仏教の思想と社会問題への取り組み

2015 12.27|田行一成さん

田行一成さん
曽我から
2015 12.27

日ごろの村長としての職務、さまざまな社会的な活動、ご苦労様です。私は、今年長野市で市民主催で開催された“長野市議会議場への「日の丸」掲揚に反対する”講演会にて、村長の講演を拝聴し、その後の交流会にも参加させていただいた者です。その際は、私の自己紹介もせず、失礼いたしました。交流会への道すがら、私が「もともと社会運動のようなことをしてらしたのですか?」との問いに、村長は、「私は、ただ釈尊の教えに従っているだけです」と答えられました。そのとき、私は仏教に関する知識がなく、応答することができませんでした。
その後、私は、仏教に関心をもち、現在、瞑想修行に取り組んでいます。上座仏教のヴィパッサナー瞑想です。
そういった中で、仏教の思想をなんとなく知るようになってきました。また学びが浅いので、間違っているかもしれませんが、どうしても疑問に思えてきたので、ご質問させてください。
なんとなくわかってきたことは、ブッダの教えは、考えるから苦しいのだ、ひたすら雑念から離れて、自我をなくすこと、瞬間瞬間の身体に集中することを説かれているように思います。
そして、慈悲の心、生きとし生けるものが幸せでありますようにと唱えることを、とかれていると思います。
ところで、この世界には、さまざまな社会問題が存在しています。それらの問題に対してなんとか解決しようと具体的に取り組み行動していくためには、どうしても考えなければいけません。仏教がおしえるように、自分の思考をとめること、平安を唱えることとは、まったく反対のように思えてきました。
そこで、曽我村長が「釈尊の教えに従っている」というのは、どういうことなのか疑問に思えてきました。どのように、世界の問題について考えることと仏教の思想の間をつなげていらっしゃるのか疑問に思った次第です。
曽我村長だけではありません。もう何年前になるでしょうか。ミャンマーの軍事政権に反対して、仏教僧侶たちがデモをおこなったことがありました。あるいは、ベトナム戦争に反対して、フランスに亡命したティクナットハン師についてもそうです。仏教者が何かに反対の行動を起こすということは、どういうことなのか、もしよろしければお考えをお聞かせください。
これは、本来このフォームから送るべきでない、私信のようなものですが、よろしければ、ご回答いただけるとうれしく思います。

