曽我さんへのご意見:洞察瞑想、十二因縁は同時、毎日が輪廻転生、他

2019 03.01|Samadhi Chan さん

Samadhi Chan さん
曽我から
2019 2.28
曽我逸郎様

曽我さんのNet投稿などを以前から拝読させていただいております。

私は、曽我さんほど初期仏教の教えに深い知識があるものではないのですが、苦しみ(ドッカ)を無くすための実践を中心に、25年ほど前から苦滅の道の探求に取り組んできました。

~一部略~、瞑想で心の落ち着きは一時的に得られるものの「ドッカ」の苦滅は得られていないことを知りました。

その後ミヤンマーからの来日僧ウィセッタ長老の瞑想指導と法話を毎週1回、半年間ですが、ほぼ個人指導に近い状況で受けてきて、~一部略~、はるかに妄想のない境地を得ることはできました。

しかし、それでも苦滅の根本解決はできず、今は両僧から離れています。もうそれは9年ほど前です。

 その後、今日まで9年間は中部・相応・長部の原始経典やブッダゴーサの論文「清浄道論」、アビダンマなどの論文や海外タイ、ミヤンマーなどの僧侶(経験者の欧米人を含む)の執筆資料、YouTubeでの英語法話、瞑想指導などを参考に独習してきました。また、それら以外にも仏教僧侶でないですが、仏教などを学んだと思われる欧州、北米の世界の人々の教えも参考にして独習してきました。
今日現在までの「仏陀の教え」の核心は何か、との視点から私個人の現在までの理解、認識は次のとおりです。勿論、個人的な見解ですので、誤っているところもあるかも知れません。

曽我さんの「永遠不滅の存在(無為法)に対してあれだけ正しく警戒することのできたブッダゴーサが、縁起については輪廻転生と直結した形で解釈していたことは、私にとって困惑することである。ご意見、なんなりとお聞かせ下さい。」・・・・
につきましても、因縁と輪廻転生については私見を少し述べさせていただきます。

① 「サテイ・パッサーナ・スッタ」こそが無我、無常を知る方法です。

この「サテイ・パッサーナ・スッタ」に生滅の法も同時に説かれています。

仏陀は、身体、感覚、心、思考は自分が作っているものではない、つまり「無我」を知る教えの核心の一つが念処経(中部経典第10番)の「サテイ・パッサーナ・スッタ」で述べられています。

この「サテイ・パッサーナ・スッタ」こそが、仏陀の説いた観察による洞察瞑想だと思っています。

身体、感覚、心、思考は、別の表現では五蘊の働きです。
相応部では、色など五蘊は無常である、無常なものは苦しみである、無我である、とも出てきます。

身体、感覚、心、思考は人間の意志で作っているものではない、各人間の習性・クセで作られている自然発生しているものです。だからそれを「サテイ・パッサーナ・スッタ」で、「気づいて(正念)」して「知りなさい(正知)」と説きました。

瞑想指導者は、「観察」という表現を使いますが、曖昧な説明です。仏陀のいう観察の意味は気づいて、知ることです。だから、この念処経に「知る」という表現が50~80回ほど頻出しております。だから瞑想というよりも洞察の方が正しいと思います。自分が作ったものではないから、よく知りなさいと釈尊は説かれました。

初期経典には一切でてこない「ヴィパッサナー瞑想」という表現や「清浄道論」のサマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想などの区別などは一切、苦滅に関係ありせん。ヴィパッサナという表現は止めるべきで、「サテイ・パッサーナ」一本にすべきと思料しております。

~一部略~、サマタ、ヴィパッサナー瞑想については、日本テーラーワーダ仏教協会の会員の中でも議論を呼んだものでしたが、これも現在のテーラワーダ仏教がベースとしている論文「清浄道論」から生まれた弊害であると思っています。まったく苦滅に役に立たない知識です。

