2003年11月19日
茂木健一郎「意識とはなにか」(ちくま新書)を読んだ。意識というよりクオリアについての本だ。クオリアという言葉は以前から聞いてはいたが、ピンと来なかったので、自分ではほとんど使う事はなかった。この本を読んで、思いついた事があるので、直接の感想にはならないが、まとめておきたい。
【 1、クオリアという言葉の適用範囲の広さ 】
初めに触れておきたいのは、クオリアという言葉の守備範囲の広さだ。
「クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指します。」(クオリア・マニフェストHP www.qualia-manifesto.com/index.j.html 扉ページから引用)
ちくま新書「意識とはなにか」を私なりに咀嚼すれば、クオリアとは、私達が何かを意識している時に感じているそれ独特のユニークな質感である、と定義することができよう。一見明瞭な定義だが、具体的に考えて行くと、非常に間口の広い言葉であることに気づく。
クオリアの例として、「チョコレートが舌の上で溶けて広がっていく時のなめらかな甘さ」が挙げられている。しかし、例えば腹が減っているのに家にチョコレートしかなくて仕方なく食べる時と、片思いと思っていた相手からもらった手作りのバレンタインチョコとでは、口溶け感はまったく違うだろう。(後者の経験は残念ながらないので、想像に過ぎない。義理チョコならあるが、、) クオリアは、そのような一回きりの本当にユニークなその時だけの個別の感覚をいうのだろうか? それとも、チョコレート一般に対して感じる共通した食感をいうのだろうか?「クオリアが同一性を保持する」とあるので、どうやら後者も想定されているようだ。つまり、クオリアは、生の感覚のみならず、一群の体験に共通するある種抽象的な感覚をも含む。
朝日の射す台所のオレンジジュースを注いだコップ。同じコップに水を入れて、夜病気の家族の枕元に薬と一緒に届ける。どちらの場合にも、そのコップに共通しているユニークな質感。それがそのコップのクオリアということになる。
では、クオリアは個物についてのみ言えるのか? そうではなさそうだ。チョコレートは食べればなくなるのだから、チョコレートの溶け味のクオリアは、さまざまなチョコレートに共通せねばならない。となると、コップ一般に共通するクオリアも考えられる事になる。
さらに、抽象化を拡大すれば、どうなるのか? 「人類一般」のクオリアはあるのか? 「存在」のクオリアはあるのか? 「空性」のクオリアは? 「物自体」のクオリアは?
「物自体」という言葉を聞いたことのない人に「物自体」のクオリアはなくても、言い出したカントにはあったと思う。カントを読んで理解した人にもおそらくあるだろう。いや、けして「物自体」を生々しく実感していた、などと言うつもりはない。ただ、それをそれとして他と区別して呼び、考えているのだから、生々しい感覚ではなくても、そこにはなんらかのユニークさはあると考えることができる。「そこに確かに存在するように思われるが、どうしても直接触れることのできない歯がゆさ」といった感覚だろうか? 何かが意識されている時、そこにはクオリアがある。別の言い方をすれば、クオリアを見つけた時(or 創り出した時)、そこに意識の対象が生み出される、と考える事も可能だろう。
小さな子供が「あれなあに?」と尋ねる時、名前だけでなく、見出したクオリアも一緒に記憶に刻み付けている筈だ。
では、さらに思考実験。「兎の角」のクオリアは? さまざまな形容詞とさまざまな名詞をひとつひとつカードに書いて、ランダムに組み合わせれば、それが 現実にはありえないものであっても、クオリアが生まれるのか? 定義次第だけれど Yes と言っていいだろう。不安定で微妙であれなんらかのイメージを喚起するなら、ありえないものであっても、それはそのようなクオリアを持つ。
別の方向で拡大解釈してみよう。
クオリアの説明には、しばしば「赤の赤らしいユニークさ」といった表現が使われる。しかし、これを聞いてどんな赤をイメージするだろうか? チューブからパレットに搾り出した赤絵の具? 印刷業界の人なら、マゼンタ100%のカラーチップだろうか? 日の丸の赤? 中国人なら、五星紅旗の赤? お気に入りのセーターの赤?
人それぞれ違うだろうが、いずれにせよすべての赤をカバーする赤ではない。それとも、赤のクオリアとは、すべての赤を包含し、なおかつユニークな質感でなければならないのか?