2015 12.30

前略
 中川村HPの「村長への手紙」にメールを頂きました。有り難うございます。
 釈尊の教えについての個人サイトのほうが適切かと考え、そちら(こちら)に掲載することにします。ご了承下さい。
 私にとっても大変重要な問題を提起頂きました。
 釈尊の問題意識は、苦をどう解消するか、であったと考えています。人はなぜ苦しむのか。それを突き詰めていった結果、ほとんどの苦は、我々凡夫(=普通の人)が生みだし、自分と周囲の人々を苦しめている、そして、その原因は、我々自身の執着である、と見極められたのだと思います。差別も、憎悪も、嫉みも、保身も、搾取も、戦争も、報復も、すべて執着の産物です。執着の根っこには、自分大事、自分がかわいいという我執があります。
 「あの連中が攻めてくるかもしれない。怖い。軍事抑止力がないと・・・。自分たちの近くには嫌だけど、適当に離れたところに基地があって欲しい。」このように抑止力を欲しがるのも我執の反応です。我執の反応が相手にも同様の反応を起こさせ、軍拡競争に陥り、恐れていた戦争の危険性をかえって高めてしまう。恐れることで恐れていたものを逆に招き寄せたりもするのです。
 釈尊の教えの眼目は、この我執が執着する対象、すなわちそれは「我」でありますが、そんなものなどない(無我)、ないものに執着するという不可能なことに懸命になって苦を作っている、なんと愚かなことか、そのことに気づきなさい、ということです。
 しかしながら、釈尊がせっかく教え示してくれたけれど、世の中の苦はなくなったのでしょうか。多少は減ったかもしれないし、苦を脱した人は少なからずいたことでしょう。しかし、社会全体、人類の歴史から苦をなくしてしまうことはできなかった。
 釈尊にさえできなかったことが、私にできる筈もありません。
 しかし、それでも、いくらかでも苦の生産を減らしたい。
 世の中の凡夫は、深く考えないまま、執着の反応のままに走り、どうすれば儲かるか、どうすれば出し抜けるか、そういう目先の損得ばかりに工夫を凝らしています。それが上手な人ほど、力を持っている。そういう人たちが牛耳る世の中ではありますが、もう少し大きな視野で捉え、深く考える人たちも、確かにいます。そういう人が少しでも多くなるように、私自身が視野を広げ、深く考え、苦を作る執着の自動的反応をできるだけ制御しつつ、他の人たちに問いかけ、批判し合い、学び合い、苦を作らない丁寧な対応が世の中に広がるようになんとかできないものか、と思っています。
 釈尊の教えを自分のこととして腑に落ちて了解し、我執が鎮火し、苦を作らず、みずから苦しまず、人を苦しめない人を増やすこと。これが究極の目的です。しかし、それは一朝一夕には不可能です。ですから、同時にその一方で、現今の様々な具体的問題において、短絡的で粗雑な考えではなく、熟慮した考えで、苦を作ることの少ない考えが広まるように努力することも必要だと思います。
 今の私においては、このふたつをうまく関連づけることができていません。本当は、両方に一体的に取り組めれば、他の人から見ても分かりやすいのかもしれません。しかし、なかなか難しい。大きな課題です。今後も模索してまいります。
 さてところで、田行さんが、「ブッダの教えは、考えるから苦しいのだ、ひたすら雑念から離れて、自我をなくすこと、瞬間瞬間の身体に集中することを説かれている」と書いておられる点には、少し異なる考えを持っています。
 「思考の停止」は、禅など一部の大乗仏教にみられますが、釈尊の教えの対極である梵我一如の考え方のひとつの現れであり、釈尊の教えではないと考えています。
 (「梵我一如化した「仏教」のいくつかのパターンについては、和バアさんとの意見交換、『小川一乗「大乗仏教の根本思想」を読んで』2004,6,24,をご覧ください。)
 (松本史朗『チベット仏教哲学』大蔵出版によれば、チベットへの仏教伝来は意外と遅く、7世紀で、日本への初伝より1世紀遅い。中国の禅とインド大乗の中観(+密教)とがほぼ同時に伝わって、思考の停止を解く中国禅とインド中観とが国王の前で論争し(サムイェーの宗論)、インド中観が勝利して、以後チベット仏教はその流れとなった、とのこと。)
 大パリニッバーナ経には、「今すぐに涅槃に入る(死ぬ)べきだ」と悪魔から勧められた釈尊の応答が、このように書かれています。
「わが修行僧である弟子たちが、・・・みずから知ったことおよび師から教えられたことをたもって解脱し、説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、異論が起こったときは、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしは亡くなりはしないであろう。」(『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫)
 つまり、釈尊の教えは、思考の停止ではなく、論理によって思考し、理解し、説明されるべきものなのです。
 「自我をなくす」という考え方も、「仏教」によくみられる誤解だと思います。『凡夫は我欲の塊で、その「我」をなんとか打ち壊して「無我」になることが解脱』というような漠然とした仏教理解があります。しかし、それは釈尊の教えではありません。釈尊の教えにおいては、凡夫も仏も、もともと無我なのです。仏はそのことが分かっていますが、凡夫は無我を理解できず、自分には大切な「我」があると思い込み、それを守り育てようと執着して、苦を作り続けているのです。自分はもともと無我だったのだ、なんと愚かな馬鹿げた努力(=執着)をしてきたのか、と納得して、苦の生産を停止せよ、というのが釈尊の教えです。
 自分が、無我であり、そのつどの縁によって起こされる(=縁起)、そのつどそのつどの脈絡のない(=無常)反応であることを、腹に落ちて納得するために、釈尊は、戒・定・慧の三学や、八正道といったカリキュラムを残してくださいました。「瞬間瞬間の身体への集中」と田行さんが仰るのも、徹底的にリアルタイム&クローズアップで自分を部分ごとに分析的に観察するカリキュラムの一段階だと思います。
 十分な返事にはなっていないかもしれませんが、ご容赦ください。
 またご意見お聞かせいただければ幸甚です。