② 12因縁は、生命の誕生~死のプロセスを述べたのではなく、「わたし」(私、我、自分)という幻想、妄想が生まれている12支の同時性を説いたものだと思っています。

一部仏教学者やテーラーワーダ仏教徒である****さんなどは、過去世からの転生のプロセスとして説明していましたが、全くそうではありません。

私たちの「無明」のために、今この現世で生まれた時、赤ちゃんの時から蓄積してきた心の習性・クセがカルマ(業)であり「行」(サンカーラ)です。そのクセのことを釈尊は「傾斜」という表現でも説明しています。南への傾斜の人、北へ傾斜した人、東北東に傾斜した人・・・・

その「行」に縁って、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根での知覚(眼識、耳識、~意識)、つまり「識」があるとき「名称と形態」(ナーマ・ルーパ)を作ってしまい、心の中に「幻想の六処」をもつ「わたし(自分、俺)」の人物像を幻想化して、その「名称や形態」の私などに執着「固執」してしまい、その幻想の「わたし」と目の前の現象「名称と形態」(他人、もの、風景)とが戦うので、苦しくなるのです。これらの12支は同時性です。

③ 輪廻転生は、私たちが赤ちゃんから変化し続けてきている心身の無常性のなかで、「わたし」という幻想のなかで作っている、子供のときの心身から成人したときの心身への転生、成人から勤め人の心身への転生・・・・

つまり、5歳、10歳、15歳、20歳、25歳~ 50歳、60歳・・・ 毎日毎日がいわば輪廻転生です。

釈尊が現存のときは、動物の進化論や生物科学、父母からの遺伝子などの生命科学、医学生理学がなかったので、自分の肉体の死後への心の繋や期待として生まれた概念が輪廻転生だと思います。ご存知のとおり、今は、DNAなどの解明で人間はチンパンジーの進化した生命というのが一般的です。

ご存知のとおり肉体は物質です。自分の思うままにできません。血液の循環や尿意、痛みを自分でコントロールできせん。病気になったら、物質(薬、放射線など)で肉体に化学変化を起こさせたり、白内障になれば人工レンズに入れ替えるしかありせん。

④ 涅槃は、「中道」を得ている心境です。主・客の二元性が消えている状態です。非二元性です。そして二元性、非二元性を超えたところに「中道」があります。

日常生活などの会話では、「私の名前は・・・です」と「わたし」の表現を使いますが、心境としては、まったく「わたし(私)」に執着していないので、会話の内容、つまり概念はどうでも良いことといった感じです。

今思うと般若心経の「空即是色、色即是空」は、その心境かも知れません。

⑤ 長部の「沙門果経」などにも三明が出て来たり、身体のコピーを複数出現させたり、地面に潜ったりとりの神通力の話がありますが、これは瞑想のサマーディより強い「一境性」から個人に生じた現象・幻想であって、他の人々に見えるものではありせん。あくまでも瞑想者自身が心の中で体験したことに過ぎません。「苦滅」に何の役にも立たないです。私もウィセッタ長老から指導を受けた後、畳から浮く経験をしました。でも苦滅に役立つものではありせん。

⑥ 第一、第二明は上述のとおり、概念創作です。第三明の漏尽智だけは正しいと思います。中部経典、小部経典などの初期経典には、釈尊が修行時代に社会背景にあったバラモン教やヒンズー教の教えが、仏滅後に加筆挿入、入れ替え、削除されたりしていると思います。

中部経典のある経には釈尊が修行時代に捨てた苦行が登場しているかと思えば、同じ中部経典の別の経にはその苦行は捨てたとあります。この点は今、マレーシアにいるある長老も誤りがあることを指摘していました。

以上ですが、何かご指摘、ご感想などを簡単でも結構ですのでいただけたら幸いです。

匿名(東京在住、男性)