こうなると、もうほとんどプラトンのイデア論に近い。普遍的ではなく個人的なイデア。クオリアとは、個人が各々自分の中にもっているイデアである、と言うことさえできそうだ。
また別な拡大解釈。
「休日の朝」、、。「休日の朝」と言われると、私はこんなクオリアを抱く。光の溢れるダイニングルーム。窓の外では緑の葉が風に揺れながら日の光を透か し、藍でつる草模様の描かれた白いカップに香り立つコーヒー。その表面を湯気が漂い、トーストとエッグスタンドのゆで卵。BGMは、、、。
具体的なイメージの肉付けがどこまでも可能だ。これは私の、最も理想的、典型的な休日の朝のイメージである。(正直なところ、こんな休日の朝は一度として持ったことはないけれど、、。)
おそらく、これは単なる言葉からのイメージの膨らましであって、クオリアの定義からすれば逸脱であろう。しかし、クオリアについて語る本には、このような語り口が時折みられる。
このように、クオリアという言葉の適応範囲は、拡大すれば非常に広くなる。
一度きりの生の直接感覚。カテゴリー形成の基になる、一群の事物に共通して抱く質感。いかなる抽象概念であれ、あり得ないものですら、それが意識される時、意識される事を可能にしている差異のユニークさ。個人の中のイデア。イメージの膨らまし。
私は、初め、クオリアについて考えようとした時、これらがごちゃまぜになって、収拾がつかなくなった。勿論その責は、クオリアについて不勉強の癖に、勝手に拡大解釈した私にあるのだけれど。
【 2、私の考えるクオリア 】
混乱しながら右往左往しているうち、思いついたことがある。それは、私が以前考えていた「いつも化」や、動物進化の過程についての考えとつながっている。執着の起源にも関連付けられるだろう。また、私達が、無常にして無我なる縁起の現象であり、大部分は自動的反応であり、全体としても自動的反応である、ということのひとつの説明にも使えそうだ。
混乱を避けつつ思いつきをまとめるために、私なりのクオリアの定義を示しておこう。結論めいているし、クオリアというテーマが生まれた背景の問題意識 (物理学などの科学的アプローチでは掬い取れない問題をどう扱うか)にあまりかかわりがなく、私の勝手な問題意識(自分とはどういう現象か)からの定義付けであるが、お許し頂きたい。
クオリアとは、それまでの経験によってあらかじめ用意された、刺激受容のパターンであり、用意された時から既に好悪(その中間も含む)の感覚が染み着いていて、外部条件・内部条件が適合すれば、ふさわしい反応を自動的かつすみやかに引き起こす内部の仕組みである。
「あらかじめ用意された」というのは、ちょうど免疫のシステムのように、「あてはまるものがやってくるのを先んじて待っている」という意味である。「それまでの経験で用意された」というのは、「なにかを初めて経験することで生み出され、その後繰り返し経験する度に強化されたり修正されたり精緻化されていく」という意味である。
比喩的に免疫で説明すれば、刺激そのものは、いわば抗原であって私の言うクオリアではない。クオリアは、私達の内部の仕組みであり、いわば抗体である。 外部からの刺激は、それに合致するクオリアを励起し、そのパターンの「ユニークな質感」をもたらす。質感のみならず、ふさわしい反応も惹起する。
逆にいえば、対応するクオリアのない刺激は、格別に顕著なもの(異様なもの)でない限り、受け止められることなく見過ごされ、その動物にとって、なかったのと同様である。
例えば、原っぱを歩いていて、適当な長さ、適当な太さ、適当な色のものが適当にくねって落ちていれば、ヘビだ!と思うより早く、うろこのテクスチャが脳裏をかすめ、身体は勝手に飛びずさる。それが縄であれ、適当な長さ、太さ、色、くねりであれば、それが刺激となって、既に蓄積していたヘビのクオリアを活性化し、外部からの刺激にはない筈のうろこの光沢の質感までが再現され、頭でヘビと判断するより早く、恐怖と嫌悪で身体は反応する。
ただし、これは外部条件にも依存する。もしそこが雪原だったり、磨き上げられた大理石のロビーだったりすれば、本当のヘビだったとしても、それほどダイレクトな反応は起こらない。また、鰻屋の換気扇から吐き出される香りは、食欲をそそる事が多いけれど、たまたま満腹だったり、体調が悪かったりすれば、その反応は起こらない。「外部条件・内部条件が適合すれば」といったのは、この意味である。
