釈尊の教え

馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想をたどる』岩波新書を読んで

拙著『「苦」をつくらない サピエンス(凡夫)を超克するブッダの教え』に対するご意見を伺いたくて、駒澤大学の松本史朗先生と東京大学東洋文化研究所の馬場紀寿先生の研究室にお邪魔した。9月7日のことだ。
松本先生にはお昼休みの貴重な一時間、馬場先生には夕方から御徒町の南インド料理屋が店じまいの準備を始めるまで、みっちりとたくさんのお話をお聞きした。

全体的には、及第点というか、面白く読んで頂いたようだ。研究者の本ではないという寛大な割引もあっただろうが、少なくとも致命的な問題点は指摘されなかった。逆に、こんなふうに束縛なく思うところを書ければ、と気安さを羨んでおられるようにも感じた。

馬場先生からは、『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(岩波新書)を頂いた。8月21日発行の新著だ。学会の最新の研究成果にもとづく考察である。

馬場先生は、仏教解釈のやり方には三種類があるという。ひとつは、現代的視点からの自由な解釈、次に、教団の教学に基づく伝統的解釈、三つめは、資料に基づいて歴史の文脈の中で考察する解釈である。
馬場先生は、研究者として第3の立場にたつ。手に入る資料を当時の時代背景において分析し、実証的に考察する。恣意的な解釈や想像や願望は徹底的に排除し、言えること以上は言わない。
当然この立場には限界もある。紀元前3世紀より古い仏教については語ることができないのだ。実証的考察に必要な資料がないのである。従って、釈尊自身がなにを語ったか、どう考えていたか、それを研究対象に設定することも控えねばならない。

しかし、わたしにとっては、釈尊のもともとの教えこそが一番重要だ。それがどういうものだったか、ずっとあれこれ悩みながら考えてきた。先の「三つの立場」にあてはめれば、第一の「現代的視点からの自由な解釈」ということになろう。
ただし、勝手気ままに想像をたくましくしてきたわけではない。さまざまな教団の教義には批判的に距離を置いてきたが、学問研究成果はリスペクトし、それを材料にして、それに矛盾しない、それが許す範囲において試行錯誤してきた。その結果行きついたのが、「無常=無我=縁起こそ釈尊の発見の核心である」という確信だ。

『初期仏教 ブッダの思想をたどる』には、最新の成果が反映されており、認識を改めさせる指摘が多かった。仏教内部のみならず、他の宗教や思想、また大きな歴史・社会の動きも俯瞰する視点で書かれており、広い視野で全体を捉えなおすことができた。
ところが、わたしの確信を単純に補強してくれる内容ではなかった。詳細に読み返すと、相容れない部分も見つかった。自分の確信を保持するためには、なんらかの辻褄合わせをしなくてはならない。そんな目論見でこの感想を書いてみる。

まず、『初期仏教 ブッダの思想をたどる』の概要を書こう。

「初期仏教」とはなにか。「資料にもとづいて実証的に明らかにしうる、最も古い時期の仏教」だ。この本で扱われているのは、紀元前3世紀から紀元前後までの仏教である。前3世紀より前の仏教については、資料がなく、語ることができない。また、紀元前後には、南アジアの歴史、社会は大きな転換期を迎え、仏教も、僧団の定住化が始まり仏典が文字で記述されるようになるなど大きく様変わりした。その変化より前の仏教を、資料に基づき実証的に考察しようとするのが本書である。

元々、古代インドでは、聖典は記憶すべきものであって、書き記すべきではないという考えがあった。それは、仏教だけでなく、バラモン教などでも同様だ。そして、文字そのものも、紀元前3世紀のアショーカ王碑文が現存する最古のもので、それより前にインドに文字があったかどうかも定かではない。仏教典籍が文字で書かれるようになるのは、紀元前後になってから。つまり、一番肝心な文献資料が、紀元前後よりも古い仏教にはないということになる。初期仏教は、もっぱら口伝えで伝承されていたのである。

では、文献資料のない初期仏教をどのような手がかりで検討するのか。
仏教教団は、紀元前2~4世紀にいくつかの部派に分裂している。それらの部派が紀元前後以降であれ文字化して伝える文献に共通の内容があれば、それは分裂以前の仏教だと考えることができる。そのようにして、部派分裂が起こった紀元前3世紀頃までは、間接的であれ、当時の仏教を実証的に推察することができる。