2019 3.6
前略

 メールありがとうございます。
 実は、わたしも15年ほど前になりますが、ウィセッタ長老の8月の熱海の合宿に1,2度参加して、通訳の方を介してでしたが、心の通う親身なご指導を頂き、大変充実した10日間をすごすことができました。
 ~一部略~

 **さんは、わたしよりもずっと研究も実践もなさっていると思います。にもかかわらず、拝読して、言葉の選び方などには若干の違いもあるかもしれませんが、考え方は大変近いと感じ、心強く感じました。
 読み違えていたら申し訳ありませんが、わたしと近いと感じたのは、以下の諸点です。
・上座部系の瞑想を全体としては評価しておられる。
・仏教経典に言及される超能力は、夾雑物であり、本当ではない。
・そのつどの「わたし」が縁起して生じる際の一番の基になる土台は色身。
・十二支縁起を三世両重で解釈することには同意できない。

 ヴィパッサナーについては、6世紀の人ですが中国大乗の天台智顗も『摩訶止観』などで重視しているので、テーラワーダだけではなく、一定の古さがあると思います。片山一良『パーリ仏典』シリーズ(大蔵出版)の念処経で「観つづけて住みます」と繰り返されるのが、ヴィパッサナーのことかもしれません。(ネットで少しパーリ語と英語の対照訳を探してみましたが見つけられず、確認はできませんでした。)ただ、ブームになった(なっている?)「ヴィパッサナー瞑想」については、ブッダダーサ比丘も、「後になって開発された方法であって、過剰な定による慢心をもたらしかねない」と注意を促しています。元々のヴィパッサナー(観)とヴィパッサナー瞑想とは、同じものではないという認識は持っておいた方がいいのでしょう。
 とはいえ、初めに書いたように、ヴィパッサナー瞑想合宿では、日本式の座禅では得られなかった多くの発見・気づきを与えてくれたので、感謝をしています。

 「洞察瞑想」とおっしゃることについて、理解できているか心もとないのですが、わたし自身は、自分の身体なり感情なり思いなりの状態・反応を観察対象としてしっかりとたてて、それをリアルタイム、クローズアップで細部に肉薄して観察し続けようとしておりました。それによって気づいたのは、わたしが第一原因として主体的に自分をコントロールしているのではなく、どこか出所不明の所から湧き上がってくる縁によって起こされる反応の最後の結果がわたしだ、という驚くべき発見でした。

 ④ で書いておられる「主・客の二元性が消えている状態」、「空即是色、色即是空」については、わたしは若干の警戒心を持っています。というのは、大いなるもの(超越的全体)に没入せんとする梵我一如型の発想に転落していきかねない危うさが潜んでいるからです。無念無想の没我の境地が涅槃だとする誤解が世の中にはまだ残っています。しかし、わたしは、「無我になる」のではなく、「わたしは無我だったのだとわたしが知る」のが正しい無我の納得だと思います。
 畑違いの事例を出して恐縮ですが、脳卒中を経験した神経学者、ジル・ボルト・テイラーが、自分の境界がなくなり、広大な宇宙と流れあうエネルギーとして自分を感じた、というのは、脳卒中によって左脳の、世界に区切り線を入れる機能が停止した変性意識体験でしょうが、まさに梵我一如的です。しかし、それでも、感じるという反応は残っています。「わたしというものが自分の想像の産物にすぎなかったなんて!」と驚いたのは、無我を知った驚きでしょうが、それを驚くことはできています。(『奇跡の脳』新潮文庫、小論 ご参照ください。)
 書いておられるとおり、無我を自分のこととして納得した結果執着がなくなるけれど、「わたし」という概念は道具として残り、有効に機能し続ける、ということだろうと思います。

