~旧サイトから転載~
2012年6月14日
「釈尊の教えと社会変革」というタイトルで、講演し、雑誌に掲載して頂いた。以前、ベーシック・インカムに関して原稿依頼を頂戴した雑誌『PLAN B』からのお声がけだ。(発行:NPO法人日本進路研究所、発売元:ロゴス)
講演は4月22日に東京の文京区民センターで開かれ、原稿は6月1日発行の38号に掲載された。雑誌では、字数やページ割などの関係で、冒頭部分など少し変更が生じたが、以下が元々の原稿である。まだ十分消化しきれていないが、これからも引き続き考えるべきテーマを与えて頂いたと思う。
諸々段取りを組んで頂いた村岡到編集長はじめ関係する方々、講演を聴きに来て下さった皆様に感謝申し上げる。
「釈尊の教えと社会変革」
『プランB』編集長の村岡さんから、「仏教と社会変革とを関連づけてなにか書かないか」との提案を頂いた。ありがたいと思った。というのは、私はずっと一貫して釈尊の教えについて考えてきたつもりなのだが、傍から見れば、このところベーシック・インカムや無防備平和条例運動、反TPPなど、雑多な問題に脈絡なく中途半端にちょっかいを出しているように見えているかもしれない。しかし、あくまで根っこは釈尊の教えであり、釈尊の教えが現実の社会事象と擦れ合ったところに上記の「雑多なちょっかい」が生じている。それにまた、釈尊の教えに関する自問自答は、私にとって一番重要なテーマであるのに、上記の「ちょっかい」に比して関心を持たれていない点は課題だとも感じている。良いタイミングでありがたい提案を頂いたので、取り組んでみたい。
さて、釈尊は出家を奨励された。出家とは出世間でもある。すなわち、いきなり結論めいた言明で恐縮だが、釈尊には社会変革の意図はなかった。しかし、衆生の苦の減滅こそが、釈尊生涯の目標だった。その一方で、社会変革に熱心な「仏教」もある。そして、社会変革は、しばしばその主張とは裏腹に、夥しい苦を生んできた。まずそのあたりを概観し、釈尊の本意について私見を述べ、そして、釈尊の教えは合理的検証に耐え、限られた信者たちの信仰としてではなく、人間理解、社会理解のパラダイムとして世界に広く共有される可能性があること、もしそうなれば、いわゆる社会変革運動よりずっとよく社会を変えるのではないか。そんな期待を述べたいと思う。
1)宗教と社会変革
宗教は苦しみから人を救う、と思われている。一方、真に人々を救うには、内心の救済などではなく、搾取からの解放こそが必要だ、とする考えもある。後者の立場からは、宗教は現実社会の変革から人々を遠ざけ引き込ませる阿片だとして非難されてきた。しかし、宗教が人々を結集させ、社会を変革する大きな激しい運動を起こすこともある。一向一揆がそうだったし、今のチベットにも中東の数々の問題にもこの要素はあるだろう。米国の「テロとの戦争」には、かつての十字軍を気取って高ぶっている人もいそうだ。人々を救う社会変革か、人々を苦しめる紛争か、分別することは難しい。
世界の泥沼の紛争を一歩退いて見ると、宗教は、救いどころかかえって人々の間に憎悪をもたらし、苦しみの源になっているようにも思える。日本の国家神道や南米史におけるカトリックのように、宗教が植民地支配・侵略の先棒を担いだ例は多い。外見は宗教対立に見えても実は経済紛争であり、下部構造こそが歴史を動かす、宗教は敵味方を色分ける標識でしかない、そう考える人もいるだろう。逆に見れば、経済利害のための戦争であっても、あからさまにその本音が明かされることはなく、必ず何か耳障りのいいお題目が唱えられる。自由や民主主義、国家、民族、搾取からの解放などと並んで、しばしば神の名も暴力を正当化するために使われてきた。
戦争正当化の美辞麗句を言葉どおりに受け止めれば、戦争も一種の社会変革と言わざるを得ない。逆に言えば、戦争ほどは暴力的でない社会変革も、変革である以上、必ずなんらかの軋轢を生む。戦争同様、表向きの聞こえのいいお題目の裏に別の思惑が隠されていることもあるだろう。善意の社会変革を別の目的のために利用しようとする連中もいる。宗教はしばしばそれらに利用され、救うどころか、人々を苦しめてきた。
2)釈尊の教えは宗教か
