂いといったものだ。対象を感知すると、血管が収縮したり拡大したり、心拍数が上下したり、身体の姿勢も変化する。駆け出すこともあるだろう。こういった身体の様々な反応が情動であり、生得的なシステムによって前意識的に自動的に起こる。身体の状態の変化にともなって、原自己も変化する。生きている限り、原自己はそのつどの対象からさまざまに縁を受け続け、ホメオスタシスの範囲内で揺れ動き続ける。
この情動の説明は、ダマシオの使い方よりかなり限定的で狭い。ダマシオの言い方では、情動は中核意識の後に生まれるように読める箇所もあるし、進化の初期の比較的単純な仕組みとして書いているようなところもある。単純明快な説明のためにここでは「初期の単純な仕組み」の方を採った。意識の生成といっても、進化・系統発生の上のストーリーと、様々な高度な仕組みができあがった人間(大人)におけるそのつどの意識の発生とでは、当然違っているだろう。わたしは、そのあたりの区分をごっちゃにしているのかもしれない。
【 第三ステップ 二次マップ・中核意識の誕生 】
原自己の変化を感知し、それとその変化を引き起こした対象とを関連付ける二次マップが生まれる。
二次マップは、対象に注意を集中し、対象を環境から際立たせ、持続的に知覚処理されるようにする。対象は、身体の状態に変化を与えたのだから、それに対して選択的に対応することは、生命にとって大変重要なことである。二次マップの誕生は、進化の上で意味のあることだった。
二次マップは、対象を淡々とモニターしているのではない。変化する身体の状態と一体にして感知している。端的な例を挙げれば、迫り来る捕食者から文字どおり懸命に逃げる場合だ。注意は捕食者=対象に集中しているが、身体の限界的状況や激しい運動は、事態の背景として二次マップを色濃く染め上げる。二次マップによって把握された情動(身体の反応)は感情となる。(ダマシオは、身体に現れる反応を情動と呼び、一方感情は自分にしか感じられない私的で内側のものとして、両者を区別している。)
対象への選択的持続的注意と感情が、中核意識を形成する。中核意識は、今・ここに限定された意識である。瞬間瞬間の対象と原自己の変化を縁として、瞬間瞬間に更新されている。
中核意識が注意する対象は頻繁にまったく別の対象に切り替わるが、原自己をとおして感知されている身体は同一の身体である。対象に向かう注意を矢(志向性)に例えれば、矢の出所として、身体に根ざす<わたし>がそのつど常に背景的に意識されている。すなわち、意識の志向対象は頻繁に入れ替わり、中核意識そのものも瞬間瞬間に更新され新たに生まれているのであるが、それでも、そこには「それは<わたし>の意識だ」という非言語的背景感覚が一貫して染み着いている。
中核意識は、私(曽我)がよく使ってきた言葉でいえば、ノエシスに相当すると思う。
【 第四ステップ 記憶・「延長意識」・自伝的自己 】
中核意識は、対象による原自己の変化によって生まれた。すなわち受動的に生み出されるのである。しかし、生み出された中核意識は、その時置かれている状況に対して、ある種の主体的な対応をする。
ひとつは注意のさらなる強化であり、もうひとつは、進化の上で新たに生まれたワーキングメモリやコンベンショナルメモリといった記憶の仕組みを活用することである。
ワーキングメモリによって、中核意識は同時に複数の対象を関連付けて意識できるようになる。その結果、中核意識の「今・ここ」が、少し拡張される。例えば、捕食者に追われて懸命に逃げながら、木を見つけ、そこまで逃げおおせれば助かるというような非言語的なイメージを得ることができるようになる。
またコンベンショナルメモリによって、経験が自伝的記憶として蓄積されて行く。(勿論外面的出来事だけではなく、その時の身体の内部の状態も結びついた記憶である。)新たな対象を感知すると、自伝的記憶の中から関連した記憶が自動的に呼び出され、中核意識は、それらを同時にワーキングメモリに乗せて関連付けて意識することが可能になり、その時の状況に対する対応とその結果を様々にイメージしシミュレートできるようになる(非言語的思考)。
自伝的記憶そのものが対象となって、上記の第二ステップが発動されることもある。
ワーキングメモリとコンベンショナルメモリを活用し、経験・学習したことを様々に組み合わせることで、今・ここの中核意識は時間・空間の制約を逃れ、遠い過去・未来・場所をもイメージできるようになる。
ひとつの対象に注意が向けられると、自伝的記憶の中から関連した記憶が、関連の度合いに応じてコンベンショナルメモリの水面近くに浮き上がってきて、そのうちのいくつかはワーキングメモリのテーブルに上がる。関連の薄いものは、記憶の底へ沈んで行く。その時その時の対象に応じて、記憶はそれぞれに浮沈を繰り返している。この浮沈は、前意識的に自動的におこっている。
瞑想中の妄想は、自伝的記憶が対象として湧き起こっているのだと思うが、ひとつが浮かぶと、関連した妄想が次々と連綿として紡ぎ出され、気がつけば思いがけないところに辿りついていることになる。自伝的記憶の呼び出しを意識的に行なうことは可能かもしれないが、自動的浮上を意識的に停止させることは難しい。
ダマシオは、今・ここの制約を離れた意識を「延長意識」と呼んでいる。しかし、私(曽我)としては、中核意識が、ふたつのメモリを使いこなしているだけであって、あらたな種類の意識が生まれたとは考えたくない。「延長意識」も、イメージできる範囲が広がっただけであって、常に「今・ここ」でそのつど働いていることに変わりはない。
