無我の苦しみからの解放、生きがい、主体性(長野県地域住民大学に向けて)

2017 04.18|米山義盛さん

米山義盛さん
曽我から
2017 4.15
今日は。失礼します。6月17、18日に中川村文化センター-望岳荘でお世話になる地域住民大学の関係者の一人です。曽我村長さんに岡庭前阿智村村長さん及び太田政男前大東文化大学学長さんのお3人で、存分に語っていただきたいと御期待申し上げますたまたま先生のこのブログに出会って、今後じっくり読んで、無我の苦しみからの解放から生きがいを再確認したいなどと思っています。主体的に生きることと無我の関係をどう理解したらよいのか?私は、先生と同時期に京都大-教育学部にいて社会教育を専行していました。一浪して入学し、現在の県会議員小島康晴さんは法学部に入って一緒になり、飯田高校の同窓ということもあり、高校時の考古学研究会で一緒したこともあったので、よく飲んで議論した仲でもあります。社会教育-教育についての理解は、宮原誠一(東大教授-故人)の「教育の本質は、社会の緒機能の末端での人間化-主体化である。」との理解を私の信条として、生きてある世界での諸事に取り組んでいます。
20日に住民大学の現地実行委員会、25日は県段階の事務局会議で、内容を固めて行きます。1日目のお3方のお話の内容の焦点や柱を考えないと、限られた時間で充実した内容になるように、太田政男氏や岡庭一雄氏にも相談しますが、先日お渡しした集会呼びかけ文から、先生の思われる焦点や柱、語りたいことをお聞かせください。今後の協議の参考としたいと思います。人間が生きる哲学や思想にも迫れる内容になるように、宜しくお願いします

2017 4.18
前略

 メールを頂きありがとうございます。新しいサイトを立ち上げて最初のメールです。というより、メールを頂くこと自体が久しぶりなので、大変うれしく思いました。このところサイトの更新が滞っているためだと思います。村長退任後は気持ちをあらためて学習と発信に努めて参ります。

 6月の長野県地域住民大学では、教育学、特に社会教育の分野で活躍してこられた太田政男先生、そして、行政の大先輩として折々にご薫陶を頂いてきた岡庭一雄前阿智村村長とお話ができること、緊張しつつも楽しみにしております。中川村を会場にして頂いたことも大変有り難く、感謝申し上げます。

 ディスカッションでは、今の政治のあり方について、批判的に取り上げない訳にはいかないでしょう。
 とはいえ、期待して頂いているような、無我などの釈尊の教えのディープな核心部分と、社会的なテーマを関連づけて論ずることは、私自身なんとか実現させたいと試行錯誤はするものの、なかなかうまくいきません。
 それでも、凡夫という不完全な我々がなんとか社会を運営していく方策、制度として、民主主義を再度捉えなおすことは可能でしょうし、その視点から、現在の政治を国内のみならず、世界の情勢も含めて、問題にすることはできると思います。

 凡夫というのは、執着のまま目先の損得で自動的に反応し、苦をつくっている、というあり方です。主権者も凡夫だし、政治家も官僚も凡夫です。自覚のないまま繰り返し執着の反応となっている我々が、なるべく苦を生み出さない社会をつくっていくためには、議論しあい、批判しあい、批判から学びあうしかないありません。そのためには、三権分立などの、権力を分散して独走しないように互いに牽制させる制度設計が必要ですし、また、多角的な視点から幅広く批判し会うためには、情報の開示、共有も不可欠です。
 この点で、日本の現在の政権は、大いに問題があると言わざるを得ません。

 また、我々みんなが凡夫であることは、執着を巧妙に刺激されて反応を操られる危険も内包しています。プロパガンダです。不安や差別心や義憤を利用して、人々の感情を同じ方向に動かそうとします。プロパガンダへの警戒についても触れられたらと思います。

 みんなを同じに動かすと言えば、日の丸、君が代に関する学校の先生方への処分を思い起こします。才能も徳もない凡夫が、上に立っていると思い上がって人々を従わせようとする時に利用するのが、国旗、国歌です。国旗、国歌が、国民主権の象徴であればすばらしいのですが、残念ながら、日の丸、君が代は、これまでのところ一貫して国民を上から統治するための道具として使われてきました。
 人々のふるまいや発想を型にはめて支配する「空気」の圧力が強いのは日本社会の特徴だと感じますが、特に労働環境が劣悪になり雇用が不確実になった近年では、若い人たちの間に、空気を過度に「忖度」して、望まれる型に無理に自分をあわせる傾向が強まっているように思います。
 創造とは自分の内側から自然に湧きだしてくるものに形を与えることです。だからその反対に、外の人たちからの要求を忖度して仕事をしても、そこに創造性がうまれないのは自明です。近年の日本製品に人をワクワクさせる画期的な魅力が失われているのは、これが原因だと思います。「上に立つ」凡夫たちが「下に働く」凡夫たちに忖度を強いて型にはめ支配しようとすることが、日本の社会から活力を奪い、日本の経済も萎縮させていると感じます。
 空気を読ませ忖度させて型にはめるのではなく、個性と多様性を尊重し、異なる考えの凡夫たちが互いにのびのびと批判し合い学び合う世の中をつくっていくことが大事だと思います。

