『「苦」をつくらない』を読んで。無常=無我=縁起をどのようにして理解してもらえるか

2018 10.28|アマノさん

アマノさん
曽我から
2018 10.28
(曽我)拙著『「苦」をつくらない』に以下の質問を頂いた。(一部略)
自分と世界の関係が「無常=無我=縁起」というのは理解しましたし、昔から感じていたことです。ただこのことを理解する、人に理解させるには我や神という人格(特に神が人格神である場合)の実存を否定する必要があります。まずこの時点でほとんどの人がついていけないと思います。中世の教会で地動説を主張している感じです。・私はオーストラリアに住んでいますが、多くの有名な学者がプロテスタント教会に属しており、たとえばキリストの復活に関して、彼らの多くは本当にあったと信じています。私からみると、学問では徹底して理性的で複雑な論理を組み立てる人が、死生観、宗教観になると穴ぼこだらけの論理でも神秘主義でも問題と思っていないようで、そのアンバランスに驚かせられます。インド人でIBMエンジニアリングのトップの人と友達ですが、彼はサイババを信仰しています。彼の娘はハーバード大学で学んでいますが同じです。宗教的神秘性から離れ、徹頭徹尾理性で対処するというのは、現代でも困難なことです。私はここに、人が理性だけでこの世の真実を理解できるということを疑っています。・そしてたとえ「無常=無我=縁起」を自分が悟ることができたとしても、それをどのような手段で他の人に伝えればよいのでしょうか?自分が悟ったと同じやり方(たとえば瞑想)を相手に強要するのでしょうか?三学がその方法かも知れませんが、三学を始めるのには、まず「無常=無我=縁起」を心底理解し、実行したいという強い意志が必要です。従って「無常=無我=縁起」を理解していない人に、「やってみればわかるよ」というのりで、三学を勧めてもうまくいなかいと考えます。

・釈尊が悟りを開いたときに、そのような悩みがあったと本で読んだことがあります。つまりこんな難しいことを自分以外の誰がわかってくれるだろうか?誰が、自分が悟りを開いたとわかってくれるだろうか?どういう方法で伝えたらよいのか?結論からいうと、仏教は今日世界的宗教になったのですから、ある意味成功したと思います。ただ仏教徒の中で「無常=無我=縁起」を理解し、それに基づいて行動している人も少ないと思います。

・グローバル世界の中で、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの宗教、科学、哲学などあまたある中で、釈尊の教える「苦をつくらない」ことがすべての人の幸福につながるということをどのようにして広め、分かってもらうことができるのでしょうか?特に上の三宗教は、個人や魂というものをベースにできていて、個人、我というものは実は幻なのだと説明してもそう簡単には納得してもらえないと思います。私個人としては、どうみても仏教の教えの方が論理的であるし理性的であると思っていますが、たとえばガンに罹って余命いくばくもない身になったとき、「無常=無我=縁起」であるとわかっていても、それがどのようにして自分の死の恐怖を和らげるのか、安心して死んでいけるのか、まだそこまで悟っていません。
(一部略)

2018 10.29
ご質問を頂きました。ありがとうございます。実は今、小論を書きかけていて、頂いた問題提起とも関係してきそうです。なので、先にそちらを仕上げます。しばらくご猶予を下さいませ。
2018 11.2
小論を書き終えて、掲出しました。お返事もその終わりに盛り込んでいます。お手数ですが、ご一読いただければ幸甚です。小論「大きなもの」
2018 10.30
~一部略~
私は小説で般若心経を取り上げましたが、般若心経を曽我さんほど深く理解できていませんので、心無罣礙でアートマンの復活と言われてもピンときていません。もしかして菩薩という概念がアートマンだとおっしゃっているのでしょうか?
対立概念の双方に「無」をかぶせて否定するのが、梵我一如化の特徴で、思考の拒否。般若心境は梵我一如化の傾向を宿しているというのも理解できていません。
できればお時間のあるときにもっと教えてください。本の後ろの方に書かれていた、「脳科学の視点から「無常=無我=縁起」を考えてみる」で、「我執=先に我あり」の起源を条件反射ではないかと書かれていますが、私は添付の小説(掲載不可とのこと。曽我)にも書きましたように言語の発達に伴う、エピーソード記憶の発達。そのエピソード記憶が過去、現在、未来を人類に与えたのではと想像しています。意識はパラレル通信では生まれず、言語と同じシリアル通信、シリアル処理をして初めて生じると考えています。アマノ
~以下略~