 ②、③に書いておられることについては、わたしも先に書いたとおり、三世両重で十二支縁起を解釈することには反対です。(上座部が十二支縁起を三世両重で解釈するようになる経過についての、馬場紀寿先生の短い論文がありました。ご参考まで)
 ただ、十二支縁起がまったくの同時性かというと、それも少し違うと思います。縁起は、やはり時間の中の前後があって起こる。わたしという反応が起こるのは、パタパタパタと非常に早く進むドミノ倒しのようなもので、次から次へとさまざまな縁に応じて脈絡なく次々とあちこちにドミノ倒しの列が流れているのが私たちだと思います。
 このドミノ倒しの流れのひとつひとつが、サンサーラであり、刹那滅のそのつどのわたしです。ブッダダーサ比丘もそのように言っていたと記憶します。小論『タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘“Handbook for Mankind”』
 このドミノ倒しの流れ方に、その人らしい癖があるし、自然のままだとその流れ方は執着に大きく影響されており、大抵は苦をつくる流れになっています。そして、これを「傾斜」と表現するのは、とてもうまい言い方だと感じました。多少の山あり谷ありがあって時々は慈悲の行いもするけれど、大地の全体は我欲の方向に傾いている。だとすると、無常=無我=縁起を自分のこととして覚って執着が鎮まるのは、大地の傾きが逆転する地殻変動のごとき巨大な変化だということになります。

 もう一点付け加えると、十二支縁起については、識の順番が前すぎるのではないか、と思っています。このことは中部第38大愛尽経をひいて何度か書いていますので、読んで頂いているかもしれません。実は、**さんのメールを読んで、再度念処経を開こうとして、その前の中部第9正見経の一節に目が留まりました。サーリプッタが十二支縁起のそれぞれの支を老死から順番に生起と滅尽を説いている中の「識」の部分です。そこでは、
 「これら六の識の集まりがあります。すなわち眼の識、耳の識、鼻の識、舌の識、身の識、意の識です。」(片山一良訳【パーリ仏典】中部根本五十経篇I、大蔵出版)
とあり、頂いたメールにも書いておられるとおり、識の分類に六処が前提とされています。これはまさに大愛尽経のサーティ比丘への叱責の言葉と同じ趣旨ではないでしょうか。識より先に六つの感覚器官(色身の一部)があって、そこに縁が接することによって識が起こされる。にもかかわらず、十二支縁起が六処より前に識を置くのは、先に識あり、先に我ありの有我論的傾向ではないかと思います。

 たくさんの刺激を頂いて、脈絡なくあれこれ書いてしまいました。
 またご意見お聞かせください。

草々

**様

2019年3月6日  曽我逸郎

2019 3.7

Samadhi Chanです。返信ありがとうございました。(ここまで匿名の「**さん」としてきましたが、このお名前にされました。曽我)

曽我さんもウィセッタ長老やスマナサーラさんの瞑想会に参加経験があることは知らなかったです。熱海(数回)や丹後(一回だけ)で会っていたのかも知れませんね。

~一部略~

さて、曽我さんのご意見と私の今までの経験上の理解とがほとんど合致していることに、嬉しさと安心感が生れました。また、曽我さんは既に私以上に知見をお持ちの方と思っています。

一応、いただいたメール内容について、感想などを述べさせていただきます。

1. 洞察瞑想について

洞察瞑想と書きましたのは、瞑想というとマハシ―式のお腹の膨らみ、縮みの観察において、膨らんだら「膨らみ」、縮んだら「縮み」、妄想が出たら「妄想」、痛みが出たら「痛み」というようなラベリング付けの瞑想ではなく、呼吸(身体の一部)や感覚、感情(心)、思考(法)の観察に於いて、それらが生じては滅している性質であること、つまり、無常であり、到底自分の意識で作っているものでないこと、それは自分だけでなく、内に、外に同じ現象が消滅していることを見抜くとの意味で「洞察」と書きました。

2. 十二支縁起の同時性/非同時性について

曽我さんの疑問「識より先に六つの感覚器官(色身の一部)があって、そこに縁が接することによって識が起こされる。にもかかわらず、十二支縁起が六処より前に識を置くのは、先に識あり、先に我ありの有我論的傾向ではないかと思います。」