草々
田行一成様
2015年12月30日
曽我逸郎


曽我逸郎 様
新年あけましておめでとうございます。
私の唐突なメールに対して、ご多忙ななか大変丁寧詳細な回答をいただきありがとうございました。
回答をいただき、この正月の時間を使って、何度も読み返しました。そして、「仏教思想と社会問題」などという大仰なタイトルをつけた割には、仏教に対しての理解がほとんどないに等しいということを思い知らされ、自省しているところです。
正直に申しまして、曽我さんの回答の中で使われる仏教用語のほぼすべてに対して無知の状態でありました。学びが浅い、これは相当勉強していかないといけないなという思いでおります。私は、自分が苦しみから解放されるために、どうすればよいか、そのための手段として、仏教の瞑想というものを知り、取り組み始めたものの実のところ、これは、問題について考えることのしんどさから逃れるための「思考停止」=現実逃避のノウハウとしてのみ、借用しただけのように思います。
曽我さんのおっしゃる「釈尊の教えは、思考の停止ではなく、論理によって思考し、理解し、説明されるべきもの」とのこと、仏教の思想と社会問題への取り組みは、決して対立するものではないことということは知ることができました。
「我執が鎮火し、苦を作らず、みずから苦しまず、人を苦しめない人を増やすこと。これが究極の目的」
これについても、共感できました。こういう状態を目的として目指していくためにはどうすればいいか、考えていきたいと思います。
本年、またどこかでお会いするかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
田行 一成
2016 1.2

前略
 重大な問題提起を頂いたので、つらつらと考えているうち、ひとつ関連するかもしれないことに思い当たりました。
 梵天勧請です。
 想像を絶する苦行に励んできた釈尊は、スジャータから乳粥を供され、それまで6年間も続けてきた苦行を放棄します。釈尊の行った苦行は、絶食や眠らないことだけでなく、呼吸の停止まで含まれていたと経典には記されています。本当に経典に書かれたとおりに行ったかどうかは分かりませんが、少なくともかなり極端な難行苦行を行い、自分自身を人体実験の材料にして観察し、アートマンを追求しようとしてきたに違いありません。苦行とは、先のメールで紹介した梵我一如思想についての考察にあるとおり、真我(アートマン)を前提としており、苦行によってアートマンを解放し、本来の力を発揮させようとする考えです。
 そんな釈尊が苦行を棄てたということは、スジャータの乳粥をすすった時点で、おそらく既に、何らかの形で、明瞭に言語化されていなかったでしょうが、閃きとしては、「アートマンなどない」(無我)ということに気づいていたのではないか、と思います。
 適度な食事をして快適な座をしつらえた釈尊は、じっくりと七日間にわたる瞑想に入ります。それはおそらく、苦行の中でひらめいた無我という前代未聞の着想を、体系化し、さまざまに検証したのだと思います。そして、これで間違いないと確信し、「我」に執着を続けてきた愚かさが痛感され、長年の疑問がすべて解消されます。なすべきことを終えた達成感を抱き、すべての執着が消え、そのままなにもせず、死んでしまっていいと思いました。
 そこに梵天が現れます。「あなたの気づいた発見を人々に教え、人々を救って欲しい」と懇願します。しかし、釈尊の思いは、「自分の見いだしたことは世間の人々には了解しがたい、このことを教え伝えようとしても誰も理解しない」というものでした。それに対して梵天は、「あなたの見いだしたことを理解できる者も、わずかながらいる。その者達のために教えを説いて下さい」とお願いします。釈尊は再考し、確かに理解できる人もいるだろうと思い直し、説法を決意します。
 この梵天とのやりとりは、釈尊の自問自答ではないかと思います。しかし、そうだとすると、釈尊は、人類全体を救うこと、人類の歴史全体が苦のないものになる、すなわち戦争も、搾取も、差別もない世界を創り出すことについては、最初から諦めていたということになってしまうのでしょうか。