先にお断りしておくと、私は釈尊の教えと「仏教」とを区別している。世の中で「仏教」と呼ばれるものは、釈尊の教えではなくなっている。釈尊存命の時、既に教えを捩曲げて執着する弟子がいた。その頃から、釈尊の教えを執着に適うように改変することは始まっていたのだ。凡夫の執着はかくも根深い。
では、元々の釈尊の教えは、宗教なのだろうか。
釈尊は、一切皆苦とそれにどう処するかを説かれた。その意味では宗教と言っていい。しかし、釈尊の教えに神への信仰はない。梵天などの伝統神は登場するが、話の進行上の狂言回しでしかない。一神教どころか多神教ですらなく、言うなれば無神教だ。苦をなくそうとするのみで、自分を捧げるべき絶対的な価値も説かない。普通に言う宗教とはずいぶん異なる。大方の宗教は、釈尊の視点からすれば、自分と自分の神への執着だ。釈尊は、「我」という思い込みを分析し、それが解消されれば、執着反応による苦の生成は鎮滅すると説かれた。核心部分を取り出せば、宗教というより人と世の中の分析とでも呼ぶ方が適切ではないか。一種の思想だ。それ故、信者たちだけの閉鎖的な信仰ではなく、広く合理的な検証に応え得る可能性がある。
思想は、その時その時の経済利害よりずっと長いスパンで次の時代を導くことがある。釈尊の教えは、信仰としてではなくパラダイムとして普及する可能性を持ち、特に今とこれからの世界の状況に長期的によい影響を与え得ると思う。
3)法華経信仰にひそむ危険性
「釈尊の教えは普遍的思想だなど、一信者の妄想に過ぎぬ」そうお感じかもしれない。釈尊の教えは後で解説するので、妄想かどうかそこでご判断頂きたいが、その前に、釈尊の教えとの対比のために、近代日本史に大きな影響を与えた法華信仰に触れておこう。
法華経には今日も熱烈な信者が沢山おられる。以下については、どうかおおらかに受け取っていただき、間違いがあればご指導願いたい。
戦争の深みに向かう大正昭和の時代、法華経は多くの菩薩を生み出した。菩薩とは大乗仏教の重要な概念であり、いくつかの意味があるが、ここでは「衆生済度に邁進する人」として理解頂きたい。法華経は、読む者を衆生済度のため社会変革に向かわせる不思議な力に溢れている。例えばその典型は、「新興仏教青年同盟」の妹尾義郎だ。「反動的御用宗教、ブル的仏教」に対する義憤に燃え、大衆の苦悩に正面から向き合い、あの時代にあって無産階級のために奔走し、ひるむことなく戦争反対を唱えた。熱い思いのほとばしる「新興仏教青年同盟結成式宣言」(1931年)は一読をお勧めする。(小論2008年3月参照)
一方、妹尾とは対照的な「菩薩」たちもいた。八紘一宇を主張し国家主義的傾向の著しい国柱会(*1)の田中智学、帝国陸軍皇道派の思想的バックボーンとなり二・二六事件に連座して処刑された北一輝、満洲事変の引き金となった柳条湖事件の首謀者、石原莞爾らである。日本が戦争の泥沼へ突き進む時代に暗躍したこれらの人々を菩薩と呼ぶことには抵抗もあろう。「血盟団」のような一人一殺を誓う右翼テログループまでもが、法華経日蓮主義の流れにはいた。しかし、彼らも、法華経に心酔し自分の内心では衆生のために我が身命を捨てる菩薩のつもりだったのではないか。ただ、その「衆生済度」が考えの浅いものだったために、功名心や自己陶酔と一体化して暴走し、救うどころか人々に苦を撒き散らし、利権を貪る連中に取り込まれることにもなったのである。
法華経は、法華経を読む者は菩薩だと教える。汝は、過去生において多くの修行・善行を積んできた、だから今法華経に触れることができた。法華経に触れ得たのは、過去生の積善の証拠であり、菩薩である証拠である、だから菩薩の自覚を持ち衆生済度に邁進せねばならぬ。法華経はこう教える。それが良い方に向かえば良い。しかし、思い上がった「善人」の思い込みは、時にとてつもない災いをもたらす。菩薩ならぬ凡夫に菩薩と思わせかねない点に、法華経の危うさがある。(*2)
(法華経日蓮思想に注目した昭和史については、寺内大吉『仮城の昭和史』が生々しい。妹尾義郎については、稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ―妹尾義郎と新興仏教青年同盟』岩波新書など。)