では、各部派に共通する仏典とはなんだろうか。

伝えられるところによれば、釈尊の死後、教えが乱れることを恐れた高弟マハーカッサバの呼びかけにより、弟子たちは集まって釈尊の言葉を確認しあった。結集といわれるものだ。まず、ウパーリが律(出家者の生活規範)を語り、皆で確認し、次にアーナンダが法(釈尊の教え)を「このようにわたしは聞いた(如是我聞)」という形で語り、それを集まった弟子たちが承認した。このような手続きを経て、法と律が正式なものとして確定され、それが口頭で師から弟子へと伝えられていった。これを馬場先生は結集仏典と呼んでいる。

仏教典籍は三蔵と呼ばれ、経蔵、律蔵、論蔵に分かれる。このうち論蔵は、釈尊の教えを解説するものだが、部派によって内容が大きく異なり、後になってそれぞれの部派で個別にまとめられたものだと分かる。となると、共通部分を含む可能性があるのは、経蔵と律蔵になる。文献学的な詳細を端折って簡単にまとめると以下のようになる。

三蔵の全体を今に伝えるのは、上座部大寺派(スリランカ、ミャンマー、タイなどの仏教)のパーリ経典のみである。
律蔵は、上座部大寺派を含む主要な五部派とも概略共通したかたちで残されている。
一方、経蔵は、5部派ともおよそ同じ枠組みで伝えていたようだが、上座部大寺派以外では、説一切有部がかなりの部分を伝え、法蔵部に一部が残るだけで、他は散逸しており、今となっては各部派共通の部分をすくいとることはできない。

また、小部、あるいは小阿含、小蔵という名称で各部派とも韻文経典を集めたが、それが三蔵に加えられたのは、紀元後かなり時代がたってからのことである。(上座部大寺派の場合、最も遅かったとすると後5世紀初頭)
これまで学会では、スッタニパータを筆頭に韻文経典こそ仏教経典の最古層とする説が有力だった。確かに、韻文経典は、アショーカ王碑文や結集仏典で言及されているものがあるので、古いものが多く含まれることは確かである。しかし、出家僧団が組織として伝えてきた結集仏典ではない。民間に愛誦されて広がっていたものがずいぶん後になって取り込まれたのであって、仏教以外のジャイナ教やバラモン教などの教えや修行者の逸話、伝承物語など雑多なものがないまぜになっている。本生物語(釈尊の前世の善行の物語)はその例だ。従って、韻文経典を初期仏教を考える材料にすることはできない。

わたしは、拙著で自説の根拠を挙げるとき、スッタニパータなどの韻文経典から多くを引いた。それは、読者が中村元訳の岩波文庫で入手しやすいという理由だったが、今後は、韻文経典を自説の根拠に挙げることは控えねばならない。
(ただ、このことはわたしにとって大きな問題ではない。小部以外の経蔵から適切な文章を見つけることは難しくないだろう。)

さてそうなると、各部派が残した経典から、共通部分として使える部分は律蔵だけということになる。律蔵は、出家僧の生活規範と教団の運営ルールを定めたもので、釈尊の教えを説くことに主眼を置くものではない。しかしながら、新たに出家する僧が教団に入る際の受戒の式について、それが定まる経緯を説明するなかで、釈尊の生涯のいくつかの出来事を述べており、そこで釈尊の教えに触れている。
上座部大寺派のパーリ律は、各部派の中で最も少ない六つの出来事を伝えているが、それは他の部派にも共通している。梵天勧請、転法輪、ヤサの出家、カッサバ三兄弟の回心、ビンビサーラ王の出迎え、サーリプッタとモッガーラーナの回心の六つである。そこで言及される教えは、「施、戒、生天」「四聖諦」「十二支縁起」「五蘊」「十二処十八界」だという。

わたしとしては、これらが釈尊の教えではないと言うつもりはまったくない。戒、四諦、五蘊は、拙著でも重く取り上げた。施も執着のレベルを下げるための教えだと思う。十二処十八界は、世界を、認識対象、認識器官、認識内容に分類し、我々にとってそれらがすべてでそれ以外はないと説くものだ。現代の認知科学とも概ね整合する。無我、すなわち「私は存在しない、妄想である」という教えと根本において一致する。