2018 11.6
心無罣礙は、「心は妨げがない」つまり「心は自由無碍に活動する」という意味で、そのような「心」はアートマンと同様の概念の言い換えであると考えます。梵とは、すべての対立概念を超えた、絶対的に肯定すべき全体という概念であり、梵において、対立概念も安直に「即」同一化されます。煩悩即菩提、生死即涅槃、一即多、というように。また、部分にとらわれることを拒否し、全体である梵を一挙に体得しようして、分析的思考を忌避します。それゆえ、部分概念を頭ごなしに否定します。それは、部分を否定することで、部分を超えた全体である梵に一挙に没入せんとする考えです。
これに対して、釈尊の教えは、自分という反応を要素に分けて分析し、要素と要素の関係を考え、そこから自分という反応の本質を理解させようとする傾向が顕著です。釈尊の教えと梵我一如思想とは、目指すところも、その方法もまったく異なります。言語、特に名詞がなりたつためには、そのつどの現象をいつもの存在として把握することが必要です。現象をカテゴリーとして捕捉し、それを実体視するというプロセスが必要で、そこにおいて条件反射が重要な役割を果たしています。我執も、自分をいつもの存在として実体視する能力が前提として必要であり、これは単純な条件反射よりかなり高度なことですが、やはり、条件反射の機能が土台になっています。
エピソード記憶が成立するためには、過去・現在・未来と持続する自分が一貫して存在するという解釈が必要であり、それを実現するプロセスにおいても条件反射は重要な役割を果たしています。

上記いずれも『「苦」をつくらない』に述べたつもりです。そこで紹介しているわたしのHPの記事や本なども、ご一読いただければ幸甚です。

アマノ様
2018年11月6日 曽我逸郎

2018 11.2

曽我様

以下は公開可です。

小論「大きなもの」を読ませていただきました。

「大きなもの」は今支配的だが、長い目でみると変化し、時代が変わるとそれが常識でなくなるということですね。
つまり「大きなもの」の器はそのまま残っているので昔からあるように勘違いしますが、中身が少しずつ、もしくは急に入れ替わっていっていることに気付く人が少ないということでしょうね。

そして、そこで自分はどう生きるかでしょうね。曽我さんのようにご自分の価値観がある方は、「大きなもの」に左右されないで生きれますが、多くの人は自分の生き方に絶対的な価値観がなく、常に右、左の人の顔色を窺いながら生きています。(寄らば大樹の陰)
誰にも左右されない独自の価値感を持つというのは凡人には簡単ではないと思います。おそらくその価値観は自分の生死までつきつめて考えた人でないと自信を持ってそう言えない(例えば、国旗への礼をするかどうか)と思います。

特に日本人は右に倣え傾向が多く、「無常=無我=縁起」の自覚というのは、皮肉にも他の人に気を配り、自論を押し付けない、一見すると自我を消滅しているように見える多くの日本人より、個人主義が徹底した西洋人の方が早く理解して、実行するのではないかと感じます。西洋人はこれが正しいと思ったらあまり左右を見ずに実行します。そして周り個人の行動を尊重する傾向があります。小論の図にあったように、無我は個人のすぐ隣にありましたが、マルクスが行き過ぎた資本主義から共産主義が生まれると予言したように(あたっていませんでしたが)、行き過ぎた個人主義が意外と無我に近いような気がします。

又、私の質問の回答も書いていただきありがとうございました。
あれから私も考えたのですが、1つアイデアが湧きました。
仏教が徹底して、理性と論理で成り立っていて神秘的なものがないという構造的な理由から、「無常=無我=縁起」は、そのうち脳科学が証明もしくは、はっきりした見解を示してくれるのではと思います。アインシュタインの相対性理論は、発表当時はほとんどの人が理解できていませんでした。でも、それでも世界中の人はそれが正しいとすぐに信じました。それは個々の人が理解したからではなく、科学的に証明されたから、もしくは科学としてのプロセスを踏んだものだったからです。人は理論より、科学を信じます。
仏教も科学の力を借りれば、宗教を超えて多くの人の賛同を得るようになり、仏教は宗教ではなく科学として広まることになります。それでいいのではないでしょうか?どう思われますか?

アマノ

2018 11.6
個人主義が強まるというより、「大きなもの」が弱くなっていって、個人が単独化し、頼りどころを失っていく、というような印象を持っています。これはニュアンスの問題にすぎませんが、、。
「大きなもの」にくるまれていたのに、それがだんだんと希薄になって、むき出しで放り出されてしまった不安から、「大きなもの」をもう一度立て直そうとする一時的な足掻きが繰り返されますが、流れとしては、「大きなもの」の崩壊は進んでいく。裸の個人の不安を救える可能性があるのは、釈尊の教えだと思います。おっしゃるとおり、仏教はともかくとして、釈尊の教えは、一般に言われる宗教のカテゴリーにはあてはまりません。また、科学、特に、人間とはどういう反応であるかを研究する脳科学や認知科学は、釈尊の教えと重なりあう領域を研究しており、2500年遅れて、釈尊の発見に近づいていると感じます。釈尊の教えを考え説明するのに、よい方便になります。凡夫からすれば荒唐無稽としか思えない無我という教え、釈尊自身が説法をあきらめかけたほどの常識から遠い教えを、我々凡夫が考えるには、あらゆる手掛かりを総動員する必要があります。拙著で紹介したベンジャミン・リベット、アントニオ・ダマシオ、ジル・ボルト・テイラーなどは、釈尊の教えを考えるとてもよいヒントになります。さらなる知見の深まりを期待します。小論集の「脳科学からのヒント」もご覧になってください。

アマノ様
2018年11月6日  曽我逸郎