曽我様
前のメールでは単に感想というか何を言いたいかよくわからない文章になってしまいましたので、ちょっと反論のようなものを書いてみます。
人生に意味や価値や目的などない、完全に何もかもが虚妄ならば、善を行う根拠すらないと言い出す者がきっといるでしょう。欲望の命じるままに生きて何が悪いのか、と。「あらゆる「大きなもの」を脱ぎ捨てれば、自分の寄って立つ基盤も、行動規範も失う。」とは、こういうことだと理解しました。現代の多くの人はこれを自由と取り違えていますね。
しかし以前ご紹介いただいたリベットの話のように、欲望の意思は意識に先立って起こる無意識の反応であるし、欲望の根拠は自分で作ったというより外部から与えられた経験によるものです。こんなものに従うのは自由ではありませんし、常に追い立てられているという意味でそれ自体が苦しみです。
この現実をお釈迦様は「苦諦」と呼び、イエスは「悪魔の声」という比喩で表現しました。
これに対する処方箋として、お釈迦様は「八正道」を説きましたし、イエスも様々な教えを説きました。
この面について、仏教もキリスト教も同じように正しいと思うのです。
(この辺から反論のようなものです。「ようなもの」と書くのは、曽我様がイエスの教えを否定しているのではなくて無常=無我=縁起が広まらないことを懸念されているだけであることは分かっているからです)
ゆえに、キリスト教の神が幻想であるからといって、イエスの教えを否定するのは誤りだと思います。本質的に大事なのは苦の滅とそれにつながる教えであって、神の存在ではないからです。(キリスト教の人は怒るかもしれませんけれど)
お釈迦様は古代インドの人々に教えを説く時には彼らの信じるものを換骨奪胎するような仕方で説きました。彼らの信じていたのは輪廻転生なので、彼らに分かりやすいようにそれを使ったのだと思います。
イエスのいた古代イスラエルでは唯一神と律法が信仰されていたので、イエスも方便として使ったのではないでしょうか。
迷信が廃されるべきなのは、論理的でないことではなくてそれが苦を作ることによります。唯一神と同じく、輪廻転生も存在を証明できないものです。輪廻転生説自体は善でも悪でもないが、苦しんでいる人を前世の行いが悪いと言っていじめるなら、それは迷信です。唯一神自体は悪い考えとは言えないが、信者以外を差別することは迷信です。
という訳で廃されるべきは輪廻転生説や唯一神という考えではなくて、その悪い運用だというのが私の意見です。冒頭の例のように、無我や無常も悪い運用をすれば犯罪の言い訳になったりするでしょうから。
キリスト教の説教を聞くと、「内なる神」というような言い方をする人もいます。生きとし生けるものへの愛という意味では「四無量心」に近いような気がします。世界を作った者という「大きなもの」の物語を離れ、神の国、永遠の命といった言葉をメタファーと捉え直して、死後でないいまの心を救う教えへと変容しようとしているのではないでしょうか。それが今人類に求められている教えだからであり、個人的にはそれがイエスの本意だったのではないかと思います。「無常=無我=縁起」に相当するような教えもキリスト教なりの表現できっと現れるでありましょう。
幸運にも「無常=無我=縁起」の教えに出会えた我々は、その教えを学び、実践することによって世界に貢献することができます。しかし苦の滅につながるのなら他の道を歩む人がいてもいい。いろんな道があった方が楽しいし、彼らから学ぶことも多いと思います。曽我様はどう思われるでしょうか。
2019 1.9
返事を書かないままずいぶん時間が過ぎてしまいました。
「困った経文」と cetanA に関連して教えて頂いた論文 “FREEDOM AND AGENCY IN LIGHT OF THE TWO TRUTHS” 、いくつもの節が折り重なった複雑な文章の連続で難儀をしていますが、ようやくあと少しのところまで読み進めました。思ったよりもわたしの考えと近くて、うれしく感じています。読み通せたら感想を書きますので、またご批判下さい。
さて、頂戴したメールについてですが、わたしは、我々はなにを目指すべきなのか、いいかえれば、釈尊はわたしたちをどう導こうとしたかが重要だと思います。それをどう受け取るかのほんの微妙な差が、大きな違いになってしまうと感じます。
釈尊は善を教えたのか? 苦を滅することを教えたのか?
