Q:小川一乗「大乗仏教の根本思想」を読んで A:他力思想と梵我一如

2004 06.24|和バアさん

和バアさん
曽我から
和バアさん 小川一乗「大乗仏教の根本思想」を読んで
早速のお返事ありがとうございます。
和バアです。
お返事の中から(前のメールも含めて)どうやら自然崇拝と仏教とを切り離して考えた方がよさそうだと感じています。
たまたま、私の仏教入門が自然崇拝なるものからで、とても感激したものですからその思いを捨てきれないでいます・・・・・、
今、曽我さんの話の中にたびたび出てきた小川一乗の”大乗仏教の根本思想”を読んでいます。
で、今は別な意味で混乱しています。
“根本思想”で言う仏教は人間としての自然な姿を全く否定されておらず、煩悩でさえも縁起から沸き起こることである。
それを滅しようとか、断ぜようとするのは、自己の存在(縁起によって成り立っているため実体はない)に無知であるが故のむなしい努力だ。と言い切っておられます。
断ぜようとしている私も、断じられる煩悩も実体ではなく、縁起におけるそれぞれがあるだけである。
浄土系の教えからテーラワーダの教えを知ったときには日本仏教はえらい釈尊の教えからは離れたものだな。と思っていましたが、今ははてなマークでいっぱいです。
小川先生(竜樹であり親鸞)の仏教理解の方がすっきりとくるのです。ここまで来てブッダダーサ比丘を思いだしました。
きっとブッダがなくなった時点で仏教の教えがどんどんと変えられていったのですね。
というか、理論的になっていった。
で肝心の”我とか我執”から起こる苦がどうすれば取り除けるか、いえ苦から開放されるか、といったことから離れていったのでしょうか。
きっと悟りを得ることの方を重要視されたのでしょうか。”根本思想”はまだ途中までしか読んでいないのですが、曽我さんの目指しておられる方向が少し見えてきたような気がします。

今まで読んだところの印象から、根本思想は他力を教え、ブッダダーサは自力を教えている?
目指すところは同じかなと思います。

思わぬところで自分の考えがすっきりと片付きました。ありがとうございます。
これからも応援しています。

返事 他力思想と梵我一如 2004,6,30,
拝啓
 和バアさんのメールは、いつも新しい着眼点を与えてくださるので、ありがたく思います。
今回の一連のやりとりでは、本来は「梵我一如」と無縁だった筈の浄土・他力の信仰が、「梵我一如」的な傾向を持つに至る可能性があることに気づかせてもらいました。多謝。
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 最初にチョットだけ自然崇拝と仏教の問題にもう一度触れさせてください。
 「仏教が好き!」で中沢新一さんが言っておられるように、自然崇拝(アニミズム)は、仏教よりも古く、世界各地に広くあったものだと考えます。自然を畏れ敬い、自然に感謝することは、大変素晴らしくまた正しい態度だと思います。しかし、釈尊の教えは、けして自然崇拝・自然への感謝ではありません。にもかかわらず「仏教とは自然崇拝だ」と言うならば、それは本来の釈尊の教えを覆い隠し、結果的になくならせてしまうことになると思います。ですから、自然崇拝それ自体はいいことですが、釈尊の教えを自然崇拝だとすることは間違っていると考えます。そして、残念なことに、真如とか法界とか仏性といった「仏教的」な言葉で自然崇拝を語り、それが釈尊の教えだと説く「仏教」が大変多いように感じます。
 先日HPを更新した際、和バアさんとの意見交換も掲出させていただいたのですが、その時若干の加筆をしておりますので、御一読頂ければ幸甚です。
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 さて、「大乗仏教の根本思想」に関して、メールを頂戴しました。
 和バアさんの読解は、私の受けた印象とずいぶん違うので、最初戸惑いました。私は、「自分の考えと小異はあるが、大きな方向性は同じ」というような感じで、小異には注意を払わず、いわば読みたいところだけ読んでいたのだな、と反省しました。
少し整理させてください。
 前5世紀頃、釈尊が教えを説かれた。それはどういうものだったのか? 残念ながら、現在において万人が認める客観的なものとしては、分かりません。それが分かっていれば、こんなに混乱も苦労もありませんよね。
 現在、「仏教」には様々な立場があり、その多くが「自分こそ釈尊の教えを正しく引き継ぐもの」と主張しています。
 テーラワーダはおそらく、2500年の間ずっと変わることなく釈尊の教えを正確に受け継いできた、と主張するでしょう。
 ブッダダーサ比丘は、2500年の間に、様々な仏教外の要素が混入して変質してしまったと考えて、釈尊の当時の教えに立ち戻ろうとされました。
 小川先生は、仏教の歴史は、全体としては、向上・進歩ではなく、変質・逸脱の歴史であり、その中で只二度だけ釈尊の教えに立ち返ったことがあった、それは龍樹と、道元・親鸞の鎌倉仏教である、と主張されています。そして、御自身は浄土真宗の方ですから、特に親鸞の他力の教えは、釈尊の教えを正しく引き継ぐと仰っています。
 しかし、私は、今ある「仏教」のどれかを、そのまま釈尊の教えであると考えることはできないと思っています。それぞれ、なにがしか2500年分の変化をしている。テーラワーダとて例外ではない。どこがどう変わってしまったのか、本来の釈尊の教えはどうだったのか、我々は、自分でそれを追求する他ありません。ブッダダーサ比丘も小川先生も、ひとりの人間として仏弟子として、さまざまに問いさまざまに考えて、ご自身の<仏教>に辿りつかれたのだろうと思います。いわば、自分自身の実存において、浄土門の言葉を使うなら「選択」をなされた。
 我々もまた、ひとりひとりの仏弟子として、自分の実存を賭けるに値する教えを、問い、考え、試行錯誤し、2500年の時空を超えて釈尊の教えはこうである、と言えるものを構築する努力を続けるしかないと思います。
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 長い前振りになりました。
 今の私が考える①釈尊の教えと ②本来の他力の考えと ③梵我一如化した他力思想と ④梵我一如の基本パターンを比較してみます。
 先に言い訳をしますが、①は仮説ですし、②③④はちゃんと勉強したわけではないので、想像にすぎません。和バアさん御自身で、眉に唾つけながら、批判的に読んでください。そして、おかしな所を見つけていただいて、御指摘頂ければ大変助かります。
 添付をご覧下さい。久しぶりにパソコンで作図しました。順番が後先しますが、歴史の流れに沿って考えてみます。