4)釈尊の教え
では、いよいよ釈尊の教えについて述べよう。
釈尊は、苦を分析された。苦は、病気や怪我のように避けようもなく降りかかってくるものもあるが、苦の大半は、我々凡夫が自ら作り出している。欲望や憎悪や嫉妬や様々な悪い反応によって、我々凡夫は自分を苦しめ、人を苦しめ、互いに苦しめ合っている。
例えば怪我にしても、直接の痛み(第一の矢)だけに終わらせず、先行きの不安や健康な人への妬み、原因となった人への恨みなど、凡夫はさまざまに苦を膨張させる(第二の矢)。差別や搾取や戦争は甚だしく人々を苦しめるが、それらも間違いなく人が生み出すものだ。世間の苦の大半は、凡夫が互いに作り出し合っている。それには同意頂けよう。
苦を生み出してしまうのは執着による。執着は、自分のものは握り締めて放さず、利あるものは奪い取り、不都合なものは毀滅しようとする。これは条件反射が進化発展したもので、条件反射と共通する三つの性質を持っている。つまり、a;過去の経験・反応(業)によって形作られるという点、b;条件となる刺激(縁)は、一回性個別性を捨象され、好悪の価値で固定的に色づけられた無時間的カテゴリーで捉えられ、しばしば実体視されるという点、c;条件となる刺激(縁)によって自動的に起動される、という3点である。一人ひとり、過去の経験から様々な執着反応が蓄積されており、縁による刺激で適合する反応が起動する。
釈尊の教えの核心は、「身体(色身)という場所において、内外からそのつどそのつど縁を受けて反応が起こる(縁起)、このそのつどの脈絡のない反応の断続(無常)が汝であって、汝が妄想しているような、主体として一貫して采配する持続的「我」(アートマン)は存在しない(無我)」というものだ(*3)。ところが、凡夫においては、自然な自動的展開として、他ならぬそのつどの色身における反応が縁となって条件反射の仕組みが起動され、bによる無時間的な「我」の実体視、妄想が生じている。この仕組みをしっかりと観察し、無常=無我=縁起を一般論としてではなく自分のこととして腑に落ちて納得・実感できたとき、ありもしない「我」を妄想し執着してきた愚かさが痛感され、執着の反応は鎮静化する。しかし、これを達成するには、戒定慧の三学や八正道の真摯な取り組みが必要で、凡夫には並大抵のことではない。しかし、仏になることは困難でも、凡夫の自覚を持つことは凡夫にも可能だ。
(「凡夫」の英訳は、ordinary men、即ち「普通の人」。つまり、普段「人間」とか「人類」、「私達」という言葉で捉えているものが「凡夫」であって、日本語の「凡夫」が含む侮蔑的ニュアンスは本来ない。)
5)凡夫という人間理解が共有されれば…
一方、社会変革に取り組む人は、宗教色の有無にかかわらず、自分を、正しい、善なる、他の人たちより一歩進んだ人間だと思いなしている。国家主義的法華信者らがそうであったように…。社会変革には、そういった一種の「思い上がり」が必要なのだ。自分達ばかりではなく「敵対」する相手についても、一貫した思考で働いていると思いなす。「奴らは何をしてくるか分からない」と警戒する場合でも、相手の打つ手が読めない不安にすぎず、何か一貫した戦略・狙いで動いていると捉えている。つまり、自分にも相手にも立派な「我」がある、と考えている。
確かにホモ・サピエンス(凡夫)のシミュレーション能力は著しく進化しており、様々に策略を練って事にあたる。だがその根本の動機は執着だ。執着の反応パターンが、縁を受け自動的に発動し、そのつど断続的に繰り返され加乗され、執着は高度な策略に発展する。その結果引き起こされる影響も巨大化し、賢しく利を獲ろうとした筈なのに、「敵対者」のみならず自分もまわりの人々も著しく苦しめてしまう。それが人間(凡夫)だ。
釈尊の教えでは、人間とは、愚かな執着によって苦を撒き散らす制御困難な危なっかしい自動的反応であって、そのことを自覚しいつも自分に気をつけ、何度失敗してもなんとか自分に良い反応の癖をつけていく努力が必要だ。過去の業が今の反応パターンをつくっているなら、今の反応を整えることで今後の反応パターンは変わっていく。それが、修行の最初のステップ、戒である。他の人も同様に凡夫、すなわち執着の自動的反応であると思えれば、「敵対者」にも慈悲の気持ちが起こる。悪い縁を発して相手に悪い反応を起させることのないように、と気遣えれば、人とのかかわり方は丁寧になっていく。世の処し方も変わってくる。
