先日紹介した『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社)は、ホモ・サピエンスの誕生前からホモ・サピエンス後の予想まで、超長期の歴史のマクロな流れをユニークな視点で辿っている。
その中で、下巻の、仏教についての記述が、断片的ながら思いがけず的を射ているので驚いた。
下巻は宗教に関する論考で始まる。アニミズム、多神教、二元論、一神教を比較した後で、「神への無関心を特徴」とし「自然法則を重んじる」宗教というカテゴリーを提示し、その代表として仏教を考察している。
著者はこう書いている。(曽我の要約)
苦は、神の気まぐれによって生じるのではなく、自分の中の渇愛から生じると、ゴータマ(釈尊)は悟った。快を経験すればさらにそれを渇愛し、不快を経験すればその除去を渇愛する。渇愛は常に不満足をもたらし、心を不安定にする。これは、仏教徒にとって、神からの啓示ではなく、普遍的な自然の法則である。渇愛せずに現実をあるがままに受け入れるために、「何を経験していたいか」ではなく「今何を経験しているか」に注意を向ける鍛錬、瞑想術を開発した。渇愛を消火すれば、完全な満足と平穏の涅槃が訪れる。
私自身、一神教、多神教に対して、釈尊の教えを「無神教」だと考えてきたが、不思議なことにこの指摘はこれまで見かけなかったので、ほおと思った。
著者は、イスラエルの若手歴史学者で、仏教については専門外だと思うが、なかなかポイントを捉えている。
本の最終章は、「超ホモ・サピエンス」という章題で、近未来、ホモ・サピエンスの次に現れる種を考察している。(先のブログで私が想像したような、ニーチェの超人や、ホモ・サピエンスの新たな生態としての仏のことではなかった。)
今後さらに遺伝子操作やクローン技術が開発、応用され、様々なデバイスが人体に組み込まれ、寿命という概念がなくなり、人々の脳がデジタル技術でネットワーク化されるなど、科学技術が進展していけば、単純にバラ色の未来が開けるのではなく、逆に、現代社会の基礎にある様々な共通の理念が、深刻な動揺に見舞われることになるだろう。そう著者は推察する。人権、平等、格差、差別、責任、死すべき有限な存在としての自己認識、アイデンティティ、共同体など、根本的な常識が揺らぎ、法制度の混乱や倫理上の論争に陥りかねない。
さらには、増殖、進化するようにゼロから設計されたDNAの研究も始まっているし、学習し進化、増殖するコンピュータ・プログラムやウィルスが、ネットワーク・システムとして新たな「生命」となり、ホモ・サピエンスを超え頂点に立つかもしれない。
科学技術の発展、応用が、予想しない深刻な結果を招きかねないのに、有効な対応ができないのは、なんであれ、我々は、なにができるかだけではしゃいでしまい、なんのためにそれを行うのか、それが何をもたらすのか、それはよいことなのか、深く考えないまま取り掛かるからだ。そういった判断の基準を持っていないのである。新たな科学技術が開発されれば、例えば遺伝子組み換え作物に見られるように、目先の効能で一儲けしようという資本主義の思惑がすぐさま走り出す。
科学技術が指数関数的に猛スピードで発展し、世界を造り変える大きな力を発揮する中で、深く考えた判断基準のないまま、副作用を軽視して、「渇愛」(私の普段の言い方なら、執着)で目先の利得を競い合って追い求めるのは、たいへん恐ろしいことだ。
著者も、ひとつ前の章で「文明は人類を幸福にしたのか」と問うている。科学技術のみならず、人類の文明そのものが、一貫して執着に駆動されてきたのであって、真の幸せについて問うことのないまま、ここまで来てしまった。
そう考えると、執着の無益さ、愚かさに気づき、苦の生産を停止する術を説いてくれた釈尊の教えは、今再び学び直すべき価値がある。これはまさしくこのサイトのテーマであるが、改めてそう思った。
2017年6月28日 曽我逸郎
【追補】
上とは関連が薄いけれど、もう一点なるほどと思ったこと。
第二次世界大戦終結後、人類は、激しい武力衝突を伴うことなしに、抜本的な構造変化を受け入れたり、みずから導いたりできるようになったのではないか、と著者は言う。その例として、イギリスの植民地からの撤退や、ソビエト連邦の崩壊が平和的に進行したことを挙げている。勿論、凄惨な民族浄化や悲惨な地域紛争、テロは繰り返されている。しかし、サピエンスの歴史を統計学的に見渡せば、印象とは裏腹に、暴力による犠牲者数が今ほど減ったことはないという。近年では、戦争の犠牲者より暴力犯罪の犠牲者の方が多く、両者を合算しても、自殺者数と同等で、交通事故死亡数よりずっと少ない。
かつて、「帝国」は、肥沃な農地、地下資源や市場を独占するために他国を侵略して併合したり植民地とした。しかし、現代では、富は、シリコンバレーやハリウッドに見られるように、土地ではなく、人間の脳から生み出される。シリコンバレーやハリウッドを侵略、占領しても、そこで働く人たちがいなくなれば、価値は失われる。油田地帯など例外はまだ残っているものの、軍事的に土地を奪うことの意味は失われている。
軍事的な侵略に代わって、他国の富を利用する方法は、投資だ。経済的侵略と捉えることもできるし、経済関係の緊密化とか、win-winの関係構築という人もいるだろう。いずれにせよ、国家対国家の軍事的紛争は、第二次大戦終了以降、わずかな例外を除いてなくなったと著者は言う。見えないところでは権謀術数が繰り広げられ、極端な場合には暗殺さえ行われるのかもしれないが、少なくとも表向きは、平和的な外交とマネーの力によって物事は進んでいくようになっている。そう言われてみれば、最も巧妙な事例は、戦後の米国による日本支配だろう。軍事基地さえ、「平和的に」保持し、その費用負担までさせている。また、北朝鮮を見れば、軍事力はもはや外交交渉のツールでしかなくなっていることも明白だ。
現代における大規模な暴力の行使は、もはや国家間の戦争ではなく、内戦やクーデター、テロ、あるいは差別の激化として起こっている。
従って、重要なのは、仮想敵国を想定した軍事抑止力増強ではなく、内政ということになる。国内に暮らす人たちが、各々充実して生活できるようにすること。それによって、経済的にも政治的にも堅実で安定した状況を作り出し、それを背景にして、筋の通った理念があれば、外交にも底堅い交渉力が生まれる。外国からの内政干渉や内部に分断を生み出そうとするたくらみがあったとしても、健全な抵抗力で対抗できるだろう。
(ただ、このような冷静な分析は、誰かが仮想敵の危険を妄想、喧伝して、大衆の執着心を恐怖で操ると、埋没されてしまいがちだ。)
もっとも、第二次世界大戦後という短い時間を見ただけで、「サピエンス史上かつてなかった平和の時代が切り開かれた」と判断するのは、早計かもしれない。著者もそれは言っている。例えば、科学技術を深く考えないまま応用した結果、環境や生態系に深刻な打撃をもたらし、人類の存続が危機に瀕して政治的パニックが起こって軍事衝突に発展することも考えられる。しかし、そんな時こそ、軍事力の使用はさらに破滅的状況を生み出す。やはり、軍事的対立ではなく、平和的に協調して克服するしかない。
ともあれ、サピエンスの長い歴史において、軍事力が重要性をもつ時代は終わったのかもしれないという指摘は、記憶にとどめておきたい。