 確かに、現実の世界を見ると、執着が強く、自分の執着を実現することに長けた連中が支配力を持つ世の中です。人類の歴史が、いつか苦を創らない世界を実現することは、あり得ないのかもしれません。
 しかし、それでも、執着が苦をつくることを伝え、執着の薄い人が増えるように計らい、執着ではなく慈悲の反応が増え、世界の苦がわずかでも減るように試行錯誤する他ないのではないかと思います。
 また何かお気づきのことがあれば、ご意見頂ければ幸甚です。

草々
田行一成様
2016年1月2日
曽我逸郎

 
曽我逸郎様
返信ありがとうございました。
「梵天勧請」のエピソード、興味深く拝読いたしました。
これを読んでいて、思い出しだすことが何点かあります。
私の方から仏教について質問したのに、仏教から少し離れていってしまうことをお許しください。
おおよそ社会運動というものが、社会に対して問題を提起するとき、
だいたい以下のような、論理の流れになるのではないかとおもいます。
・今、世の中で、これこれこのような出来事、事実がある(と伝えられている、と”私”は認識している)
↓ ・それに対して、”私”は、これこれの理由から、問題だと思っている。反対である。
↓ ・あなたは、どう思いますか?
↓ (・「もし、わたしの意見に賛同であれば、行動をともにしてくれませんか?」という思惑を明言する場合もあれば、言外に抱きながら。)
という流れだとおもいます。
それに対して、
デモなどでは、しばしばあることですが、「あなたたちは考えを押し付けている」「あなたたちはエラそうだ」
という反応です。
こちらは押し付けるつもりも、エラそうにするつもりも、まったくないのですが、
どうしてもそう受け取られる場合があります。「いや、私は、こういう理由からあなたの意見に賛同できない」と反応してくれれば健全な議論となるでしょうが、なかなかまれなことです。
そこには、「いま、こんな問題がありますよ」とただ伝えることが、”教えてあげる”ことに近づいていってしまうという、
ジレンマがあるように思います(啓蒙主義的になってしまうというのでしょうか)。
お釈迦様は説法することを決意され、説法をされるわけですが、
私たちは、お釈迦様のような高みに立つことができるわけでもなく、立とうとするべきでもなく、誰かを立たせるべきでもないと思います。
いまここの、(高いのか低いのかわかりませんが)、この地点から、発するということを忘れてはいけないのだと思います。
それでもなお、「エラそうだ」といわれるのなら、仕方がないということでしょうか。
それから、
「しかし、それでも、執着が苦をつくることを伝え、執着の薄い人が増えるように計らい、執着ではなく慈悲の反応が増え、世界の苦がわずかでも減るように試行錯誤する他ないのではないかと思います。 」
これこれしかじかの問題について、深く考えていくこと、どうすれば、運動として広げていけるだろうかと考えること、
これは、ひょっとしてある意味「執着」「執我」なのではないかと思うようになってきました。
これも、仏教理解の浅さゆえなのでしょうか。
また、こんなことも言われることがあります。
「そんなこと考えてると、つらくない?」と聞かれます。
実際、楽なことではありません。すくなくとも楽しくて仕方がないということではないでしょう。
そうすると、ついつい、現実逃避モードにはいり、最初に質問した仏教の実践は、思考停止のノウハウだという(誤解)の話にまた還元していってしまうのです。
すべての生きとし生けるものが幸せでありますように。
すべての生きとし生けるものが苦しみから解放されますように。
という慈悲の心に共感しつつ、仏教、仏教、と仏教にこだわらなくてもいいではないのかもしれないとも思っています。
支離滅裂のよくわからない応答になってしまいました。
申し訳ありません。自分でも整理がつかなくなってきました。