【2003、11、30、加筆】
この仮説からすると、私達はなにかをなにかとして感じる時、生(ナマ)の直接の感覚と起動されたクオリアによる感覚と、ふたつ重ね合わせて感じていることになる。
この「なにか」は、前者と後者で異なっている場合もある。例えば、上記のような縄をヘビとして感じるケースのように。
しかし、そのような例外的な場合を除き、ほとんどの場合は、なにかを経験する時、それについてあらかじめ作り上げられたクオリアを、そこに染みついた価値評価と一緒に、確認するという仕方で経験している。「ここのケーキはおいしいのよ」「次はあの先生の退屈な授業か、、」
クオリアは、ナマの直接経験の多少の差異は捨象し、クオリアの「いつもの」パターンに収斂させる働きをする。だから格別な気付きがなければ、<いつもどおりおいしいケーキ>、<いつもどおり退屈な授業>を追体験することになり、クオリアはさらに強化される。
ナマの感覚とクオリアを重ね合わせて、その差異に気付けば、クオリアは修正される。「なんだか最近味が落ちてきたんじゃない?」 「あ、なるほど、ふーん、そういうことが言いたかったのか」というように。
【 3、新・いつも化 】
以前の私は、「いつも化」という言葉を多用していた。
この世界は、本当は、繰り返しのない、それぞれが個別的で一回きりの現象による世界であるはずだ。なのに、私達は、それを「退屈ないつも」にして見てし まう。「千変万化の一回的現象」を「退屈ないつも」に変えて見てしまう働きを、「いつも化」という言葉で表したつもりだった。
しかし、動物の進化を考えた時、我々動物は、自分に切実な利害のある現象にこそ最も強く反応してきた筈だと気づいた。興奮や恐怖、その他の感情も、その反応を加速する仕組みだった。だとするなら、「千変万化の一回的現象」は、一直線に直接「退屈化」された訳ではない。
それにまた、「いつも」はいつも退屈であるとは限らない。執着の対象のように、いつも我々を惑乱させ、駆りたてる「いつも」もある。
「いつも化」を退屈と結びつけて考える発想には大きな見落としがあると気づいて、以来この言葉は使わなくなっていた。
しかし、考えてみれば、執着も嫌悪も「いつも化」として考える事が可能だ。執着の対象は、繰り返しいつも執着され、憎悪の対象は、繰り返しいつも憎悪されるのだから。
改めて定義しなおして「いつも化」を再び使うことにしたい。
「いつも化」:すべてが一回きりで千変万化している現象を、自分にとっての利害に基づく好悪の感情を固定的に結びつけつつ、「いつも」として見ること。
自分にとってプラスと価値付けられる対象は執着され、マイナスの対象は憎悪される。利害に多少の関係があっても関係が薄かったり間接的であれば、退屈な存在となる。(まったく利害を生まない現象には、関心は払われることなく、無視される。)
いつも化が引き起こされるメカニズムにクオリアが関与していることは明らかであろう。クオリアは、千変万化のさまざまな刺激の内、受け止めるべきものをパターンとして受け止める仕組みであった。そして、それにふさわしい反応を自動的かつすみやかに発動させる仕組みでもあった。執着や憎悪は、クオリアによる自動的反応が進化した形態だと思う。
【 4、クオリアの発生 (進化を想像する) 】
進化の過程でクオリアがどのように生まれたか、想像してみよう。何度も同じような議論をして恐縮だが、私の考えを理解してもらいやすくなると思うので、お付き合い頂きたい。
ゾウリムシのような単細胞動物も、環境に温度やpHの傾きがあれば、一番快適な位置へ移動するそうだ。刺激を受容して、ふさわしい反応をしているから、 ここにもクオリアはあるといいたくなるが、ゾウリムシはおそらく経験から学んでそうしているわけではなく、繊毛の単なる生理的反応であろうから、クオリアとはまだ呼べない。
ヒトデが海底を這いまわって、貝を見つける。この場合はどうだろうか。おそらく、例えば貝の排泄物のにおいのようなもの感知したり、貝のいそうな砂地の 感触を探っているとは思うが、遺伝子に基づく生得的反応に過ぎないのか、経験からの学習も働いているのか? もし後者であるなら、ヒトデは既にクオリアを 持っていると言っていいと思う。(追記:ヒトデは学習しないそうです。)