生天(天界に生まれ変わること)については、わたしは釈尊の教えの本意ではないと考えるが、律蔵においても「次第説法」(順序だった話)と位置づけられている。当時の常識に染まった人をだんだんと導くための途中の方便的な教えということだ。生天はバラモン教の目指すところだったのである。例えば、梵天界に再生するにはどうすればいいか問う人にサーリプッタが慈悲喜捨を教えたのに対して、釈尊は、もっと優れた教えである解脱をなぜ説かなかったのかと尋ねている。つまり、生天は途中の方便的な教えであり、釈尊の教えのゴールではないのだ。

バラモン教は、不浄を避け祭式を決められたとおりに行うことで天界に生まれ変わることができると考えた。ジャイナ教は、霊魂にあたるジーヴァが、所有や殺生による業物質の流入によって汚染され輪廻を繰り返していると説き、なにも持たず裸で暮らし、殺生をせず、苦行によって業物質を滅することで、輪廻から解脱できると説いた。
仏教は、このような他教の教えの枠組みを前提にしつつ、それをずらすやり方で教えを説いている。例えば、天界に生まれ変わるには、祭式で供物を火に投じることよりも、慈悲喜捨、利他心が大切だと説く。輪廻から解脱するには、苦行ではなく、布施をしてよき生活習慣を身につけよ(戒)と教える。

しかし、わたしとしては、これではもの足りない。わたしが釈尊の教えの核心だと確信する無常=無我=縁起の影が薄いのだ。
無我については、六処(六根)・十二処・十八界、あるいは五蘊のいずれも自己ではない、自己はどこにも存在しない、という言い方で言及されている。ただ、それでは間接的だし、わたしの考える「自分の無我を深く納得することによって、我執が霧消する」というところまでの踏み込みはない。
縁起についても、「縁起故に無我」という連関は薄い。律蔵で説かれるのは、あくまで有支縁起であって、「わたしとは、そのつどの縁によって起こされるそのつどの現象である」という純化した意味ではない。
有支縁起は、よく知られる十二支縁起の他にも支の数の異なるいくつかのバリエーションがあるが、すべて五支縁起を原型にしており、そこから縁起の根源をさらに深掘りしたものだ。元になっている五支縁起は、渇望⇒執着⇒生存⇒誕生⇒老死である。しかし、これでは、苦が生(病)老死に狭められてしまうのではないだろうか。釈尊の時代、社会は大きく変化していた。経済発展に伴う軋轢に苦しむ人も釈尊は目にしていたはずだ。釈迦族も釈尊在世中に滅ぼされている。個人の生物的な生病老死に留まらない社会的な苦についても、釈尊は克服すべき課題として考えていたに違いない。わたしは、苦を戦争や搾取など社会的構造的なものも含めて考えたいし、釈尊の教えがそこまで射程距離に収めていなかったはずはない。

ただ、この点については、馬場先生の実証的分析と私の「確信」との辻褄を合わせる強弁は不可能ではない。
すなわちこうだ。この分析の根拠とされる資料は、律蔵であって、修行者の生活規範や教団運営ルールを述べるものであり、教えそのものを伝えることを目的としていない。また律蔵の中でも、出家に際し戒を受ける式にあたって、それが今のように定まった経緯を説明する部分だ。つまり、聞き手としては、新たに戒を受け教団に入る新人が対象だろう。まだ仏教の核心は知らず、世間の常識に染まったままの人への「次第説法」だと考えることができる。

次第説法がなされた理由の一つは、馬場先生も言及している社会秩序への配慮があったと思う。バラモン教の生天思想にせよ、ジャイナ教の解脱論にせよ、付随的結果的にであれ世の中の秩序維持に貢献していた。不浄を避け悪をなさないという倫理的な効力があったのである。それなのに、初心のものにいきなり核心の無常=無我=縁起を説いて、未消化な理解のまま、伝統的な倫理基盤を軽視するようになれば、世の中を乱すことになりかねない。かえって苦をつくることになってしまう。虚無主義とか唯物論として批判された一部の六師外道の考えから一線を画す必要もあっただろう。