限られた経験に基づく判断・反応との自覚があるから、自分を無謬と信じることはない。自説の貫徹に実力行使をもってすることもなくなる。考えを深めるため聞く耳を持つようになる。自分の考えを積極的に皆の批判に晒す。相手の主張も同様だから、互いに意見をぶつけ合い耳を傾けあう。つまり、凡夫の自覚は、本来の民主主義をもたらす。誰も皆お互い凡夫だと納得して、丁寧、慎重な折り合い方を模索する。それができれば、世の中はずいぶん良くなる。いくつか具体的な例を挙げよう。
ア、犯罪者の処遇
最近、犯罪者には厳罰を下すべきとの風潮が強まっていると感じる。もしそれが、厳罰でなければ気がすまないということなら、それは執着であり、断罪する側にも悪しき反応パターンを残す。a、c のとおり、人は、過去の経験、反応(業)の蓄積によって形成されたパターンによる自動的反応なのだから、罪人であれ原理的には自己責任は問えない。善良なる市民のつもりでいる人も、業と縁次第で法を犯す。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(親鸞)である。罪を犯した人には、よい縁に接するように計らって、よい反応パターンを形成し、社会の良き一員になってもらうのが正しい。
コスタリカでは、「罪を犯すのは自分の人権が尊重された経験が乏しいため人権の大切さが理解できていないから」との考えに基づき、受刑者の人権は尊重され、刑務所が更生の場になっているそうだ(足立力也『平和ってなんだろう』岩波ジュニア新書)。憎悪を晴らしたいがために、罪を犯した人の反応パターンをさらに悪いほうに導くなら、社会にとって不利益なことで、賢明ではない。
死刑は、殺生に他ならないし、良い縁によって反応パターンを改める機会を奪うことであるから、廃止すべきだ。
東條以下のA級戦犯も、与えられた環境・教育・任務・責任の中で繰り返された反応という凡夫であって、純粋な自己責任を負わせられる「我」ではない。にも拘らず、A級戦犯だけに全責任を背負っかぶせ、責任のないフリをしてきたのは、一般国民だけではなかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えて国民・兵を自決・バンザイ突撃に追い込んだ東條の責任は極めて重いにしても、A級戦犯に全責任を負わせて被害者意識に安住しているなら、また次のデマゴーグに操られる。マスコミに煽られ、勝った勝ったと喜び受かれて提灯行列をし、バンザイで若者を戦場へ送り出し、「非国民」を罵った自分たち凡夫の反応を直視し直さねば、自分たちの自動的反応パターンを変えていくことはできない。
イ、プロパガンダ
人が執着による自動的反応であることを分析研究し、それを自分達の執着実現のために利用するのが、広告やプロパガンダだ。広告は私達の欲望や不安を操ろうとする。プロパガンダは、道義心に訴えて人々を操ろうとする。湾岸戦争では、関係のない油まみれの海鳥の写真が使われた。国のため、民族のため、天皇のため、神のため、自由のため、平和のため、労働者階級のため、人は義憤に燃えて立ち上がる。その道のプロにかかれば、人々の自動的反応を操ることは容易い。これら「~のため」は、大抵操作された執着である。耳障りのいい理想に唆されて苦を作ることに加担していないか。凡夫である私達は、自分のあり方に十分に気をつけつつ(戒)、しっかりと物事を見極める姿勢が必要だ。
ウ、戦争抑止力
「○×国はなにをするか分からない」「×○教徒は怖い」こんなふうに脅され怯えて、我々は軍備を買わされる。恐怖心を煽られつけこまれる。一国の政策は条件(縁)によって変わるし、×○教徒にもいろいろな人がいるのに、b のとおり一回性個別性を見ずカテゴリーで決め付けて執着反応をする。怖がりな自分達の軍拡の反応が縁となって、相手にも怯えた軍拡の自動的反応を引き起こす。軍拡競争のいたちごっこの裏で執着心を満たし肥え太る連中がいる。仮想敵も自分たち同様に凡夫なのであるから、恐怖の縁ではなく、得となる縁を届けて、互恵関係をつくるのが得策だ。
