『「苦」をつくらない』読了しました。

2018 09.01|Fumiko Miura さん

Fumiko Miura さん
曽我から
【曽我】
新しい本が、2018年8月初旬、出版された。
『「苦」をつくらない サピエンス(凡夫)を超克するブッダの教え』 高文研より。
Fumiko MiuraさんからFacebookで以下のコメントを頂いた。

2018 8.30
読了しました。曽我さんのいわばジャーナリスティックなアプローチがすがすがしくて、ワクワクしながら読みました。執着によって苦を生み出しているとは私のことだなあ…と恥ずかしくなったり、ん? この恥ずかしいという気持ちはどこからくるのだろうと思ったり…。自分を振り返る、いいきっかけになりました。だけど、わからないことはまだまだたくさんあります。このことで曽我さんとやり取りさせていただけるのは貴重な機会なので、少し書きますね。
以前に禅の本を何冊か読んだことがあるので(日本文化の本を書いたときの参考文献として)、「無我」については考えたことがあって、わかる気がするところもあるんです。私の理解が正しいのかどうかわかりませんが、自分の体と認識しているものの内側にも微生物が棲んでいたり、自律神経があったりしますし、知らないうちに気象や時代の影響を受けていますし…。それでもまだ腑に落ちない部分は、ひとつには曽我さんが最後のほうに書かれている「責任を問わない」というところでしょうか。それによって、別の人の「人権」が侵害される気がします。たとえば、いつもお掃除当番をさぼる子を思い出しますが、この間さぼったんだから、今日はあなたが当番ね、といえないと、他の人の不都合が増えて、「第一の矢」のほうも増えるかもしれません。
「自分」が対象化されるようになったのは、生存のために有利だったからだとすると、曽我さんも書いてられるように、それは自然なもの(本能との境が難しいもの)なので、なかなか止められません。暴走しないまでの程度なら、「我」の認識を、許容し合わないと生きていけないと思います(それが「人権」意識でしょうか)。それで、「我」の暴走を食い止めるためには、「責任」という概念が必要かなあ…と思います。あと、「約束」とかも同類の概念でしょうか。

2018 9.01
思ったより早く返事を書きました。拙速でなければよいのですが、、。

仰るとおり、「自分」を対象化して捉えることは、生存に有利なことで、進化の大きなステップだったと思います。我が家の庭にたむろする猫たちは、エサをくれ~にゃ~にゃ~、とうるさくせがみ、満腹になるとでろーんと寝ています。そんなふうにその時その時の欲求、欲望に従って生命を維持しているのですが、人間(サピエンス)の場合は、そこに我執が加わりました。我執というのは、あるべき本当の自分の存在を妄想することです。向上心の駆動力となる面もありますが、そのような健全なものでは済まない場合が大半です。妄想した「本当の自分」にふさわしい扱いをされなかったとして、腹を立てて根に持ったりします。
「目の前にニンジンをぶら下げる」と言いますが、我執の場合は、自分の背中に竿を立てて、理想化された「本当の自分」を目の前にぶら下げて、それを目指して突き進むのです。
猫たちのその時その場の欲望が、生命を維持する自然吸気の普通のエンジンだとすれば、我執は、いうならばターボチャージャーで、むりやり混合気をエンジンに押し込み、パワーアップさせます。その結果、サピエンスの競争力は格段に向上しました。

同じ高文研から、大妻女子大の小谷敏先生が『怠ける権利!』という本を出されました。まだ読みかけですが、「過剰生産が、貧困、格差、恐慌、植民地支配、戦争を引き起こす」という趣旨を書いておられます。
必要を超えて生産を拡大させるのは、我執だと思います。「さらなる富を、地位を、名声を、影響力を」とどんどん「本当の自分」を巨大化していく「勝ち組」がおり、その一方で、崩れ落ちてしまいそうな「本当の自分」をなんとか面目の立つものに保っていたい人たちがいて、隣人に負けないように競争を強いられています。みんなが「本当の自分」のイメージのためにターボ圧を自分にかけて奔走しています。弱い立場の人たちは、力関係の中で居場所を確保しなんとかうまく立ち回って自分のメンツを保とうと懸命で、勝ち組の我執は、弱い人たちの我執を取り込み操り、自分の我執を実現させるために利用しています。そんなふうに無数の我執が積み重なり噛み合わさり圧力をかけあって、全体のターボの圧力がどんどん上がって限界に近づいている。それが今の世の中ではないでしょうか。

