旧サイトから転載
(ネルケ無方さんは、沢木興道、内山興正の伝統を引き継ぐ曹洞宗専門道場安泰寺を今、背負って立っておられるドイツ人ご住職)
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曽我逸郎様
ネルケです。お久しぶりです。
明日は「週刊金曜日」に曽我様の話が出るそうです。私も陰ながら、ご活躍を応援したいと思います。
安泰寺の住職になって、10年がすぎましたが、まだなり立ての頃にネットで「一切皆苦」を検索していたら、曽我様のサイトに出会い、たくさんの衝撃を受け、たくさんのことを学ばせていただきました。ドイツ人でありながら、エルンスト・シューマッハの「Small is beautiful」を始めて知ったのも、曽我様のサイトを通して (http://www.dia.janis.or.jp/~soga/keizai.html)です。「ベーシック・インカム」という言葉も、おそらくそのご縁ではじめて知りました。私の仏教の理解は、そのおかげで以前よりだいぶ深まったと思います。
さて、明日の「金曜日」の話とかぶさるかもしれませんが、その「ベーシック・インカム」、そして「人権」についても、いろいろな疑問を抱えています。曽我様はこれからますますお忙しくなるとは存じていながら、いづれ何らかのフィードバックをいただければ幸いです。決して急ぎはしません。実は、来年に出発されるかもしれない新たな本の執筆中です。もしその中で曽我様の話もさせていただければ幸いです。
以降は私の疑問です。シューマッハの仏教経済学からはたくさんのヒントは得られると思いますが、結局のところ西洋人の「Shangri-La」的なロマンチシズムも大きいと思います。その当時のビルマに一体どれくらいの人々が労働を「正命」の実践として捉え、喜びとしていたのでしょうか。ベーシック・インカムについても、似たような疑問があります。人間に生まれた以上、どこのどの人でも、無条件にその必要最低限の生活を保証することはすばらしい理念だと思います。そういう世の中が実現できるように、私も努力したいと思います。ただ、多くの人は感じているであろう疑問ですが、能力があってもなくても、気力があってもなくても、働いていても遊んでいても、だれにでも無条件に生活するためだけに足るインカムが支給されれば、一体だれが働き続けるのだろうか、ということです。国全体、いや、できれば人類全体にそのベーシック・インカムを支払うためにはとうぜん、今までどおりに働いてもらわなければ、支払えるはずがないのです。そして、一部の人は働き続けるのであろう、と私も思います。それは「働きを喜びとする」人々です。お金のためではなく、働くこと自体が報酬だと言う人。例えば、芸術家、音楽家、作家。すきでお坊さんをやっている人もいるでしょう。好きで釣りをして、それをただで(あるいは今までよりはるかに安く)提供する人もいるでしょう。
しかし、駅の便所掃除はどうなるか?好きで料理する人がいても、好きで皿洗いをする人は?ネルケ家のように「私が料理をするから、あなたが皿を洗ってね」ならともかく、経済的に困っていなければ、ほっておかれる大事な仕事は山ほどでてくるのではないでしょうか。皆が菩薩なら、社会全体のために自分を忘れるでしょうが、そういう菩薩はごく少数ではないでしょうか。それとも、社会制度を変えれば、急に全員が菩薩に変身すると言うのでしょうか(マルクス・エンゲルスはそういう夢を見ていたようですが、それは幻でしたね)。
曽我様の言う「他の凡夫にベーシック・インカムを問いかけることは、思い込みのものの見方を取っ払って土台から考えてもらう良い思考実験になろう。」(http://www.dia.janis.or.jp/~soga/syakaihe.html)には同意しますが、単なる「思考実験」ではなく、現実性はどれほどあるのでしょうか。それまでの道のりは「何年」「何十年」「何百年」それとも「何阿僧祇劫」なのでしょうか。
