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市民運動には、政党を忌避する感情があって、それが日本の民主主義を弱くしているのではないか。
立憲民主党の衆院選予定候補者になる話が持ち上がって以来、そう考えるようになった。
ただし、実はわたし自身、政党政治には問題があると思っている。政党の公式見解が個々の政治家を束縛しており、熟議してお互いに批判から学び合い考えを深め合うことを抑制していると思うからだ。立憲民主党からの申し出を受けることを躊躇ったのも、それが主な理由である。
しかし、安倍政権の悪政をこれ以上放置するわけにはいかない。そのためには、自民党議員を減らす必要がある。わたしが選挙に出ることがその可能性のある実際的方策ならば、そうしよう。そう考え提案を受けた。これまで市民の立場で野党共闘を実現させる活動に関わってきたが、立憲民主党の立場になったらなったで、他の野党と連帯して安倍政権に対抗することができるだろう。
ところが、この話が広がるや否や、さまざまな活動をいっしょにやってきた人たちの一部から、思いがけない誤解や批判を受けた。他意のないことを、なにか裏に党利党略があって市民運動を利用しようとしているとではないか、と想像がふくらんだようだ。
確かに、政党が、市民運動を取り込もうという思惑で動くことはあるだろう。しかし、市民運動が、潔癖さのあまり過剰に政党を警戒し遠ざけることは、市民運動にとっても、日本の民主主義にとってもよくないのではないか。
逆に、政権与党を支援する側は、自分たちの息のかかったlawmaker(議員)を当選させることに臆面もなく熱心だ。それは、自分たちに都合のいい法律・制度を与党に作らせることのうまみをよく知っているからである。
例えば、労働者派遣法だ。企業ニーズに合わない従業員は抱えておきたくない。必要な時にだけ必要な労働者がいればいい。福利厚生の固定費は負担したくない。すべて雇用する側の都合である。
派遣法が成立した結果、労働者の所得(≒消費者の購買力)が縮んで、デフレになった。安定した将来を思い描けない若者は結婚もできなくなり、少子化が進行している。しかし、割を食っている若者は、それがそういう法律・制度が作られたせいだとは、想像できない。法律・制度は、忘れたころに、しかし着実に、大きな影響をもたらしてくる。
市民運動は、それぞれが熱心にさまざまな政治課題に取り組んでいる。原発とか、食の安全とか、基地問題とか、人々に熱心に呼びかけ問題提起している。しかし、一般市民だけではなく、lawmakerたちも動かして法律を作らせなければ、実効性のある成果には結実しない。
政党のイメージが、党利党略で動く、けがらわしい、ダサいものにされている。それが投票率の低さに現れる。一方、そんなことは気にかけず、おいしい利権に引き寄せられる連中は、選挙に熱心だ。その結果、連中の望むとおりの法律がつくられていく。
選挙制度のせいかもしれないが、現実問題として、lawmakerになるのは、ほとんどが政党に属す人間だ。実際に法律が制定される際も、lawmakerたちが政党のまとまりで動く。この状況においては(あるいは、この状況を変えようとする場合も)、自分たちと考えを共有する政党のlawmakerたちを多数当選させねばならない。
政治課題に取り組む市民運動は、政党アレルギーを克服すべきなのだ。政党を吟味し、どの政党が自分たちの考えを理解・共感し、どこが敵対しているのか識別する。味方にすべき政党に圧力をかけ、動かしていく。政党に取り込まれるのではなく、逆に市民運動の側が政党を取り込むつもりで積極的に政治に参画すべきだ。
そうなっていけば、政治は穢れたものから面白いものに変わり、投票率は上がり、日本の民主主義はたくましくなり、市民運動は成果を上げ、世の中をよりよくしていくことができるに違いない。