については、多分、十二支縁起を身色と精神活動の生起との関係として捉えると、曽我さんの疑問が出てきてしまうと思います。

縁起の説明において、仏陀はA支とB支は、あたかも互いに寄り掛かった二本の葦(あし)の枝のようなもので、片方だけでは存在しない(働かない)、と説かれました。

つまり、行があるとき識があり、行がないとき識がない、識があるとき行があり、識がなないとき行はない、識があるとき、名色があり、~
名色があるとき六処があり、名色がないとき六処がない、・・・~・・~  同時性だとやはり私は思えてなりません(笑い)。それほど拘っていません。

仏陀の原因と結果の捉え方は、結果の中に次の原因が含まれているとします。原因と結果の同時性です。鶏が先か卵が先か。

例えば、今、私がこの文章を仮名漢字変換して書いているとき、1秒前の心身が今の心身になっており、今の心身が1秒後の心身をつくります。ほぼコピーが連続して猛スピードで因果の生滅があるため、個体としての心身、つまり常の個人の存在があるとして、錯覚してしまっています。

 私は、十二支縁起は、肉体と心の因果の生成のプロセスの概念説明ではなく、自我が作る個人のストーリー(物語)、つまり幻想の生成状況を説いたものと解釈しております。思考などの精神活動の生成の仕組みとも言いましょうか。つまり自我が作る幻想世界が生まれる仕組みです。

つまり、無明で生きているときは、様々な行があります。「~をしたい、~になりたい」です。そして行にて識、名色にて~生、または苦しみ、または優うつなどが同時にあります。

六処(ayatana)は、物質の六根(インドリア)ではありません。六境でもありません。

書かれておられたとおり、例えば眼識は、眼と色(見る対象)が触れたときに生じます。六根と六境が触れたとき六識が生じます。

少々極論ですが、例えてみます。ある街を歩いていたら、過去から蓄積した好みの習性・クセでカルマ・業)のエネルギー「行」が発現して、素敵な家が眼にはいりました(眼識と名色)、同時にあのようなお家を自分も建てて住みたいものだ、同時に頭の中に自分の「持ち家」(名称と形態、―形態はイメージの理解でもOK)が生じ、そのなかで、自分が生活しているイメージ(六処)を考えます。リビングはこのようなイメージ(名称と形態)で、リビングのソファーで自分がゆっくりと休日に寛いでテレビを観ている姿(六処)を想像しているとき、そのイメージから快の感受も生まれており、もう渇愛、執着が生じていて、新しい自分のストーリー「生」を頭の中で展開してしまっています。

しかし、その一方で、その街で見た素敵な家は、既に豪邸に住んでいる人々が見ても何も感じないで通り過ぎてしまうでしょう。

だから、その人が赤ちゃんから今までに培ってきた習性・クセ(カルマ・業)で、「業異熟」が異なってきます。

この十二支縁起は、12個の変数をもつ一つの方程式(関数)だとしたら、複数の連立方程式みたいに複次的と思っています。そして各方程式が、一秒、一秒に瞬時に生滅しています。

なぜなら、例えば、テレビ番組などを観ている時は、画面情報(眼識)と音声(耳識)がほぼ同時に生じて、画面のなかの人や風景、声、音楽などに執着したりしてしまうことがあるからです。眼識での名色(名称と形態)など、耳識での名色など、同時に複数の名色(名称と形態)が生まれていて、とても複雑です。

でも、曽我さんが言われるように、十二支縁起をドミノ式にパタパタと捉えても問題ないとも思えてきました。その方が分かり易いかも・・・・

そこで大事なポイントは中部経典などにも出てくる「六根の防護」です。見たものは、見たとおりの認識で終える、全体性、ベタでみる、聞いたことは聞いたことで終える・・・見たものに、聞いたものに解釈や判断、嗜好の分析をおこない新たに「名称と形態(名色)」を付けてしまうと同時に執着が生じています。だから名色というラベリングをしないことです。