安泰寺のようなこじんまりした集団でさえ、凡夫の「我」という妄想はなかなか脱ぎ捨てれません。以前、「午前は皆で一緒に坐禅をし、掃除をし、作務をしよう。料理は典座当番に作ってもらおう。そして午後からは自由行動だ。好きな人は好きなことをすればいい。どうせ、皆が修行をしに、自分の意思で来ている訳だから、自分に何ができるか、自分で考えて、行動に移すこと。晩御飯も、当番を決めないで、その日に作りたい人に作ってもらえばいい。そして、その日にたまに休みたければ、それでもいいではないか。勉強がしたい人は勉強をすればいい。坐禅をしてもよし・・・」
そうしてどうなったかと言いますと、午後からはだれも作務をしなくなってしまった。私も。台所にもだれもいない。夕ご飯の時刻が近くづくと、いつも同じ人は我慢しきれず、あわてて何かをこしらえていました。他の者はそのニオイを嗅ぎつけ、「ぼくの分もある?」とよってくる・・・。最後には、「自分の意思では何もできないから、元のスケジュールに戻そう」ということになりました。皆、自分の意思で菩薩の実践をしにきたはずの安泰寺でさえそうなのです。皆が同じ釜の飯を食っているのに、少しでも楽し、人より少しでも多くおいしい思いをしようとする・・・。私も。
そういう凡夫がほとんどと思うので、「思考実験」としてはともかく、現実的提案としてのベーシック・インカムはどうでしょうか。
あと、人権です。ベーシック・インカムもそうですが、おそらくキリスト教の背景をなくしては出てこなかった発想だと思います。「皆、同じ神の被創造物」という教えから、「人類みな兄弟」という考えが導き出され、そして「命・自由・平等」の権利が生まれてきたのではないか。神がまだ広く信じられていた頃には、「人権」は不必要でしたが、「神が死んだ」と同時に、その代品として「人権が発明された」と私は思います。
だから人権を否定的に見る人もいるでしょうが、私はやはり人権はあった方がいいと思います。しかし、それを「無我・無常・縁」として両立させることは可能でしょうか?
仏教から「人権」を引き出せるなら、やはり「仏性」ではないでしょうか。しかし、それでは「梵我一如」的な発想ばかりではなく、ターゲットゾーンはあまりにも広すぎます。
一つの問題、仏教では「人類」を特別視しない。仏性を備えている、そして菩薩の救いの実践の対象となるのは「生きとし生けるもの」としての一切衆生のはずです。しかし、畑に生えている雑草に、人間と同じ「権利」を認めることは現実には不可能です。キリスト教のように、動物以下を切り捨てれば、「隣人愛」だけなら、何とかなるかもしれない。雑草もニンジンも栗の実も、一切を自分のごとく愛すれば、飢え死にしますよね。
仏教は理念のほうはキリスト教より上だとしても、その分、現実には弱い気がします。
また、それ以前に、「縁起」でしか成立たない「個人」に「命・自由・平等」を認められるか、と言うことです。必然的に、戦時中の日本仏教のように、「戦争も縁」「生かすのも殺すのも、仏の命」「縁に従うことこそ自由」「平等中の差別、差別中の平等」という落とし穴に落ちはしないでしょうか。人権を立てるなら、どうしても「個人」という考え方は優位です。
何か智恵があれば、あるいは「あの本には全部書いてあるよ」というのがあれば、教えていただきたいのですが・・・。
よろしくお願いいたします。
合掌
ネルケ無方
前略
本来の私に少し引き戻していただいたように感じ、喜んでおります。その割には返事が遅くなってしまい、申し訳ありません。
2点、ベーシック・インカムが実現したら、誰も働かなくなるのではないか、少なくとも嫌な仕事をする人はいなくなるのではないか、という問題設定と、無常=無我=縁起から人権を引き出せるか、という問題設定とを頂きました。
一つ目の問題については、まず労働を分類してみたいと思います。労働は、金銭的な対価のある賃労働とそれ以外の労働に分けられます。非・賃労働は家事労働やボランティア活動などですが、もっと広く捉えて、道普請や清掃活動やお祭りのような地域活動なども、地域の生活環境の維持・向上、伝統文化の継続に貢献しており、これらも非賃労働として捉えたいと思います。魚釣りやキノコ狩りも、だれとも交流なく自分だけで食べてしまうのでなければ、なんらかの形で文化の伝承、発展に寄与しており、非賃労働に分類できるでしょう。安泰寺での修行生活や、様々な創造的趣味、文化・スポーツ活動も同様です。まあさすがにパチンコを労働と呼ぶことは難しいと思いますが、スポーツや創作活動は、時には趣味のレベルに留まらず、膨大な対価を生む賃労働に変わります。J.K.ローリングは、生活保護を受けながらハリー・ポッター第一巻を書き、映画など夥しい関連ビジネスを生み出しました。