手の音で条件付けられた池のコイは、私の定義からすれば、はっきりとクオリアを持っていることになる。(経験によって、微妙に異なるさまざまな手の音を等しく一つのパターンとして受容し、同一の反応を引き起こしている。)重なり合って口を丸く突き出して迫ってくるあの反応は、尋常ではない。よほど鮮烈なクオリアを感じているに違いない。(昼休みのチャイムがなると、自動的に「さあ、今日はどの店でなにを食おうか」と相談しながらビルからぞろぞろと出てくるサラリーマンも似たようなものである。)
我が家のネコ(キャンビー。春先やってきた野良猫だが、一月に死んだ先代のキャンディーと模様がそっくりなので、その娘だと思っている)は、庭でアマガエルやコオロギ、バッタを捕まえて食っているが、カメムシやハチには手を出さない。似たような虫でも、経験を通じて彼女の中では別々のクオリアが形成され、違う質感を感じ、違う反応をしているのである。
進化が進むと、感覚器官も発達するし、クオリアもより精緻になり、微妙な差を見分けるようになる。さらに、初め一つのクオリアで或るひとつの反応を起こしていたのが、いくつものクオリアがひとつの反応に関与するようになる。(反応の状況への適合度があがり、反応の結果がより有利なものに向上する。)おそらく、複数の(しばしば対立する)クオリアの作用を統合して反応を一つにまとめる上位サイクルが脳内に誕生したのだろう。それが意識ではないだろうか?
人間は、道具を作り、作物を栽培し、調理もするようになった。適切な材料を選んだり、適切なタイミングをはかるために、クオリアは膨大に増えた。はじめは具体的事物に直結したクオリア(一次クオリアとでも言うべきか。たとえば肉の焼け具合のような)だけであったのに、おそらくは脳の負荷を軽減するため に、そこから要素が抽出された二次クオリアも生まれた。(例えば、色や、ぬるぬる・ざらざらといった手触り、茂木氏のいう、きらきら・ぎらぎら・ぴかぴか などの質感)
言葉とクオリアの関係も大変重要である筈だが、今それを考えるのは能力を超えている。社会の発達も、クオリアの発達をもらたした。言語と社会の発達が複雑に相乗効果をもたらし、ヒトは、ファッションブランドや<日経平均株価>や<物自体>や<空性>にまで(個人差はあれ)クオリアを持つようになった。 <兎の角>までも。
【 5、執着とクオリア、仏教 】
富・権力・名声、その他の執着の対象も、日常生活のさまざまな場面でさまざまな刺激を我々にもたらし、我々は、それに自動的に反応している。(たとえば、影響力のある人物の前で緊張したり、愛想笑いしながら揉み手をしたり。ロレックスをさりげなく見せびらかされて妬んだり。タメ口をきく後輩にむっとしたり。) それは、それらに対するクオリアが我々の中にできあがっているからだ。
では、我執は、自分を守り拡大することに関わる刺激に対するクオリアによるところの自動的反応ということになるのか。しかし、これでは、ほとんど同語反復だし、生命と同意だ。生命は、自分を守り拡大する反応なのだから。
飛躍を恐れずに言えば、我執とは、架空の自我を設定し、一種のセンサーの役割を持たせ、それを危うくする刺激や、それを拡大する刺激に対応して、それらの刺激への自動的反応を発動させることで、生命本来の自分を守り拡大する反応に加給圧を与え、ブーストアップする加速装置はないだろうか。いわば生命の本能的生存欲を加速する独特の仕組みであると思う。
仏教が、無常=無我=縁起を知ることによって執着を吹き消し、苦を滅する教えであるなら、それは自然に培われてきた、クオリアを初めとする「内部の反応の仕組み」を、意図的に改変することだ。最上位の(最後発の)脳内サイクルによって、下位の(より基本の)脳内サイクルを改変することである。それは、高い塔のてっぺんに立って、足もとの塔を建て替えるような離れ業だと思う。
おそらく全面的破壊でも、全面的建て替えでもない。微妙な、しかし重大な変化をもたらす改変だ。では、どの部分をどう変えるのだろうのか?
仏教徒の最大の関心だ。
いつか科学によって皆が共有できる形でそれが分かる日が来るだろうか?
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未消化で尻切れとんぼになりました。
ご批判頂ければ幸甚です。
この後、若干ながら考えを進めることができた。*小論「ノエシス,クオリア,いつも化,意識,我執,ノエマ自己,努力,釈尊の教え」参照下さい。(2007,3,24,)
2003年11月19日 曽我逸郎