 まず、④の梵我一如。
 世界の根低に、唯一の真なる実在(梵)があります。世界のさまざまな個物は、すべてその梵の現れです。梵は、個物と対立するのではなく、個物の次元を超越しており、同時にそれぞれの個物として具現化しています。梵は、善きものであり、梵から生まれた個物もまた善きものです(赤色)。
 この考えは、もともとはすべてを生み出す自然への信仰であり、原始的なアニミズムが発達した形態だろうと思います。
 我々自身も、梵から生まれたものであり、本来善きものだ、と想定されます。この「本来の自分」はセクトによって、アートマン、(霊)魂、心、仏性、如来蔵などと呼びかえられますが、構造は同じです。問題となるのは、青で表した、悪しき部分(饅頭の皮)で、肉体、客塵、煩悩、執着、はからい、などと呼ばれており、この部分は梵に由来せず出所不明で、なんらかの処理が必要になります。
 本来善き自分に覆い被さる悪しき部分、否定すべき部分を、「肉体である」と考えれば苦行主義に、「客塵・煩悩だ」と考えれば、禁欲主義や道徳主義に、「はからい」と考えれば、無為自然主義になります。そして、「この部分も梵から生み出されたのだ、それを悪しき部分と呼ぶのが間違いだ、煩悩もまた善し」、と考えると全肯定主義となります。
 それに対して、釈尊が説かれたのが、①です。一見して分かるとおり、④とは、まったく共通性がありません。梵のような超越的な実在を想定しません。上にも下にも超越者はいません。自分という現象と同じ次元にある他の現象から水平に縁を受け、反応している(縁起)。他から受ける縁は、善でも悪でもなくニュートラル(白い矢印)であるけれど、我々は、ありのまま、自然のままであれば「自分がある」と考えて(我執)、自分を守り育てる執着の自動的反応を繰り返し、悪しき縁(青い矢印)を発散し、それによって自分と人を苦しめています。我々は、「自分がある」と考えていますが、本当はさまざまな縁が次々に縁を生んでいる縁の連鎖(矢印の連鎖)があるだけであって、想定されているような「我」はありません(無我。点線による楕円として表示)
 しかしながら、我々人間は、置かれた状況・縁に単に決定論的に反応しているばかりではありません。我々は、自分という反応の反応の仕方を整えよう(戒)と努力することもできる。釈尊最後の言葉は、「怠ることなく修行を完成なさい」でした(大パリニッバーナ経、中村元訳)。釈尊においては、無我、縁起と、主体的な努力(はからい)とは矛盾しません。我々は、無常にして無我なる縁起の現象ですが、主体的努力が可能ですし、もし「これ以上苦を生み出すことはしたくない」と願うなら、釈尊の教えに則って、正しい努力(戒・定・慧、八正道)を重ねていかねばなりません。
 そして、正しい主体的努力の結果、自分が無常にして無我なる縁起の現象であり、そのつどの反応であると腑に落ちて如実に見た時、執着の反応パターンは、慈悲の反応パターンに変わり(赤い矢印)、人と自分に苦を作り出すことが止まる。これが釈尊の教えだと考えます。
 (無我、縁起と主体的努力が矛盾しないことについては、小論集の「無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か。」をご覧下さい。)