ベーシック・インカムによって遊んで暮らせると最初は考えたとしても、人間は、意義を感じられない生き方は続けられません。自分なりになんらかの意義あることを始めます。それが世間から見て意義があるかどうかは分かりません。しかし、少なくとも上に書いた広い意味の非賃労働は行うはずです。その中から、第二のJ.K.ローリングや三年寝太郎(3年間の引きこもりの末に地域に資する大きな仕事を成し遂げた若者の物語)が生まれてくるでしょう。
「働く」ということの意味は、かなり広げて考えることが可能だし、ベーシック・インカムは、そのような多様な「働き方」を支援すると考えます。
では、やはりベーシック・インカムが導入されれば、人々は気ままな非賃労働に明け暮れ、誰も賃労働をしなくなるのでしょうか。
これはずいぶん前に聞いた調査結果で、その後もっと新しい調査もあるだろうと思いますが、ヨーロッパでのアンケート調査によると、8割の人が、「ベーシック・インカムが導入されれば、多くの人たちが仕事(賃労働)を辞めて遊んで暮らすだろう」と答えたそうです。しかし、では自分はどうするかと訊くと、「今と同じ仕事を続ける」という人が6割、「別の仕事をする」と答えた人が3割でした。つまり、ベーシック・インカムで怠け者が増えるというのは、他者への不信感の表明に過ぎず、自分は賃労働を続けると言う人が9割だったそうです。
ベーシック・インカムは、文化的な最低限の生存を保障するものですから、時間的な贅沢はできても、金銭的な贅沢はできません。なにか意義あることをしようとして、資金が必要という場合もしばしばあります。音楽が趣味なら、ギターやアンプなどが欲しくなります。ほとんどの人は、ベーシック・インカムだけでは満足できず、手作りの趣味だけに明け暮れられるほど強くもなく、賃労働をすると思います。
ネルケさんは、料理と皿洗いという対比をされました。おもしろい例えです。人のやりたがる労働とやりたがらない労働という分類だと思います。
これについては、こう考えています。ベーシック・インカムが生存を保障するので、生存のために不本意な賃労働に不本意な条件で従事することはなくなる、と。つまり、人の嫌がる仕事は、働き手を確保するため、賃金なり、インセンティブが追加されるだろうと思います。
例えば、福祉の仕事は大変で、現在の日本ではそれに報いる賃金が支払われているとは言い難い状況です。ベーシック・インカムで生存が保障されれば、マザー・テレサ的に意義を感じ使命感に燃えて、ボランティアで取り組む人が出てくるかもしれない。しかし、必要なサービスを賄うに足る人数にはならないでしょう。だとすると、やはり労働に見合った今よりも高い賃金でスタッフを揃えることになると思います。
ただ、これは両刃の剣で、逆の危険もあります。やりがいのある労働は、賃金が安くても、あるいはボランティアでもやる人が現れるかもしれません。つまり、ベーシック・インカムは、最低賃金という規制を壊してしまうかもしれません。このあたりは慎重な議論が必要です。
賃労働のもう一つ別の分類は、良い賃労働と悪い賃労働というものです。厳密に区分けすることは難しいかもしれませんが、例えば、しばしば投資の勧誘電話がかかってきます。明らかに怪しいし、大抵異常にしつこく、また苛立った声です。意義を感じてやっている仕事ではない。金のためにうんざりしながらやっているのだろうと思います。ベーシック・インカムは、働いている人が、道義的に嫌だと思う仕事を断れるだけの額でなければなりません。さもなければ、ベーシック・インカムは、雇用する側にとって便利な、最低賃金制度をなくしたり、解雇を容易にする口実にされてしまいます。ベーシック・インカムは、労働者に労働を選択できる立場を与えるに足る金額でなければなりません。従って、いざという時の助けとなる医療など福祉の現物給付も充実していなければなりません。ベーシック・インカムを理由にして、現物給付が削減されるようなことがあってはなりません。