大念処経(片山一良訳)では、
「眼は世界の愛しい色、喜ばしい色です。この渇愛は、遮断される場合はここで遮断され、滅尽する場合はここで滅尽します。」~ ~

「眼、耳、鼻、舌、身、意の各識は、世界の愛しい色、喜ばしい色です。この渇愛は、遮断される場合はここで遮断され、滅尽する場合はここで滅尽します。」

「愛しい色」(名称と形態)です。眼に執着しています。 「美しい女」「旨そうなフレンチ」(名称と形態)・・・・

曽我さんの「 片山一良『パーリ仏典』~の念処経で「観つづけて住みます」と繰り返されるのが、ヴィパッサナーのことかもしれません。 」

は、私もその通りだと思います。それがヴィパッサナーです。

言葉は道具に過ぎませんが、日本語で瞑想というと座禅(目の開閉関係なく)とか歩行の瞑想という感覚が強いと思いますが、その辺が言葉選びに悩みます。

要は、瞑想と呼ぼうが、それによって何を知るかが要だと思います。

片山さんは、隋観のatapi(アーターピー)を「炙る」という絶妙な表現で訳されました。(長部経典)。お餅をたべるとき、焼きのりを作る時に海苔の表と裏を連続して炙り続けて焦がさないように、つまり妄想がでる暇なく炙り続けます。

身随観、受随観、心随観、法随観ですね。身随観は、カーヤー・ヌパッサナーですしね。別の表現では、五蘊の隋観とも言えます。

この『随観』の「観続けて住みます」の実践により、「気づき」の連続性が生まれて、カニカ・サマーディ(瞬間定)が生まれてきます。それが育ち上がると「聖八正道」の「正定」(ただし、出世見レベル)になります

ちなみに、八正道の八支も同時性です。正思惟しているとき、正見から正語、正業、正命、正精進、正念、正定があります。

3. 識について、

ご指摘の「正見教」(中部第9番、春秋社版)では、渇愛が生起すると「食」が生起し、渇愛が滅すると食が消滅する、と書かれています。その食には、4種の食(食物、接触、意志、識)があって、識もその食の一つです。

「何かを見たい」「聞きたい」などなど潜在性の「行」が「識」の働きを奮い立たせます。

そして、識が生まれると名色(名称と形態)が生起する。識が消えると名色あるものは消滅する、とあり、行が生まれると識が生起し、行が消えると識が消える、と書かれています。

少々細かい話ですが、実は、私たちが例えば、夕方、大型スーパーの店内で買い物をしているとき、近所の人が近くで買い物していても、その人に作為(マナシカーラ)が働いていないと、その人の姿が照明の光の光子として目に入っていても気が付きません。声を掛けられ「あら、気が付かなかったわ」です。つまりそれまでは、気づきの識がなかったので、隣にお住まいの「XXさん」という名色(名称と形態)は生まれていません。

十二因縁の識に拘わらず識は、認識の潜在的な認識のベースとなる働きと思います。パソコンのCPUのスピードGhz/秒とかMhz/秒とかいう基本要素で振動・バイブレーションの働きみたいなものです。この一秒間のデジタル処理0-1をタイムシエアリング(時分割)で、見る事、聞くこと、味わうことなどのプロセスに時間割り当てを猛スピードで割り当て処理しています。

パソコンでは印刷しながら画面にYouTube映像を処理したり、音楽を再生したり、同時にメール文章作成を同時に猛スピードで時分割で様々な働きを行っています。人間ではその識を、見れば眼識、聞けば耳識・・・と割り当てたことになります。

また識は、アビダンマ的には基本的な心の振動である「有分心」みたいなもので、すごいスピードで生滅変化しているものです。だからCPUのクロック周波数と類似しています。でも私は心身の物質主義を言っているのではありません。

