<曽我注記>
根津公子さんは、先生として繰り返し何度も処分を受けながら子供たちのために国旗に不起立を貫いた方です。*****
曽我逸郎様
「『苦』をつくらない」、時間が取れずにやっと、3日前から読ませていただきました。
はじめの「世の中を支配し、多くの苦をつくっている人たちに『苦をつくることは恥ずべきことだ、もうやめよう』と思ってもらわねば」と書かれているところで、ご著書の目的の一つを想い、読み進めたい気持ちに駆られました。頭を整理するのが大変でしたが、最後の方で多少ともストンと落ちた観があります。
「執着が苦をつくる」について。私の教員人生の中で、とりわけ2008年3月はクビにされるという恐怖の中にありました。でも「君が代」不起立を選択したのは、間違いと考えることに加担はできないからでしたが、生徒たちや社会に「教育とは何か」「この国は子どもたちをどこに連れて行こうとしているのか」と、教員の責任として一石を投じようとも考えたからでした。私の保身に執着し不起立を実行していなかったなら、確実に苦がつくられ、終生それをひきずることになっただろうと思いながら、 また一方で、色々な闘いへのカンパを出す中で金額を決める際に、もっと出しても生活はできるのに私は自己中なのだろうか、と思うことがしばしばあるのですが、それは執着だよね、と思いながら、読み進めました。まさに、無常=無我=縁起を自分のこととして受け止められるか、なのですね。「執着の喜びは、一時の気散じの果てのない繰り返しにすぎず、満足をもたらさず、欲望を高め、苦を深める。」全く同感です。
「熟議の民主主義への第一歩は『凡夫の自覚』から」「活発な議論が展開されるようになれば、『政治のプロ』も勝手はできなくなる」ことや、「プロパガンダが巧妙に人々を操る」なかで「異論を語る」ことの重要性を、曽我さんがこれまで言われてきたことから具体的に展開されているので、私・執着、無我についてよく理解できました。
「わたしとは、そのつどつど縁によって起こされる、一貫性のない断続=無情。さまざまな縁により起こされることを後付で『私』という妄想にラベルをつける」については、何度も読み返しました。「さまざまな縁により」まではそうだと思ったのですが、「縁により、私が起こした」のではないということ?左脳を損傷された方のことや、赤ちゃんが育てられる中で自己を認識することなどのご指摘に、わたしも「わたし」という妄想をしてきたのかとぼんやりと思いました。考えていきたいと思います。「執着が沈静化すれば、慈悲が力を発揮する」という点は、確かに、と思います。
親鸞の思想から日本の「国民性」を考察されていることにも、そうかと思いました。日本の軍隊は、死ぬことが良いこと、他の国の軍隊と全く違いましたものね。
曽我さん、貴重な問題提起をありがとうございました。
戦没者追悼式で政治家が「尊い犠牲のおかげで、今の日本の平和と繁栄がある」ということ、本当に腹が立ちます。戦争法を成立させ、改憲に命をかける安倍が今年の追悼式でもこの言葉を使ったことに、若い人たちに「君たちも尊い犠牲になれ」と言っているように聞こえました。
友人に指摘されてそうだと思ったのですが、「五戒」の最初にあげられている「不殺生」、その「不殺生」が教育勅語にはないですね。
別の友人(「君が代」解雇をさせない会事務局に一人)に曽我さんのご本のことを話したら、「すぐに回して」と言います。
9月になっても暑い毎日ですが、季節は秋、虫の鳴き声が聞こえてきます。
2018年9月6日 根津公子
前略ありがとうございます。
ご自身に引き付けて下さり、とても生々しく具体的に読んで頂いたと、大変ありがたく感じました。まだまだわたしは抽象的観念的なレベルで考えているのに、根津さんは、これまでの、また今の毎日の暮らしの中の、たくさんの人たちとの関わりにあてはめて考え、受け止めて頂きました。感謝いたします。
改めて振り返って、根津さんは、子どもたちが将来、苦を被ることのないように、自らが防波堤・風よけ(かじかたか)となって苦を引き受けることを覚悟し選択されたのだと、再確認しました。菩薩という表現は、拙著で少し批判的に書いたので控えますが、まぎれもなくこれは大いなる慈悲の行いです。
小出裕章さん(先生と呼ばないように、と言われたので「さん」づけにします)も、富や地位や名声など歯牙にもかけず、みんなにこれ以上の苦をもたらさないために反原発の取り組みをされています。
小出さんや根津さんのような方がいて下さることで、みんなで勇気づけ励まし合えば、世の中の執着のレベルを下げて苦を減らしていけるのではないかと、将来に希望をつなげることができます。
もうひとつ、沖縄の反基地運動から学んだことに、良心的不服従、非暴力不服従の闘いがあります。おかしいと思うことには、堂々と顔も名前も晒して不服従を貫く。服従しない対象は、納得できないおかしな法・制度です。有色人種は座ってはならないとされた席に敢えて座り、敢えて殴られることで、問題を晒し、世界に問題が共有されました。ガンディーもキング牧師もネルソン・マンデラも、このようなやり方で苦の削減に成果を上げました。
根津さんの頑張りは、慈悲の行いであると同時に、まさに、おかしなことには膝を屈しない、非暴力不服従の闘いでもあります。
民主主義をいかに堅持するか、つきつめて考えると、非暴力の良心的不服従を頑張れる志がどれほどあるかにかかっているように思います。
その意味で、根津さんの頑張りは、非常に意味が大きいし、みんなのお手本であると思います。
穏やかなほほえみを湛えた佇まいのどこにこれほどの強さを秘めておられるのか。
何卒引き続きのご縁をお願い申し上げます。
草々
根津公子様
2018年9月10日 曽我逸郎