ご存知のとおり、日本では毎年3万人が自殺をしています。鬱病や引きこもりも広がっています。不本意な生を長い時間強いられた結果だと思います。すべてを自分の思いどおりにできる筈はありませんが、自殺や病気になるまで追い詰められる前に、嫌なことは嫌、と言える自由を保障するのがベーシック・インカムだと考えます。
次に2点目、無常=無我=縁起から人権を引き出せるか。
釈尊の教えと人権との関連を考えるとなると、問題設定の範囲が広すぎて、大仕事過ぎます。仏教で人権に近い概念と言うと、慈悲ではないかと思います。人権と釈尊の教えにおける慈悲とを対比して考えて見ます。
無方さんは、釈尊の教えについての私のやや独善的な解釈を読んでいただいていますが、ホームページでの公開を配慮し他の方のために私の考えを再度かいつまんで説明します。< >は、釈尊の教えというより、私が勝手に補っている部分です。
釈尊の根本課題は、「苦」でした。何故人は苦しむか。それは、人が自ら苦を作り、自分を苦しめ、人を苦しめ、互いに苦しめあっているから。何故人は自ら苦を作るか。自分にとって好ましいものは奪い合い、厭わしいものは排除攻撃するから。何故か。食欲・性欲といった動物的本能に加えて、富や名誉や権力に執着するから。執着は何故起こるか。しっかりと守り拡大するべき大切な自分があるという思い込みのため。<何故自分があると思い込むか。条件反射反応のカテゴリー化作用が高度化して、そのつどの自分という反応をカテゴリーで捉え、実体視している。> 執着とは何か。自分にとって好ましいものは自分のものにし、厭わしいものは排除しようとするそのつどの反応。過去様々な縁に晒され、そのつど様々に反応してきた蓄積が、その人らしい様々な反応パターン(=業)を形成しており、そこに縁が触れると、そのつど対応する業が自動的に発動し、執着の反応を引き起こす。
苦を作らなくなるためにはどうすればよいか。自分が実体的に存在するという思い込み(=我執)が誤り(=無明)であり、実体的に存在する「我」はない(=無我)、自分とはそのつど縁によって起こされる(=縁起)持続性のない(=無常)反応、現象であることを自分のこととして腑に落ちて知ることができれば、我執の愚かさが痛感され、執着の反応は沈静化する。
どうすれば無常=無我=縁起を自分のこととして知れるか。いつも自分という反応に気をつけ、苦を作る反応になっていれば改め整える(=戒)、自分という反応を極力鎮め静謐に保つ(=定)、定によって観察可能になった自分というそのつどの様々な反応をリアルタイムのクローズアップでつぶさに観察し、無常=無我=縁起を確認する努力を重ねていく(=慧)。ある時、無常=無我=縁起が自分のこととして了解され、それまで執着の反応を繰り返し、徒に苦を作ってきた愚かさが痛感され、執着の反応が沈静化し、苦を作ることがなくなる。これが仏である。
以上が釈尊の教えの核心部分だと考えています。
おや、肝心の慈悲はどうなったのだ、と思われたかもしれません。実は、私は、慈悲は、釈尊の教えによって生まれるものではなく、執着と同様に凡夫にもともとある反応だと思っています。
慈悲は、現にそこにいる具体的な有情の苦しみに直面し、それを悲しみ、その有情を救いたいと思う気持ちです。人権のような抽象化された思想ではなく、目の前で苦しむ有情を助けようとするそのつどの具体的な気持ちです。それに対して、人権は、抽象的概念であるが故に抽象的道義心を呼び覚まし、許すべからざる敵を想定し、時に攻撃的にさせることもあります。独裁者、圧制者、人類の敵を懲らしめよ、滅ぼせ、という反応も引き起こします。凡夫の道義心は、しばしば悪を設定し攻撃することで自分を善なる強者と思いたがる執着の反応です。凡夫の執着の道義心を煽り立てて利用する政治的プロパガンダも繰り返されてきました。人権を踏みにじる独裁体制を倒すためだと称して戦争が起こされ、たくさんの子ども達が巻き添えにされることもあります。慈悲の場合は、具体的個別的で抽象度が低く、攻撃性を帯びることはありません。人権と慈悲との間には、そのような違いがあります。