田行 一成

2016 1.11

メール、有り難うございます。
 難しい微妙な問題を考えておられると推察します。
 初めに、先のメールで触れた私の問題意識について、思うところを述べます。
 釈尊は、社会全体から苦を滅することは、最初から諦めておられたのかもしれない…これが梵天勧請のエピソードからの推論でした。釈尊の教えを理解することのできる人だけを仏に導き、苦をつくらなくさせようと…。
 しかし、この社会に現に苦しんでいる人たちがいて、慈悲の気持ちが動くなら、苦を少しでも減らしたいと思うのも当然でしょう。苦のほとんどは、我々凡夫がつくりだしているのですから、社会の苦を減らすには、凡夫が凡夫のままで苦の生産を減らすにはどうすればよいか、考えねばなりません。
 その解答が、とりもなおさず、田行さんが仰るところの、「社会に対して問題を提起すること」だと考えます。
 しかし、書いておられるとおり、これは大変難しいことです。なかなか思い通りの効果は生まれず、誤解をされたり、かえって敵を作る結果となることもしばしばです。
 思ったとおりに伝わらないのは、我々に方便の力が足りないからでしょう。「方便に長ける」とは、仏への賛辞でありますから、我々凡夫には所詮無理なことなのかもしれません。しかし、それでも世の中には説得力に優れた人もいます。我々も、失敗を重ねながら、上手に言葉を伝えられるよう工夫を重ねるしかないと思います。
 一つ警戒しなくてはならないことは、社会に苦をもたらしている原因を憎むあまり、義憤に走り、独善的になり、自分は正しいと思い込み、攻撃的になり、かえって夥しい苦をつくり出してしまうことです。テロの実行犯には、それが左右どちらかの政治的なものであれ、宗教的なものであれ、そのような義憤と自己犠牲の精神、自己犠牲の高揚感などを抱いている場合が多いのではないかと想像します。
 日本軍のニューギニア作戦の愚かさ、悲惨さを告発する『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』(新潮新書)を書いた飯田進さんは、ニューギニアでBC級戦犯になりましたが、ニューギニアに赴いた動機は、八紘一宇、大東亜共栄圏、欧米列強の植民地支配から亜細亜同胞を解放する、という理想でした。我々凡夫は、善をしているつもりで苦をつくってしまうのだと思います。
 また、大きな組織が、自分たちの欲望、執着のために、我々のこういう弱さを利用することもあります。プロパガンダです。ベトナム戦争に志願した米兵の中には「共産主義の脅威から自由を守るため」と信じた人がいましたし、アフガニスタンに行った兵士には「因習的高圧的なタリバンから女性達を救いだす」つもりの人もいたようです。飯田さんを突き動かしたスローガンもプロパガンダでありましょう。
 世の中の苦を減らすにはどうすべきか、私たちはよくよく慎重に深く見定めねばなりません。さもないと、逆に誰かの執着のために利用され、知らず知らずのうちに巨大な苦をつくることに加担させられてしまう場合があるからです。
 ただし、矛盾するようですが、慎重さのあまり、深く真相を知るまで何も発言しない、というのも間違いです。何もしないでいることは、結局、いまそこにある苦を黙認することになります。おかしいと思うことには、田行さんが仰るように、問題提起することが大切です。過度に慎重にならず、間を置かず、すぐに発言すべきです。ただし、絶対自分が正しい、とは思わずに、自分を批判にさらすつもりで…。
 批判は最高の教師です。敵意に満ちたものであっても、批判は非常にありがたい。自分の間違いや気づいていない点を指摘してもらえれば、改善・克服すべき課題が分かります。最初の思いつきが稚拙なレベルであったとしても、問題提起し合い、批判し合い、学び会うことで、問題提起を投げかけた相手も、自分自身も、横で聞いていた人も、どんどん考えを深めることができます。これによって、我々凡夫も間違いを減らしていくことができます。そして、これこそが民主主義の本質である、と考えます。
