『苦をつくらない』を読んで

2019 01.16|小林 瞳さん

小林 瞳さん
曽我から
2019 1.3
 
曽我逸郎様

新春ご機嫌よくお過ごしのことと存じます。
旧年中はお世話になりました。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
お便りなかなか書けずに失礼しておりましたが、理解の浅いままペンを執らせて頂きます。

仏陀の教えを解説する書物はあまたありますが観念的な言葉でなく日常の暮らしとつながる仏陀の教えを整理し、わかり易い言葉で語って下さるご本に出合え有難く存じます。
30年程前からチベットタンカを描いている友人の影響でチベット仏教に魅かれ、機会あらば坐禅などしております。
無常・無我・縁起も日々生活の営みにあり、自己観察を趣味としています(笑)

十二支縁起の「識」の置かれた位置について今まで疑問にも思わなかったのですが、
「先に我あり」は人類共通の妄想と、、、。

ダライ・ラマの著書に於いても
1)これがあることによってかれがある
2)これが生じることによってかれが生じる
3)無知によって行為(行)行為によって意識(識)意識によって名称と色形(名色),,,,とありました。
「縁がなければ識の生起はない、感覚器官とその対象を縁とした識は起こされる。」
曽我さんの言葉に納得致しました。これは目からウロコが剥がれた思いです。

責任追及について
仏教には責任を追及して罪を罰するようなことは無かったように思います。
曽我さんの仰るように罰を与えねば気が済まないというのも執着のひとつなのですね。

組織された膨張する巨大な執着にどう対処するか、智慧を頂きました。

私たちひとり一人が注意深くして執着のレベルを下げることでプロパガンダの影響力を下げることができる。
少数意見こそ。鍛えられ深化しつつ支持を拡げることで苦のない新たな社会を築いていく、、、というミームの深化論に希望を見ました。ありがとうございました。
亥のように駆けることはできませんが、遅速でも丁寧に歩んで参りたく存じます。
今後もご教示くださいますようにお願い申し上げます。
ご家族皆様の吉祥をお祈り致します。

合掌
2018、1、3

小林 瞳

2019 1.16
 
ありがとうございます。あまり反応をもらえない中、お褒めを頂きうれしいです。特に「わかり易い言葉」と行って頂いたのには、勇気づけられました。

無常=無我=縁起は、本当は単純なことなのですが、「我あり」というわたしたちの自然な見方とはまったく相容れないので、なかなか伝えることができません。何とか工夫を凝らして方便の技を磨きたいと願っておりますが、空回りばかりです。

苦をつくるふるまいに対しては、罰を与えるのではなく、提案なり批判、つまり、間違いを修正するよき縁を与えるようにすべきだと思います。ただ、方便力に欠ける故、これとてなかなか難しいことで、良かれと思ったアドバイスが逆効果を生むこともしょっちゅうですが、、、。それでも、罰ではなく、みんなでお互いに注意深く批判しあいよき縁を与えあうように努める他は、我々凡夫がみんなで苦の少ない世の中をつくっていく術はないと思います。

実は、責任について、そして主体性や自由について、仏教はどう見ているのかを考察した英語の論文を紹介して頂き、先日ようやく読み終えました。イギリスの研究者である著者と私とは、バックグラウンドやアプローチがずいぶん異なるにもかかわらず、書いてあることは結構私の考えに近くて、自分の理解への自信がわずかながら深まりました。それを読んで思ったことを遠からずHPに掲出しますので、またご批判頂ければ幸甚です。

小林瞳様
2019年1月16日 曽我逸郎