そして、慈悲は、無常=無我=縁起に裏打ちされることによって、深化します。自分に意地悪をする人に対しても、ある程度でも無常=無我=縁起が理解されていれば、敵として憎むのではなく、その人の意地の悪い所業も業縁の結果の反応であると認識することができます。業縁の結果として苦を作り、自分に対してのみならず、その人本人も苦しめていることに同情することができます。無常=無我=縁起が分かってくれば、憎しみに憎しみを返すのではなく、慈悲で対応するようになります。
また、先ほど、凡夫において執着は慈悲よりも強力で、慈悲は執着に抵触しない範囲でしか働くことができない、と述べました。無常=無我=縁起が心底納得できれば、執着は鎮静化するので慈悲は執着の制約から解き放たれて働けるようになります。それまで執着の実現のために行われてきたシミュレーションや策略の能力が、慈悲のため、苦しんでいる人を救うために使われるようになるはずです。
以上、釈尊の教えが人権という考えを導き出すかどうかは分かりませんが、人権という思想は、時として凡夫に苦を生む攻撃性を植え付ける可能性があるけれど、釈尊の教えと親和性の高い慈悲には、その可能性はないこと、また釈尊の教えの核心である無常=無我=縁起への理解が深まれば、慈悲はさらに高いレベルに変わり、苦を作ることなく救済の実効を上げるのではないか、という考えを述べました。
最後に、「一切有情悉有仏性」や「すべては空or真如の現れ」といった考えでなにもかも無批判に肯定するのは、梵我一如型の発想であり、釈尊の考えとは相容れません。我々は、「仏性を備えた本来よきもの」ではなく、「繰り返すそのつどの執着の反応であり自動的に苦を作る凡夫」です。凡夫の自覚が重要かと思います。
思い込みばかりの返事になりました。春頃出版予定(順調にいけば)の本で関連する記述を読んでいただけると思います。お送りいたしますので、ご批判頂ければ幸いです。
新たな年、安泰寺の皆様が益々修行に打ち込まれ、成果を挙げられますように。
草々
ネルケ無方様
2013年1月12日 曽我逸郎
曽我逸郎様
お忙しい毎日の中、私のつまらない疑問に付き合っていただき、ありがとうございます。
春の本の出版も楽しみに待っています。私自身もこの冬で全部5冊の本を手がけています、そのうちどれくらいのことが実現できるかが疑問です。
分量がかけたとしても、中身がちょっと・・・
曽我様の解答で、J.K.ローリングの例など出していましたが、たしかにごく一部の人なら明日から「ベーシック・インカム」をはじめても、自分の見返りなど考えずに人のため世のために、いままでどおり、あるいはいままで以上に実力発揮するでしょう。「人の為」がそのまま「自分のため」にもなるからです。しかし、それはおそらく極一部の人だけの話ではないかというのが、というのが私の悲観的な考えです。実際にやってみないとわからないという側面もありますが、例えばイスラエルのキブツもそうですし、フランコの前のスペインにあったアナーキーの村、日本の新しき村その他ほとんどの共同体、気がついていたら資本主義に飲み込まれていたり、なくなったり、後継者がいなかったりしています。それには理由があるはずでしょう。
一人ひとりが菩薩を目指し、一人ひとりが変われば社会も変わるはずですが、そのために必要な時間は下手したら、昔の比丘たちが考えていたよう「さんあそうぎこう」ではないか、と思っています。
また、曽我様からいただいたヒントも踏まえて、考えて実践してみます。
合掌
ネルケ無方
曽我追記
ツイッターで「権利は、恵み与えて頂くものではなく、自ら勝ち取るものだ」との意見があった。それを読んで、思った。上に掲出した私の、人権に替わるさらにすぐれたものとして慈悲を捉える考えは、誤解を受けるかもしれない。
私は、権力の側が統治される人達に慈悲を施すことを期待しているのではない。権力の側がどうであれ、統治される側の中で、他の人の苦を感じ取り、それをなくそうと互いに努力し試行錯誤しあうこと、統治される側から権力の側に対して慈悲をもって権力側の誤りを正さしめることを考えている。
ブログの「ベーシック・インカムは妙案かも」もご一読を。