 次に②の他力の考えを考えます。①の釈尊の教えとの最大の違いは、主体的努力を否定する点です。「我々は、徹頭徹尾弱いダメな人間である。正しい努力など不可能だ。ただ執着のままに悪を為すのみ。まれに善いことをしたとしても、自分がしたのではなく、たまたまそのような縁があった巡り会わせにすぎない。徹底的に弱いダメな人間である私が、なにか善いことをしようと主体的努力を考えたとしても、それは我執を増すだけ、かえって状況を悪くさせ、浄土を遠ざける。だから、一切のはからい(努力)を停止するにしくはない。しかし、このようなまったくダメな弱い私でも、阿弥陀如来は必ず救うと誓ってくださった。なんとあり難いことか。ただもう阿弥陀様の誓願におすがりするばかりだ。」
 ダメな私とはまったく次元の違う阿弥陀様が、一方的な慈悲で救ってくださるのであり、阿弥陀如来は、弱い私とは対極的なまったく異質な絶対的な他者です。
 梵我一如が自分を本来善なるものと考え、他力思想が自分をダメなものと考え、両者の見方は正反対であるにもかかわらず、ともに努力、はからいを停止すべきだと考えるのは、興味深い点です。
 最後に、④梵我一如化した他力を考えます。
 これは、ある意味では③の他力思想の徹底化・純粋化なのかもしれません。
 「ダメな我々が、弥陀の誓願に感謝し、おすがりできるのはなぜか? そのこと自体が既に弥陀の誓願の働きである。阿弥陀様のお陰でダメな我々でも阿弥陀様の誓願に感謝することができる。つまり、我々の内で、阿弥陀の慈悲は既に働いているのだ。」
 つまり、図③のように、青い「ダメな私」の中に、赤い「弥陀の慈悲」が働いているという構造になります。④の梵我一如と比べると、④では、梵につながった善き部分(饅頭の餡子)が本来の自分であるとするのに対し、③では、外側のダメな青い部分(饅頭の皮)を自分と考える、という大きな違いはありますが、構造的には似ています。
 さらに、和バアさんのお師匠さまの、「周りの何もかもを阿弥陀仏と捉え、自分は生きているのではなく、大きな大きなものに生かされている」という要素を図に加えると、③の図は、ますます④に似てきます。(図③の赤い矢印は、自分を生かしてくれている周りのものからの慈悲を表したつもりですが、水平方向の縁ではなく、弥陀から発する垂直方向の力の影響を受け、斜め上向きの矢として捉えられていると感じます。
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 和バアさんのメールに刺激されて、以上のようなことを考えました。
 和バアさんのお師匠さまに言い訳をすると、私は、お師匠さまにお会いしたことも、お考えを体系的に読んだこともありません。ただ和バアさんを通じて、お言葉の断片を聞いただけです。ですから、ここにまとめた③の梵我一如化した他力思想は、お師匠様のお考えというわけではなく、和バアさんの断片的紹介を触媒にして、私が勝手に思いついた理論的に可能な他力思想のバリエーションのひとつに過ぎません。ですから、お師匠様の本当のお考えとは無関係です。
 私自身としては、勿論①こそが釈尊のお考えと思っています。①が、その他と異なる点をあげると以下のとおりです。
縁起する現象の上にも下にも、超越的なものを立てない。
 自分のあり方(反応のパターン)を望ましい方向に変えていけるのは、自分で自分に与える縁(主体的努力・はからい)だけ。超越的な梵の影響も、弥陀の慈悲も、想定しない。
 しかしながら、あたりまえのことですが、私のこの考えもまた釈尊から2500年隔たっており、どこまで正確に釈尊の教えを捉えているのか分かりません。どうか批判的に読んで頂いて、問題点をまたご指摘下さい。そのようにして、少しずつ釈尊の教えに近づいて行けると思っています。
 今後とも御協力宜しくお願い致します。
                   敬具
 和バア様
         2004、6、30、  曽我逸郎