我執は、当初は目先の競争力を高めてくれたものの、今では弊害がはなはだしくなっています。ですから、我執のもととなっている「立派な本当の自分」が妄想に過ぎないことをよく見極め、それから脱却する必要があります。
「立派な本当の自分」が妄想に過ぎなかったと自分のこととして腑に落ちて分かったとき、ありもしないものを目指して馬車馬のごとく駆けて息も絶え絶えになっている自分の愚かさが痛感されます。落ち着いて伸びやかな状態を回復し、苦をつくらぬように気をつけるゆとりも生まれるのです。

「責任を問うことはできない」という書き方については、確かに書き込みが不十分だったかもしれません。
人はみな無常にして無我なる縁起の現象であり、凡夫はさるべき業縁によってどんな振る舞いもしてしまうのですから、まずは他の人たちをそういう凡夫として受け入れることが必要です。それは、実際にそうなのですから、そうする他はありません。もしも「人間として許せない」と思うなら、その思いの背景には、「人間は正しく立派なものであるはずだ。そうあるべきだ」という考えがあります。しかし、人は業縁次第でとんでもないこともしてしまう凡夫です。大岡昇平は、飢えた兵隊たちが仲間を食べたことを書きました。実際には、死んだ人を食べただけでなく、仲間を殺して食べることもあったそうです。ひどい状況に置かれひどい縁にまみれてしまえば、凡夫はどんなことでもしかねません。だから戦争はしてはいけないのです。凡夫とはそういうものだと認識する他ありません。

しかしこれは、凡夫のどんなふるまいも容認し放任するということではありません。ふるまいは業縁次第なのですから、よい縁に触れてもらい、よい業を積んでもらうようにすべきです。
「人間として許せない」と罰を与えるのではなく、よりよい(=苦を生まない)反応になってもらえる縁を考えるのです。批判は問題点の指摘、改善のアドバイスですから、慈悲の行いです。苦をつくるふるまいに対しては、批判したり、教え諭したり、突き放したり、さまざまな対応があり得ます。おだてたり勇気づけたりすることもあるでしょう。人間は大変複雑な反応ですから、よかれと思ってしたことが、かえって悪い反応を引き起こすこともありますから、これは大変難しいことです。それゆえ、「方便に長ける」というのは、仏教では大変な賛辞です。「相手に応じて最も適切な縁を提供できる」ということですから。お掃除をさぼる人にも、友達として上手に対処できることが理想です。「言うは易く行うは難し」ですが、、。

我執全開の人に対しても、「お互い凡夫だからしょうがないね」とまずは柔らかく受け入れて、どういう対応をすれば苦を増やさないかを考える。自分自身に対しても、凡夫であるとの自覚を持って、苦をつくっていないかいつも気を付けている努力をする。そして、自分が無我なる縁起の現象であることを観察して、「本当の自分」が妄想であることを見極める努力をして、苦をつくる根本原因である我執を鎮め、ターボチャージャーの圧力を落とす。釈尊に学ぶとは、そういうことかと思います。なるべくたくさんの人がそうなればいいのですが。

頂いたコメントの終盤で、責任と約束に触れておられます。これは、おそらく、無常であって人としての一貫性、持続性がないのであれば、責任の概念も約束の概念も成り立たないではないか、という問題提起ではないかと思います。
確かに、人はそのつどの無常なる反応の断続ですが、それでもそのつどの反応の仕方にはその人らしいパターンがあります。これは業(過去のふるまい、経験)によって形成されたもので、そのパターンは経験によって変化しますが、それでも一定の持続性があります。互いに批判し教え合いながら、よい縁に触れ、よい業を積んで、苦を生むことの少ない反応パターンを、みんなで身につけていければよいのですが。

また、無常=無我=縁起を腹に落ちて納得できた後について、対象化して捉えた自己は消滅するのではなく、試行錯誤やシミュレーションの道具として機能し続けます。凡夫を駆り立てる妄想ではなくなるだけです。成道後の釈尊は、弟子たちを巧みに教え導きましたが、その際には、対象化した自分をコマのように動かしシミュレーションして最も良い対応を検討していたはずです。仏においては、対象化された自分は、慈悲の最良の方便を考えるための道具になるのです。

釈尊の教えの目的は苦の滅です。根本のところでは、苦の滅につながるかどうかが判断の基準です。「無我なんだから約束を守らなくてもいい、責任はない」と理屈で考えてそういう行動をすれば、苦を増やすだけの結果になります。また、約束を守らず責任を取らない人に対して、処罰するだけでは苦を減らすことにはつながりません。そのような自分勝手な凡夫にもふるまいを改めてもらうにはどうすればいいか、考えるのが一番いいのだろうと思います。

まとまりのない断片の寄せ集めになりました。説明になっていればいいのですが。

2018年9月1日 曽我逸郎