だから識は、一切人格性をもっているものではありません。

五感覚器官で認識したときは、有分心が「五門引転心」となる心路が走ります。

意の感覚器官では、「意門引転心」が走ります。

五蘊では、識は色受想行識と最後に出てきますが、この識の基本的な機能が受、想、行を司っている働きです。

ご存知のとおり、五蘊を名色、ナーマ・ルーパと表現する時は、色=ルーパ、名=受想行識=ナーマです。

いすれにしても、この五蘊はバラバラでは働かない機能であって、肉体が死後、色が死亡などで滅すれば当然受想行識もありません。

識は色、受、想、行に依存していますし、一方それらと独立して存在しません。

「マハープンナマ教」(中部経典第109)では、五蘊が自我「わたし」であると思い描き、五蘊を所有するものが自我であると思い描き、自我において色受想行識を色受想行識において自我を想い描いている、と書かれています。

これが自我に関する誤った見解、つまり邪見です。仏陀はこれを知らないのも無知だと説きました。

4. 輪廻転生とサーティの誤解「シャ茶帝経」(中部第38)

そうですね。

漁師の子のサーティという修行僧が「この意識だけは、流転し、輪廻するが、別のものにならず不変である」と誤解していたことに対して、仏陀は「およそ、それぞれの縁によって意識が生ずると、それはそれぞれによってそれぞれの名で呼ばれます。すなわち目と色かたちあるものによって意識が生ずると、それは眼識と呼ばれます。」旨説かれました。

仏陀は縁起で識があるだけと説いたから、ある意味、輪廻転生はないとは明言はしていないものの、死後に識などの五蘊が存続することはなくて、ただこの現世での輪廻転生「的」な現象(仮想)ならあるとの含みがあるのではと私は思っています。

五蘊そのものが「苦しみ(ドッカ)」の根源とも言えます。

五蘊説は、人間は5つの集まりが仮に集合してできているにすぎず、したがってこの個体存在には「我」「わたし」という執着するような実体がないことを説明するための説明モデルだと思います。

それは、ニンジン、トマト、キュウリなどを野菜という「名称と形態」、つまり「概念」を作っています。しかし、野菜という食べ物があるわけではありません。

自動車という名称と形態(名色)も、エンジン、燃料タンク(バッテリー)、ボンネット、車輪、車軸、タイヤ、ハンドル、座席などから構成されていますが、自動車という実体があるわけではありません。

「わたし」も野菜や自動車とまったく同じ「名称と形態」です。形態はイメージと理解しても良いです。

 先日のメールにも書かせていただきましたが、仏陀は悟られたとき、後追いで十二支縁起を説かれたのだと思います。つまり「概念・幻想作りの払拭」です。

5. 無我

曽我さんが言われる『 わたしは、「無我になる」のではなく、「わたしは無我だったのだとわたしが知る」のが正しい無我の納得だと思います。 』につきまして、

私もまったくそのとおりだと思います。

私は、無常についても、日常、仕事、人間関係、歩行、食事などあらゆる側面において、「形成されたものは壊れていく」、例え、思考、感情、身体であっても「形成されているものはすべて無常である」との「内」と「外」での洞察と観察(観察は正念、正知)により、勝議諦(パラマッタ)を知っていくことで実感していくことが揺るぎない、「捨(ウッペカ)」(平静心)を結果的に得ることです。

この勝義(パラマッタ)においては、ここに人格的個体は存在しない、つまり無我を知ることとなります。

妄想などもジッと観ていると、自然に消えて行きます。実体がないものだからです。

誰でもこれが心底から納得できると、「苦しんでいる人・個体はいなかった」が分かると思います。曽我さんには釈迦に説法で恐縮ですが。

念処経の「サティ・パッサーナ」は、身・受・心・法の四念処の観察です。

その「法」の観察には、まさに五蘊を観察して、生・滅に気づいて、知ることも入ります。正念、正知です。

歩くときも、正念、正知をもって歩くべきであり、往くときときも還るときも、腕を曲げるときも、小便するときも正念、正知、思考するときも八正道にて正思惟して正念、正知しながら考えるべきであり、話すときも正思惟に沿って正語することに正念、正知しながら発話すべきです。