無防備平和条例運動を阻むのは、「抑止力」にすがりたい自分大事の我執である。「抑止力」は、思いとは裏腹に実は戦争の危険をかえって高め、攻撃の呼び水になる。これに気付いてもらうのがこの運動の目的だ。怖がりで自分大事の我執のために、私達は沖縄の人たちに苦しみを負わせ続けている。
エ、貧困問題
生存が脅かされれば、自分の反応に気をつけるどころではない。人への配慮も慈悲も難しくなる。それは戦争でも貧困でも同じだ。自分という反応を整える努力をするためには、憲法で言うところの健康で文化的な生活を営む生存権が必要だ。ところが、現代では、そもそもの不公平を放置したまま、生産効率向上・コスト削減のため、自己責任の名の下に各個人の生存権が削ぎ落とされている。その一方で、使用し尽くせない資産額の一層の増大を求めて投資に明け暮れる残高中毒患者もいる。上手く立ち回っている投資家は、ひとり苦を免れているように思えるかもしれないが、遠眼鏡で冷静に覗き見れば、阿片窟で陶然とする中毒者同様に哀れで同情を禁じえない。99%のみならず1%も、それぞれ異なる苦にまみれている。
資産残高に執着する投資家には、縁を得て自ら気付いてもらうしかないかもしれないが、生存を脅かされている人たちには、富の再分配が必要だ。健全な購買力の枯渇が、今の経済閉塞の原因だと思う。この状況において、特にベーシック・インカムという考えには、賃労働以外の労働に意義を認めない、とか、私は自分の才覚で生存を稼ぎ取っているのだから貧困はその連中の自己責任である、というような、執着のa、b、c、で凝り固まった固定観念を相対化する着眼がある。他の凡夫にベーシック・インカムを問いかけることは、思い込みのものの見方を取っ払って土台から考えてもらう良い思考実験になろう。
6)結語
以上、釈尊の教えをその核心まで自分のこととして実感することは難しくとも、執着による自動的反応という人間分析は、信者だけの狭い信仰対象に留まらない普遍性があり、その分析が広く世の中に共有されれば、紛争や社会変革の軋轢で人々をまた苦しめることなしに、社会は互いに凡夫であることに配慮したものに変化し、社会の苦は減じていくのではないか、という考えを述べた。
*1 国柱会:宮沢賢治も熱心な法華信者として門を叩いたが、入会を拒否されている。賢治の場合、病気のため思うほど衆生のために働けていないという無念さが、「菩薩」の思いあがりを防いだと思う。
*2 他の「仏教」では、他力を極めた市井の「妙好人」たちの純粋さに感銘を受ける一方、弥陀の本願のみならず侵略戦争までもそのまま素直に受容してしまっている点に問題を感じる。タイなどの南伝仏教には、農村改革などに積極的なエンゲージド・ブディズムと呼ばれる取り組みがあるが、これについては今語れるほどの知識が私にはない。インドには、アンベードカルから佐々井秀嶺に繋がる、カースト制度打破のためのヒンズー教から仏教への集団改宗運動がある。小論、インド・ナグプールでの集団改宗運動60周年式典を参照。
*3 無常=無我=縁起:脳科学等の最近の成果は、釈尊のこの発見を意図せずに傍証している。例えばベンジャミン・リベットは、脳外科手術中の実験で行為の意図以前に準備信号が始動していることを発見した(つまり「意図」は後付けであって「意図によって何かを行う」のではない)。アントニオ・ダマシオらの主張も、無常=無我=縁起に近接している。小論『無意識の脳 自己意識の脳』を読んで参照。
以上、「釈尊の教えと社会変革」原稿
<HP掲出にあたって追記>
最近の事件で、出所後社会復帰できず、自殺もできず、死刑になりたくて通り魔殺人を犯した、というニュースがあった。お互いに弱い凡夫として思いやりあえる寛容な社会であれば、こんないびつなところまで追い詰められることはなかったかもしれない。大阪府知事が、「死にたかったら自分一人で勝手に自己完結せよ」とコメントしたそうだが、これも典型的な凡夫の自動的反応だと思う。
曽我逸郎