中核意識は、生得的土台の上に経験・学習によって作り上げられてきた反応・対応のパターンをもっている。中核意識は、自伝的記憶の中から、このパターンに適合するものを選び出し、組み合わせ、編集して、一貫性のある自己イメージを創りあげる。これが自伝的自己であり、アイデンティティとなる。自伝的自己もコンベンショナルメモリに保存されるが、その呼び出しはそのつどの中核意識に届けられるから、置かれた状況が変わり、別な対応のパターンが有利だとなれば、それに合わせた再編集が行なわれ、自伝的自己は容易に前意識的に書きかえられる。
【 第五ステップ 言語 創造性 良心 】
ダマシオは、自伝的自己や「延長意識」の後に言語を位置付けている。言語は、意識の生成には貢献していない、ということになる。しかし、言語によって、中核自己の活動はさらに飛躍的に拡大されたことは間違いない。
ダマシオは、言語の後に創造性を置き、その後に、進化の最後の達成として良心を置いている。確かに、自己の利益を超えたものに価値を見出し、そのためには自分の利益や生命をも放棄できるということは、生物にとっては画期的なことかもしれない。生物に如何にして良心が可能になったのか、この問題は、私(曽我)としては、将来の問題として残しておこう。
【 曽我のコメント 】
はじめはもう少し忠実な紹介をするつもりだったが、触発された私の思いつきがかなり混ざってしまった。興味を持って頂けたら、本を読んで頂きたい。ダマシオの仮説の根拠には、脳の様々な機能が停止したいろいろの患者さんの症例があるが、その症状も、「健康人」の想像の及ばぬもので(不謹慎だが)興味深かった。
一歩進んでひとつひとつの機能について具体的なところを問えば、ダマシオの仮説はまだまだ穴だらけだ。それはダマシオが悪いのではなく、脳の研究の全体のレベルがまだそこまで進んでいないせいであろう。全体構造の仮説としては非常に説得力があると思う。私の「無常=無我=縁起の現象である私」という考えをサポートしてくれる点も、心強い。
仏教との関連では、ふたつのことを思った。
ひとつは、定について。
定とは、対象を感知しないようにして、原自己の変化をなくし、それによって中核自己の生成を止めることではないだろうか。静かな刺激のない環境で外からの対象をできるかぎり排除し、足を組んで動かず、身体の状態を一定に保つ。自伝的記憶から対象が湧いてくるのが妄想であろうが、それも止める。そうすると、対象はなくなり、原自己の変化もなくなり、中核意識の発生は止まる。
そんなことは不可能だとお感じになるかもしれないが、そうでもない。前にもどこかに書いたが、学生時代、私自身が禅寺でそのような経験をした。参禅(与えられた公案に対する見解を述べに老師の許へ行くこと)の順が次が私の番になって、私は廊下に置かれた鐘の横にすわった。(老師の部屋から前の人が終わったという合図の音があると、鐘を鳴らし返して次が行きますと老師に知らせるのである。)たまたま雑誌の取材が入っていて、カメラマンが私の正面でカメラを構えた。私は緊張し落ち着きを失ったが、懸命に形を整え、半眼にし、息を整えようとした。どれくらいの時間がたったか分からない。前の人の参禅がまだ終わっていないのだから、長くても数分でしかなかったろう。突然カシャッと大きな音がして、驚いて目を上げると、シャッターを切ったカメラマンがいた。この時、私は本当にまったくない状態だった。ダマシオのいうメカニズムが停止して中核自己の生成が止まっていたと考えて納得できる。この時は、シャッター音で断ち切られたから気づくことができた。しかし、普段はもっといい条件で坐っているのだから、他の座禅の時にも短くはあっても定に入っていたのではないか。しかし、その間は、中核自己が生まれず、私は「ない」状態なので、なにも残らない。つまり、ブッダダーサ比丘の言う「深すぎて役に立たない定」ではないか?
もしそうだとすると、役に立つ定、慧を生む定とはどういう定であろうか? 最近私が想定し始めた「対象観察のある定」と考えていいのだろうか? もしいいなら、それはどのような定として想定できるのだろう? ひとつの対象をじっと変化なく観察し続けて、原自己に変化のおこらない定か? そのような状態があり得るとして、その時、中核自己はどうなるのか?
いや、これは不毛な空理空論だ。この問題に関しては、まだ考える材料が不足している。
もうひとつは、凡夫と釈尊の違いである。釈尊とて、原自己、中核意識、記憶、自伝的自己などを、持っておられたはずだ。では、なにが違うのか?
ダマシオの仮説をあてはめると、いくつか想定する事はできる。
1)対象を感知した時の身体の前意識的自動的反応、すなわち情動が違う。
2)従って、情動の感知である感情も違う。
3)ある対象に伴って自動的に呼び出される自伝的記憶が違う。
4)自伝的自己の編集のされ方が違う。
どれも前意識的・自動的な反応であり、意識的にコントロールできるものではない。自分が無常にして無我なる縁起の現象であると心底納得できれば、これらは変わって、釈尊のようになれると想像するが、自分の身で確かめるしかないのだろう。
あるいは、いつか脳科学がそこまで到達することはあるだろうか?
ご批判・ご教授をお願いします。
2004年1月18日 曽我逸郎