律蔵においては、新たに僧団に加わる新入生への、とりあえずの方便的教えが次第説法されており、たまたまそれだけがどの有力部派においても今に残った。釈尊の教えの真意は、経蔵など違うところで説かれていた、という可能性はある。
そして、経蔵にも当然のことながら次第説法は大量に含まれており、その中から釈尊の真意を抽出しなければならない。もっとあからさまにわたしの考えを告白すると、釈尊の発見の核心部分は、ほとんど釈尊だけのものに終わり、大半の弟子たちには共有できなかったという可能性もある。いずれにせよ、各部派の経蔵が仮に残されていたとしても、その共通部分をもって釈尊の教えの核心だとすることはできない。大量の砂をふるいにかけて、小さな砂金の粒を見つけねばならないのである。

わたしのやってきた方法はこうだ。仏教学の成果を前提にしつつ、仏教だと考えられている様々な教えの中から、他にない仏教だけの教えを取り出し、整合性のある体系的仮説をつくる。一旦除外した教えのうち、矛盾なく組み込めるものは再び体系に取り入れる。その体系的仮説を、他の様々な解釈や見解と鉱物の硬度検査のようにすりあわせる。その結果、傷がつくようなへなちょこは、釈尊の教えではない。そのようにして仮説を研磨し強化してきた。なによりも硬く、透明で整った結晶体こそ、釈尊の教えであると思う。現時点でわたしがそれだと考えるのは、「無常=無我=縁起を自分のこととして納得できれば、我執は鎮まり、苦の生産は停止する」という仮説である。

わたしが「次第説法」を都合よく拡大転用して自論との辻褄合わせに使おうとしていることに対して、馬場先生はどう言われるだろうか。資料がないのだから、そうだとも、そうではないとも、おそらく仰らないだろう。「いささか強引ですね」とは思われるであろうが、、。ともあれ、わたしとしては、次第説法を拡大適用することで、自己弁護を強弁することはできる。

しかし、もうひとつ別に、深刻な問題がある。p121からの数ページに述べられている「意思の自発性」だ。
ここでは、人の行為は、運命や梵天などといった個人を超えた力によってではなく、個人の自発的な意思によって行われると仏教は説き、この考え方は自業自得論や社会倫理を基礎づけた、という論点が述べられている。馬場先生は、これを当時としては画期的な「個の自律」を確立するものと高く評価しておられる。
小出裕章さんの「無常=無我=縁起では責任が問えなくなる」というわたしへの問題提起も、これと通ずる考え方だろう。

しかし、意思の自発性という考えは、有我論になりかねないのではないだろうか。わたしとしては、釈尊の考えは徹底的に無我であり縁起であったと信じたい。無我であり縁起であるということは、自発的ではあり得ず、受動的だということだ。受動的でありながら、努力する。戒(自分という反応を整えて、苦を生まない良い習慣を育てる努力)、定(自分という反応をミニマムに鎮め、徹底的に観察する努力)、慧(戒・定の成果として無常=無我=縁起を自分の事として納得すること)の修行努力を、無常=無我=縁起の自覚とともに行うことが、釈尊の教えにおける最もきわどい綱渡りの部分だと思う。これによって、釈尊の教えは、バラモン教とも六師外道とも異なり、その他これまで地上に現れたどの思想も及ばない深さを獲得した。倫理の規範を、神の存在を要請することでもなく、世間の目を気にすることでもなく、個人が自分という反応を整えることで実現し、それのみならず、我執を鎮めることで苦をつくらない方法まで教えたのである。

ところが p121には次のような経文が引かれている。

 「私は、意思を行為と説く。思ってから、身体・言語・意によって行為をなす。」

拙著『「苦」をつくらない』に書いたように、わたしは、「意図は後からの錯覚であり、縁起による自動的な反応が意図に先んじて起こる」と考えている。脳科学の知見もそうだ(ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』)。それ故この経文には困ってしまった。これでは有我論ではないのか。しかも、これは、律蔵ではなく、経蔵の増支部にあるそうだ。さきほどの次第説法の強弁は使いにくい。

とりあえず判断は保留しよう。経文の前後も読んでみなければならない。いずれ機会を得てじっくり考えることにしたい。

2018年10月3日            曽我逸郎

* 上記の「思ってから行為をなす」について御意見を頂き、少し考えを深めることができました。にこさんとの意見交換 2018年10月18日