 以上、メールを頂いてあらためて考えてみて、こんなことを6月の住民大学校では話題にできれば、と考えました。太田先生、岡庭さんからの鋭く深い問題提起も、どきどきしながら楽しみにしております。

* * * * *

 次に、6月の長野県地域住民大学では多分突っ込みきれない釈尊の教えのディープな部分にも触れておきます。

 米山さんは、「無我の苦しみからの解放」と書いておられます。
 無我がそのまま苦しみに直結しているわけではありません。無我であるにもかかわらず、ありもしない我に執着することが苦を生むのです。

 我々凡夫も無我だし、仏も無我です。凡夫は、無我なのに無我と知らず、「大事な自分がある」と思いなし、それに執着し、執着のまま損だ特だと自動的な反応を繰り返しています。もともと存在しないものに執着しているのですから、不可能な努力です。無駄な努力に懸命になっているので、自分も周囲の人たちも苦しめます。
 それに対して、仏は、自分は存在ではなく(=無我)、肉体という場で、刺激(=縁)を受けて起こされる(=縁起)、一貫性のないそのつどそのつどの(=無常)反応である、ということに気づき、それに執着することは愚かで虚しい反応であると納得しています。その結果、執着の反応が鎮静化して、苦をつくることが鎮まっています。
 ところが、無我を言語で表すと不自然なものにならざるを得ません。なぜなら、言語は、主語となるものの存在を前提にしているからです。
 さきほど、「凡夫は執着する」と書きました。こう書くと、あらかじめ凡夫が存在していて、それが執着する、というニュアンスが生まれます。しかし、本当は凡夫は存在しません。肉体という場所で、断続的に縁によって起こされるそのつどの執着の反応が凡夫なのです。

 我々が、そのつどそのつど脈絡なく(=無常)、縁によって起こされる(=縁起)、反応であって存在ではない(=無我)ということは、我々には客観的な価値も意味も目的もない、ということになります。
 随分以前、上のような説明を読んで、「では私に自殺しろというのか」と言ってきた方がおられました。「価値や意味や目的のないものは、存在してはならない」という考えが、価値や意味や目的に縛られた考えです。
 価値も目的も意味もなくても、夕方の西の空の色の変化はこの上なく美しい。風をきって翻るツバメにはほれぼれします。Ohne warum. すばらしい現象に理由はいりません。

 学生時代の私は、必死になって価値や目的を探しました。しかし、いくら考えても、見つけ出せません。今度は、「随所に主となる」とか「殺仏殺祖」といった言葉に憧れて、禅寺に通いました。つまり、はじめは価値を探し求め、その次には、みずから新たな価値の創造者になろうとしたのです。価値の概念にとことん縛られていたわけですが、よく考えてみれば、価値のために働くことによって自分を価値ある者にしたかったに過ぎません。要するに我執でありました。
 我執が解消され、目的や価値や意味の問いから解放された時、「生きがい」はそれまでと異なるものになるのかもしれません。あるいは、生きがいそのものが意味を失うのかも。

 最後に、主体性と無我の関連について、これは私にとって最大の難題でした。結論からいうと、突き詰めて考えれば、我々は、縁起の現象である以上、受動的であって、主体的ではあり得ません。
 しかしながら、我々は、多くの反応が組み合わさった非常に複雑な反応であって、個々の縁起の反応は受動的であっても、それらが組み合わさることによって、全体としては主体的と呼んでいいような反応になります。その要素としては、条件反射(学習)や、記憶やシミュレーションといった反応があります。おもしろいのは、シミュレーションのためには、自分を対象として実体視することが必要ですが、これは我執を生む構造でもあります。反省をして、精進・努力するという主体性の極みのような反応も、突き詰めれば、縁起の反応の組あわせです。典型的な例を挙げれば、発心(キリスト教なら「回心」)です。自分で主体的に発心を起こそうとしてもそうはできない。なにか重大な、あるいはふとした機縁によって、発心は起こされるのです。

 久しぶりにご意見を頂いて、嬉しさのあまり書きすぎました。

 6月には大変お世話になりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

                    草々
米山義盛様
     2017年4月18日      曽我逸郎