『「苦」をつくらない』を読んで 「一貫性のない反応の断続」に違和感

2018 10.01|Libraさん

Libraさん
曽我から
【曽我】
ずっと以前、ホームページ上で繰り返し活発に意見交換をして頂いた Libraさんとツイッターでまたご縁ができて、拙著『「苦」をつくらない サピエンス(凡夫)を超克するブッダの教え』に関してご意見を頂いた。

2018 9.30
『「苦」をつくらない』の第3章までを拝読しました。この時点で同意できるところと違和感をもつところがあります。同意できるところの一つは、「新しい縁を得て、新しい業(一〇六頁参照)を積んで、新しい自分が育ってきます。」(p. 73)という部分です。積極的に新しい縁を求めることによって常に新しい自分を創りつづけていくべく努力する他はないというのが、仏教の善友思想(「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」、
(link: http://fallibilism.web.fc2.com/012.html)とわたしは思っています。

違和感をもったのは「自分が、存在ではなく、その時その時の縁によって起こされる、一貫性のない反応の断続である」(p. 86)という記述です。

縁を刺激だとします(p. 83)。刺激の束がそれじたいで反応を一意に決定するわけではないので、刺激の束に応じて反応を導く関数が存在するはずです。その関数は、時間軸上の局所的な領域に着目すれば一定の傾向性を有するのではないでしょうか。

もしそのような傾向性がないのであれば、そもそも「反応を整えていきたいと願う」(p. 80)ことじたいが困難だということになるのではないでしょうか。反応を整えるというのは傾向性の修正であるように思えるので。

もちろんそのような関数は、そのつどの反応によって新たに生じる刺激等の影響によって、時々刻々と変化しているのでしょう。つまり通時的には可塑的です。もちろん、あるべき真なる関数なども存在しません。わたしはこのように考えるので、「一貫性のない反応の断続」という表現に違和感をもちました。

2018 10.4
ご意見お聞かせいただき、ありがとうございます。 違和感といっておられることの意味、理解できているつもりでおります。もし頓珍漢な返事でしたら、またご意見下さい。仰るとおり、時間の長さが重要なポイントです。この点をもっと明確に書いていれば、もう少し分かりやすかったと気づきました。

「その時その時の縁によって起こされる一貫性のない反応」というのは、そのつどそのつどの一瞬一瞬の反応のことです。「昼飯はあれを食べよう」と思ったり、釈尊の教えについて考えたり、安倍政権のやり口に憤ったり、セクシーな異性に視線が泳いだり、居眠りしたりといった、そのつどそのつどの反応です。何かに熱中していても、大きな音がすればパッとそちらに振り返る。そんなふうに、前後の脈絡なく次々と新しい縁に反応します。

ただ、その反応の仕方には、仰るとおり傾向性があります。大きな音に驚くというのは、人間のみならず動物も含めて共通の反応でしょうが、その人らしい反応パターンもあります。我儘な人もいれば、すぐに譲歩する人もいる。普段威張っていても緊急時にはおたおたして役に立たない人もいれば、普段は控えめなのにいざとなると頼りになる人もいる。歎異抄にある親鸞の言葉「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」の業を、わたしはこのような意味で、つまり「その人に備わっている反応パターン」として考えています。業は、そのつどの反応の反応の仕方のパターン、傾向性です。なので、Libraさんの言われる傾向性とわたしの業とは、多分同じです。

そして、この業は、そのつどの反応とは異なり、さまざまな反応を繰り返すことで時間をかけて形成される傾向性です。業については、そのつどの反応よりずっと長い時間軸で考えています。そして、業は、そのつどの反応によって徐々に変わっていくのですから、可塑性があり、よき縁を得てよき反応を繰り返せば、だんだんとよき業になっていきます。

そのつどの反応そのものは、業縁によって決まってしまうので、思いどおりにはできませんが、失敗の経験やアドバイスを縁として、反省の反応が起こり、以後の反応パターンを変えようという努力が起こります。すぐに思いどおりに変わることはめったにありませんが、反省と努力を繰り返すうち、反応パターンはだんだん変わっていきます。

反応パターンは、いくつかの種類を考えることができます。ともかく生き延びようと足掻くのは、生命共通の反応パターンです。慈悲の反応パターンは、人間のみならず一定以上に進化した動物も備えていると思います。よりうまく生きたいという欲求のパターンもあります。そして、サピエンスになって、自分の存在を妄想することで、よりうまく生きたいという欲求が、執着へと先鋭化しました。凡夫の日常に最も頻繁に発現するのは、執着の反応パターンです。

悪人がより狡猾になろうとするのは、執着による努力です。逆に、よき縁に恵まれれば、よき努力が生まれます。Libraさんの言われる善友思想も、同じ考えだと思います。

そして、ポイントは、努力は繰り返され業は時間をかけて変化しますが、努力もまた、あくびをしたり本を読んだりするのと同様に、そのつどの反応だということです。

「わたし」とは、徹頭徹尾、この色身においてそのつど起こされる前後の脈絡のない反応です。それ以外の「私」は妄想です。それを納得することが、存在しない自分に執着して苦をつくる愚かさに気づかせてくれます。
持続的存在ではなく、そのつど一瞬一瞬の刹那滅の反応の断続だという自己認識、わたしとは無常なる反応だという自己認識が、我執を決壊させてくれると思っています。なので、わたしは、そのつど性にこだわりたいと思います。

2018年10月4日  曽我逸郎