他の戒律の正命、正業もまったく同じです。これを忠実に守っていればいるほど、正定が育ちます。すると、十二因縁の様々な「名称と形態」を作らなくなり、妄想プロセスのワナに陥らなくなります。

仏陀の教えの受け止め方は、ひとそれぞれでしょう。

仕事でも生活でも、無常、無我が呑み込めてからは、思考、感覚、感情は自己の習性・クセ(カルマ)に沿って起こるべく起こっているだけで、自分のものではない、ただそのような現象が自己に生まれているだけと思えるようになりました。

そして、形成されたものは、形成しようとするものは、すべて諸行無常で、

●何をやっても、ほとんど意味もない。何事も思いどおりにはならない。

●これこれの人間になろうとしても、長期的には益もなく無駄骨折りの結末となることになる

との理解が私の現在の心境です。

だから、行(サンカーラ)を修めることになります。だから「修行」と呼びます。

「クーリングダウン」です。

だからと言って、決して厭世的になったわけではありません。

後は、世間に迷惑をかけるようなことはせずに、残りの寿命を歩むだけと思っております。では、誰が歩むのでしょうか? 五蘊の機能が歩むのです。それだけのことです。

昔に比べて、あれこれ思案したり、心配したり、何かをコントロールしたいとか毛頭思わなくなったのか、昔に比べたらはるかに落ち着きと気楽さが感じられています。

遊ぶことも以前に比べて自然に減り、たまに昔から好きな古い寺廻り(京都や東北、信仰ではありません)や近場の海や高原にたまに行って自然に触れてくるのが楽しみです。

もっと早く、仏縁があったなら、もっと時間の使い方など別の人生を送れたともおもっていますが、やり直しの効かないのが人生ですね。

両親も既に死にました。次は私の番です(笑い)。

娘と息子がいますが、先日娘には、葬儀は簡単にしなさい旨伝えました。退職したので自分のものは終活で整理しています。売れる仏像などは、子供は一切興味ないとのことで産業廃棄物で処理費用を払うならとのことで売り、旅行費用に充てています。

地球の陸や海の「生命」ある人間、動物、植物などは陸上、海のそれぞれの環境条件があって生まれてきた生物ですし、人間がその地球上の気象を含む環境条件をコントロールして生まれて進化してきたものでも当然ありません。

地球の核心ではマグマが核融合していて地球の寿命50億年はもう半分近く終えて、あと25億年くらいとの話を聞いたことがあります。実際生命が生きられるのは、もっとはるかに短いでしょう。

私たちは「生命」です。生命が動いているのではないです。

生命とは「動きそのものです」。

思考も生命の動きそのものです。つまり細胞の運動です。

楽しい、不快、などの感情も生命の動き、運動の一部です。

そこに「わたし」や人格性(個人性)はありません。

植物の発芽、果実、落葉や息吹と同じ生命の運動です。食虫植物も動いています。

大きいマグロやクジラは魚を食べています。さらにそれより小さい魚は、自分より小さい魚などを食べています。一番小さい魚はプランクトンを食べて命を繋いでいます。生物学者はこれを「食物連鎖」とか呼んでいます。

私たちも自分で手を下していなくても、他人が殺生した魚、お肉、野菜をスーパーで代金を払い、魚、お肉、野菜の生命を頂いています。

無我とはいえ、自然の生命の循環のなかで、ありのままの自然の姿を認めて生きることが本当の生き方だと思っています。

思いつくままに書きましたので、舌足らず、乱筆、一部重複をお許しください。

Samadhi Chan