そう考えても間違いではないでしょうが、この解釈では違う方向に進んでしまう可能性がまだわずかに潜んでいます。つまり、悪や苦がわたしたちの外側にあらかじめあると思ってしまって、それを滅ぼそうとしてしまうことになりかねません。その結果、かえって大きな苦をつくってしまう。例えば歴史上何度も繰り返された宗教戦争や異教徒攻撃です。歴史学の研究には「それらの背景には経済的な思惑があって、宗教対立が本質ではない」という分析があるのかもしれませんが、宗教的なスローガンが異教徒攻撃の理由にされたし、現実にそれによって高揚して闘いに赴いた人たちが大勢いたことでしょう。プロパガンダも、「悪を倒せ!」と主張します。
それに対して、釈尊の教えはずいぶんと異なります。徹底的に自分を分析・追及してみたら、自分とはそのつどの縁によって起こされる一貫性のないそのつどの反応・現象にすぎなかった。にもかかわらず、立派な自分が存在すると妄想し、それにふさわしい「価値」(富・地位・名声・賞賛など)を掴もうと懸命になり、それが脅かされるといきりたち、そのようにしてわたしたちは苦をつくっている。
「苦をつくらない」こと、「人も自分も苦しめない」ことが目標であって、「苦をなくす」ことを目標にすべきではないのです。「苦をなくす」ことを短絡的に目指せば、義憤に陥り攻撃的になりプロパガンダに操られるなどして、かえって苦の増産に加担しかねません。
確かに釈尊は慈悲も説いていますが、それは修行の途上において執着を抑えるための教えだろうと思います。慈悲は、釈尊の教えにふれなくとももともと凡夫に備わっているが、執着による強い制約を受けている。無常=無我=縁起が自分のこととして納得されて、我(=我執の対象)などもともとなかったと分かれば、我執も、そこから派生するその他の執着も消鎮し、執着によって苦をつくることは停止する。慈悲も制約を解かれてのびのびと働き出す。無常=無我=縁起をおのれのこととして納得することで、執着が鎮まり、むなしい懸命の努力に「常に追い立てられている」状態から解放され、苦の生産は停止する。これが釈尊の教えの核心です。
釈尊以外の誰が、「自分は縁によってそのつど起こされる現象・反応であって、自分は存在しない」とみずから気づくことができたでしょう。無常=無我=縁起に相当する教えがもしも一神教や多神教に生まれれば、それはもはや一神教でも多神教でもあり続けることはできず、つまり、無神教=釈尊の教えに変わらざるを得ないのではないかと思います。
昔、マイスター・エックハルトの神秘主義を、ほんのさわりだけですが聞いたときは、非常に仏教的だなぁと感じましたが、今振り返れば、それは釈尊の教えではなく、梵我一如化した仏教を彷彿とさせたにすぎず、梵我一如化した仏教は、釈尊の教えではありません。
そんなことで、釈尊の教えは、やっぱり独特であるとわたしは思います。
にこさま
2019年1月9日 曽我逸郎
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ちょっと加筆(1月10日)
わたしは、釈尊の教えを他と一緒にしたくないと思っているだけであって、キリスト教やその他の「大きなもの」を攻撃しているわけではありません。
アマノさんがメールに書いておられるように、大学の先生やITの先端技術者でも、伝統的宗教の非科学的ともいえる教義を今も信じておられる。人間は、目的や分野、場面によっていくつかの相反するものの見方を使い分けることができるようです。矛盾を解消するために敢えてそれらを突き合わせてどれか一つを選択することはせず、うまく避けている、という言い方でも構いません。
「大きなもの」を信じている人は引き続きそれを信仰しつつ、無常=無我=縁起という人間理解、自己理解が、人々の中にミームとして広がってくれればいいなと期待します。それによって、世の中全体の執着のレベルがわずかなりとも下がるのではないかと思うからです。無常=無我=縁起という自己理解が、広まり、深まるにつれて、執着のレベルが下がり、世界の苦は減少する。そう願っています。