 民主主義が機能するためには、自分は未完成・不完全な凡夫だという自覚が必要です。「自分の考えは完全ではない、問題点を指摘して欲しい」という、批判に学ぼうとする姿勢が必要です。そして、凡夫が凡夫のまま、新たな苦をつくるリスクをなるべく回避しながら、世の中の苦を減らしていくためには、凡夫の自覚を忘れずに、互いに批判し合い学び合い考えを深め合うこと、すなわち民主主義が必要だと考えます。
* * * * *
 以上が、今回頂いたメールで考えたポイントです。
 以下、若干、他の細かな部分について。
 苦を減らそうと努めることは、執着ではありません。
 執着を定義すれば、<「我がある」という無自覚な思い込みを前提にして、そのつどの縁によって自動的に起こされる、ありもしない「我」を守り育てようとする虚しい反応>です。
 執着は、目先の利益を求め、不利益を憎みますが、その結果、逆により大きな苦を生み出しています。そのことに気づき、苦をつくる執着の反応を止めるために、自分が無常であり無我であり縁起の現象であることをなんとか認識しようと努力するのが精進です。
 執着と精進とは、何かを求めて頑張るという点では同じかもしれませんが、無自覚・自動的か、自覚的か、また、目先の欲か、大きな視野の反省か、また、無意識に我を前提としているか、無我の認識を目指しているか、という点では異なります。
 私の考えはこうです。生命には、なるべく楽に生きたいという根源的な欲求、盲目的意志があり、進化の過程でより有利に生きるための仕組みが次第に高度化複雑化していった。それがやがて人類において執着を生み出し、個々の目先の局面では有利に働いた。自然宗教は、現世利益を叶えようとするものであり、執着の範囲内にあるが、執着がかえって大きな苦をつくっていることに気づいた人々が創唱宗教を生み出した。創唱宗教の多くは、超越的絶対者(神)を構想し、それにむけて自分(我)を犠牲に捧げることで、逆転的に、自分(我)にも絶対性を付与しようとするものであったが、一人釈尊のみが、「執着が苦を生み出しているのであり、執着は、ありもしない我を構想してそれを守り育てようとする不毛な努力であり、我はそもそも存在しない」こと(無我)を見抜いた、と考えます。
 執着が苦の原因ではありますが、闇雲に執着をなくそうと努力するのは、釈尊の教えではありません。自分自身が無常であり無我であり縁起によるそのつどの脈絡のない反応の断続であることを、自分のこととして腹に落ちて納得することによって、執着の馬鹿馬鹿しさが痛感され、執着の反応は自然に霧消するのです。
 苦をつくらないために釈尊の教えに学ぼうとする精進や、世の中の苦を少しでも減らそうとする慈悲を、「それも一種の執着である」として否定し、結果的に「煩悩即菩提」「煩悩即涅槃」などと自分の執着を放任し、世の中の苦しんでいる人たちの苦しみまでも丸のまま承認してしまうのは、一部の大乗「仏教」に見られる許しがたい全肯定主義の考えです。
 「楽しくて仕方がない」というのは、釈尊の教えが目指すところではありません。何かの経典に「凡夫は執着の喜びを喜ぶ」といった表現があったと思います。執着は目先の欲の追求ですから、目先の喜びはあるのです。目先の喜びのために、おおきな苦を引き寄せるのが凡夫です。基底に鬱屈・不満を抱き続けながら、それを時々の目先の喜びでごまかしつつ、凡夫は一生を終えるのです。そうではなく、もっと自覚的に、地に足をつけ、目先の楽も苦も「ならばよし」とすべてしっかりと身に引き受けて、それに振り回されずに、穏やかで落ち着いた時間を生きることが釈尊の教えです。
 お便り有り難うございました。またご意見お聞かせ頂ければ幸甚です。

草々
田行一成様
2016年1月11日 
曽我逸郎